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1はじめに・疑問と論点
こんにちはRAIMEIです。前回の記事をかいているなかで、色々と疑問に思ったことを、いくつかの論点に絞り、さらに細分化して考えていきます。
前回の記事同様、全然理解しない中で、あてずっぽうで書いています。ゆえに確実に間違っています。
資本論自体は1巻1と2の100ページまで、全体の10分の一ほどしか読んでないことになると思います。一応関連する論文は別に何個か読んでいて、本そのものを読まないで、その解説書を少し読んでいるような感じなので、だから断片的な知識が自分の中でつがなってないし、自分が予想する内容みたいなもの(精神分析的との相同性から資本論の有効性を取り出して、さらに主流経済学的な観点と整合性を持たせようとしている)との齟齬もあると思うので、それらを整理したり、つなげたりしていきたいと思います
1-1.記事で取り上げる疑問点まとめ
①結局のところ2商品の交換比率は等価労働価値によりきまるのか?(ありえない気がするので、労働価値説には何か他の意味合いがあるのか、例えばはじめは需要と救急により決まるが、事後的になにかよくわからない見えない仕組みで労働として扱われる等)
②単純な価値形態において、価値は二商品の等置関係から初めて生じるはずなのに、どうしてそもそも二商品は価値において等置できるといえるのか。価値は最初にないといけないのに、価値は事後的であるという。
③価値形態と交換過程論等、各章の論理的な関係。また価値形態は一種の構造であると考えるが、それと人間の行動はどのような関係にあるか。
④他マルクスがどういう方法で、自説を語ろうとしているのか、全体の構成について、または部分的な記述の流れ等を把握する。
1-2.記述の方法とスタンス(ライブ感で書く)
①記述の方法の説明(ライブ感)
記事の書き方として以下のような順序で記述する方法をとる、これをライブ感と呼ぶ。
(1)資本論を初めて(または部分的に二回目以降)読んだ時の違和感。
(2)一応論文等で知識をえて少し理解した状態。
(3)それでも残る疑問(だからまた①にもどる)。
――――――――――
(4)、(3)は進歩した(2)でありそこから(2)をへて再度知識を得て(3)に進む。
②特に重要視するキー概念(交換比率は労働か→そもそも価値とは何か)
二商品の交換比率のきまり方、マルクスがそれを投下した労働と等しくなるとかんがえているのかという部分が最初からある疑問であり、その疑問を持ちながら、資本論を読み進めていいき、その中でもその等置根拠となる価値とはそもそもなんなのか、ということを重視していく。
どうせマルクスはそういう労働価値説という間違った説をといた愚か者だから、それを疑問視してもしかたないよねと思われるかもしれないが、精神分析との相同性を想定するものには、そこは疑問の余地がある部分である。
③上二つを合わせての再度説明
この記事は僕自身のライブ感を再現したものなので、理解した内容・その順番は僕独自のものであり、資本論を読み進めていくとこういう順番で理解できるよ、というようなものではない。ただ僕個人として、①疑問②知識を得る③少し解決のこる疑問、それを再度資本論を少し読んだり、調べたりという流れのなかで、把握するやり方を再現するということ、それでえた知識を書くということに過ぎない。大体これを四かい(5回だった)おこなっているのでそれを書く。
中途半端に知識をかじって、本文を読まないので、よくわからないし、全体的な体系知としてもつながりを得ていないし先入観もある。そういう人間が少しでも、マルクス自身の考えを取り込もう(100歩ゆずるなら、労働価値説も一応、本を読み進めるための仮定としては、受け入れよう等)という、そういうスタンスでこれを書いているし、それの初期状態から、これから再現していく。
④その他
・この記事内ではマルクスの考えが絶対に正しいという仮定をして書いていきます。(ただラカンとのずれというのは想定します)
・あと敬称略です。あと省エネのために独断的な感じで書きます。
・参考文献はあえて一切載せません。下で考えていることは、考えているのではなく、参考文献の受け売りを、さも自分で発見した考えかのようにかたっています。というかわからないままで、なにかそれっぽいことを言っているだけです。ではなぜ載せないのか、それは、一つはそれらを整理して、引用するような時間や手間を惜しむこと(しかしこれは後で見ればわかるが少しおかしい理由)、もう一つは、個人的な動機からです。資本論から本格的に学び始めたのは、実際には割とつい最近で、精神分析よりも理解が追い付いていないという現状があります、理解できるようになってきたら、読書感想を書いていきます、
・マルクスの価値形態に関する記述において、途中からリンネルが亜麻布に切り替わるけど、これは参照した参考文献の違いで、そのようになっているだけで、ようはめんどうだから統一してないということで、そこはスルーして変換して読んでください。
あと上着も漢字が上衣と二種類表記があるけど、これは変換ミスです。そこもスルーしてください。
2.はじめて資本論を読んだ時
交換比率の謎はある意味読む前の前提としての疑問であり、まずは初めに、資本論をよみはじめた時のライブ感から、その他どのような疑問が生じて解決していったか、そして何が残ったのか、記述していく
(はじめて資本論を読んだ時と言って何ページまでをさすのか、これは最初の価値の導出を初見の印象として、そこから価値形態論が終わる大体150ページまでとする、読み始めた時期は今から二年半前だが、その後は意味不明で放置していた、それが最初の段階で、その疑問に答える段階では、これは約一年前に少し思い出して学び始めた段階のもの)。
2-1.冒頭における僕の違和感(価値を導く過程)
1クォーターの小麦=aキログラムの鉄
資本論ではまずこの二商品の等置・交換関係から、これは性質の異なる商品だから、なにか違うものをあらわしているのであり、これは価値において等価であるとして、価値を導いている。
その後の価値形態論では、上の商品は、リンネル20ヤード=上着1着という風に書き換えられるが、これは、最初の段階では、価値形態というものをまだ出していないからである(価値形態では、左辺と右辺のやくわりがちがう)。
これがマルクスの最初の記述であるが、現代人から見ると、この時点でこのおっさんがなにをいっているのかまったくわからない。というのは
「価値が同じなのだから、交換がされた」
これは当たり前で、なにも本に書くことではない。さらにいえば、価値が同じだから交換が成立しただなどというのは、一種のつくりごと、つまり交換に価値の等価性などは必要ない(それぞれ二商品を交換する二人の人物はそれぞれ違う主観を持つはずであり、だから等価交換やゼロサムゲームである必要もない)と考えることも可能である。といかそれが一般的な考え方ではないか。
さらにマルクスはこの価値が投下した労働できまり、交換比率はこの労働できまるという(はい解散)。
だから初めに数ページ読むだけで、マルクスはただ、えばりながら当たり前のことをいっているか、えばりながらお馬鹿なことをいっているか、どちらにせよ、ものすごく頭が悪く感じられるのである。
2-2.違和感の正体とその少しだけの解決(資本論に出てくる概念は資本論内独自の概念)
①マルクスの不親切さ
上の違和感(二年半前)を解消するために、資本論をもう少し読み進めたり、他の論文を読んだりする(約1年前)。すると、少しだけこれを解消できる。
論文はインターネットで大量に得られる。それを多少読んでいくと、資本論界隈にはいくつかの考え方の派閥がある事、日本の研究はすごい事、派閥があるということは、凄いんだけど、資本論をとりあえずマルクスの考えに沿って完全に把握している人は少ない事がわかり、そしてその中でも碩学な人の論文を参照して、以下のようなことが参照した知識としてまたは印象としてわかった。
それはマルクスの不親切さである。マルクスは「価値」という言葉の定義をまるでしていないのである(価値は労働であるといわれてもこれが定義の説明になるだろうか)。価値と言われて、僕はそれを普段使っている言葉のそれを想定するのであるが、実はマルクスの言う価値とは、これよりも広い概念であるし、逆に経済を語るときにのみ有効な概念なのである。
②同じ言葉を違う意味で使う
またマルクスは商品には使用価値と交換価値があるという。
ここで読者は使用価値=効用であり、交換価値=交換比率であると、とりあえず広い心で、受け入れようとする。もちろんこんな分け方自体意味がないと思いながら。
しかし実はマルクスは使用価値という言葉を、効用という意味でも使うが、ほかに商品体(生産物という物体自身)という意味でも使っていることが読み進めていくとわかる(そして後でわかるがこれは非常に重要である)。それに効用といってもそれが個人の効用なのか、それとも社会的に認められた効用なのか、それもマルクスははっきりと区別しない。
マルクスの中で区別はあるのだが、マルクスの使用する概念・言葉の定義、それがどのようなものなのか、どのように取り出してきたのか、それをマルクスは読者にかたらないで、はじめから存在する概念であるようにあつかっている(価値については、導出過程は描かれているが、価値という概念がマルクス独自のもので、それがどういうものなのか、マルクスは初めに語らないので、すでに所与である用語と混同してしまう)。
またマルクスは価値や商品の分析から議論を始めるのだが、それがなぜそうなのか、いまいち、ピンとくる説明をしていない。というか全体の流れとして、どのように、何について(何については資本主義であろうが、資本主義の何であろう?)、自分の説を展開するのか、それを明確にしないで、議論を進めていく(上にその概念は独自のもの)。
このような理由から、資本論をはじめて読むと、なんでこんな本がそんなに有名なんだ?と疑問に思い、そしてだんだんわけがわからなくなるのである。
2-3.上を経て少しわかったこと残る疑問
①わかったこと
(1)マルクスの不親切(なにか意図があっての事か)
(2)価値(等いくつかの概念)は資本論独自の概念である。
(3)使用価値等、複数の意味で同じ用語がつかわれる。
(4)独自概念を生活の中での所与の概念と混同すると理解できない。
②わからないこと(とわかったこと)
(1)価値とは何か(労働だけでは意味が解らない、定義曖昧)
(2)交換比率は労働価値か?(ありえないでいょ)
(3)どういう対象を、どういう方法で、議論・証明しようとしているか?
