1.はじめに&方法
ラカンとマルクスの対応関係を、自分なりに考えてみます。方法は、はじめから、対応関係がある。相同的でありという前提のもとに、それを独断的に確認していきます。またそもそも両者ともに難しすぎるので、両者をつきあわせながら理解を促進させたいと思います。
無理解&負担削減のために、断定的な書き方をしています。
2ラカンディスクール理論
2-1シニフィアンとディスクール
①ディスクール(言説)とは
・ディスクールは人がコミュニケーションする際の構造とそこに入る内容。
・言語の構造(動的・力動無意識)を表している。
・個人の心理的構造をも表す。
・今回は最も基本的な主人のディスクールを主に扱う。

②シニフィアンとシニフィエ
・ある対象はシニフィアン(聴覚心象)とシニフィエ(概念)からなる。
・例、ケーキ=ケーキという文字や発音とケーキの概念の組み合わせ。
・理論的には特定のシニフィアンが特定のシニフィエを表す必然性はない。
・例として、ケーキの概念やイメージは、ケーキという発音や文字と対応している必然性はない。外国では当然違う名前で呼ばれる。
③二つのシニフィアンと主体の関係
・「シニフィアンS1は、もう一つのシニフィアンS2にたいして、主体を代理表象する」
・シニフィアンは二つで一組が最小単位である。
・主体は言語の効果としての無意識、実体的な物ではなくゼロのようなもの。
・昼と夜は二つであるシニフィアンの領域全部を表すわけではない。間に主体(ゼロ)が存在しないと、昼と夜は関係できない。
④シニフィアンとシニフィエの関係
・S2は他者の場であり、シニフィアンの集合である。
・シニフィアンの関係(差異)が様々なシニフィエとなって現れる。
2-2疎外と分離
①疎外
赤子が、母親とふれあい、言語の世界にはいること。赤子は母親に解釈されて、自身の感情や行為に名前を付けられて、それを受けとる。
②分離
母との二者関係をだっして、より社会的な言語関係、三者関係に入る段階。
③原抑圧と抑圧
これは疎外と分離両方に関係ある。原抑圧は、母の言葉を身体としての無意識に置き残すこと(言存在)。
抑圧は分離と同じ。第三者的な言語構造的な無意識と意識が働くこと。
3マルクス価値形態論
3-1価値形態とは何か
一つの商品が、自信が価値の形態(価値が実態または憑依体、商品が形態)であることを示すために、他の商品との交換関係を用いるありかた。
(いやこの説明は正しくないかも。ある生産物と他の生産物が交換関係に置かれて、それにより価値が生じて、生産物は、価値が憑依する商品になる。これは同時に行われる。商品が価値を表す
マルクスにおける商品は、使用価値(見たままの姿と交換相手にとっての効用)と価値(抽象的観念、通訳可能な質に基づく一定量)の統合体であり、その二つを持っていることが必要。
(この時点で何書いてるのかわからないけど、気にしないで)
なぜ使用価値(効用)意外に価値という概念が必要なのか?マルクスによれば、交換が成立するためには、論理的には通訳性(一般的な尺度)がなければならない。一方で使用価値やそれを作り出す具体的で有効な労働は、全て特殊なものにすぎず、故にそれとは別の唯一の一般的属性である価値が、全ての商品に内在しているはず(商品の体系は価値の体系としてまとめれている)だという。
ここで限界効用説は忘れておく(というかくわしくないけどこれも価値の体系の一つであるらしい、体系化がなされていないものは、お互いに関係できない)。
価値形態論は、交換がはじまる初期の段階から、資本生産様式のように交換が社会の全体で行われる段階におうじて、主に三段階にわけられている。
また価値形態の狙いは、貨幣(世界貨幣、ある地域で使われていた貨幣ではない)の生成根拠を記述することでもある。商品の交換関係・価値関係から世界貨幣が生成するという理論である。紙幣等について、この世界貨幣・一般的な貨幣から、そのある種の代理物として存在原理を説明しているが、全然理解していないので、今回はパス。
