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1.はじめに
こんにちはRAIMEIです。最近哲学からは距離をおいていて正直に言うと書く気がしなかったのですが、それも怠惰な気もして、自分の考え、というか主に劣化受け売りを、まとめようと思います。
書く気がしなかった理由は、自分の理解力や能力不足があり、それをいまだに改善できていないからです(ニーチェの所とか以外に読んでいただいているのですが、間違いだらけで僕がろくに読んでないのまるわかりです)。
①概念や用語を正しく理解すること
②参考部文献や引用等をしっかり書くこと
③原著を読むためにドイツ語等を勉強すること
いつかこれらに取り組みたいと思っています。
しかし今回はフランクに書いたほうが自由に書きやすいということで、今迄通りというか、いつも以上に簡単に、説明するためではなく、メモ的に書いていきます。引用はなし、参考文献だけを最後に載せます。
今回のテーマは自由意思についてです。このブログの遊戯王以外の内容ではわりと閲覧数が多いテーマで、自分は一貫して自由意志はあってほしい派ですが、今回は自由意志が存在しないということをかきます。本質的にはアリストテレスの第一動因説からかわっていません。そして基本的に知ったかで、知らないことをさも当然のように書く癖があるので、あてになりません。
2.用語の定義
2-1.自由の定義
自由とは特定の対象に縛られない(または任意の距離を設けることができる)こととする。対象は以下の様なものを想定する(あくまで一例)。
①金銭や富
②国などの公的な権力
③家庭や学校や共同体等の社会とその成員
④自分自身の個性や心や無意識
⑤あらゆるもの全て
「例または詳細」
①金銭や富からの自由とは、金銭的に困らないこと、またはそうしたものに依存しないでも生きていける状態のときに、人はそう感じる。
④自分自身の個性や心や無意識からの自由とは、例えば精神的な病の人を例にとれば、絶えずおしよせる不安等を抱かずに済む状態等が当てはまる。
⑤あらゆるもの全てからの自由とは、過去や重力等の外力、全ての法則、自分自身、暗黙の前提、すべてから自由な状態。死ぬことからも生きることからも。
2-2.意思の定義
意思とは意識が特定の対象に向かっている時の状態だとする。意識の指向性。
「例または詳細」
個人が何かを意思する時、例えばケーキが食べたいというとき、ケーキという存在と、食べるという行為を意識は対象としている。力への意思は、ニーチェが意思とはそれしかないと言ったものだが、これは権力への意思。権力をもとめる、指向する意識。
2-3.自由意志の定義
①なんでも自由(どの対象からも自由)だという意識&信念
②私が始まり・原因=第一動因であるという意識&信念
③真の自己(私≒超越的無意識≒輪廻の主体≒神)があるという信念
――――――――――――――――――
④個性の刻印(哲学、超越論的心理学、欲動=無意識)があるが、そこから意識により距離を取ることが可能だという信念
「例または詳細」
①と②について、通常人間が行動する時に感じている状態。私が昼間にパスタをたべるのは、私を原因とした完全に自由な私の選択だ、という感覚。心理学ではアドラーがこの感覚を重視している。実践的感覚。
③について、意識は偽の主体であり、無意識こそが自身の本体であり、真の自己≒超越的無意識≒自分の奥にいる意思決定をしている小人≒神があるというもの。また具体的な人格化されたものではなくてもそういう心の深層領域が存在するという立場。輪廻を主張する宗教やプラトンの哲学等古代から受け継がれている。哲学にちかいが、オカルトよりのものとしてトランスパーソナル心理学、ユングもこちらに位置するといえる。ユング心理学では、真の自己を完全には取得できないものと考えるが、その過程を個性化とよぶ。無意識には、個人的無意識と、さらにとその奥の集合的無意識という民族や人類固有の無意識があるという。曼荼羅の考察等、東洋の神秘主義と関連性が深く、また黄金の夜明け団等西洋オカルト結社の思想にも取り入れられている。魔法とは自己の思うままに意識を変革する技術であるといい、集合的無意識の奥の超越無意識=神につながる意識に働きかけることで、そこから力を持ちだす方法等が提唱されている。