(4)各章はどういう風に論理的に関連してくるのか
(5)あいかわらず二商品の交換比率は労働価値なのか?
③一応改めて、記事の書き方の説明
ここまで書いたことは、ある時点、資本論を初めて読んだ際の印象や疑問(価値についての記述60ページほどまで読んだ段階、またはそのまま価値形態論150ページまでを良くわからないままに読んだ段階)にたいしてのみ、あとで調べたある時点の知識を適用して、そしてある時点での新たな疑問として取り出している。
実際には、今まで、資本論を学びそして他の論文等を読む工程としては、1巻1の全体300ページ読んでから、論文をよんでいるし、また思いついたカ所を読み直している。
だからライブ感と言っても、それは読んだ当時のリアルタイムの感想や学びを記しているわけではない。過去を切り出して振り返りをしているのだ。
今自分が記事を書く際に、特定の時代に戻りそのときの疑問の答えを、その後に対応した時期にえた知識で示す、そして新たに生じたある時点での疑問を書く、そして次の時期として、さらにその解決を書いていく。これをライブ感と呼ぶ。
前回の記事で語っていることが、今回では、まだ出ていないのは、初期の段階に対して得た知識を書いているからである、つまりしつこいが僕自身の学びの工程、その絡まりあったものを、一応恣意的に時系列的・段階的に記しているだけで、資本論を読むとこういう流れで誰もが理解できる等を書いているわけではない。
本当は、最初の印象だけを語り、その後で不明な点、価値とは何かをまとめて書いてしまえばいいだけだ。しかしそれをあえてしないで、段階的な理解として提示しようというだけのはなしで、これをやろうとすると、凄くわかりにくい。わかりにくいのは何が原因か、それは実際の理解は、知識としては同時に仕入れていたりしてネットワーク的であり、どこを理解したとかどこを理解していないとか時期に分けて、簡単には言えないから、もちろん知識として繋っていく時期というのはあるのだけど、それと時系列な書き方の間には齟齬が生じる。
これをやるのは、学びのそういう一種のつながる過程を、あえて再現したいからだ。
むしろ、「疑問がある。そしてこれが答えだ」というようなやり方は、それを得る過程がすっ飛ばされているのであり、自分のためにそういうすっ飛ばしをしないでおこう、(だからこそ、新たに残る疑問という部分を大事にしている)しかし文章で再現しようとすると、時系列で再現するのが簡単で、そこには嘘が混じるということがここでは言いたい。
3.2章の疑問に対してこの記事を書く直前の段階(6か月まえ)で新たに得ていた知識と残る疑問
2章では、今から二年半ほど前に資本論を初めて読んだ時の疑問、そしてそれを解決するために、約一年前に少し読んだ論文をから得た知識をまとめている。
3章では、それから論文等を多少は読み進め、得られた知識、この記事を書き始めた段階、書きおわる6か月ほど前の段階の知識をまとめている(終わるのは2月15日)。そしてそれなりにわかったと思いきや、わからない部分が多いので、それを再度調べたのが4章5章となる。
3-1.単純な価値形態・二商品の交換関係における価値とはなにか?
①資本論を読む大元の動機としてのディスクール論と価値形態(価値)
すこし話はずれるというか、さかのぼるが、そもそもはじまりは、精神分析の大家ラカンとマルクスの相同性というのが着眼点であった。ラカンのディスクール論は、マルクスの価値形態論から得られたものであるということだ。
このディスクール論を調べるために、ラカンとか全然わからないから、マルクスと対比すればわかるかもとしれないと思い資本論を買ったのだが、もちろん全然わからず現在に至る。
だから、最初から価値形態論を着眼点にしていた(そしてそれについてもしらべていた)というのが現実だが、しかし読む進めるためには、まずマルクスや資本論の書き方について調べなくてはならなくなり、それを調べる取り組みと結果が2章のような内容である。
さてラカンからマルクスにもどるが、価値というものを把握するには、価値が表れる形態である価値形態について調べるしかない。価値と価値形態の関係、ここが疑問の着眼点だ。
②価値形態論とは何か
価値形態論は、もっとも(A)単純(偶然的)な価値形態からはじまり、その価値の表現の不完全さから、次の形態に移行し、(B)展開された価値形態、(C)一般的形態、(D)貨幣形態として完成する。
これは商品が価値を表現する形式を説明している。マルクスは貨幣が価値というものを代表しているから(貨幣は価値の現象形態であるという、価格の背後に価値があるという理論)、他の商品の価値を自身で表すことができると考えているようで、この価値形態論から、貨幣の生成根拠の過程を明らかにしようとしている。以下では単純な価値形態に絞ってどのようなものか説明する(書きながらの記事の構成の都合で、その他の形態は5章にまとめる)。
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上では、リンネル20ヤード(エレ)と上着1着は価値において等価である。
これは価値というまったく別の第三のものにおいて、等価だということを、二商品の関係で表している。リンネルは相対的価値形態にあり、上着は等価形態にある。リンネルの相対的な価値は、上着の使用価値(上着の身体自体)で表される。
この単純な価値形態の時点では、貨幣形態までには発展していないので、これは物々交換かとも思える。そしてそれは現実的ではないとも思える。しかしここではそれも一度脇に置いておく。この等値関係が価値によるとするとき、価値とはなにかがここでは、重要である。
リンネル20ヤードという使用価値はこの関係内部においてだけ価値である。上着はその使用価値で、この価値を表す。上着もこの関係内部においては価値である。いや何の話をしているんだ?