またマルクスは論理的な可能性であり、商品同士の関係である価値形態論と、人間同士の関係である交換過程論を分けて記述している。
3-2価値形態の種類
①単純な価値形態
共同体の隙間で、二つの商品が交換される関係における論理的な関係。

商品A=商品B
単純な価値形態は商品A(上ではリンネル)が自身の価値を相対的に表す形態。
その際には、商品B(上では上着)をその表現材料にし、異なる使用価値が、価値において等価であるとされる。商品Aは相対的価値形態に、商品Bは等価形態におかれている。
商品Aは商品B(の身体・使用価値=具体的労働)で自分の価値(抽象的労働量)を表現する。
②展開された価値形態
交換関係が進展し、多くの人が商品交換で生活を維持し始める過渡的な状態。

商品A=商品B
商品A=商品C
商品A=商品D
ある商品Aが他の商品と取り結ぶ単純な形態の総計
ここでは、抽象的労働量は全て同じで一定。だがこの価値形態では、それぞれの商品同士が関係することはできない(商品同士の価値関係を表せない)。あくまでリンネルと他の商品の関係の寄せ集めでしかない。またおそらくだが、抽象的労働が一定といっても、価値・抽象的労働は、商品同士の関係によって生起するのであり、ゆえに商品が違えば、実際には、そこに差異がある可能性がある。
③一般的な価値形態(または貨幣形態)
これは、ある一国、または世界において、一般的な貨幣が生成した状態の、商品の関係(価値の関係)を表す。

第二形態、展開された形態では、各商品たちは、商品A(またはリンネル)とだけ関係して、他にお互いの関係はなかった。しかしこの形態では、左右をひっくり返し、リンネルのほうが等価形態になることで、自身で他の商品の価値を表す素材になることで、他の全ての商品の価値を表すことができるという。
正直に言えば、マルクスのこの部分の説明は、ものすごく簡単でそっけなく、十分な説明とは言えない。引用してもいいが意味がないレベル。この第三形態への移行については、おそらく再帰性という概念が重要であるが、それは現在理解できていないため、この記事では扱えない。つまり一番肝心な所の一つを扱えない(ただしラカンとの関係で若干だが見えてくるところがあるかもしれない)。
この第三形態では、リンネルが等価物であるが、これが黄金になったものを、貨幣形態と呼ぶ。つまり一般的等価形態という場所に黄金が座ることで、黄金は貨幣の王となる。
全ての他の商品は、自身の価値を黄金という等価物で表す。マルクスは、黄金は、他の全ての商品たちの関係を自身に反射させると言っている。
3-3商品と価値
①商品と価値の最小単位
・商品は理論的には価値形態として現れる。
・実践的には交換過程で、人々が交換を行うことによる。
・マルクスにおける商品は一つでは商品となれない。二つ以上の生産物が交換される関係においてのみ商品として現れる。二つの商品が向き合う単純な価値形態は、商品と価値の最小単位である。
②単純な価値形態における価値とはなにか
・価値は二つのことなる生産物・商品が交換される関係から生じる。
・生産物は、全て特殊なものであり、本来通訳性を持たない
(理論的には交換できない、特殊と一般の違い)。
・しかし、それが度外視されて交換されることで価値という一般的な指標と量が生じる。
・具体的労働の具体性が無視され、抽象的に同一な労働として扱われる。
・価値の同等性等量性を根拠に交換されるのではなく、交換されることにょり同等であると扱われると言うなら、そもそもはじめはどうしてある使用価値の一定量同士が交換されうるのか、そこは需要と供給か?
4ラカンの主体とマルクスの価値の対応関係
4-1.マルクスにおいて各価値形態で価値は同じものか?
第一形態は偶然的な形態であり、例えば、封建主義時代では、みな領地で自給自足をしており、剰余生産物だけを交換に出す。交換がまた全面化してはいないが、それが普及し始めた時期にもこれは相当する?