④について、世界の夜、超越論的統覚やモノ自体、力への意思やエス、無意識の働き等、ヘーゲル・カント・ニーチェ・フロイト等の作業仮説及び観察結果。③との違いは、③は私や真の自己や神について、それがあるのかどうかとか、どのような存在かとかを問うが(唯一の支配者であり例外であり、世界の外や空の上にいる神的なものを考察する形而上学)、こちらではそのような問いを発することができる前提条件を考える(なぜ私は神があるかという問いをはっするのか? なぜ私は私を私というのか、私をなりたたせている前提はどのような仕組か? 上ではなく下、または横やあいだに立って考えるイメージ)。フロイトは、自我=私は、エスという身体の組織化された部分(象徴&想像的=心理的なもの=私)だと考え、そのエスと自我の境界上に欲動(身体的な要求を精神に翻訳する仕組み)という人間固有(または高等哺乳類)の働きを想定する。
内的な破壊衝動を外部に投射したものが力への意思。
無意識という特定の領域があると考えるよりも、人間が生きるためには、そういう働きがあり、自我はその一部であるという考え方(動的な形式、物理学のF=MAとにたようなもの。そういう物質が存在するわけではないが、それで物体の運動が説明できるような概念、脳のどこ部分に無意識があるとかそういう話とは必ずしもイコールではない)。
この欲動とそこに設置された原超自我(通常理解の社会的規範の超自我より前の超自我、規範や命令、父なる超自我の前の母なる超自我)がフロイトの無意識であり、それは小人や神とはちがい私としての自由な意思決定の主体ではない。また純粋な本能や純粋な生理的機能でもない。これは哺乳類の未熟な幼少期の体験により構成される、ある方向性をもってはたらく機能や命令みたいなもの。赤ん坊は、自分自身からくる身体刺激に対して、他者の解釈(躾)に従いそれを内面化する。人間はみな、言語と他者に出会うことで、構造的トラウマをもち(はじめかならず他者に従属し、そして後に公的言語に従属する)、女性性、父の役割、両性の関係にかんする確固たる知識は言語を通した現実(象徴界)世界にはない。
無意識というワードで語られる物について、言葉が同じだからといって、かならずしも同じものだと思わないことが重要。
2-4.無意識についての説明
図1.よくある無意識の画像
潜在意識(無意識)といって、それが何を示しているのか、非常に広くとらえることができる。たとえば、心臓の運動も自分の意思で行っていないので、無意識的過程と言える。
図2.ユングの無意識
自我、個人的無意識(フロイトと共通)、人類共通のイメージや人格の宝庫である集合的無意識からなりたつ。男性の夢において、女性が出てきたら、それは自分の中の女性性=アニマ、巨人が出てきたら、それは父親等解釈する。
これらの元型を成長させる、自分でそれに近づく=器を大きくすることで、人間的に成長できるという説もある。ユングはこれを個性化と名付け、その過程で人格が驚くほど成長した者が実際にいたと言っている。
ただし人格の成長云々はすぐに同調圧力(悪い意味での共同体感覚)やくだらない社会規範の刷り込み(育休を取る男子はゴミとか)やビジネスに悪用されることがあるので、(カルト勧誘の貴方の魂の成長云々とか)、注意が必要。自分で成長したなというのは素晴らしいと思うが、他者を自分の基準ではかることは、やめておいたほうがいいと思う。
図3.カバラの無意識(生命の樹)
天上世界から流出により、下の人間の世界まで(次元が何層もある)エネルギーが形に拘束されながら降り注ぐ。ケテルが流出の頂点だが、それとは超越した存在として神がいる。人間が到達できる範囲はビナーまでであり、力の根源であるコクマーまでは到達不可能。最初の力まで到達が出来ずに形が機能しているという点では、フロイトと似ているところがある。