3-2.上の疑問・着眼点、価値形態&価値について調べたこと
①価値は、一般的で通約的な属性である(そして商品は全て特殊属性である)
水100リットルと、水1キログラムを足すと何リットルとなるだろうか?これはキログラムをリットルに比重換算しないと、たすことが出来ない。同じ単位で無い場合、数は比べたり、たしたりすることが出来ないのであり、マルクスの言う「価値」とはこの単位や属性のようなものであると考えられる。
商品の交換関係において、それぞれの商品(使用価値とそれを作る具体的な労働)は特殊な物であり、それが一般的なものであり尺度である価値に統一された量(抽象的労働量)としてだけ、それらは等しいのだという考えをマルクスはしているようだ。この一般とか、特殊とか、普遍とか個別は、哲学的な話だ。僕もよくはわからない
②偶然のものならともかく、社会的に継続して行われる交換は一定の基準を持たなければならない。その基準が価値である。
商品が交換される場合(しつこいがこれは物々交換か判然としない)、それが偶然のものならともかく、実際にはある基準をもって交換される。例えば納豆は100円、ジュースは150円等、貨幣がある世界では、これはわかりやすい。
価値は主観だから全ての交換比率はその時に決まるでは、これは経済学を名乗れないし、現実にもありえない。
資本論をよんで、価値は主観だから、交換比率はなんらかの法則により、事前に決められるわけがないと考えるのは、むしろ現在の経済にも通じていないからだ。
たとえば泥で造った饅頭でも買う人がいれば価値があるというような話が、資本論の労働価値説に対してされる場合があるとして、それは単独ではありうる話である。しかし現実の世界で、泥饅頭が一定価格で継続的に取引されるということはありえない。正確にはありえてもいいし、ありえるが、それはなんらかの価値基準があって、それに適合した時にはありえるのである(価値という考え方に沿えば)。あくまである社会で、あるレートで交換されるさいの基準が問題である。
現代の主流経済学では、使用価値=効用を等置における性質=価値と考えているようだ。(効用関数、ただし価値=値段として価値という言葉自体は単独の概念としては独立させてはいないようだ)。
だから、価値基準自体はなんらかの形で必要であり、交換が完全にその場その場での主観なら、全ての経済学が成り立たなくなり、その考え方は、たぶん間違いなのである。
またこれに関連して、効用等、価値の基準は考えてはいるが、それが適用される状況について、特殊な状況だけを考えて、労働価値説を否定する言説もある(ことわっておくがここでは労働価値説を擁護したいのではない)。
それは、砂漠に人が一人だけいて、もうすぐ死にそうな時、だれかが水を持ってきてくれたら、その水は値千金だから、労働価値説は間違いだという話だ。こういう話をする人は、非現実的な労働価値説を論破するつもりで、逆に現実を忘れているし、現在の経済学をも部分的には否定している。実際に砂漠で水は値千金だろう。しかし砂漠に人が住み、文明が出来ると、それは水の供給を前提としているから、必然的に値千金は特殊な条件以外では当てはまらなくなる。もちろん他の地域よりは高いであろうが。
その安定した状態での交換レートとその基準が問題なのである。そしてそれが効用でも僕にはなんら問題がない。砂漠で水は値千金というのはその時の効用面から見たらそれはそうだが、しかし、実際の安定的な社会的状況、その社会を想定して組み立てている現代経済学の理論からみたら、全面的にではないが、やはりおかしなことを言っているのではないかと僕は思う。
僕はここで何を言いたいのか、(価値とはないかという以外に)それは、一つは価値が主観といって、労働価値説を否定しているのが僕なのである。そしてそれは、実は僕自身経済に疎い人間だから、漠然とそう言っているだけなのであり、実は主流の経済学も全く理解してないのである。暗黙にただ一人の人がもう一人の人と、偶然に完全に独立した自分の意思評価、コスト度外視、交渉のもとで、交換するというような考えを、想定していたから(泥饅頭に100万円の値段をつけるとはそういうことだ)、労働価値にせよ、何らかの社会的な基準にせよ、あり得ないのでは? といっていた。
でもこれではジュースが150円な事は説明がつかないのである、そういうことに、今気が付いた。しかし今思いだしたが、株とか土地とか、色々と人の主観で変動する商品はどうなんだということで、労働価値説を否定する時、僕はこれを考えているのだ。
だから結局ここではわからないというか、いえることとしては、価値基準は必要であるということ。またそれよりは不確かな事として、変動しにくい商品と、変動する商品は分けて考えた方がいいのかもしれない(またはなにか連続的なものだとしても、その関係を考えるべきだ・暫定)ということだ。
③価値は二商品が等値されるときに生じる質・属性である。
それを生産するのにそれぞれ異なる具体的な労働により作られた二商品が(例えばリンネルと上着が)交換される関係、価値形態にはいるとき、価値という属性は現れる。価値が最初からあるのではない(ここであるのではないといっているのは、この記事を書き終わった僕ではなく、当然この時点での僕だ。そしてこのかっこ内だけは一応見直しとして後で書きこんでいる)。
この二つの関係においてだけ、二つの商品を作る労働は同じ性質の労働として扱われる。その等置の結果として、それが二商品にのみ共通の性質の労働、概念的な抽象的労働であり、そして価値はこの抽象的な労働が凝縮したものであるとされる。(意味が解らないと思うが、社会的にそれが固定されるということ)
それぞれ特殊な属性である二商品(の使用価値、リンネル、上着)が等置された時に生まれる価値は、一般的な属性、通約性としてあらわれる。二商品は具体的な使用価値(商品体、それをつくる労働)においては異なるものである。
④価値形態論において主体(主役)は商品自身である。価値形態論は構造の話であると考えられる。
リンネル20ヤード=上着1着
リンネルの(相対的な)価値は上着の使用価値そのもので表現される。
価値形態論では、商品所有者という概念はまだ登場してない。ここでの主体はリンネルであり、リンネルが主体的に、上着を自分の価値を表す素材とする。
何故人間がでてこないのか、それは、価値形態論とラカンのディスクール論には相同性があり、ラカンが人間は言語により疎外されている、マルクスは人間が商品により疎外されているというように、一種の構造論だからだと僕は考える。人間は商品構造にそって行動しなければならないというような議論であると考える。
⑤価値は等価物に憑依する。等価物が価値そのものとして扱われる。
二商品が等値されることで、その二商品の労働が、抽象的に等しいものとしてあつかわれ(抽象的労働)、それが凝集したのが価値である。というよりもおそらく価値という属性や形式とその量・内容としての抽象的労働ということではないだろうか。
だから価値は、二商品(または全商品、この全商品の関係を一手に表しひきうけるのが貨幣)の関係により初めて生じる。
リンネル20ヤード=上着1着
この式では、リンネルの価値という抽象的概念は、上着1着という物質そのもので表現される、上着は効用や上着自身としての存在というよりも、ただリンネルの価値という神を下すための憑代として存在し、さらに神自身として現れてくる(抽象的労働は、社会的な見えない構造として存在する)。
上着はこの関係の間、上着という具体的な性質はどうでもよく(ついでにここでは量的な関係もじつはどうでもいい、ただ質の異なるものが価値として同等であるということを考えられれば)ただ価値なのである。キリスト教徒には葡萄酒はキリストの血なのである。
リンネルが主体的に自身の価値を表すために、自身が価値であると表すために、上着を用いて、そのことで価値という属性が生じるのに、逆に上着が最初から価値物だから、リンネルは上着で自分の価値を表現していると思い込む。これが商品の取り違えである。
⑥思想としてのイデオロギーと行動としてのイデオロギー
単純な形態から発展して貨幣形態になる時も、この取り違えは継続する。
全ての商品が、自身の価値(全ての商品が関係しないと、全ての商品に共通の価値が生まれないことに注意、逆にいうと全ての商品が関係するためには貨幣が必要なのである、おかしくないか?なんだこれ)を貨幣(物質としては黄金)で表現する。
この関係から、貨幣である黄金自身が、なにか価値そのものであると商品たちは取り違える。ここで重要なのは、これは人間が考えとして、取り違えるのではないということ。
例えば、黄金はそれだけで価値があり、別に他の商品の価値を表すから価値があるのではない、というような考え方をする人は現在ほとんどいないだろう。
そうではなく、商品が取り違えをするのだから、人間は商品構造に沿った形でないと、儲ける事が出来ないのだから、これは行動として人間は従わざるをえないということだ。人間は、意識としては、貨幣が関係の産物だということを知っている。しかし、行動としてはそうではない。
イデオロギーという時に、これは意識的な物、例えば共産主義等とそれだけで考えるが、実は人間の行動そのものがイデオロギーの産物である(商品の思考イデオロギーに影響されて人間が行動としてのイデオロギーを持つ)、というのがマルクスの考えであるように思える。
マルクスというと、下部構造である経済がその他すべてを決定しているというような考え方であるという通念があるがそうではないとここでは考える。
(例えば、ラカンの現実界、象徴界、想像界をマルクスの考えに当てはめる時、現実界を現実の経済、象徴界を政治的な関係、想像界を思想的としてとらえ、前者を下部構造、後者二つを、下部構造に影響されるだけの上部構造、としてとらえられるかもしれないが、むしろマルクスは経済という領域の、上部構造=象徴界について、語っているとも考えられる、フロイトが言語的な無意識と夢を関連付けたことを考えれば、マルクスの取り違えという議論をここに当てはめることは可能であると考える)
(ところでこれは、最後の見直しとして書くが、思想的なイデオロギーについてはもう流行ることはなく、そこは多くの人は、幻想を抱いていないと上では述べているが、しかし本当だろうか。マルクスはそうではないと言っているように思える。つまり貨幣は関係の産物で、別に黄金自身に凄い価値があるのではないと、そう認識していても、その仕組みを知らない限りは、それに囚われていることにならないだろうか、あとここで言う黄金はあくまで貨幣という関係概念が、結びつく対象であって、別に理論的には、金でなくても良いようだ)
⑦価値形態論は、人間のある種歴史的な交換関係に対応している(?)