一方で、第二形態、第三形態は、商品の交換が広がり、自分で生産したものを他者に売り、他者の生産物を買い、そういう風に人々が自分の生活を維持する環境、ようは今の社会を想定している(正確には第二形態が第三形態よりは、過渡的な形態ではあろうが)。
そして、その際の価値の性質は違うものなのかもしれない。
単純な形態では、価値は抽象的労働量である。しかし一般的な等価形態では価値とはなんなのか。
単純な価値形態における価値は、二商品の等置関係から生じるという。
(価値がさきにあるから、等置が成り立つのではなく、交換過程で人々は価値なるものが自分の労働生産物に内在すると、無意識に想定して交換を行うことで、価値=全ての特殊な商品や労働にたいして、それらを一般的・通訳可能なものとする性質が生じるという、またここでの無意識にという意味は、思考的な無意識というよりも、行動的な無意識だろう。イデオロギーとは思想的なものだけではない、自分の構えや行動として、意識していないで実践している、そのこと自体も一つのイデオロギーと言える)。
(1)ある共同体自体の生産エネルギーの支出→具体的労働による生産物
(2)共同体の隙間での生産物あるいは商品の等置関係→価値1という社会的な無意識、単純な価値形態における商品の関係と価値(第二形態は省略)
(3)商品交換が全面的にいきわたった資本主義→価値1の関係としての価値2一般的な価値形態における商品と価値
4-2、ラカンにおける二つの主体(二つの無意識)
①言存在
身体の無意識、フロイトのシステム無意識。
構造的トラウマ、なぜトラウマなのか、それは母が全能の存在ではなく、同時に全能の存在だというトラウマ。
②言語の効果としての主体(と主人のシニフィアン)
分離がなされる時、主人のシニフィアンが生じる。
他者の領域S2はシニフィアンの集合であり、そこから、ある一つのシニフィアンが排除される。それが主人のシニフィアンである。主人のシニフィアンS1は、S2の流動的な領域をある程度の範囲で固定する。言語の効果の主体はこのとき生じる。
S2の領域、言語領域には、絶対に言語化できない領域が必要である
(この主人のシニフィアンが一般的等価物黄金に当たると思われる。黄金も、他の商品世界から唯一排除された存在である)。
4-3.ラカンのディスクール&主体とマルクスの価値形態&価値の対応関係
①ラカンの公式と価値形態の対応関係
「シニフィアンは、もう一つのシニフィアンに対して主体を代理表象する」
これは主人のディスクールにおける理論で有ると考えられる。この時の主体を、マルクスの一般的な等価形態の価値に対応すると考える。
理由は、上のラカンの公式では、主体(価値)はシニフィエではないとおもわれる。主体(言語の全的な表現不可能性の効果)を通してシニフィアンが関係することで、シニフィアンの集合がある形を取り、そしてそこにシニフィエが生成または、独立して存在するとしても、結びつくと考えられる。
(主体はシニフィアンの関係の産物だが、主人のシニフィアンは再帰的シニフィアンであり、主体をとおしてシニフィアンが関係するといえるはず、シニフィアンとシニフィエとの固定化が行われると考えられる。そして主体とはゼロ的な何かだという、正直何を言ってるんだ状態だ)
②疎外と分離、単純な価値形態と一般的な価値形態
ラカンにおける疎外は、言語の最初の関係であり、母と子の関係であった。
これは二者の関係である。
一方で分離においては、母と子供は公式な言語の領域を通して、第三者をとおして関係する(これが象徴的には父親としても現れてくる)。
疎外・単純な価値形態・言語と商品の基本形態・価値=抽象的労働
移行時点 第二形態 最小単位としての、単純な価値形態の総計・・・・
分離・一般的な価値形態・言語と商品の基本的形態の関係(またはその反射関係?)・価値=抽象的労働の関係(またはその反射関係?)