一ばん近いのはユングでそれぞれのセフィラ(丸い部分)に元型が当てはまると考えればよい。たとえば、ネッツア(永遠)はビーナスであり、星は金星、美しい女性に対応する。一方でゲプラ―は赤い戦士のイメージ。魔法ではこれら普遍的な力を、自信の中の無意識を通じて降臨させることで、その力を得るとされる。
別にユングが魔法を提唱していたのではなく(ましてやフロイトは真逆)魔法使いを名乗る人々、ダイアンフォーチュンやアレイスタクロウリーとかが、そういう面を取り入れたということ。
またカバラ(ユダヤ)の歴史は長いが、この生命の樹の図の成立自体は、思ったほどには、古くない。ネオプラト二ズムの流出説から影響を受けていると思われる。
フロイトと似ている面もあるが、精神分析や近現代の立場とは、根本が異なる。絶対真理=イデアや神が存在するというのがプラト二ズム。真理はまやかしだというのが、精神分析の立場。
図4.フロイトの無意識の簡単な概略図
自我とエスの境界領域が欲動の領域でそこに、原超自我が設置されている。通常であると、本能のエス(イド)、心である自我、社会的規範である(父なる)超自我という組み合わせで説明されるが、超自我には二種類あり、ここでの超自我は原超自我。
それは人に命令を与える存在であり、不変の個性刻印をするもの。法を重んじる理性的な超自我ではない。聖書の、初め言葉は神であったというのは、一見法である理性的な超自我の事にもおもわれるが、もしかしたら、もっと獰猛な原超自我ことをさしているのかもしれない。
上図では判別できないが、欲動=享楽(フロイトを構造化したラカンの用語、ほぼ同じ意味、それは快楽をこえた悦=痛みであり、それを埋めること(防衛する事)が、人間が生を意地するために必要な行為だという。究極の享楽は死。ゆえに生きている間に究極の享楽を得ることは不可能。
わかりやすいのは、深夜の公園の電柱にたかる蛾。蛾は自身の危険も顧みず、なぜか光に向かう。しかしここで注意しなければいけないのは、蛾は死のうとしているわけではない。たまにそういうのもいるかもしれないが。蛾はそれが太陽でないことはわかっている。わかっていて最小限にエンジョイすることが蛾や人間の生=性だという。それが穴埋めであり、剰余享楽=マルクスの剰余価値となる。フロイトの性欲論は、そのようにとらえるべきで(私の穴を誰かが埋めてくれるだろう)、夢に出てきたものが何でも生殖器を示すシンボルだというようなものではない。
図5.ラカンのディスクール(主人のディスクール)
フロイトの無意識論を構造化したもの。今のところ全部で5つあるが、知識がないので、代表的なものだけ(この図も自信がない)。これは色々な面でてきおうできるが、例えば、二人の人間が会話する時に当てはめてみる。
斜線を引かれたSが私の無意識であり、無意識の穴を埋めるために、S1という私(みせかけの私)は他者であるS2に話しかける。また無意識的な錯誤等も、そこに加わる(図中の右斜め方向のやじるし)、そしてS2は私の話を聞いて、その解釈を生産する。そしてその解釈が私に帰り(ひだり斜めやじるし)、会話が続く。
上の不可能とは、私が例えば犬って可愛いよねといい、相手もそのメッセージを受け取ったとする。しかし私が想定した犬はチワワだが、相手が想定している犬はハスキーというように、言葉の文面が同じだけで、実は想起する内容は個人で別物。
コミュニケーションは不完全であり、受け手の解釈が生まれる。私たちは完全に分かり合えないゆえに、不完全ゆえに、コミュニケーションできる。不能とは、私の本来の意図、本音、欲動に、相手の生産する解釈は当てはまらないということ。それが見せかけのS1にしかかえってこないから、私はまた欲望を募らせる。
一つだけピースの欠けたパズルの最後のパーツを捜し求めているけど、でもどれも当てはまらない。そのピースの欠けた部分が斜線を引かれたS。