例えば、封建制では、人々は、領民として共同体で暮らしていて、この内部では商品は存在しない。こうした共同体どうしが、剰余生産物を交換する関係から商品交換がうまれる。
(共同体で商品が存在しないのは、それは領主が領民を働かせるように、人間同士の関係で、お互いの生産物を生産物自体の価値として交換し合うわけではないから)
そしてこの共同体どうしの関係が、単純な価値形態であり、人々の生産力が向上し封建制から民主制に移行するなかで、交換関係が広がり、そして産業社会、人々が自分の生活の物資を他者の生産物・その交換関係に依存する社会が訪れる段階で、それは一般的な形態を経て、貨幣形態として結実する。こういう関係を描くことができる。
⑧貨幣は、全ての商品の価値(社会的関係)を自身の使用価値で表す等価物である(だから貨幣形態において、はじめて価値が一つの属性として統一される)。
貨幣形態に話はとんでしまうが、上の単純な形態の分析から、価値という属性が商品の交換関係(価値形態)から生じる事、価値という属性においてのみ具体的な労働が抽象的な労働となること、等価形態にある等価物は、その身体で、関係から生じる属性自身となるような取り違えがなされることをのべた。
市場における商品がお互いに関係し、交換が可能だということは、それが価値として、関係しあっているということで、その価値は、二商品の間だけで正立するものではなく、全ての商品の交換関係における同じ属性としての価値である必要がある。ここでその価値がどういう形で生成してくるのか、その理論を述べることは無理解なので出来ない。
しかし貨幣という等価物が、その全商品の価値関係(交換関係)を、一人で表しているものであるということはいえる。
⑨黄金は貨幣素材に過ぎない。貨幣そのものではない。貨幣は関係そのもの
貨幣形態では、他の全ての商品の価値は、貨幣の身体(黄金)で表される。一方で貨幣素材黄金の価値は、この形態では表されない。
黄金は貨幣素材に過ぎない。しかし価値形態論では、他の商品は黄金に価値(という商品同士の関係属性が黄金という物の属性としてみえるから)があるから、自分たちは、黄金で価値を表示するのだと、思い込んでいる。しつこいが、人間が思い込むわけではない。
またここで言う金、黄金は理論的なものではなく、ただ歴史的に、またはたとえとしておかれているだけで、あくまで特定の物質に、価値という属性が付着すること、それが価値であると通用することが述べられている。
また黄金が他の商品の価値を表す関係では、逆に黄金の商品価値は表現されない。それは関係を逆から読む必要がある。
3-3.得られた知識のまとめとの残る疑問
①得られた知識
(1)価値は一般的な属性(神)である。
全ての特殊存在(種)にたいして、唯一神のごとき一般的な性質が存在する。
(2)商品が交換されるには基準(価値)が必要である。
(3)価値は、商品が等置されるときに生じる。それ以前はない。
(4)価値形態において主体は商品である。人間は出てこない。
(5)価値は等価物に憑依する(社会関係が物体に乗り移る)
(6)思想としてのイデオロギーと行動としてのイデオロギーがある。
(7)価値形態論と歴史の対応性
(8)黄金貨幣は価値(全ての商品に共通する属性)を代表する等価物である。
(9)黄金は貨幣素材である、貨幣形態では貨幣素材黄金の価値は表されない。
②疑問点
(1)結局交換比率は労働なのか?(マルクスはそういっているようにおもえる)
(2)二商品の価値形態では、等置関係から価値が生じるという、しかし二商品がかんけいするには、価値を表現するには、はじめから価値がないといけないのではないか?
(3)単純な価値形態において、それが労働価値から交換比率がきまるとしても、それは事前には無理ではないか、そういう計算をだれがするのか?
(4)価値形態論との歴史との対応性はなにかおかしくないか、または単純な価値形態は物々交換なのか?
(5)人間と構造の関係はどのようなものか?人間は商品関係に縛られるだけの存在か?
4.記事を書きながらの疑問その1とその解決
前回までが記事を書く前段階での知識であり、ここから3つに分けて、記事を書く中で、得られた知識や、疑問について書いていく。
4章は、だから厳密にはこの文章を書いている少し前、この記事を書き始めてから、10日程の時点(全他としては3か月程度)での疑問と、その解消だ。
4-1.疑問とその解決法(本文からの引用)
①疑問点
(1)結局交換比率は労働なのか?(マルクスはそういっているようにおもえる)
(2)二商品の価値形態では、等置関係から価値が生じるという、しかし二商品がかんけいするにははじめから価値がないといけないのではないか?
(3)単純な価値形態において、それが労働価値から交換比率がきまるとしても、それは事前には無理ではないか、そういう計算をだれがするのか?
(4)価値形態論との歴史との対応性はなにかおかしくないか、または単純な価値形態は物々交換なのか?
(5)人間と構造の関係はどのようなものか?人間は商品関係に縛られるだけの存在か?
②方法
3章までの内容は、実をいうと、資本論そのものをたいして読まないで、参考文献を参照した結果得られたものだ。だから4章では、資本論を引用するというやり方で行っていく。
ただし、ここでは上の(1)の疑問はスルーして、(2)からの疑問について、引用していく。理由は(1)は資本論の序盤全体に関わることで、ただ引用するだけのこの章では、それを解決できるとは思えないから。少し先取りすると、次の章でもう少し全体のまとめをして、この部分は結論を出したい。
というか実際は次の5章を書くめどをある程度つけておいてから(5章を読めば理由はわかるけど)、この4章をかいているから、上の疑問にはもう少し詳しく書くことはできるのだけど、ライブ感を重視しているから、ここでは記事を書き始めて5日くらいの自分の知識・疑問点・それに対応する答え等を重視していく。あと引用は、日経中山元訳のものから。
4-2.引用による疑問の解消(得られた知識)
①価値形態において価値が生まれるのは、まずは人間の行動があるため、そして商品関係という構造は人間の外から一方的に現れるようなものではない。
(上の疑問、2の価値は事前にないといけないのに、事後的にしか生じないのはなぜか?と、5の人間と商品構造の関係について、のこたえ)
『だから人間が、みずから作り出した労働の生産物をたがいに価値として関係づけるのは、これらのものが同様な人間労働をたんに覆い隠している物品として通用するからではない。その正反対なのである。人間が、それぞれの異なる生産物を交換しながら、それらをたがいに価値として等置するからこそ、彼らは自分たちの異なる労働を、互いに人間労働として等置するのである。生産者たちはこのことを意識してはいないが、実際にはそのように行動しているのである』p126 第四節商品のフェティッシュ性格とその秘密 社会的な象形文字としての商品より引用
商品は、自分で歩いて他の商品と等置関係を結べるわけではないので、これは人間が行う行動を契機とするということ。人間が互いの生産物を交換しようとする行動が、価値という商品同士につうじる一般的な属性をつくる(単発な交換ではなく、社会的な営みとしての固定的な関係)。
考えてみればすごく当たり前だ。でも自分としては、価値形態論だけで完結しているという想定をしていた。上の価値として等置するからこそというのは、結果そうなるという意味だろう。そのつもりもないのにそうなると。
人間と商品構造の関係は、まずは人間の行動ありきだが、そこから商品関係が固定されて、それが完成し出すと、人間はその関係通り、動かなければならなくなるということだろう。
これも当たり前のきもするが、もし商品がある種の取り違えをしていた場合、人間も行動としてその取り違えをしなければならなくなる。
②単純な価値形態(またはその前段階の物品)の交換比率は、最初は偶然により決まる、後では生産と習慣により決まる?(3の、交換比率の疑問の答え)
『物品の量的な交換比率は、最初はまったく偶然によって決められる。物品をたがいに譲渡しあおうとする物品の所有者の意思行為によって、物品は交換可能になる。やがて他人の使用対象を浴する欲望が次第に固定されたものになっていく。交換が絶えず繰り返されると、交換は規則正しい社会的なプロセスになる。やがて労働生産物の少なくとも一部は、はじめから交換を目的として生産せざるを得なくなる。この瞬間から二つの事態が起きる。第一に、直接的な生活の必要性のために利用される物品の有効性と、交換を目的とする物品の有用性が分離され、この分離が固定されるようになる。さまざまな物品の使用価値が、その交換価値から分離するのである。第二に、物品が相互に交換される量的な比率が、物品の生産そのものによって決まるようになる。習慣が量的な比率を、そのものの価値の大きさとして固定する。』p164 第二章交換過程 外部の共同体との交換 より引用