母親の言葉は人間存在の核(シニフィアンかまたはその他か)。
商品とその価値形態は商品集合の最も基本的な最小単位。
5ラカンとマルクスの対応と剰余価値
5-1労働価値説の具体的な例
①ここで考える労働の意味(暫定)
・完全な天然自然以外、全てが労働の産物と考える(人や動物も労働の産物)。
・機械等がする場合でも労働である。
・労働者が偉いとかそういう思想ではない。どう考えても資本家がいなければ、労働者は働く場所がない。狭義には製品を作る際のコストに関する説と考えるとわかりやすいかもしれない。
・おそらくだが、労働価値説は、需給関係を無視してはいない。そもそも労働価値説を提唱したのは、経済学の父アダムスミスであり、そして彼は市場万能論である神の見えざる手を唱えた人である・・・・・はずである(だって国富論とか図書館で10ページ読んでなげだしたからね、資本論も二年かけて300ページくらい読んだだけだし)。
・労働には具体的労働と抽象的労働が存在する。
そして交換比率をきめるのは、抽象的労働である(ここはまだ全然理解していない、マルクスを考えるうえでも、需要と供給が比率を決める、でいい気もする。例えば需要と供給で比率はきまるが等置されて、事後的には抽象労働として扱われる等?)
・抽象的労働は世界のどこにも存在していない。人間の思考産物にすぎない。正確には社会における作用であり社会的無意識であり、人間には意識できない。商品の使用価値に憑依する幽霊。
・労働価値と価格はことなる。何らかの相関性がある。マルクスが想定したその関係性が僕Iには自明ではないので、以下では価格を前提とした上で考える。
・労働価値を持たないものでも価格を持ちうる。
②労働価値説の具体的な適用例、ラーメンを作る場合。
労働価値説のある側面しか触れられないが、ここではラーメンを売って利益がでる仕組みを考えてみる。
利益がでる過程というのは、マルクスによれば以下の式で表せる。
G(お金)→W(商品)→G´(G+ΔG もとのお金+増えたお金)
さらに、Wの部分は細かく分解できる。
G(お金)→W(購入時の生産手段)→P(生産過程)→W´(Pにより完成した商品)→G´(G+ΔG 元のお金+増えたお金)
貨幣(G)
→生産手段W(すでにある商品であり、且つ生産のための手段、材料、機械、労働商品)→生産過程P(生産手段を消費して新しい生産物を作る)
→新しい生産物W´(新しい使用価値と価値、材料+機械+労働力そのもの)
→貨幣(これを市場で他の労働者に売却することで、G+ΔG)
ラーメン屋さんの1日の予算と売り上げで考える。
このラーメン屋では、まず6時間で、100杯のラーメンが売れる。
その際に、かかるコストは、食材料費、ガス等その他の代金、人件費とする。
一杯の原価、コストの比率は、値段で表すと以下のようになる。
1杯=材料費300円+ガス等500円+人件費200円=1000円
(人件費比率を不当に安くしているのは、別に意味はないが、しいていえば、開店当初のワンオペを想定している)
これを100杯作るとなると、以下のようなコストの比率になる。
100杯=材料費3万円+ガス等5万円+人件費2万円=10万円
これが一日の内6時間でのコストである。
ではこのラーメンをいくらで売るべきなのか。
当然一杯1000円、合計10万円よりも上回る価格で売りたい。
しかし、だからといって、任意で値段をつりあげるというのは限界がある
(このラーメン屋が舎村に唯一軒のラーメンであっても厳しいし、都会でしのぎを削っている場合は、もっときびしい、誰でも原価や相場というものを考える、原材料を大幅に超える値段は、むしろ需要という仕組みにより、値下げ圧力がおこるから、芸術作品等とは違い、生活必需品である食料等にはつけることが出来ない。つけられるけど、全体の傾向を無視して値上げすれば、客離れがおきる)
