「哲学メモ」カードゲームと運2

 

こんにちはRAIMEIです。今回はカードゲームと運に関する考察(以前の続き)となります。かなりまとまりのない内容で、ですます調とである調がまじり、文章の時系列も曖昧ですが、あえて未完成であげます。

1.記事内での確率と運の定義

①確率1=数学として考えられ、計算でもとめられるもの、AIによるとある出来事で起きる期待の度合い(AIはいい加減なので注意)
②運1=上記が収束するまでの偏り
③運2=①②が実際にどの場所でどの時間で適用されるかということ

2.想定する確立と運の関係

2-1.運と確率の関係

①確率=簡単な計算の確率(高コストカードが手札に来る確率)
②運=簡単な確率の偏り(人生は試行回数がそう多くない?ので人によりぶれる)
③確率=難しい確率(自分の手札の組み合わせ、それと相手の手札との組み合わせ)
④運=難しい確率の偏り
⑤運=時間や場所(上記がどうおこるのか。隕石が落ちる確率は低いが、出勤途中のサラリーマンに落ちることもありえる)うおおお休みだゲームやるぜえ、という時に引きが悪いとうことが起きがちだったりする。

 

2-2.具体例(重いカードが入るデッキを想定)

①今、あるデッキを想定する。

これは強力だがコストの重いカードを、特殊に早い段階で召喚するデッキでそれで勝ちを目指す。そのために、コストが重くて本来なら序盤で出すことはできないモンスターやミニオンが、4~5体入っているとする。

このデッキでは、これらはそれを召喚するタイミングまでは、デッキに眠っていてほしい。デッキからしか出せない場合は特にそうであるし、手札に来ても出せる場合でも、コンボカードが来るまでは、又はデッキからも出せる場合は、序盤にはきてほしくない。

これらが、初期手札に来たら勝てる確率は低くなる。というか絶望する。

 

しかし確率的には、一定の割合で序盤に来るのはやむを得ないことである。

②例えば、初期手札に重いカードが1枚でも来る確率は30パーセント、二枚以上同時に来る確率は10パーセントとしておこう(厳密に計算はしていない、適当な値)。

これは確率的に、仕方がないことであり、これが重いカードを特殊に、(実質の場合も含めて)デッキから特殊に召喚するデッキの弱点である。

しかし、なぜか、ある日はやけに重いカードばかりが手札に来るし(50パーセント)、逆にある日は、思いカードは全然来なくて、勝ちまくれるということがある(5パーセント)。

またこれは、日にちだけではなく、ある人間どうしても、重いデッキと相性が良く重いカードが来にくい人、逆に重いカードばかり引く人という風に、差が出てくる。

ところでこれ(確率の偏り)自体は運ではない。確率は試行回数を重ねることにより、一定の値に収束する。

しかし、この偏りがどれくらいの試行回数で収束するのだろうか?厳密には僕にはわからない。いい加減だ。

しかし、それが収束する前に、ある程度確率(30パーセント)からはずれた偏り(50パーセント)を見せること、そしてなかなか収束しない事(30パーセントより明らかに手札にきすぎ等)、これをここでは②運と呼ぶ。

というよりも、どれくらいの試行回数を重ねれば、それは収束するのだろうか。カードゲームならまだいいが、人生であれば、一度一度のアクションはコストがさらにおおきくなるので、収束させるまでには、相当に時間がかかるのではないか。ここに運という概念の意義の一つがあると思われる。

 

ところで、上記の話を、なにか努力できない人間の戯言等、取られるかもしれないが、ここではまず人の主観というものを無視していることに注意してほしい。(確率を無視して)この重いカードが明らかにきすぎで自分は運がないとか、そういう風にカードゲーム初心者やある種のメンタルの持ち主は思いがちだが、そうした話ではない。確率内での偏りの話である。

 

③序盤に来てほしくないカードがくるか、こないかというだけでなく、カードゲームでは、複数のカードが手札に来る組み合わせ・タイミングが重要であり、自分のデッキ・手札だけではなく、相手のデッキ・手札にも当てはまる。これがデッキを組む段階、実際のプレイングにおいて、カードゲームの基礎として存在する。

そしてどのようなカードの組み合わせが存在するのか、この確率は計算するのがずっと難しい。しかし確率としては存在するのである(この言い方はただしくないかもしれない、なぜなら、確率論は人間が作り出した道具であり、別に宇宙の真理とはなんのかんけいもないのかもしれないから)。ようは簡単に計算できる確率以外の、確率的な要素を全部まとめている。

 

 

④確立として存在するのであれば、当然その偏りも存在するはずである。

あくまでさまざまな中での一例だが④での具体的な例えとしては、マナシステムのカードゲームで、重いカードばかりで序盤は耐えて後半に勝つデッキ同士の対戦を想定した時に、この対戦はそれなりに終盤までもつれこむのが本来は当然なのであるが、片方がたまたま最低限入れている軽いカードを引きまくり、もう片方は重すぎるカードしか手札に来なくて、それで軽いカードのほうが簡単にかってしまうという場合もあるのである。