ここで物品という言葉がでてくるのは、生産物はそれだけでは、商品ではなく、価値形態を持つ時に商品となるのであり、交換の初期の段階では、交換比率は偶然にきまるけど、交換関係がこていしてくると、それは生産(労働価値?)に近づくということだろう。
しかし習慣とかいってるし、この時点でははっきりと労働価値とも言ってないし、この点は推測であり、はっきりとはわからない。(交換比率が習慣で決まるのなら、労働価値とは言えないのでは)
③価値形態と歴史はある意味では対応している。しかしそれは商品が交換される理論的な関係とあとは地理的な横方向での関係と、時代区分との3次元の関係であり、古代(単純な価値形態)→中世(単純な価値形態・展開された価値形態)→近代(展開された価値形態・貨幣形態)のような関係をもつわけではない。
まず僕はこの記事を書く前段階では、以下のように、価値形態を時代区分とたいおうさせて理解していた。
・古代=単純な価値形態(物々交換)
・中世=生産力があがり、共同体内で自給自足していなかで、剰余生産物が生まれ、その剰余物だけを交換する単純な価値形態(物々交換)、またはその発展形としての展開された価値形態
・近代=生産力が上がり、人々が生産物を最初から交換する目的で造り、それをお互いに交換して生きる社会。これは展開された価値形態から、一般的な形態、貨幣形態。
以下のような引用の黒字部分をその根拠としていた(これはあくまで記事を書く前段階に、一応少しは読んだ部分)
『第一と第二の形態はどれも、一つの商品の価値を、それに固有の使用価値とは異なるもので表現するという目的に為だけにやくだったのである。第一の形態は、一枚の上衣=20ヤードの亜麻布、10重量ポンドの紅茶=0.5トンの鉄等の等式を作りだした。この等式では上衣の価値が亜麻布の価値と等しいものとして示され、紅茶の価値が鉄の価値に等しいものとしてしめされた。しかし上衣が亜麻布と同等であり、紅茶が鉄と同等であることをしめすこの価値表現は、亜麻布が鉄と違うものであるのと同じように、互いに違うものである。この形態は、偶然でその場限りの交換によって、労働の生産物が商品に代わるごく初期の段階に登場するにすぎないのは明らかである。
第二の形態は第一の形態よりも完全な形で、ある商品の価値をその商品に固有の使用価値から区別する。そのためにこの形態では、たとえば上衣の価値を亜麻布と同等なもの、鉄と同等なもの、紅茶と同等なものなどとして、上衣そのものと異なる全ての商品と同等な物として示すのであり、これらの商品は考えられる全ての形態において、上衣の自然の形態と対比される。
他方でこの形態では、複数の商品の価値を共通して表現する方法は、全て直接的に排除されている。というのはこの価値の表現方法で、ある商品の価値を表現するたびに、他の全ての商品は等価物の形態としてだけ登場するからである。この展開された価値形態は、ある労働の産物、例えば家畜が、もはや例外としてではなく、習慣に基づいて、様々な別の商品と交換されるようになる段階で登場する。』p98~99 第三節価値形態または交換価値 第一と第二の形態の欠点
上の文章と僕の理解を対応させていたわけだけど、僕の最初の想定はおかしい。なぜなら、わりかし古代でも貨幣は存在したはずだから。商品の交換は活発に行われていたから。
ただ前に書いた部分、昔から貨幣はあったけど、近代というかある時点で黄金が、全ての商品に対する世界的な貨幣になるのであり、その前は局地的な貨幣だというその点は資本論理解としてはわりかし正しいと思う。
ただ、この点を僕はないまぜにして上手く整理していないで考えていたのであり、ここではそれを少し整理したい。
『この一般的な等価形態は、これを成立させた一時的な社会的な接触のたびごとに、発生したり、消滅したりする。これはかわるがわる一時的にあの商品に固着したり、この商品に固着したりする。しかし商品交換が発展してくると、特別の種類の商品だけに固定化されるようになり、貨幣形態へと結晶するようになる。』p165 交換過程論 貨幣形態の登場 より引用
今時点での結論をまとめると、それぞれの価値形態(交換関係、物々交換→物々交換のひろがり→価値形態の発展→一般的な形態における貨幣登場)というのは、あくまで理論的な関係であり、また歴史に対応させるなら、それは古代からもう実現していたことである。
しかし、この交換関係は何により規制されていたかというと、それは、一つは生産力であり、例えば中世の農民共同体の中の人間にとっては、それは外部の事に過ぎない。全ての人に商品の交換関係が浸透していたわけではない。
時代をへるごとに、生産力がまし、それにより、この商品の交換関係は、よこにひろがっていく。だんだんと全ての人が対等な生産者として向かい合い始めるようになり、そこで全ての商品の価値を表現する一般的な貨幣がひつようになり(一般的形態から貨幣形態)、とりあえず歴史的にははじめは黄金であったというのが、マルクスの考え方だろう。
マルクスは、価値形態論という理論関係と歴史的関係(横のひろがりと縦の区分の対応関係)を関連してとらえているのであろう。
4-3.疑問の解消のまとめと、残る疑問
少し上の順番とは違うが、以下のように整理する。
①解消された疑問
(1)価値形態(商品の交換関係)において価値は初めに存在しないといけないと僕は想定したが、実際には人間の生産物を交換しようとする活動があることで、二商品はとうちされる。
(2)しかし最初の交換比率においてかっこたる基準はない。そして関係が固定化されていくとき、それは生産と関連をもつようになる。物品の交換関係から単純な価値形態へと関係がこていされていく。
(3)だから、人間は商品関係に規定されるが、それは貨幣形態まで出来上がったあとのことで、まずは人間の行動がその関係を作る。だから外部にある商品関係に一方的に疎外されているというわけではない。むしろ人間(共同体)の社会的関係とは、初めから商品関係以外にない。それを商品がどう取り違えてとらえるか(行動としてのイデオロギー)、それがどう人間の意識に現象するかが問題(意識としてのイデオロギーと事後的な分析視点)
(4)価値形態論は、古代→中世→近代というような歴史的な発展と対応してはいない。交換関係を論理化した価値形態論であり、歴史的な過程としてその実践関係の横の広がり度合と上の時代区分とを対応させてとらえている。
②残る疑問点(そして新たな疑問、というかこの記事を書く実際の動機)
(1)結局交換比率は労働なのか?
(2)そもそも価値とは何か?
(3)単純な価値形態論では、交換関係は生産によつて決まり、習慣が量的な比率を価値の大きさとして固定するとしているが、これでは労働価値によりきまるのか、その他の要因(習慣)も強く作用するのかわからない。
(4)価値形態の理論はどのようなものか、よくわからないから個人理解を少し深める。
(5)価値形態論で貨幣が生じる理論と、貨幣が生じ続ける理論は別なのか?べつならそれはどのようなもので、どの様な関連を持つか?
(6)貨幣形態と人々の関係、人々はどのように疎外・分離されているのか?
(7)冒頭の商品の価値の導出、価値形態論、交換過程論の理論的関係がわからない。上では単独の疑問についてその答えがのってそうな所を引用しただけにすぎないから。
(8)マルクスは自身の論理をどうやって証明しようとしているのか。叙述の仕方理論的な方法がわからない。
5.残る疑問点についての解消(できないけど)
5-1.残る疑問点&時系列と、疑問を解消する方法
①時系列と方法
4章の時点では疑問は、記事を書き始めてから10日くらいのものであり、その解消としてはまあそれから数日といったところだ。そして上のような、またはもう一度下に提示するような視点がえられた、というよりも、一最初に提示した疑問点を、もう少しせいりできた。
そして5章では、この疑問に対応する答えをかくわけだが、残念がら、記事を書いて数日どころか、4章時点から、もう6か月以上たっているし、答えも完全に得られたわけではない。
全体としては、二年半前ぐらいに資本論を一読し、そして一年前くらいから、論文をよみはじめ、そして資本論も少しだけ序盤だけ繰り返し読み、そして少しだけわかった感じが得られたので、半年くらいというかもう少しまえから記事を書こうとして、そしてそれを3か月くらいかけて、4章くらいの内容にまとめたわけだが、この5章、今これを書くのに、残念ながらさらに3か月以上たって、現在2月8日くらいになっている。
というのはこの5-1を書く前に5-2を先に書いたから。
さらにいうと、4章を書くよりも先に、5-2を書いた。しかしこれは作業手順のために過ぎず、3か月前の時点で、4章の疑問や答え自体はだいたいつかめていたのである(その答えがあっているとは言っていない)。
5-2を先に書いた理由は、5章の疑問を解決する方法、それが資本論の冒頭180ページくらいを、もう一度全体として読み直すということであり、きになる文章を引用しまくるというものだからだ。ところで今書いていて寒すぎる。エアコンが壊れたとですたい。
②疑問点の提示と整理
・根本の理解(労働価値説)
(1)結局交換比率は労働なのか?
(2)そもそも価値とは何か?