а=生産物が、穴埋めとしての最小限の剰余享楽であり、これがマルクスの剰余価値に相当する。穴埋めをするために、コミュニケーションはおこなわれるが、コミュニケーション=交換は一見等価(同じ言葉)なのに実は不等価だから、そこに残滓が生じる。
3.自由意志は存在しない
3-1.自由と意思の矛盾
意思は対象を目指すものであり、一方人間が想定する自由意志が2-3の①「私の意思は何ものからも自由であるという信念」の事であるとすればこれは矛盾する。意識は対象をもたなくてはいけないから、何ものからも自由だということはありえない。ただし特定の対象からの自由は存在する。
3-2.因果律という枠組み
私が私を原因にして決めたということは、人間の自由意志という信念の中核の一つ。直前の一つの因果(私の選択)だけに目を向けるとそのように考えられる。しかし他の因果関係までをふくめると、これは異なってくる。
私がある時、ケーキを食べたいと思うのは、ケーキというものがこの世にあるから、ケーキを作ってくれる職人さんがいるから、お金があるから、私を育ててくれた人がいるから、地球があるから等、さまざまな原因がある。私がケーキを食べたいと思う思考も、延々と続く原因と結果の連鎖の中の一過程だ。
私は唯一私が原因で好きなことをしていると思うが、じつはただの中間項、鎖の一部にすぎない。初めての原因、第一動因ではない。第一動因により、それ以降は必然的な連鎖により、運命はきまっている(と事後的には考えられる)。
3-3.無意識の存在(私が嘘なら、私の自由意志も嘘)
これは2-3の③と④に関わるが、あえてここでは一つにまとめておく。私という意識が私の主人でないのなら、私の自由意志などといっても無駄だろう。脳科学の実験(リベット)で、脳は人間が意識するより0.5秒前には行動を決定しており、しかし0.2秒前に拒否する瞬間がある、だから自由意志は存在するという結論のものがあるが、私は私としてその決定を意識しているわけではないから、これは私の自由意志とは言えず、いうなれば無意識の自由意志ということになる。もっとも一度決めた決定を拒否することが自由意志だというのは今回の定義からは外れる。要は定義次第だけど、はたして拒否権を自由意志とよべるだろうか。その拒否権の行使にも理由が必要だと考えられるが。もしくは理由なく拒否できることが自由=完全なるランダム性(きまぐれ)なのだろうか。
オカルトならこれは真我ともいえるが、ただの生理的欲求の処理過程と考えるなら、それは意思決定というよりも、ただの機械的過程といえてしまう(フロイトの場合は本能的なものではなく精神と身体の境界領域である欲動がからむ、フロイトは、自我は自己という家の主人ではないと言っている)。どちらにせよとても気分が悪くなる話。
また真我があってもそれは真我からそしてそれを取り巻く法則からは自由ではない。自由意志の問題は、私とは何か、何が私であるのかという議論と関わるが、ニュアンスは伝わると思うので、詳しく書く能力がないので、今回は一つの章としてはとりあげなかった。
4.暫定的可能なる自由
以下の可能なる自由の中に、受け入れ等の言葉があるが、人は何かに寄る時に、必然的に何かから離れていると考えれば、距離をとること=自由という定義と矛盾するものではない。もっとも、全面的に受け入れることで距離をなくすということも、自由としている面はある。そこで、この時点で自由の定義に②対象と距離を縮めるまたは合一することを追加する。
(つまり距離を取る事と、合一することが自由なのか、しかしそれはどちらも完全なる自由にはなりえなそうだが、おそらく以下の自由は、之ら二つの要素をあわせもっていると言える)
また本来は、自由や人生と、今回の記事のような分類の仕方は相いれない。上から目線で、こんな自由があるということは、下品ともいえる。しかし理屈は大切で、同時に今生きている人の事を尊重しなければと思う。