もっともこれをある程度予感し、逆利用し、場合によっては当然狙ってやるというのが、カードゲーマーの腕ではある。例えば、同じ重いデッキ(コントロールデッキ等)同士の対戦でも、片方は耐えきるデッキ、片方は特定のパーツを揃えれば勝ちというデッキであれば、耐えきる方のデッキは、速攻を目指すことは一つの選択としては当然である(それを踏まえてフェイントをかけて、序盤防げば勝ちという相手の心理を利用して、相手の手札をへらして、手札破壊等で相手のパーツを破壊する等もある)

 

⑤以上が二つの確率と運である。これと関連して、完全には区別がつけがたいが、それがどの人、どの時間、どの場所等でおきるのかということを、上とは一応独立して考える必要がある。

カードゲームでは例えば、ある人が、休日にランク戦をがんばるぞ、と思い気合を入れるのだが、対戦してみると、なにか手札が悪い、勝てない。そういう日もあるのである。というかこれが、この記事を書く動機なんだけどね。

あくまで確率の偏りに過ぎないが、なんで気合い入れてまとめてやれる日に、こんなに手札が悪いんだよと、そう言いたくなる。て思いきり、主観がはいったから、元に戻すが(別の元に戻さなくてもいいんだけど)、

ある確率の偏りが、人間の側に不都合または好都合であるという、そういう時に、運がいいとか、運が悪いとか、言うのである。

3.追加考察として2つの問題意識

3-1.運というものを考える時の事前と事後二つの要素

(確率、運、流れの違い 流れはあるか?また試行回数を連続的に考えるべきか)

今、例えば、コインの裏表を当てて、それにより、賞金が得られるゲームをする。最初は100円かけて、そしてあたり、100円をもらう。次に1000円をかけて、はずれると、自分は損をする。次に1万円をかける。

確率は同じだが、人間の都合により、運がいい悪いは異なる。

上の例から、何を問題視しているのか?

それは、一つには、運と確率についてこの記事を書いたわけだが、実は運というときに、暗黙に「流れ」というものを、混同して書いていたという点だ。

たとえばカードゲームの手札でいえば、なんか運が悪い(つまりこのまとめてやれる日のかぎり、大型モンスターが手札にくるという偏りをもっている)

こういう時に僕なら言ったんやめる。仕方なく、そしてこの記事を書くのである。そしてその背後には、運が悪い日(といってもカードの偏り自体は確立の偏りでしかない)に勝負を続け勝率を落としまくるというしつこいほどの経験がある(心理的な焦りかもしれない)。

これが流れを意識している人間の考える事である。ところで流れと運に関係があるのは、明らかであるが、記事内での運という定義は、一応これとは異なる。だから記事内では定義している運と、暗黙に前提としている運(流れも含む)の間に微妙にずれがあったのだろう。

まず流れについて、この記事では、一定の未来の、特に直後の未来の傾向であり(たとえば、未来が決まっている、または決まっていないがある傾向がある。または確定した未来やその傾向ではなく、これから起きる出来事に干渉して方向を決めるような見えない力が一定の時間存在している)、流れを読むとは、事前に直前の出来事を予測することであるとする(または自分自身の力か何かを)。

 

一方で僕が記事内で定義したつもりの運というものは、ある意味では事後的な評価にかかわることである。ある確率、その偏りが、誰に、どんな時に、どの場所で適応されたか、またそれをどう評価するかということも暗黙に含めながら、運として定義しているのである(ここで、どう評価するかそれだけが重要だなどと言っているわけではない、自分の落ち度ではない事故で手足が取れて、心底から嬉しくなれる人がいるならお目にかかりたい)。

だから、記事ないで定義したつもりの運は基本的に、事後的か、又は起きている瞬間のはなしであり、流れは事前の(事前にある?、事前にあるものとして人間が想定する)話なのである。

一方で確率は、未来予測には役立つが、直接的に未来を確実に予見できるわけではない。数学者は、いまある確率の中で、偏りがあれば、例えばコイントスが80回裏であれば、次は表が出る可能性が高いということを言ってはいない。次に表が出る確率はあくまで50パーセントである。ただし、遠い未来の話として(コインを1憶枚くらい投げた時の確率として)裏表がでる確率は、50パーセントずつに収束すると言っているにすぎない。直前の確定的な未来予測はしてないのである(流れは直前の未来の傾向を予測している)。

・流れ=直後の直接的な未来の現象・傾向(があるし、それを予測可能だとする考える)

・運=瞬間・事後的な観点から、確率がどの様に適用されるか、出来事と判断

・確率=事前の傾向の予測に用いることができるが、直接的に未来を予測しない。起きた現象自体は当然事後的にしか観測できない。

 

問題意識の一つは、これらの混同に合った。そしてなぜこの混同に気が付いたのか。それは、以下のようなふとした疑問による。

確率は偏るだけで、最終的には収束するのだから、これはその時にやり続けても、いったん止めて後で再開しても、結果は変わらないのではないだろうか?