・価値形態論の理論(最重要の疑問)
(3)単純な価値形態論では、交換関係は生産によって決まり、習慣が量的な比率を価値の大きさとして固定するとしているが、これでは労働価値によりきまるのか、その他の要因(習慣)も強く作用するのかわからない。
(4)価値形態の理論はどのようなものか、よくわからないから個人理解を少し深める。
(5)価値形態論で貨幣が生じる理論と、貨幣が生じ続ける理論は別なのか?べつならそれはどのようなもので、どの様な関連を持つか?
(6)貨幣形態と人々の関係、人々はどのように疎外・分離されているのか?
・マルクスの理論構造(独特な叙述の仕方にねらいはあるのか?)
(7)冒頭の商品の価値の導出、価値形態論、交換過程論の理論的関係がわからない。上では単独の疑問についてその答えがのってそうな所を引用しただけにすぎないから。
(8)マルクスは自身の論理をどうやって証明しようとしているのか。叙述の仕方理論的な方法がわからない。
・ラカンとの対応関係(追加だが今思い出したので、最重要部分)
(9)ラカンとの対応、自我理想や自我との関係、
(10)畏者としての身体とはどう関係するか
―――――――――――以下は蛇足。どうせ今後の課題。
・株とか、変動為替とか、現実の経済との対応関係
(11)労働価値説はどこまで説明しているか。それをどう説明できるのか
(12)これをまなぶことで、現実の行動にいかせるか
(13)現代経済学と関連付けて、学ぶことができるのか。
なんか余計なものもあるし、全然整理できてない。とりあえず以下では、長い引用をのせます。ただ引用というか、引用+自分の考えを書き込むという感じで、引用も正確ではない部分があります。これを読んでいるかたがいるのなら、ここはとばして、5-3に行ってください。
あと先に書いておくと、この記事の結論として、結局はマルクスが何を言いたいのかよくわからないし、そのうえ、マルクスは正しいという仮定をして、はじめているので、なんかマルクスは正しいらいしけど、僕には意味が解らないという結論に落ち着きます(それが進歩だからね)。だから現代の経済学とすり合わせるとか、そういう内容は結局なく、最初の疑問点や姿勢は失われています。コンコルド効果というやつで、だんだんマルクスびいきになっていくという感じです。その点を僕が意識しているということ、ここ3年間ぐらい、現代経済学の教科書や株関係の書籍を同時に少しずつ読んでいるということ、それだけ、書いておきます。
5―2.資本論から引用&要約&解釈(ここはとばしてね)
引用は日経、中山元訳、資本論1巻1より
(ここからリンネルが亜麻布に、上着が上衣にかわる)
①(第一版への序文)
資本論がどのような目的をもつのか以下のように書かれている。
『本書の究極的な目的は、現代社会の経済的な運動法則を明らかにすることにある。ある社会がその運動の自然法則を理解できるようになったとしても、自然な発展の諸段階を乗り越えたり、ないものとして否定したりすることはできない。ただし生みの苦しみの期間を短くしたり、痛みを緩和したりすることはできるのだ』
この運動法則を、記事では動的な構造(内部の要素が位置と姿をかえながら自己に再帰する)として考える。
第一章商品
第一節商品の二つの要素-使用克人価値(価値の実体、価値の大きさ)p27
商品の二つの要素を述べて、交換価値から、価値を導出する過程であり、この時点では価値形態の発展という観点は出ていないので、マルクスは価値体系が完成している前提で書いているように見える(あるいはアダムスミスやリカードなどの、マルクスが一応敬意を払う古典経済学の視点で書いている)。
・使用価値と交換価値
・使用価値の特性は、人間がどれほど労働を投下するかは関係ない(あとここできがついたが、使用価値=商品身体そのものと普通にここで書いてある)。
・使用価値は特定の性質(身体)と特定の量で表される。
・使用価値は富の内容の素材であり、その富の社会的な形態とは関係ない。
・資本生産様式では、使用価値(商品身体)は交換価値のにないてである。
・交換価値
二商品の使用価値の量的な関係(どのような比率で交換されるか)。この比率は絶えず異なる。交換価値は、ある内容「価値」の現象形態である。
・交換価値の等式
1クォーターの小麦=aキログラムの鉄
この等式は、このことなる物の内に、同じ大きさのものが共通して存在している、小麦と鉄という二つのものが、小麦でも鉄でもない第三のものに等しく、この第三のものはそれ自身としては小麦でも鉄でもないということを示しているのである(この第三のものは価値である)。
・人間労働の凝集物
商品の交換比率の明確な特徴は、使用価値が無視されるということにある。
使用価値を無視するなら、あとは労働の量だけが問題になる。この労働は抽象的労働であり、使用価値をむしすることから生まれる。
使用価値が無視された労働生産物は、抽象的労働が凝集しただけの幻想的な存在(文中ではややこしいが実態、憑依される存在の意味)でしかない。
価値は、社会的な抽象労働の凝縮体であり、それだけを、上の実態は表す。交換価値(ある使用価値が=で結ばれるということは、それは一定の価値を表している、価値として等しいといっている)価値形態という価値の現象形態とは別にまずは、価値について別に考察するひつようがあった。
(ここで当然マルクスは愚かなおじさんという印象を受ける。使用価値=効用がむしされるとかどういうことだ?と、しかしおそらくだが、マルクスに言わせれば、ある段階においては、それは勘違いなのである。
というのは、労働の産物を交換する段階から、貨幣がうまれて、その後貨幣が独り歩きというか運動する段階はわけて考える必要があるからではないか。またマルクスは大まかな構造について語っている。株や為替とちがい、工業製品とうはコストにより規制されているしマルクスは社会的に必要とされない商品を作る動労は労働ではないと言っている。労働コストがかかり、しかし需要がないような商品生産からは民間の人々は撤退するはずである。マルクスは起源やある時代やある場所について、または他の要素を一時的に無視して、語っているのに、それを無視して、矛盾しているから間違いと言っていうのはおかしいのではないか、ここは見直して最後に書き加えた部分)
使用価値の大きさを決めるもの
・(使用価値の大きさを労働が決めると言うと一見奇妙だが、この意味は特定の使用価値が、特定の価値を表す割合、ある使用価値を作り出すのに必要な価値=使用価値の大きさと言っているのだろう)。
・労働時間=価値だが、それはその社会での平均労働時間である。熟練度等は関係ない。素人が時間をかけて作るものが、プロのそれより価値が上等ではない。(またこの労働時間というのは、概念の上でしか存在しないものだ。ただしそれは具体的な労働と関係する)
交換価値の変動
生産力が高いものほど、労働時間が減るため価値は低くなる。逆も然り。価値の大きさは、生産するために必要な労働の量に比例し、生産力に反比例する。
自然に生まれる使用価値p38
・ある物が価値を持たずに使用価値を持つことがありうる。人間労働が不要な場合である。
・人間の労働生産物は=商品であるわけではない。他人のための使用価値・社会的な使用価値を持つ必要がある。
・しかし、それだけでは不十分で、それが交換される関係でなければならない。中世の領主と農民の年貢の関係はこれには当たらないのである。
・使用の対象でないものは、価値を持つことも出来ない(どんなに労働を投下しても、無用なものを作り出す労働はむようなものであり、労働とはみなされない、つまり売れない商品に投下された労働は、資本論で言うところの労働ではない)
第2節 商品に表現された労働の二重性
労働の二面性p43
・商品は使用価値(具体的有用労働)であり、交換価値(価値、抽象的な労働、交換の上で現れる幻想的な性質)であり、この二面性は、経済学的な跳躍点である。
(ある対象に対して、二重の観点から見ることができる、それらの関係が変化することで、得られるデータや概念も変わる。だからそれらがどうお互いに関係するのか、その法則を考えれば、概念同士の関係も統一的な物として把握できる)
有用労働p44
・異なる種類の使用価値または商品の身体の全体に、同じく同じく多様な有用労働が全体的な社会的な分業として現れる。
・全ての商品は、何らかの有用労働の産物であり、そうでないと商品として向き合えない。
・商品生産者の社会では、自立した生産者が私的な活動として、たがいに有用な労働を営むために、労働の質的な区別が発展し、やがては複数の部門で構成された体系が、社会的な分業へと成長する。
・使用価値を作り出す活動自体は、人間のいかなる社会的形態とも関わりない永遠の法則。
富の源泉p46
労働とそれが一切行われる前の自然素材がそうである。
質的に異なる労働p47
・使用価値から価値の考察へ移る。
・価値として見れば、20ヤードの亜麻布も上着1着も同じ実体(労働)を備えた物であり、同種の労働が客観的に表現されたものである(単純労働)。