4-1.漠然とした自由感(私のアイデンティティ)
私という個人を、唯一絶対不可侵の存在として扱う信念(因果を考慮しない)。例えば、僕が萌えキャラを好きなのは、日本に生まれたせいなのだが、そういうことを考えずに、僕が自分の意思でオタクだとだけ思う。
私は会社の部長だからエライ! そう思っていた人が、退職した瞬間家庭のお荷物、濡れ落ち葉になる。どっちが本当の自分なんだ。社会的な影響を無視して、因果関係等を考えずに、自分の個性を、自分独自のものだと考える姿勢。
ニホンスゴイ=俺スゴイ(ついでにいうと僕はそういう動画が大好きです)
4-2.因果関係があってもとりあえず私の個性がある
上と関連すると思うが、一応因果関係があり私が初めではないことは認識している状態や立場。ひらきなおりというか、結構常識的な立場だと思う。与えられたものを受け入れるありかたか。
4-3.実践的自由
自分が自由ではないと言われても、実際には、自分や他者を自由な人間だと想定して、自由な感覚で、自己原因的に人は生きている。それは仏教や精神分析で私などないといわれても何も変わらない(正確には私はある、ただし嘘だというもの)。
それは因果関係で物を見るという論理的思考を、かっこ入れしている、一時考えから外していることによりなりたつ。これは4-1、4-2等とは異なる。
論理的にだけ考えると、すべてが過程にすぎず人が手段になってしまう。人を目的とするためには、実践的な自由が必要。難しい話ではなく、普段から人がやっていること(一部だけ)。しかし論理的に考えることなしに、これを盲目的に信じるなら、そこに独善性が生じかねない。
盲信ではなく、積極的に人生を生きる姿勢であり、他人の責任をとうのではなく、自分を自己原因として、自分で責任を取る姿勢。
論理的に考えると未来は全てきまっているか、運の要素がからむとしても、とにかく世界は機械的な物に過ぎない。しかし実践的に考えることで、ひとは未来を良いものにしていける。自由であるかより、自由であると思うことの方が重要。それが結局は嘘であっても自由を生む。
また個人的に重要だと思うのは、実践的理性が十分に働いていない人を非難したり、嘲笑したりすることを避けた方がいい。それは困っている人であり、その人が困っているのは、論理的には因果関係〈輪廻の話ではない〉のせいなのだから。実践理性は、相手を目的とすることであり、無責任に相手のせいにすることではない。もっとも犯罪等の場合は、例え社会的要因が元の原因であろうとも、犯人には罪の償いを要求するのが、この理性においては正しい。なぜか、それは相手を目的として見る、相手を、自由意志をもつ人間として対等に見るから。対等に見るとは、しゃくし定規に相手をせめることでも、相手の責任をなくすことでもない。また罪の中身にもよりけりだろう。
人を非難しているだけの人間には、実践理性はない(弱い)。残念ながら、ヘイトスピーチをしているネトウヨやこの僕自身にもこれがあてはまる。
4-1と何が違うかと言えば、たとえばヤフー知恵袋で困っている人に、人生は自分で切り開く云々、不幸なのは貴方のせい云々説教している人間には、この実践的理性等はない。それは他者を自分が上に立つ道具にしているから。厳しい意見をいうことには、責任や痛みが伴う。顔の見えない関係または見下ろした立場から、行うことにそれは伴わない。
4-4.理性的自由
論理的に考えるなら完全な自由(自由意思)は存在しない。普段の感覚・実践的に考えるなら私は自由だ。
しかし自由は他にもある。その一つが理性的自由であり、私は自由ではないと意識すること。スピノザの意見であり、彼は因果関係が複雑なため、人間には把握できないだけで、全ては因果と法則によりきまっており、人が自分は自由だとおもうのは錯覚だと言った。(ようはこの文章自体が劣化受け売りなのよ)しかし人は自分が自由ではないと悟る時のみ、動かされ続ける自分=情念からは自由だと考えた。自由ではないと意識することが自由につながる。それはただ世界を眺める態度ともいえる。
