「非実話怖い話」来たるユートピア

 

 

私は深層心理科学の分野ではそれなりに名が通っており、現在は政府のプロジェクトで、社会的に功績のあった人々の、幼少期の体験を調べている。

まだ公表はされていないが、最新の科学技術により、人間の脳内に保管されている幼少期の記憶を直接抽出する技術がかくりつされつつあり、私は既に何人かの記憶を覗いてきた。

これは、特に優れた人間の過去を調べることで、優れた人間の育成に役立てようとする試みであり、被験者には多額の報酬と引き換えに、了承は得ての上である。

ところでこれは論文ではなく個人的日記であり、誰かに見せる前提で書いてはいない。

社会人であり政府の極秘プロジェクトにかかわる私には、誰にも話せないことを保守するための息抜き、一種の省察禄が必要なのである。

とはいえ、こうして書く以上誰かに読んでほしいというのが本音なのだろう。『王様の耳はロバの耳』というわけだ。

 

 

本題に入るが、優秀な人間をつくるには、どのような過去が必要なのであろうか?それほど御大層なものではないが、これを英雄の条件としておこう。

現在までに調べた範囲では、概ね皆が安定した幼少期をおくっていることがわかっている。この点だけを強調するならばこの研究は意義を失う。つまり面白くない。

もちろん根本的な問題として、同意しない相手の記憶を覗けるようになるという倫理的な問題点があることは言うまでもない。

しかし私のような研究者からすれば、面白くない点のほうが問題である。

英雄にも人それぞれ悩みがあるにはあるが、それが比較的落ち着いて、安定したものであるということは、単純に遺伝子配列が良く、それなりの環境で育ったものが英雄になるという誰もが思いつくような結論にいたり、それでは優生思想の域を超越したことにはならない。

そもそもこの研究は遺伝子操作技術のブレイクスルーとしての側面もあることを前提としなければならないのであり、この点を理解しない政府高官や太鼓持ち学者には、手の施しようがない。

 

この問題点を、克服する着眼点は存在する。というより先に述べたようにそこからすべては派生しているのである。

それは英雄たちの経験の中に、個人の特性を決定している非常に重要な要素があるのにもかかわらず、我々外部の観察者が、それをとらえることがむずかしいという点だ。

想像しがたいことだが、一見つまらないようなことが、個人にとって非常に重要な要素として作用しているという視点があるのだ。

これは、個人の内面は観察できないから意味がないというような話ではない。これを補う心理学的視点が存在し、つまり脳科学と心理学、その二つを立体的に組み立てることが、深層心理科学の神髄でありその領域が、いま眼前にひらけようとしているのだ。

 

さて持論を愚痴として消費していても仕方がない。おそらくプロジェクトが是認されれば、10年後くらいには、講演や居酒屋でかたることが許されるだろうからその時のためにまとめているにすぎない。もっとも私が生きていて、さらに耄碌しないという保証は一切ないのが。

ここでしか書けない悩みを書いた方が、良いように思われる。

それはある被験者の記憶についてだ。別段と悲劇的な事があったわけではない。しかし今後ある種の記憶と向き合うことになるだろうと考えると、すこし嫌な予感がするだけだ。

 

被験者は西暦、2070年代後半の生まれ

概ね2030~2040年まで続いた世界戦争以降の混乱期を経て新秩序が形成され定着し始めたなかで育った世代だ。同時に彼は若くして、その新秩序の構築を一層推進させた功労者でもある。

かの戦争時代、人々は大破壊を確信していたが、大方の予想を裏切り、人類は文明を保持することが出来、科学はますます発展しているのは皆ご存じの通りだろう。

そして戦争の反省から、闘争や権利意識を主張する政治体制から、みなが協調し一丸となる政治体制への移行が行われている。

特に日本のはたした影響は大きく、一つは日本が経済破綻したことが結果的に大戦争を回避したこと、もう一つは日本の協調精神が、世界的なスタンダードになったと言えることである。

もっとも、ただ日本精神の顕揚があったという言わば伝統主義だけの果実ではない。一方では社会主義等の影響から、経済的な不平等が是正され、人々が安定して暮らせるようになったという側面もあるのだ。