・単純労働の性格は、国や文化的段階に応じてことなる。
交換価値と労働p50
(抽象的な人間労働は社会的な関係の中にしか存在しない、社会的な関係・価値により、異なる労働がすべて、ある同じ種類の単純労働の比率で比較される)
・上着と亜麻布の使用価値を形成する要因は縫製労働と織物労働であり、その性質が異なることによって意義が認められるのである。これらの労働は、上衣と亜麻布の価値の実体ではあるが、それはそれぞれの労働に特殊な性質の違いを無視されて、人間労働という同等な質をもつことによってである。
・亜麻布と上衣は価値一般ではなく、特定の大きさの価値である。一枚の上着が、10ヤードの亜麻布の二倍の価値を持つ時、この価値の違いは、亜麻布に含まれる労働の量が、上衣に含まれる労働の量の半分に過ぎないからだ。
・価値量としては、労働の質を無視して、人間労働に還元した後に、量的に評価される。
(価値という一般的な属性と、その大きさ・実体としての労働は違う。交換される両者の使用価値をつくりだす具体的な労働は質のことなる有用労働である。というか量も違うかもしれない?というか比べることが不可能。 しかし価値という一般属性としては、それは同じ量であり、価値の大きさとしては、両者の有用労働は同じものなのだ。だから価値という尺度が問題だ、交換比率は、具体的労働が、価値という属性に、還元されたうえでのものだ)
生産力の逆説p53
・使用価値の量が増えても、価値が減る場合がある。使用価値と価値の対立である。
・生産力はつねに有用で具体的な労働の生産力であり、之が増大すれば、豊富な生産源となるし逆も然りで正比例の関係に或る。
・これにたいして生産力の変動は、価値に表現される労働にはまったく影響を与えない。
生産力は、具体的な有用労働の形式に含まれるものであるから、交換価値において、その具体的で有用な労働が無視されてしまうと、生産力はもはや労働と関係を持つことができない。だから生産力の変動とかかわらず、同じ労働は、同じ時間において、同じ価値の大きさを作り出す。
・生産力が向上し、ある使用価値の総量が増えたとしても、それにより、全体の死良い価値の生産に必要な労働時間の総量が減少すると、この同じ変化が、増大した使用価値の総量の価値の大きさを減少させる。
(ようはある使用価値を作り出すのに必要な具体的な労働時間が減ると、使用価値の総量は増えても、抽象的な労働時間も減るから、価値は減少する、上の影響を与えないという意味は、価値関係の上で商品は、ある価値の大きさ=労働時間を表す存在にすぎず、その価値という全体基準には一つの生産力が向上したくらいでが、何の影響も与えないということ)
第3節価値形態または交換価値
商品の価値の実態(実体=労働ではない、実態は憑依体である)
・商品は、使用価値という自然の形態と、価値の形態でもあるという条件で商品である。
(だから、商品は単独で存在しない)
・商品に価値という実態がそなわるのは、商品が人間の労働の社会的な単位の表現である場合に限られ、商品の[価値の実態](これは価値という属性とその量が、商品に憑依することだ)は純粋に社会的な物であることを想起してみれば、商品と商品の社会的な関係の内にしか、商品の価値の実態が表れることはないのは、すぐに理解できる。
貨幣の謎p60
貨幣形態の発生プロセスを追跡すること、商品の価値関係の内ぬ含まれる価値表現を、そのもっとも単純で地味な在り方から出発して、光り輝く貨幣形態にまで発展していくプロセスをあとづける。
A単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態 p61
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20ヤードの亜麻布は上着一枚と同じ価値を持つ。
一 価値表現の二つの極-相対的価値形態と等価形態 p62
相対的価値形態と等価形態とは
・亜麻布はみずからの価値を上着で表現し、上着は亜麻布の価値を表現するための素材となっている。
・相対的な価値とは、これは亜麻布という使用価値と、どれだけの価値が対応しているかということが、上着との交換比率で表現されるということだろうか?(価値としての亜麻布)
・亜麻布の相対的価値形態は、等価形態を前提としている。
・等価形態にある商品は、相対的価値形態によって、自らの価値を表現することはできない。この商品は他の商品の価値を表現する素材になるだけだ。(だから、等価形態の価値はどこで与えられるかが問題だ)
その逆転の可能性
・上の表現は、その逆関係も含んでいる。1枚の上着=20ヤードの亜麻布に相当するという。このためには、等式をひっくり返して、二つの役割を変える必要がある。
・同じ価値表現の内では、相対的価値形態と、等価形態の両方の役割をになうことはできない。この二つの価値形態は、二つの対局へと互いに排除し合う。
二 相対的価値形態(最重要部分その1)
a相対的価値形態の内容
〈価値物〉の役割
・二商品の価値関係のうちに、ある商品の単純な価値表現がどのように潜んでいるかを見つけだすためには、量的な側面をも無視して考察する必要がある。異なる事物の量を比較するには、同一の単位によって表現されなければならない。二商品はこの単位を表現するものとして、質的に同一である。
・この関係では相対的価値啓太に或る亜麻布の価値だけが表現される。
・この関係において上衣は、価値の存在懈怠として、価値物としての役割を果たしている。上衣は価値物としてのみ、亜麻布と同じものである。
・他方でこの関係において、亜麻布は独自の価値を持つことが明らかになり、自律的な表現を取得する。
・独自の価値を持つ持緒でなければ、亜麻布は同等な価値を持つ上衣(自らだけで直接的に交換可能な商品)と関係しる事が出来ないからだ。
・私たちが、「商品は価値としては、単に人間労働が凝固した物とみなされるにすぎない」と語る時には、私体は分析しながら、その商品を価値という抽象物に還元しているのである。ただし商品の自然の形態とは異なる価値形態を、その商品に与えているわけではない。ところがある商品を他の商品との価値関係において考察する時には、事情が異なる。ある商品はたの商品と固有な関係を結ぶことによって、その商品の価値という性格があらわになるのである(価値は単位、価値の内容・大きさは労働、あと価値という場合価値憑依体の時もある)。
・例えば価値物としての上衣が亜麻布に等置されると(これは亜麻布の主体的な表現だ、さらに言えば、上衣はもとから価値物なわけではない、亜麻布の主体的行為により上衣は価値物となるが、それを亜麻布は上衣が元々価値物だと取り違える。マルクスはここでは、その取り違えに沿って、その間のことについて語る。まず等置があり、単位としての価値の出現と、具体的労働が価値として現れる段階はわけて考える必要がある)上衣の内に潜んでいた人間の労働が、亜麻布の内に潜んでいた人間の労働に等置されるのである。上着を製造する縫製労働は、亜麻布を西方する織物労働とは異なる種類の具体的労働である。しかし縫製労働は織物労働と等置されることによって、実際に二つの労働の内に備わる人間労働という共通の性格に還元されるのである(あくまで二商品が価値として関わることで、その具体的労働も価値に還元される。
そしてこの価値として関わるとは、上着を価値物として最初からみとめているわけではない。むしろ無意識的に亜麻布自身に価値があると考えて、上着と交換しようとする。そして実際にはこの時点で価値という属性そのものがない。無いのにあると無意識に思い込んでいるだけ亜麻布の意識にはまだそれは出ていない。この行為により、上着はそれ自体価値を持つものとして、等価物としてあつかわれる。ただしこの時点ではそれは亜麻布と同等であるからという前提がある。あくまでこの価値関係の中でのみ上着は価値物である。そして価値物である上着の労働と亜麻布の労働が等値される。その後で、商品の取り違えは完成する。亜麻布は上着が等価物であるのは、それが生まれながらの性質であると、とりちがえてしまい、自分の主体的表現の結果を忘れる)
この迂回路をめぐることで、次のように語ることができるようになる。織物労働もまた製品に価値を織り込むものとして、縫製労働から区別されるような指標は備えていないのであり、どちらも抽象的な人間労働なのである。異なる種類の商品を等価な物として表現することによって、はじめて価値を形成する個々の労働の独自な性格があらわになる(シニフィエはシニフィアンの関係=価値・主体の内容である)。
それはこの等価表現によって、異なる種類の商品に潜んでいる人間の労働を、実際にそれに共通するもの、すなわち人間労働一般に還元するからである(一般?、しかしあくまで二商品の一版に過ぎない。さらに言うと、この二商品の関係は、全然ランダムでよいわけでもない、亜麻布は布で、上衣という完成品と関係がある。ラーメンと小麦もそうだ)。
価値を形成する労働p68