偏りが悪い日から一度やめて、再開した後でも、偏りはかわらず、相変わらず、一定の間、偏りは極端なままではないか(しかし経験はそうではないと言っている)。

この問題は、一部には、確率論の無理解と錯覚(おそらく、このコインを一枚振る場合には、裏表の出る確率は50パーセントであり、そしてそれを1億回繰り返すと、その出る目は五部に収束するはずだという理屈、この関係を僕が理解していない、コインを一回振るとその出る目、裏表は五部であり、同じ行為が繰り返されるとき、その五部という結果に、全体の割合が、近づいていくということなのか?、そしてその際の具体的な偏りまでは確率では考えてはおらず、流れなというときには、その部分的な偏りについて考えているということか?)又は事前と事後の混同(とくにハースストーンで言えばヨグサロンの牢獄の効果とその評価は、これと関係する可能性がある)としてかたづけられるかもしれない。

 

 

例えば、ハースストーンの、ヨグサロンの牢獄は、デッキ外から、ランダムに4枚の呪文を唱えるカードで、これを2ターンごとに1度、合計3回発動できる。一見重くてランダムで弱そうなカードだけど、合計12枚のカードが7マナで発動できるし、ゲーム展開が遅いハースストーンでは大活躍(することもある)。しかし手札や場が全て吹き飛んだり、無駄にドロー効果ばかりで、デッキがなくなったりと、これ一枚で負ける可能性さえある。

このカードでいいカードが発動できた場合、プレイヤーは、こんなリスクの高いカードを上手く決断して、勝てる俺様は有能!とか、ヨグサロンは最強のカードだとかなるが、ハズレを引くと、こんな運だけのカードにたよる俺って根本的にダメ人間とか、ヨグサロンとか二度と入れない雑魚だわとか、そういう評価になる。

 

しかし、上の混同を無視しても、流れ論者(デュエリストやギャンブラー等)は、流れという未来の傾向はあるし、その予測は可能だと考えているのである。

ここでいきなり対立を持ちこんでしまうのだが、上のスタンスにたいして、一方で数学者等は、それは確率を理解してないからだ、錯覚しているからだという(これは僕の場合はそうだろう)。または単に確率というものの性質を説明することで、流れはあり得ないという。しかしそもそも確率は直前の未来を完全に予測するものではないのだから、端的にこれは直後の未来の一定の傾向(確率で測れるものではなく)が、あるまたはない、と言って争っているだけではないか?

上の、疑問について、確率論的には、悩むことそのものが無意味である。ただ確率とその偏りが存在しているだけで、未来予測はそれ以上の範囲でというか、その偏りの具体的な中身までは考えていない(偏りの範囲は考えているが、その範囲において、ある時点でそれが具体的にどうでるのか、そこまでは事前には考えてはいない。それはやってみなければわからないし、だから確実に期待した結果に近づけるためには、回数を増やすべきだという話になる。その間、悪い方にかたよっても、それは心配するなということだ、もし確率計算がただしく、その他の要素で見落としがない場合)。

一方で、流れ論者は、流れはある。未来の一定の傾向がある。その予測が出来るといっているのだから、その偏りの具体的な中身を、知ることができる。といっているのだから、これは話がかみ合わない。

数学者に出来ることは、確率論を説明して、確率という考え方には、そのようなものは入っていない。そして一般的に科学的ではない未来予測は、オカルトの領域だ、とそういうことしかできないはずだ(流れ論者が、流れがあるという根拠が、確率論への誤解の基づく場合には、これは明確に否定できる)。確率の説明で、流れを否定できるのではなく、それがオカルトだから否定できるだけだ。

ようは、この場合の数学者は、数学がこの世の真理で、数学で把握できないことはなく、そして自分が類解している確率論という数学理論は、はすでに完全無欠の数学理論であるから、それ以外の未来予測に関する思考方法は、全て無意味で間違いだと言っているだけだ。しかし流れ論者はオカルトを信じているのである

(めちゃくちゃごまかしっぽい、別に確率論が間違っているといいたいのではなく、僕は確率論は普通に正しいと思っている。といゆとりも、その是非を判断をするような知識はない。ごく簡単な確率計算しかできないし、それもだいぶ忘れているレベル。そうではなくて、数学で、流れというものを否定している人をみかけたから、それにたいして、議論の方法が何か違うようなきがするという話。大分変な話なのはよくわかっている。確率計算した方がカードゲームも勝てるよ)。

一体誰が争っているんだよという感じだし、なにか論点ずらしや悪魔の証明(流れがないということを証明して見せろ)めいた話になってきている。ただ僕がいいたいのは、いったい、何を対象に、どんな領域で、どういう方法で・・・議論すべきか、ということがこの議論では、まだ明確ではないのではないかということだ。

そして、こういうことを書いておきながら、僕自身は、流れは、経験則としてあるとしか言えない。

もっとも都合の悪い確率の偏りがある日の序盤に続き、勝ちたいという焦りから、その日全体でメンタル的に負のループにはいりまけまくることを、流れというものがあると錯覚しているだけ、しかもその錯覚は他責思考で、自分は悪くないと思うためかもしれないということは想定できるし、この他責思考ということを言えば、それは流れを排除した運概念(確率の偏り具合&適用のされ方が人により違う)も、それを語ることは、運のせいにした他責思考ゆえの行動だと言いえるのである。というかそれが言いえると今自覚した。つまり、道徳的な判断と運というワードは関わるのである。

 

だがこの記事では、上記を考えたうえでも、運や流れはあるという立場に立っている。運は、瞬間・事後的な評価としては、現実の認識として妥当すると考える(カードゲームにおいては、確率というものをまずは指標にすべきであり、それが把握できてない場合の愚痴になるならそれは勝つためには間違いである。人生はたぶん計算で動いた方がいい人もいるし、そうでない人もいるのではないか?)。