その時、わきあがる情念は抑えることが出来ない(無意識の葛藤を言語化しても完全になくならない)。ただそれが湧きあがる理由を理論的に考察することはできる。そいう態度が自由だという。
4-5.身体的な自由
私は一つの身体であるという受け入れ。身体拘束がないという自由ではない。それは4-8の社会と個人に関する自由に該当する。4-1や4-2ともちがい、あちらは社会的なアイデンティティに近いが、こちらはより自身の身体に近い部分、欲動も含めて受け入れるということ。といってもそれは完全には人間には不可能だろう。他とも関連していて特に重要なものだが、僕自身は観念の人だからなのか、上手く表現する知識がない。ようは死を受け入れるということかな。
4-6.超越論的自由
スピノザの部分とかぶるが(自分の中であいまいな部分もあるけど)、あえて分けている。これは実践的自由や理論(因果論)等の間に立つこと。ある立場に固執せずに、横にずれること。理論で因果が全てだからもう人生は無意味だと悲嘆にくれる人には、心をこめて実践的な自由をとき(せめるのとはちがう)、完璧な自由意志があるから、弱者は自業自得だと説く人には、論理的に連帯の必要性をとく。いやユーモアをもって、人生の可笑しさを表現する。特定の内容や形にこだわるのではなくて、実践的私と、理論と、身体、の間、命を大切にする自由。
4-7.私=全体としての自由(宗教的・大洋的精神)
宇宙(広い意味)は無限であり、私は宇宙の一部であり、私も宇宙だ。だからすべてはつながっており、私=全だ。私と他者は根源的には同じという考え方。因果関係の内部にしばられていると考えるよりも、その内部全体が私だと考えれば、唯一の私=世界なので、私は自由となる。アートマンとブラフマンの合一等、宗教的な考え方に近い。
関連性は何とも言えないが、統合失調症の人は、意識が無限に宇宙台に拡大する体験をすることがあるという。またフロイトによれば幼児の自我は自分と他者の区別のないもので、大人の自我はそれがしぼんだものだという。彼からすれば、宗教とは幼児期の寄る辺なさ、無力さ、両親を必要とした時代の代理物(症状)だという。
4-8.社会と個人間での自由
人類の歴史は個人と社会の葛藤の過程でもあり、社会の在り方には、色々なものが実践、提案されてきた。いい加減長くなったので書いたのだけど割愛。身体的に拘束されない等もこの自由と関連する。
個人がどんなに個別的な物に思えても、社会的な産物であることには違いがなく、それを意識することが大切。しかしこれは非常にきもちの悪い話。
4-9.欲動からの脚立(きゃたつ)による自由
人間は、幼少期のトラウマ(皆構造的に持っており、それは言語に入り、純粋な生命体としての感覚を失うこと、大人と言葉に従属する事、ただしそこに虐待やいじめ等の個別の事件があり、ひとにより強度が違う)の穴を埋めることで生きている(生物にはもともと生の本能・死の本能があり、そこに人間独自のものとして、他者と言語との出会いにより、構造的に死の欲動、生の欲動が生まれる、それは先天的にそのような素質=言語取得の能力が備わっている)。
そのトラウマから自由になる=距離を取ることが大切だというのが精神分析。
フロイトのエディプスコンプレックスは、幼少期の影響から距離を取るために、父を権威化したフロイト自身の妄想=父権主義
人は、トラウマを埋めるために、皆症状を持ち、精神的な病の人と、そうでない人を分けるのは、その症状が上手くいっているかどうかの違い。つまり今見ている現実は、夢であというのが、精神分析。意識とは現実を見ないための夢。
と言っても、現実がないわけではない。この世界はある。例えば目覚めたらケーブルにつながれているとかそういうことではなく。世界は同じ形でそこにあっても、それをどう解釈して構成していくかは、個人の症状次第だということ。
夢は、日常や前日の出来事を、材料にして、隠された願望を表現する。我々の意識も見たくないものは見えないようになっている。