少なくとも、資本家(というかこの場合店主)が支払ったコストと同等の値段でうるかぎり利益がいっさいでない。
ところで今ラーメンを売る時間を12時間としたらどうだろうか。
すると売れる数は200杯となる(もちろん需要があれば)。
するとコストは以下になる。
200杯=原料3×2万円+ガス等5×2万円+人件費2万円(一定)
=18万円
これを、一杯1000円という100杯作る時のコストでうると
(200×1000円)=20万円-18万円=2万円
という利益が得られる。この計算はなぜなりたつのか。
それは材料費やガス代(これが機械代でも減価償却という仕組みがあるので同じ)は、生産量を増やせば増やすほどに、消費も増えるが、労働者にはあらかじめ1日分の賃金を固定で支払うという契約をしているので、これは増えることがないからである。
つまり労働者の値段だけが固定なので(これは店主自身も含む、別に店主が搾取しているという話ではない)。
労働者に多く働かせれば、最終的にできあがるラーメン200杯は、かけたコストよりも多くの使用価値(市場で人々にみとめられた)となっているということである。
・使用価値と価値の変化
Wの使用価値=材料(小麦&出汁200杯分)+ガス等12時間分+人件費6時間分
Wの価値=6万円+10万年+2万円
Wを消費してえられたW´の使用価値=ラーメン200杯
W´の価値=20万円
人件費は、労働者の価値(生産コスト)に基づいて公正に決められている。そしてこれは契約により固定。労働者は一日これを資本家に売る(労働者としての店主は、資本家としての自分自身にこれをうる)。
資本家はこの労働者の労働力の使用権(使用価値)をえている。だから一日働かせるのは合法。詐欺ではない。
労働者の使用価値(可変的で、長時間や知的労働をさせられる)
―――――
価値(労働者を社会的に再生産するためのコスト、労働者の階級ごとに大まかに固定)
この労働者の再生産費は、厳密に算出できるものではない。ある社会の習慣によって左右される。また労働者の再生産費には、個人の再生産だけではなく、未来への投資という意味合いがあり、家族を営める程度の賃金を意味しているから、知的労働者の再生産費には、当然子供の教育費等も加味されている。
また公共サービスが整っている場合は当然生活費は減る。だから産業資本家は、庶民を搾り取るどころか、むしろ政府の公共サービスの拡大を要請する。
またここでは労働者の労働力のみを価値上昇のための原動力としたが、その他に機械の効率等を技術革新により上げるという方法が現実的である。この場合は、同じ生産物を作る場合でも、製造にさいして、投入する価値が少なくて済むことになる。
この少ない価値で生産したものを、市場で、それ以前の価値(技術革新が行われていない他社製品)と同じ値段で売ることで、利益が得られる。
5-2ラカンとマルクスを実際の商品製造の流れに沿って対応させる試みの準備
①複数の主体を考える。またはディスクールの要素を考える。
以下では、単純な価値形態における価値と、一般的な価値形態における価値は性質が異なり、ラカンの主人のディスクールは、一般的な価値形態に相当すると仮定する。そして、ラカンの用語で、主体という時に、それはどのような物をさすのか(今までは二つの主体と書いてきて、それは正しいと思うが、ラカンは同じ言葉を違う意味で言うことも多い)わからないなりに整理してみる。以下では、自我1や自我2というものをだしているが、これは力動無意識内の自我分裂を根拠にしている。
・身体の無意識としての主体(言存在、シニフィエしようとする意思?)
・言語の効果としての主体(ゼロ、差し引かれた後のもの?)
・欲望の主体(商品A,自我理想S1? 自我理想は集団のまとめ役)
・シニフィエの主体(自我? 自我1か自我2か)
・他者(S2、自我2か? シニフィアン集合とそこから取り出されるシニフィアン)
②再帰性について?