流れはまったくのところ、あるとしか言いえない(というかなにか固定観念で、これを否定したら詰まらない、もっとも、反対に未来の傾向がある等考えるのも、それだけではもっとつまらないかもしれない)。

そしてこのまま投げっぱなしでここは終わり。

 

3-2.運とメンタルの話

別に他責思考がどうとか、道徳的な話を書きたいわけではない(いや、今投稿する際に見返して思うのは、それにつて書いている)。

ただ経験そくとして、運が悪いと感じている人間はどう行動したらいいか、どういう面たるを持てばいいのか、それを一応自分のために整理するために、書こうとしている。

自分は運が悪い引きが悪いそう思う人は、必要以上に自分は運が悪いと思い込みがちである(どうしてわかるんだ?)。いや事実そうなのかもしれない。しかし、運の悪さに引きずられれば、勝てる勝負も逃すということもあるはずである。もしそれがどんなに少ない割合だと仮定してでもある。

だから、運が悪いのをもし全く事実だとしても、メンタルの上ではなげやり言い訳にしてはならないと思う。思うというかカードゲームで勝つにはそれしかないと思う。もちろん運の悪い人には辛い話だ。言い訳という言葉自体がなにか気にくわない。

 

だから・・・・・・・・何か違うよねこの話。

運が悪いなら、運が悪いに適用したメンタルもあるはずだし。なんというか単純に、僕自身の事なので、人とは関係なく、引きが悪い場合は、そう思い込みがちでで、なんていうか、それでは勝率を落とすよとそういう経験談なわけです。

それ以上いいようがない。

しいていえば、この記事はカードゲームで勝てなかった時に隙間に(といってもそれなりの分量ですが)かいています。さらに言えば、すぐに思いついた内容ではなく、半年くらいは、いやそれ以前に自分の人生の中で、考えてきたことの一部をまとめているわけ。

これは、内容のよしあしはともかく、落ち着いた環境にいるからこそ、自分的には書くことが出来たともいえます。人生って落ち着けない場面がすごく多いですよね。いや自分がそうだと思うんですけど、だからなんていうか、話はやや飛ぶんでだけど、

他責思考な人間がわるいとか、上手くいかないのは、自分の道徳が悪いのだとか、甘えすぎとか(この言葉もすきじゃない)、そういう風に考えて、がむしゃらにやろうとしても、まずおちついてない人は、負担が多すぎて自滅すると思います。これも自分の体験談なんですが(実は心がけが悪いせいなのかもしれません)。

ただ僕ははっきりいって、人の都合で持ち出される道徳には、懐疑的なめんがあります。言う人によると思います。(たとえば、甘えすぎなのは事実かもしれない、しかし同時にそれでもいっぱいいっぱいなのかもしれない、落ち着いて体制をととのえてないから。と同時に、自分のメンタルとかとは関係なく、相手が存在するというのも事実、自分がうまくいってないとき、誰かに迷惑をかけて、それを自己都合で考えるなら、相手からしたらたまったものではないだろう。心がけが悪いと言われても甘えていると言われても仕方がない。

仕事で考えれば特にわかりやすいよね。自分以外に他人がいてくれてこそ、全体で仕事ができるということを、無視して自分を評価したり、スケジュールを組んだりしても意味ないよね。しかし同時に、上手く言ってない人につけこみ、それを悪用して、自分の攻撃欲求をみたす、意識してそれをやる。意識しないでそれをやるというのも、そういう人もいるのではないか。また一人の人間の中で親切さと攻撃欲求が同時に存在している場合も想定できる)。

 

何が言いたいのか、ようは当たり前に地道に、一歩一歩ということです。地面がそこにあるならね。

というかんじでこの記事は終わります。というか最後の結論、なんかギャンブルとは別の結論になってないか?それはこまる。ヨグサロンとか、ギャンブル要素がない人生なんて考えられない。結論がまとまらない。いやギャンブルも事前の準備が大切? いやそれも一面的な要素に過ぎない。でももう疲れたのでおわり。みていただいてありがとうございます。ではまたー

 

 

4.後から追加分(運の定義や記事の意図について)

4-1.記事の意図

勝てるのは全て運のおかげ等言いたいわけではないし、合理的な要素をみたすことの重要性を度外視するものではない。運を勝利のための一つの要素として考える。そしてカードゲームにおいて、それのウエイトは、他の要素より平均するとかなり低いと想定している。

まず、上で運について取り上げるのは、勝てない言い訳のためではない(しつこいがこの言葉自体が嫌いだが)。しかし、そしてやはり、勝てない事と関係がある。

僕が勝てない時にこの文章を書いている。つまり僕はなんて運が悪いんだと、そう思いながら書いている。しかし・・・・よし、であるちょうはやめよう。

しかし、まずいいたいことは、僕は基本ファンデッカーなわけで、デッキは環境で強いとされるデッキではないわけです。

だから、それで勝てないのは、それは当然だともいえるわけです。勝てるデッキを握らない方が悪く、負け惜しみや言い訳をして、純粋に勝ちを目指している人間・結果を出している人間を、ただ運が良いだけとか貶めるなと、そういう風に、この記事をとらえる人もいるでしょう。