社会主義というと、戦争を生き残った高齢世代の方は、いまだに顔をしかめるものだが、しかしこれは何も完全な全人類的平等ということを意味しない。

世界的な経済の不安定に対する、人々の団結の必要性こそが、社会主義の精神であり、日本人の協調精神と、それが結びついたのであった。それまでに社会主義=権利意識ばかり=社会を破壊する存在というイメージは、間違って流布したものであった。別の言い方をすればそれは、社会を破壊する者・お金の亡者の自己投影ですらあった。

(お金を儲けることがクリエイティブだという精神は、社会的条件であるにもかかわらず、一定程度欺瞞であることが、その後学術的には判明してきている)

といっても、別にいわゆる左翼が政権をとったという世界でもないのは、これもみなさんご存知の通りだろう。私は別に主義者ではない。大切なのは皆が調和して、バランスよく、例えば一握りの金持ちが全てを手に入れているというような世界ではないということなのだ。

私自信、2040年代生まれの戦後世代であり、現在はそれなりの年齢であるが、戦前の方々の話を聞いたり自分自身の体験をかんがみたりした時、今の世の中は、ある程度皆が平等にくらし、だからと言って競争がないわけでもなく、しかし人々は社会的なリーダーを中心に団結している、そういう一種過去の世界にはあり得なかった、現実的なユートピアにすら思えるのである。

そして以上の条件から、私たちはこの被験者を選定し、彼のほうもそれなりの報酬を条件に了承し、過去分析装置が作動することとなったのではあるが、以下はその内容だ。

 

――――――――――

今日も主婦業は大変だ。

私の家系には代々霊感があり、見えてしまうので余計につかれる。

霊感とか霊界とかいうと、すぐにカルト集団と結びつけ毛嫌いする人がいるが、神様を崇めることは伝統や文化を保持することの大元でもあり、とても大切なことだと思う。

最近は、伝統的な価値観を否定すれば進歩的だという、欺瞞的な利己主義が幅を利かせており、おかしな世の中になっている。

私が神様や霊界を信じるのは、自身の見える体質からだけでなく、2歳になる息子が、生まれる前の、中間世の話をしてくれたからでもある。

息子は前世では可愛い女子高生で、でも事故で死んでしまってその後魂に戻って、雲の上で神様から、どの母親の元に生まれたいか、どんな人生を送りたいか、そういう大まかな計画をたてて、それで私を選んで生まれてきたらしい。

「やさしそうだからママにした」といつも言っていた。

人は輪廻を繰り返して、魂の修業をするのだ。そして神様のもとで、平和な世界を作るために私たちはいる。利己的ではだめなのだ。

私は、こういうことをきっぱりとは言わないが、今苦労している人達は、前世の行いが悪かったか、自分でそういう不幸を体験したくて選んだ人達であり、そういう意味で自業自得なのだ。自分でやったことが、自分に帰ってくるというのは、あまりに当然の人生の法則だ。

しかしそれを理解せずに、最近では、不都合なことは誰かのせい、泣きつけば誰かが助けてくれて当然、助けてくれないと他人を恨むという、依存的な人々が増えている。

生活保護等の要求ばかりする人は、もっと身の程をわきまえた方がいい。彼らは大きな子供に見える。

大体合理的に考えてみてほしい。世の中に文句を言う人は、その世の中で生きていて、色々な便利さや人の親切を享受しているのに、自分だけは偉い立場にいて、それを非難しているのだ。いつでもでる水道や電気やガスにお世話になっているくせに、一方的に政府や大企業批判をするなんて、これはどう考えてもおかしい。

彼らは世界が悪いものだと思って、自分を正義だと思っているが、実は逆で彼らのような人間がいるから、世界は完全には良くならないのだ。それは前の戦争で明らかなはずだ。

彼らは反論するかもしれない、例えば、自分たちは確かに恵まれた日本に暮らしているけど、そこでは底辺にいて、それは生まれつき能力がないからであり、それが苦しいのだと。人生なんて運なのだと。