欲望は他者の欲望であるとラカンでは言う。マルクスでは労働こそが価値の源泉であるという。後者はいかにもイデオロギー的にきこえるが、じつは同じことをいっているのではないか。
たとえば、欲望の主体は自我理想S1であり(これは普段自分だと思っているものだろう、典型的なのは一人称)、これが、はじめは完全には確定しておらずただ予知的には存在し、他者の場(言語や自我)を通ることで、剰余享楽をえて、事後的に完全に確定するということではないか
(私は貴方を愛している。そう告白する前にたしかに、そのように言おうとしている。しかし言葉が終わるまでは意味は完全ではない。そして言う前の自分と言った後の自分はことなる存在になる)。
5-3不明確だが一応ラカンのディスクールとマルクス価値形態の対応を描く
以下では
ラカンにおいて、無意識が言語を発しようとして、そして自我理想と言語の集合にたより、最終的に言語が確定して相手に伝わり、剰余享楽が確定して、そして自我理想が再帰的に決定される過程を描く。
マルクスでは、資本が貨幣をとおして、生産手段を購入して、商品を生産し、それを売却して剰余価値を確定させて、貨幣に再帰する過程を描く。
①動因(言存在、資本または価値)と目的(剰余価値の取得)
ラカンではまず身体としての無意識である言存在が根本的な原因である。これが誰かによびかける。
マルクスでは、資本と価値の本性がこれにあたる。単純な価値形態、またはその他か?というより、資本は増殖する価値である。価値が自己実現する運動が資本である。
②過程・手段(シニフィアンによる表現、生産)
言存在は、自分を表現するために、S1(一人称)をとおして他者にコンタクトを取ろうとする。他者の場(シニフィアンの集合体)からその素材をみつける(S1は、人間が社会的な言語の世界にはいるときに、分離の際に既に誕生している。S1自体は、その他のシニフィアンから排除されたものである。今書いているのは、あくまである大人の人間が話し始める時の過程)
S1はクッションの綴目といわれ、他者の場にあるシニフィアン集合の関係を固定する(シニフィエとシニフィアンの関係をある程度固定化する)。
そしてシニフィアンの組み合わせは他者の場において、行われる。これによりある言語体系ないでの、シニフィアンとシニフィエの組み合わせが生じる。
マルクスでは、資本家が貨幣で、生産手段(材料・機械・労働者等)を購入し、そして何を作るかも決める(貨幣である黄金は、その他の商品から排除されたもの。商品同士の関係が黄金に反射している)そして労働者は、自己の体力や知力をもちいて、生産を行う。
③生産による集合の再編と剰余価値・再帰的なS1の確定(資本金の増殖)
S(S1→S2)
自我理想(自我1→自我2)
自我理想(自我1→自我2)→剰余享楽а=自我理想´(自我1→自我2)
S1は自我理想とかいたが、上記ラカンの式では、自我となっている。これは自我理想のもとに自我が統一されているということか。
もっといえば、ラカンによれば、S1はS2を入れる封筒のようなものであり
S1(S1(S1(S1→S2)))であるという。
もしかして、カッコの中の(S1→S2)をまとめて、S2他者の場としてもいいかもしれない。
言存在と主人のシニフィアンS1により、他者の場自我においてシニフィアンの集合から、ある組み合わせ、もっとちいさな集合・その元(集合のメンバー)が選ばれていく。
日本語またはその人の語彙力の束×言葉存在の意図×主人のシニフィアンの意図
→ピックアップするべきシニフィアン集合と、用法として可能な組み合わせ。
そして文章を作るため選ばれた小集合(元、一つ一つのシニフィアンのあつまり)は特定の順番配列により、シニフィエ、ある意味をもった文章となる。
この意味が確定してない間と、意味が確定した後には、体系として落差がある。ここに剰余享楽が生じる。また意味だけではなく、それらは言い方や身振り手振り等にも表れる。だからここで剰余享楽を手に入れるための方法は純粋な意味の構築だけではないと考えられる。人間の行動の多くをシニフィアンに帰すことができる。そして得られた剰余享楽は、S1につけくわわり、S1は確定する。
マルクスの場合なら、資本が、貨幣で、原料や機械、労働者をやとい、そして新しい商品を生産する。このとき、長時間労働させたり、知的な生産だったりで、社会的に認められる使用価値をつくりだし価値を増殖させる。あとは機械の効率化をすることで、より投入価値をひくくすることができる。そしてそれによりできた製品を、市場の価値評価通りに売る。これにより資本は、貨幣として増殖する。ある商品集合にたいして、一部を再編することで、実は全体の関係を変えている。