ただ僕が言いたいのは、そういうことではありません。しかし全部が全部そうではないとも言えません。なぜなら、この記事内では、運は存在するとして、考えているからです、だから運がいい人は、その恩恵にあずかっているのかはわかりませんが、何らかの関係があるはずだと考えます(その割合は別にして)。

考えますが、当然、それと人の成果=全て運(カードゲームなら引き)と言う意見を言いたいわけでもありません。

合理性と運は、勝つための、要素のうちの二つであると考えます(それぞれウエイトや、関係性はここではスルー)。

しかし、カッコ内でスルーとかいておいてなんですが、明らかに勝てなそうなデッキで、高い勝率を叩きだすのは、運がいい人でも不可能だと思います。だから、この運と合理性(カードゲームなら例えば強いデッキ等)の関係性は、とりあえずここでは、仮定として、合理性のウエイトのほうがはるかに高いと考えます。

ところで強いデッキ(合理的な要素に一つ)とは、どんなデッキでしょうか。思いつくところだと、以下の二点を満たしていることが考えられます。

 

①安定性

②環境に適応していること

もちろんこれだけではないですし、この分け方も恣意的なものでしかありません。しかし、この二点を、ファンデッカーが意識しないことが多い要素であると考えて、ここではそれをあげておきます。

この4-1では、結局何が言いたいのか、それは以下の4つです。

(1)勝負には多くの要素がからむので、まずは合理的にそれを把握することの大切さ、それを勝てない人は意識外にしがち、または場合によっては運のせいにしがたちだということ。
(2)上を想定しても、この記事では運というものを想定していること。
(3)しかし全てを運のせいにしているわけではないこと。
(4)合理的な要素と運の関係はここではま一応スルーということ(しかし二つに分けて考えるなら、カードゲームにおいては、合理性のほうがはるかに重要だということ)。

 

4-2.運だと言う前に顧みるべき点

運に左右されるのは、脆弱性があるからという考え方(影響を受けやすい要素を減らすこと)

そもそも4-1の時点で、ファンデッカーは、合理性というものを、顧みないといけないということを書いているので、ダブっているのだけど、ここではもう少し具体的に、その一つを見ていきます。

今、例えば安定性はやや低いけど、爆発力があるデッキの場合、少なくとも短期的に見れば、人により、安定性には多少の差が出てくる。

これは結果そうなるだけなのか、運や流れがあるのかはともかく、そうなる。

そしてこの短期的というのが、どの程度の期間なのか、ここではあえてそれが、かなりの試行回数を経ないと収束しないとあえて仮定する(つまりこの人にとっては最強デッキだが、他の人にとっては微妙に安定しないか、全然安定しないデッキ)。

どうもこの書き方はあやしいというか、意味のない仮定をしているようにもおもえるのだけど、ここではそうする)(全体的に運があるから運があるといような循環論法になっているきがする)。

そして、これが運の差の一つだとこの記事では言うわけだが、しかし、上の安定性が微妙なデッキというのは、そもそも弱点を抱えていて、その時点で最強とは言い難い面もある。

また安定性が高く爆発力もあるデッキでも、相手に対策されやすい場合は、結局は安定性が低いことになる。

何か行動をする時、自分の行動以外の他の要因に影響を受けやすい要素を、抱えている場合、それが多いほど、得られる結果は不確かなものになる。

 

この時、人は運が悪かったと言いがちだ。どうしてこんなメタカードばかり、相手は都合よく引いてるんだよ等。たしかに、人によっては、相手の引きが何か都合が良いすぎるのかもしれない。しかし、まずそういう弱点があるから、それに遭遇するという視点が必要だとも思います。

ところで、弱点が多い、少ないというのは、何もデッキそのものだけで完結するわけではないと思います。

安定性はやや低いけど、爆発力があるデッキが、それなりの成績をのこしたとします。その時、結果が出ない人は、このデッキは安定しないデッキで、結果が出たのは運のおかげだと言うとします。しかし実際には、その時の環境にうまく適応していたために、結果安定性も上がっていたとも考えられます(例えば、ハースストーンでは、早いデッキがいなく、遅いコントロールデッキばかりの環境では、ワンショット系のコンボデッキは、序盤に弱いという安定性の低さを、ある程度無視できます)。

(また、この頑強であればよく、脆弱であれば悪いという考え方自体、一つのパラダイムに過ぎないでしょう)

 

4-3.強いデッキは簡単な確率計算で成り立っている?(単純さ・また化の威力)

 

コスト0 このカードを発動したら勝利する。この発動と効果は無効化されない。このカードは世界に一枚しか存在しない。

こういうカードが存在するとしたら、あとは、これを引く確率が全てになります。

ここまで極端ではなくても、強いデッキには、それを決めてしまえば勝利する、もしくは大分有利になるという、ある特定の型があります。これは引きだけなら、簡単な確率計算で求められます。

また環境分布を見た場合、自分が有利なデッキが何パーセントいて、そしてその有利なデッキに何パーセントかてるのか、不利なデッキがどのくらいいて、それに何パーセント勝てるのか、そういう計算でデッキの強さを測ることが出来ます。