たしかに、人により能力の差や運の差はあるだろう。しかし受け取ったものをどう生かすか、どう勝負するかというのは人間に任されている。それが魂の修業なのだ。

個人心理学で高名なアルフレッド・アドラーは幼少期クル病だったが、その後努力して立派な人になったではないか。

戦後の焼野原を復興してくれた先人のことをわすれて、衣食住が足りてもなお礼をしれないなんて、なんて貧しい人達だろう。私は一応戦後生まれだが、私の親も随分苦労をしていて、私も色々な手伝いをしたものだ。

 

努力に才能がいるなんて私は信じない。勉強が出来なくても、1分机に座ることぐらいは誰にでもできるからだ。そうすれば、どんなにこらえ性がなくても一年後には、毎日10分くらいは勉強できるようになっているだろう。それを10歳から10年繰り返したら、誰でも勉強の努力はできるようになるはずだ。

努力する才能がなかったんじゃなくて、若いころに継続する気持ちがなかっただけだ。自分を律する心の強さがなかっただけだ。心が弱い人間が、いいわけして、世の中を恨むなんて、それが悪の根源であるのに、それに彼らは気が付かない、いや気が付いているのに、それをごまかしているのだ。卑怯者の集まりなのだ。

 

こういうことを、考えていたり、誰かに言うと、何か私がやたら冷たい、冷静なだけの人間だと思われるようだけど、私は決して、困っている人や社会的弱者を切り捨てろとは言っていない。

最近、多様性とか、差別はやめろとか、そういう話があるけど、私はそれらの人を、無かったことにしようとする考えは持っていない。ただそういう少数派を支援するという題目の元で、実際は公金をちょろまかしていたり、自分たちの主張の道具にしていたりする人間達が許せないだけだ。

男女問題でも、その他少数派の問題でも、それを声高に取り上げるだけでは、かえって分断に陥るということがいまだにわからないらしい。

そういう人達は、一見自分が正義であり、多数派や政府の人達が、悪だという風に語るけど、それは批判のための批判であって、彼らはなんら建設的な意見も、そして現実を処理する能力も持ち合わせてはいない。

私は、皆が協力して世界的な問題を改善しようというのなら、それは賛成なのだが、それを妨害しているのは、いま力を持ち社会的に貢献している人達ではなく、また社会のシステムが悪いわけでもないのだ。既存のシステムの中でエラーを起こしている人達が悪いのだ。汚職をしている人等はもちろんだが、力のある人や秩序にいたずらに反対しているだけの人達もそうなのだ。いやそういう人達が問題、根本悪そのものなのだ。

そういう人達は、自分が上手くいなかいからと、思ったように称賛されないからと、世界を悪いものときめつけて、正義の見方ごっこをすることで、自分を特別な人間だと思いたいだけだ。しかしそのような姿勢が悪を生んでいるのだ。

人生は魂の修業なのだから、私欲を捨てて、自分を磨くことが大切な事なのだ。それがわかっていない幼稚な精神だから、この世界を不幸の谷のように偽装して、泣きわめくのだ。

「僕をもっと見てくれない世界は、称賛してくれない世界は、それだけで悪なのだ」

こういいたいだけに過ぎない。でもそれは自分で選んだ結果なんですよ。貴方が計画して、貴方が努力しないで、貴方がそうなりたくて、そうなったんだよ。普通の人が努力していた時に、遊んでいたくせに、負け組になったからって、運のせい、政府のせい、他人のせいにして、誰かを恨む、それが幼稚なんですよ。この日本では、努力すればだれでも、豊かな人間関係を築き、仲間や子供達に、信頼や尊敬されることができるんですからね。

おあににくさま。

 

こういうことを、人生の最初で教えておくのも、親の責任であり、そのため、私は心を鬼にして、息子をある現場につれていくことにした。それは私も母から伝えられたことだ。

それは自殺の現場だ。

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私たちは、翌週その現場にやってきた。そこにはあるビルがあり、もう15年以上前にその屋上から、高校生がとびおり、そしてその直後から、それは永遠に繰りかえされることになった。

地縛霊となり、自分の死の瞬間を繰りかえす現象。その幽霊は自殺した瞬間をくり返している。地面に激突して死んだと思ったら、一番つらい飛び降りる直前まで戻り、延々と飛び降りをしなければならない。