そして本当に見たくないものは、死=現実界=享楽であり、それは外部ではなく人間内部にある。症状をとりさるのではく、症状を再構成するのが精神分析だという。
死=現実界=享楽から距離をとるには、原症状と同一化して、しかし距離を取ることが重要だという。過去の父権主義等は、そのトラウマからはなれて、神をつくりそれに従うこと。しかし神は死んだ。たとえば父の権威、大人の男の権威、世界を一つの統一体として、いつか理性により理想郷をつくれるとした思想。
といっても神は死ななかった。みな私を信じているから。私という神、お金や名声という神。そう僕も信じている。
原症状と同一化とは、別にトラウマを克服するために、もとになった苦痛に身をさらす等ではないと思う。そういうのはたとえば、精神の病の治療法として、暴露反応妨害法等あるらしいが、重度のトラウマを追った人には、基本的に上手くいないと思う。
例えば、戦争で人を殺した兵士は、そのシーンを何度もフラッシュバックしているが、それで彼の精神は強くなるのだろうか。
父権主義がよくないならば、皆が女性化すれば、良いのかと言えばそうともいえないらしい。女性の関係は、基準がない、例外がなく、よりリアルに近いから、リアルに近いのは良い事とは限らない。資本主義の無限の循環も女性的な面があるという。
僕とし手は何とも言えないが、ラカンによれば、父権主義にもどることではなく、父の機能を迂回することが大切(それが脚立の意味、一方梯子はヤコブの梯子等神へ至る道)=人生の指針のようなもの?をつくることが大切だという。それはフロイトがいった昇華と近いものだと思うが、より根性論的なものでない形で。
5.おわりに
①初めの定義では、自由とは対象と任意の距離をとれることとした
②完全な自由(何物にも縛られない)と意思(指向性)は矛盾しているから完全な自由意志は存在しない
②因果律の世界では自分を第一動因とする完全な自由意志は存在しない
③意識は仮象であり無意識が本質だから「私の自由意志」は存在しない
④無意識は様々に定義でき、また分類できる可能性がある。代表的なものに、ユング的な無意識と、フロイトの無意識の働きがある
⑤限定的に特定の対象から自由(または意思)がある
⑥初めの定義とは異なるが、対象と距離と縮めるまたは合一化するという自由を想定できる
⑦精神分析において、無意識との関係では、無意識を受け入れながらも適切に距離を取れる=以前より自由になれる方法があるかもしれない
⑧不完全な自由とは、対象から距離を取る事(男性性)、対象と合一すること(女性性)、完全な自由とは、なにものとも距離を取る事、または完全に合一したところか、今の僕の段階では、結局超越的神または道(タオ)にいきつく。しかしその二つの在り方を超えることを目指すのが大切だと思う。間に立つことと関係があるのか。最後の部分が特に今回学んだことだと思う。
以上です。最後の結論は唐突で、こういう書き方は良くないのですが、かいているうちに、そう思いつきました。あまり進歩がないというか、まだあまり理解してないというか。個人としては完全な自由がほしいと思っているので、完全無欠の自由がある、無いなら作るべきという主張をもっていますが、色々な考えを学ぶことが大切だと思います。今回は精神分析に影響を受けすぎていると思うので(しかもにわか勉強だし)、今後は違う視点からも勉強して、書いていきたいです。
今回はあと参考文献をのせて終わります。ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。ではまたー
6.参考文献
①「フロイト著作集Ⅱ夢判断」ジグムント・フロイト 人文書院
②「ラカン入門」向井雅明
③「稲妻に打たれた欲望」ソニア・キリアコ
④「トランスクリティーク-カントとマルクス-」柄谷行人
⑤「スラヴォイ・ジジェク現代思想ガイドブック」トニー・マイヤーズ
⑥「神秘のカバラー」ダイアン・フォーチュン
⑦「西洋哲学史Ⅲ」バートランド・ラッセル