またある場面で、どう動けばよいのか、これも確率を考えて動けば、良い結果が得られる傾向にあります。

(なんか極端なれいからはじまり、そこからスライドして、勝つための努力を侮るような内容だ。別にそういう努力がなにか価値がないとか内容がないといいたいわけではない。正直この記事は半ば形になっていないようなものだが、努力して書いている。そもそもカードゲームにおいて他人には当然の理屈も、僕はそれなりの時間をかけて習得してきたと思う、全然完全ではないが。自分がしていることは素晴らしくて、相手がすることはくだらない?そんな風に思えるのかどうか。そこまで愚かだと思われたら仕方がない、そのような書き方にも読めるわけだし。ただ意図があり単純化とかいているだけ、そして正直に言えば、そこまで愚かなことは、昔は確実にあったし、今も結構あるよ。自分で気が付かないだけで、多分そういうノリでかいていたから、このかっこを追加したというね)

 

4-4.記事で言う運や流れとはランダム要素と時間に関係があり、他の人間の行動の結果、その絡み合い等をさしているのではない。

例えば、あるデッキが、その環境に適応していない場合、それは勝てない。これは運ではない。他者の選択に影響されてのことだ(結局である調に戻る、書きやすいのよね。わかららないことも断定するとそれっぽく見えるから)

また自分が綿密に計画したつもりでも、他者の行動の結果、思わぬ形で計画が頓挫することもあるだろうが、之もこの記事で言う運ではない。

この記事での運とは、具体的には、しつこいけど、日曜日ばかり、引きが悪くなるとか、そういう話で、これは確率の偏りとば時間と場所に関係がある。

また、例えば環境はあるデッキが多いはずで、それをメタったデッキで挑んだら、なぜか自分は全然違うデッキとマッチングしてしまうとすると、これは人の行動の結果でもあるが、マッチングはランダムだから、その揺らぎは運ということになる。あとは正直ハースストーンの発見というシステム。

 

あとは、引きというか、これはデッキに弱点があるからというのと関係してくるのだが、それでも、上の簡単な確率にはおさまらない、お互いのカードのかみ合わせ、引きのよしあしというものがあると考えられる。ただ、この引きという要素を運という言葉だけで、表現したくはない。

4-5.実際に運が悪いと感じた時、どう対処すべきか(運はリズムではないか?)

これはもう書いていますけど、あらためて説明すると僕が、運が悪いなと思う時、それはある特定の曜日に、極端に引きが悪くなるということを表しています。そしてそういうときは、カードゲームをやらないで、違う日にやるということが、対応策であると考えています。

こう書きながら思いついたことは、これは誰にも当てはまることではないのではないか、ということです。ある特定の一日にだけ、かなり引きが悪い、具体的には、デッキにいてほしいカードが初期手札に来る、かなりの確率で。

確率の偏りと特定の日時(一日の間)にこれが起こる事、これが運そして悪い流れということです。

逆に言えば、僕は基本的に、その他の日は引きが良いのかもしれません。これは僕固有の現象かもしれず、他の人はまた他の運の良さや悪さの形があるのではないかとも思うのです。

もしそうだとすると、各人が自身に固有の運・流れを知ることで、それをいかしたり対処したり、出来るのではないかと思います。

 

4-6.運はせめぎあい?

カードゲームは対戦ゲームなので、運と言っても、相手の運も関係します。そしてこれがそれ各人に、個別に適用されるのか、それとも、二人の運の強さの、組み合わせや、せめぎ合いのようなものがあるのか、これについては何とも言えませんが、たとえば自分が引きが悪い日、相手も引きが悪いとか、その他に引きが悪いんだけど、その引きの悪さゆえにかってしまう時とか、ただ自分だけの運というもので独立しているわけでもないようにも思えます。

4-7.運と自己評価の問題1

今迄スルーしてきたけど(少し読み明けしてみると、完全にスルーしているわけではないね)、運という時に、この自己評価)主観的評価というものは外せない要素であると考える。

例えば、人生万事塞翁が馬ということわざ。これはうろ覚えだが、馬に逃げられて、その時は不運に感じたが、あとでその逃げられたことが良い結果を生んだというもの。だから、人生においておこることは、何が幸運で、何が不運なのか、その時々だけでは判断してはいけない、という感じのことわざだろう。

また、之と関連して、よくいわれるのは、おこった出来事にたいして、自身がどう評価するのかで、実際にそれが幸運か不運か決まってくるし、その後の人生も開けやすくなる、運というときに、それは最初からその出来事を評価する視点とセットになっているのであり、そのときに広い視野をもつことが大切だということ、等の考え方である。

 

この考え方には、優れた面が存在すると思う。

①自身が人生を開いていけるという視点。

②起こった出来事と自己評価として、運を定義していること。

③評価において広い視野が大切だということは、ある時点での出来事を固定的に見ない、ある種の偏見にとらわれないという視点と関係がある事。

④運がわるいのではなく、それをどう認識し、行動するかが大切だという視点は、実際に、不運を幸運に変える力があるように思える。

 