自殺は、神様に対するうらぎりであり、最も重い罪であり、これがむくいなのだ。

私は気持ちが悪くなるので、こういう現場にはできるだけ近づかないようにしているので、まだ幽霊が飛び降りをしているか確証はなかった。でもビルが見える位置まで、息子の手を引いて来てみると、その幽霊はあいかわらず繰り返していた。やはり無間地獄なのだ。

 

私はそれを息子に何気なく見せて、計画通り諦めと呆れを込めて言う。

「だから自殺はダメなのよ」

 

しかし、さすがにこんな現場を見せて、精神的にショックを受けないか心配になって、軽い後悔と共に息子の顔を思わず覗いてしまった。

すると息子は、とても愉快そうな笑顔をしていた。

「俺達がいじめた障害者じゃん。あれぐらいで自殺するとかマジウケル」

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私は自分の耳を疑ったが、しかしこれが息子の言葉とは思えず、後日霊能者の先生に相談することにした。先生曰く、息子は霊に取りつかれやすい体質であり、たぶん、周りにただよっていた、高校生をいじめた男子高校生の霊に憑依されてしまったのだろうということだった。

 

※追記

その後6歳を過ぎると、息子には霊感がなくなってしまった。しかしすごくまじめでとても優しく育ってくれて、親として自慢の我が子になった。たしかに過去には嫌な事もあったけど、それを乗り越えて、成長できた、成長させてあげられたのは、もちろん人々の協力のおかげと、そして私たち親子の愛情と、息子自身の心の強さ故なのだ。

 

 

――――――

やれやれ憂鬱にさせる話だ。

あの親切で優秀な人にもこんな過去があるとは。しかもこれは彼を構成している大事な記憶なのだ。

だとしたら、英雄が出来る過程、いや英雄とは言わなくても人が生きる過程で、または世界が運動する過程で、必然的に、犠牲者が出なければならないということなのか?

いや犠牲者がでるのはわかる。別に犠牲者が全くでないような世界を幼稚に夢想しているわけではない。しかし今のように犠牲者の少ない平和で考えられるかぎり理想的な社会に、それに貢献している人にそのような過去があるということが、私を憂鬱にさせるのだ。

もしくは犠牲者という考え方が間違いで、記憶の中にある通り、ただ劣等者が存在し、それが悪を形成しているという考え方もありうるのではないか?

しかし、犠牲者でも劣等者でも、どの道そういう存在が必然的に生じてしまうというのは、このましくないことであろうし、そういう世界は変革されていくべきだろう。

 

私はここであえて断っておくが(というのは、誰にも見せるつもりのない日記だが、それでも遠近の未来に誰かに読まれるということは一応想定できないことではないから)

この文章は私の創作ではない。例えば私が、記憶中の表現を用いるなら、何か人生を涙の谷だと思い嘆いているために、このような文章を捏造したとは思わないでほしいのだ。

私は、まさに今この文章を書けるのも、私自身の仕事も、文明の力、先人・他者の努力のおかげだということを自覚している。快適な衣食住が保障される生活に、それも含めて社会を維持することに貢献している一人一人の人に感謝をしている。

誰かの努力を侮辱したり恨んだりというようなことではなく、あくまで社会を少しずつ良くしていこうというのが、私の意見だ。

 

さてきばらしに書こうと思ったのだが、どうも余計に気が重くなってしまったようだ。

こんどこそ気晴らしに、行きつけのレストランにでも行くとするか。あのシェフの料理は絶品だからな。たまには若さを取り戻すという意味でも、ステーキでも注文するか。

シェフの料理はステーキのような一見単純な物でも、確固たる理論と細心の注意が込められていて、旨みと肉汁を逃さない焼き方が絶品だからな。

彼も数年来の付き合いだが、いまだに腕を磨いて、料理の味やセンスが向上していて驚かされる。私もみならって、日々の努力を怠らないようにしたいものだ。

そうだ娘の誕生会もあの店をかしきって開いたらどうだろう。さっそくシェフに相談にいこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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