5-4剰余価値は=値段や儲けではない。
ここで重要なのは、S1にける量だけではない。質である。
ただなんらかのもうけが出るのであれば、これらの議論は必要ない。
価値=値段で十分。意識=自分で十分。
そうではなく、剰余価値・享楽は、値段やS1ではないということだ。
自我2において、ここには、あるシニフィアンの集合(全てのシニフィアン)がある。そしてそれにより作られる文章は、特定のシニフィエと関係しうる。
自我1においても、あるシニフィアンの集合(全てのシニフィアン)と、それにより作られる文章と特定のシニフィエの関係がある。
しかし自我1においては労働により、新しい文章が作られている。この文章が唯一変化したものであり、新しいシニフィアンとシニフィエの関係を作り上げている。ここに自我1と自我2の落差がある。
マルクスの場合、生産工程で価値の潜在的な増殖がある。
たとえば、市場で5万円する冷蔵庫を、総コスト1万円でつくれれば4万円の利益になる。
問題は、それが貨幣としてしか現れず、製造工程の価値の増減、または全体の関係における変化だと、認識されない事。
実際には労働による価値増殖(または機械による投入価値の減少)こそが原因であり、それが(この具体的労働という特殊なものが)貨幣という質(一般者)を確定させ続けているのだが、それが現象としては貨幣をとおしてしか言うことが出来ないということ。
剰余価値という時に、上のように、またラーメンの例のように、具体的な一つの商品や産業と値段でかんがえているが、実際は、それはとらえやすくするためにそうしているだけで、剰余価値は目に見えないものであり、そして一つの産業全体、そして社会全体の落差から得られるものであるとも考えられる。
ラカンにおいて、あるシニフィアンの集合、とシニフィエの集合(可能なる?)の中から、あるシニフィアンが選ばれて特定のシニフィエと結びつくということは、シニフィアン全体の集合の関係がまともな文章や行為(S1を変え得る文章や行為)を作るたびに、逐一編集し直されているということであり、全体の関係から、利益を出しているとうことではないか。
全く関係がないように見えても、社会の総体として、ある産業が、別の下位の産業から、間接的に剰余価値を得ているという構造を想定できる。
自我をまとめている自我理想S1を人間は自我であると考える。たしかに、自我理想S1はなんらかの主体的な行動原理を持ち、そして自我をまとめている。しかし労働は分裂した自我により行われている。それは無意識的過程であると考えられる。
6おわりに
かなり無理解ですが、まとめてみました。結論をまとめる必要性も感じないので、このまま終わろうと思います。しかし今思いつく今後の課題としては、以下の事を調べることです。
①そもそも異なる生産物がある比率で交換される根拠はなんなのか?
②再帰性とはなにか、展開された形態から、一般的な価値形態への移行の原理はどのようなものか?
たぶん全然進まないと思います。というわけで今回はここまでで終わります。見ていただいてありがとうございました。ではまたー
7.参考文献
1『資本論経済学批判第1巻1』 カール・マルクス 日経BP 中山元訳
2『資本論経済学批判第1巻2』 カール・マルクス 日経BP 中山元訳 P100まで
3『ラカンにおけるマルクスの遺産』番場寛 大谷大学学術情報リポジトリ
4『トランスクリティーク カントとマルクス』柄谷行人
剰余価値が全体からえられることはこちらの記述から。労働価値は事後的に妥当するという記述もあるが、これが何をさすかは僕には判然としない。
5『蚊居肢 主体→主語→主観、あるいはラカンのディスクール論』
http://kaie14.blogspot.com/2015/08/blog-post_10.html
6『蚊居肢 一の徴日記②』http://kaie14.blogspot.com/2016/12/blog-post_3.html
7『蚊居肢 マルクスの三角形』http://kaie14.blogspot.com/2016/08/blog-post_88.html
8ユーチューブチャンネル 帰ってきたロシュフコー『マルクスの資本論を誰でもわかるように解説』https://www.youtube.com/watch?v=9c9NIf7TMNU&t=859s
言存在や主体等、ラカン理論とマルクスの対応関係にかんする知識、というか この記事を書く大元の発端は上記ブログから。凄く博学な方です。ただ人に勧められない画像等がいきなり張られていたり、2023年ころから、理論的な進展がない傾向が見受けられたので、最近はわかりませんが、僕は必要な過去の部分だけをPDF化して参照しています。