その他にもこの考え方には、様々な優れたところがあると思う。しかし同時に、下手をすれば、ただの勝者の理屈に堕すという弱点も存在すると思う。

①運が悪いのは、本人の意思が悪いのであり、自己責任だ。

②運は自己評価なので、隕石がおちてきて重傷を負うなど、どのような悪いことが起きても、それはたいしたことではない。それで悩むのは本人の心がけが悪い。

もちろん、これは文脈次第で、応援する姿勢にもなるから、言葉だけで判断は出来ない。それに、この運は出来事と判断だという視点は、より広い視野により成り立っている。

しかし、運は、自己の判断次第だ→さらにいと自己責任だというロジックが垣間見える時に、そこはかとなく、これは、全てを本人の意思のせいにしてしまうというような、なにかご都合主義的であり、同時に偏見にまみれた思想が、内在する時があるように思える。

僕は、この考え方が有効だとは思うが、同時に、実際に不運な人を、切り捨てるためのいいわけであるとも思えるし、それに、運のいい人が、自己肯定するためだけの理屈にも思える。逆に運が悪いのに、実力がすごい人においては、これは謙遜というか過小評価にもつながる。つまり、自己評価を超えた運というものを想定している。

 

例えば、ここに、二人のカードゲームが強い人がいる。

一方は、実力の高さにくわえて引きが良い傾向をもつ。

もう一方は、実力は高いけど、引きは弱い傾向をもつ。

この二人が同じような結果を出しているとしたら、後者のほうは実はより実力が高いと言える。しかし、運は自己責任で、全部自分で操れるという考え方をすると、後者のほうの努力はわからない。

しかしここで思うのは、運=出来事&判断=自分次第というときには、これはなにか良い意味での主観主義と、俺は勝てるからこの世界は全部自己責任にしたいというご都合主義(またはその逆で謙遜)と、広い視点をもつことがたいせつだというような格言等、いくつかの視点が、混ざり合っているのであり、同じような言明があっても、それがどういう文脈でつかわれているのか、それを判断する必要がある。

ここで何を言いたいのかというと、運=出来事&判断ということから、逃れる運、不運というものを、この記事では、想定しているということだ。だからこの本質的とも思える視点をスルーしてきた。

判断の必要もなく、これがおこったら不幸だ。さらに、判断をどうしても、どう行動しても、この不幸、いやさ運のサイクルが繰り返される。

そういうような運というものを、あえて想定して、その視点の側からとらえているのがこの記事だ。

これは意味がないようにも思える。運は自分で操作できると考えて、そしてそれにより実際に、認識や行動がかわるのなら、それが運である、運の全てであるなら、それで良い。

またオカルト的な運などというものは存在しないのなら、それでいい。

逆に抗えない不幸(いや運のサイクルだ、えてして幸運は見えないものだ、しかしこの考え方はなにか違う気もする)実在するとして、それを認識することは、うえのようなポジティブな視点や行動の邪魔をするだけにもなりがちだし、確実な運が存在する、ひとにより運の量や質が分かれている、それが本当ならそれはもう神がきめたことであり、抗うことすら無意味だ。

それに運があるかないかは、現在の科学では証明不可能に思うが(証明不可能といいつつも、論理学的には言葉の定義しだいで、可能なのではと思う。でもそれでも実証できるわけではないから、まあここら辺は無理解なので、今後の学びだね、あと数学の確率論で、運の存在を否定できるのか、その関係性それについても、そういうことが読みたかった人がいるとしたら、今の僕には無理としかいえない)悪いと思い込めば、その他の認識や行動もそれに引きずり込まれるし、言い訳にもなってしまう。

だから実際にどうかは関係なく、運というものが存在する、人により運の差があると考えることは無意味だし、または運というものが存在するとして、自分は不運な側だと、考えることも無意味だ。何ら自己利益にはならない。自己利益になるとしたら、単純にカードゲームなら下手で勝てないひとが、言い訳に用いるくらいだろう。そしてそれでも別にいいではないかとは思う、カードゲームとか他の事が下手でも、他にいいところがあるんだったら、別に言い訳してもいいではないかと。

しかし、ここで言いたいのはそういうことではなく、運という要素が存在する(運にすべてが左右されるのではなく、カードゲームなら、判断力とか、知識とか、それらと併存する一要素だと取り会えず考える)

そして、それは、上のような自己判断にすらよらない、そうではないと考えるのは、もしそれが、向こうからかってにくる運命のようなものだとすると、そればかりを強く意識することは良くない結果となりがちだが、それを想定しておくことで、それにすら対処可能だと、いうそういう姿勢をこの記事では、持ちたいからであり、それをどうするかということが、問題意識だということだ。

 

4-7.運と自己評価の問題2

 

ここでは、4-6の、運=出来事×判断というような、わりかし合理的な視点ではなく、引き寄せ的な視点で書いていく。

自分は運が悪いと思っている人がいるとしよう。そして、その人は実際に運が悪いとしよう(ここでは、上の運は出来事と判断だという視点はわすれて、例えば、カードゲームの引きがすごく悪い→だから運が悪いと、考える、ぎゃくにいうと、この人はおこったできごとにたいして、運が悪い、それは自分にとって、不利益だと考えている)。

起きた出来事にたいして、評価軸を変えたり、より広い視点でみることで、人生を開いていくというのが、4-6における、運と自己評価のとらえ方であった。そういう主体的な認識や行動をすることで、人生が開けるという考え方であった。

しかしここで言いたいのは、自分は運が良いと思い込むことで、実際に運がよくなる、ようはよいできごとがおこるのかもという、いわゆる引き寄せの法則的な観点である。

何を言ってるんだと思うかもしれないが、最初からオカルト的な運というものをそうていしているのだから、この部分は避けては通れない。避けて通れないのだが、具体的に何を書けばいいのかもわからない。

ただ、まずありがちなインチキ法則として、頭から否定しないでおくことが大切であり、壺を売りつけてきたら拒否するし、ダッシュで逃げるし、運は思考次第なので自己責任、とか事故でけがをした人にたいして、いってきたら、その時は蹴り飛ばしてやればいいだけだ。

可能性として、自分の気持ち次第で、オカルト的な運があがるかもしれないとうこの事は考えておく必要がある。そしてそれにより実際に運が上がれば、つまり自己利益になる出来事が起こりやすくなれば、ある種それでいい。しかしこれを検証するすべもない。

だからこれはある意味義務的というか、まあ運とかいう時点で、避けて通れない道というか、運があるのに、引き寄せはないとか、なんか一貫性がないきもするし。でもそれとこれとは別なのか。ただ固定的な態度をとり、なんでもこういうものだとか、これはあり得ないだとか、そう決めつけてしまうには、僕はまだ少し若い。

あとこれはどちらかというと、4-6に関する話だが、カードゲームでは、自分は運が悪いと思い込むと、確率で動けば勝率が良くなる場面で、ネガティブな想定をしてしまい、結果負けるということがありうる(勝率を落とすことになる)。

 

5.まとめ

①記事内において、運は、確率の偏りと、出来事がどのようにある人に適用されるかということ。人々の行動の相互作用ではなく、ランダムな要素のみ。流れというときには、連続して起こる一定の運(または確率の偏りだが)の傾向をさし、流れを読むとは、事前にその未来の傾向を予測をしているということ。

②記事内において、運を他の要素・実力、カードゲームならプレイングや環境把握、デッキ構築能力と併存する一つの要素としてとらえている。運が全て等の視点ではない。運というものをそれらと併存する一要素として(かなり割合は低いにしても)考えようという話。

カードゲームにおいて、合理的な要素についてつきつめるのが、勝つためには必須である。もし勝ちたいのなら、それを基本的な姿勢にすべきであると考える。それを無視するための議論ではない。しかし結局は運とは、オカルト的な話ではある、あるがそれをあえて想定している。

③運=出来事×判断という考え方もあるが、記事内では、この判断という部分を、度外視して、引きが悪い=出来事が悪い=運が悪い等考えている。

含意として、運は出来事×判断という面を、ある意味では自明視して、しかしそれでも、主観的でない運というものを、あえて一見無意味ながら想定して、これについて書いている。

④その理由は、この主観的ではない、判断に寄らない運があると、とりあえずは想定して、それが本当なら、その運と向き合うことである(しかしこのような運を絶対視して、意識しすぎることは逆の姿勢となり、また逆の結果を生む可能性がある)

⑤具体的な方法として、人にはそれぞれ運のリズムがあると考える。そのリズムを把握すること、それをいかすこと、そしてさらにいえば、不運のすきをつくことが、重要であると考える。

 

⑥運が存在するということは、この記事では証明できない。いやおそらく、運というものを言葉として定義して、そして論理学的に証明することはできるのだろう。というか証明する必要もないだろう。カードゲームには、引きやその他のランダム要素があるのだから、これに関する部分を運と定義できるのだ。だからあとはそれがどの程度の影響を持つか、という方が問題なのだ(そしておそらくは大きくない、なぜなら強いデッキは安定性が高いし、それを選択することができるから。だからデッキを選択しにくい、人生とは大きく異なる)、しかしその時に個人差ということが、無視できない問題でもあり、また、もし人生にこれをあてはめると、自身がいる場所や職業の運と、自身の側の運ということになるかもしれない)。

また、事前と事後ということも問題になる。事後的にみて運が悪かったということは、オカルトではなくても言うことができる。流れとほぼイコールの予定された運ではなく、結果的な確率の偏りを自己都合で判断しているに過ぎないから。運という時、だからこの面で定義が不足していた。流れと運を関連づけて定義し、それとは関係のない運というものを、定義するべきであった。

⑦上の運の定義に関するところは度外視して、結論としては、⑤で自己の運を把握すること。リズムを知る事。ただしその際にはカードゲームなら、デッキや環境について、人生でも自分の能力や環境について、そういう兼ね合いについて考えていかなければいけない。そしてこの時点で運というものを、外側にあるもの、内側にあるものという風に分けていることがわかる(こう言う考え方を、あまりしないようにしているが、デッキとプレイヤ-、職業と人間、というふうに照応させてみると、そういう見方も出来ると思った、何故しないようにしているのか、それはデッキは内側だから)。

そのような、外側の運、内側の運について、その兼ね合いについて、考えることが重要なのか(そもそもリズムとは実は外側にあるのではないか?)、それとも運とか気にしないほうがいいのか、経験則としては、運のリズムということだが、結局は何とも言えない。

 

という感じで、なにかよくわからないまま終わります。読んでいただいてありがとうございます。ではまたー

 

 

 

 

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