・しかし亜麻布の価値を作り出している労働に固有の性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は価値を形成するが、それは価値そのものではないからである。人間労働が価値となるのは、凝固した状態になり、対象としての「物的な形態を纏うことによってである(価値憑依体をここでは価値と呼び、属性としての価値、大きさとしての価値量だけでは、不完全だと言っている)亜麻布の価値を、ある実態において表現する必要がある(憑依される実態だ)。この価値の実態は、亜麻布とは物的には異なる物であり、しかも他の商品とも共通したものである。この課題は既に解決されている(不可解な文章。まるで貨幣がその解決策だといっているようだ。それでは、単純な価値形態のじてんでは、亜麻布も上衣も、完全な形で価値・価値物ではないことになる、それとも全商品の価値としてはという意味だろうか?)。
・亜麻布との価値関係において上衣は亜麻布と質的に等しいものとして、同じ性質のものとして表現されているのは、上衣が価値を示すものだからである。ここで上衣は価値が姿を現すものとして、価値が手でつかめるような自然の姿をあらわす物として機能しているのである。ところで上衣は上衣という商品の身体であり、たんなる使用価値である。一枚の上衣も、任意の長さの亜麻布も、それ自体では価値を表現しない。ここからあきらかになるのは、上衣は亜麻布との価値関係の内部では、外部でよりも多くの事を意味しているということである。それは礼服として、飾り紐つきの上衣を着用した人間が、それを着用していない時よりも、多くの事を意味しているのと同じである。
〈価値身体〉p69
・人間の生産においては、実際に縫製労働という形で、人間の労働力が支出された。だから上衣のうちには、人間の労働が蓄積されているのである
(これが認められるのは、他の商品と交換さることを前提としている。無用の労働は労働ではない。人間の発話や身振りは、何らかの意図を含んでいるが、外国語を聞いたり、まったく疎通できないようなジェスチャーをみたりして、意味がつかめない場合は、その意図もわかりようがなく、お互いの言語の世界からは排除される)。
この観点から見ると、上衣は価値の担い手である。上衣は亜麻布との関係ないで、この側面だけにおいて、身体を持った価値、価値身体としての役割を果たす。
上衣がよそよそしい姿で登場したところで、亜麻布は上衣の内に、同じ生まれの美しい価値という魂がそなわっていることを認めたのである。
・それでも上衣が亜麻布に対してその価値を表現するには、亜麻布にとっての価値は上衣という姿を取っている必要がある。個人Aが国王である個人Bに恭しくふるまうことができるのは、個人Aにとって陛下という称号が、同時にBの肉体の姿を取っているからである。そして陛下の顔つきも、頭髪も、その多くの特徴も、国王が変わるたびに新たなもおとなるからである
・上着が、亜麻布の等価物として登場する価値関係においては、上衣の形態が価値形態として機能する。だから商品としての亜麻布の価値は、商品としての上衣の身体によって表現される。
『商品の価値は、他の商品の使用価値で表現される。』
・使用価値としては、亜麻布と上衣はことなる。しかし価値として考える限りは、亜麻布は上衣と同等なものであり、上衣とおなじように見えるのである。
だからこの価値関係においては、亜麻布は、その自然の形態とは異なる価値形態を受け取るのである。亜麻布の価値としての存在は、亜麻布が上着と同等の価値をもつとされることで姿を現す。
(場所とその場所に収まる存在との取り違え、商品の主体的な表現を取り違えることと、二重の取り違えがある)
商品語p70
・このように、亜麻布が他の商品、例えば上衣と関わりを持つようになると、私達(マルクスだけではない)の商品の価値の分析でこれまで語られてきたのと同じことを、亜麻布自らが語りだす。
・ただし亜麻布は自分の考えを、自分が語る事の出来る言葉、すなわち商品語で、ひそかに漏らすだけである(人間にはばれたくないから、商品語というときに、これは亜麻布の実際の表現である)。
・私達は「人間労働という抽象的な特性を持つ労働が、亜麻布の価値を作り出す」と表現するが(価値形態論なしの時点でのマルクスだし、アダムスミスもだ、そしてこれはある意味では事後的に見出されるものだ)、亜麻布はこう語るだけである。
「上衣は、亜麻布と等価なものとされるかぎりで価値であり、亜麻布と同じ労働によって作られたのである」(この時点では亜麻布は、上着が絶対的な王ではないことを知っている)。
・そしてわたしたちのように「亜麻布の崇高なる価値の実態は、亜麻布のごわごわした身体性とは異なる」と語る代わりに(これは、取り違えた後の価値形態を外見から分析したマルクスの視点、または価値の実態として貨幣を考えている人間か)
亜麻布は「価値は上衣として姿を現し、価値物としての亜麻布は、一つの卵が他の卵と区別できないように、上衣と同じものである」(これは、上着が絶対王者となる前段階、亜麻布と上衣の関係ないでのみ、二人は同じであるという段階)と語るのである。
・価値関係に媒介されることで、商品Bの自然の形態が商品Aの価値形態になる。あるいは商品Bは商品Aの価値鏡になると言うべきかもしれない。
・商品Aは、価値身体であり人間労働を受肉した商品Bと関わることで、使用価値である商品Bを、みずからの価値を表現する材料にするのである。(鏡なので逆から読んでいる?)、商品Aの価値は、このようにして、商品Bの使用価値で表現されることで、相対的価値形態をもつのである。
b相対的価値形態の量的な規定p72
価値形態の表現するもの
・価値が表現されるべき全ての商品は、特定量の使用対象である。例えば15ブッシュルの小麦、100重量ポンドのコーヒーなどである。この与えられた商品の量には、特定の量の人間労働が含まれている。だから価値形態は価値一般だけでなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさを表現していなければならない。
・亜麻布と上衣の価値関係においては、上衣という種類の商品が、価値身体一般として、亜麻布という商品に等置されるだけではない。一定量の亜麻布(例えば20ヤード)にたいして、特定の量の価値身体または等価物(例えば上衣一枚)が等値されるのである。
・この等式「20や0度の亜麻布=一枚の上衣のうちに、20ヤード亜麻布と同じ量の価値実体(労働)が潜んでいることを前提としているのであり、この二つの商品の量には、同じだけの労働あるいは同じだけの労働時間が費やされることを前提としているのである。
・ただし20ヤードの亜麻布あるいは一枚の上衣を生産するために必要な労働時間の長さは、縫製労働や織物労働の変動に伴って変動する。そこでこのような変動が、価値の大きさの相対的な表現に及ぼす影響について詳しく考察する必要がある。
片方の価値が一定の場合p73
・20ヤード亜麻布=上衣一枚
亜麻布を生産するのに倍の労働時間がかかるとすると、亜麻布の価値が上がるため、上の式は以下のようになる。
20ヤード亜麻布=上衣2枚となる。逆も然りである。
商品Aの相対的な価値、すなわち商品Bで表される商品Aの価値は、商品Bの価値が一定の場合には、商品Aの価値に正比例して増減する。
(価値物であり価値そのものである上衣との関係で、亜麻布の価値が表れる)
・上衣の価値が変動する場合、上衣の生産力が上がり、価値が半分になると以下になる。
20ヤード亜麻布=上衣2枚
だから商品Aの相対的な価値は、等価物の価値の変動に反比例する。
両方ともに変動する場合p75
疲れたので省略、このように、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的な表現にも、相対的な価値の大きさにも、一義的に反映されることはないし、あますところなく反映されることもない。ある商品の相対的な価値は、その商品の価値が一定であっても変動することがありうる。その商品の価値が変動しても、その相対的な価値が一定のままでありうることもありうる。さらに商品の価値の大きさと、この商品の価値の大きさの相対的な表現の両方が同時に変動したとしても、この二つの変動が一致しりとは限らない。
三 等価形態p76(さらに最重要、そして意味不明)
価値等価物のはたす役割
・上衣のような商品が、亜麻布のような他の商品にたいして等価物として役立つとしても、そして上着が亜麻布と直接に交換できることをしめす形態をそなえるようになっても、それにより、上衣が亜麻布と交換される実際の比率が与えられることは決してない。亜麻布の価値は与えられているのだから、この交換比率は上衣の価値の大きさにより決まるのである(いつ亜麻布の価値は与えられたんだ? p66の他方でこの関係において亜麻布は、独自の価値を持つ者であることが明らかになり、の部分だろうか、つまり二商品が等置された段階で価値という属性は生まれ、後は自動的にそれに応じた量となるということだろうか)。
・上衣が価値等価物となり、それで亜麻布の相対的な価値が表現されるか、亜麻布が価値等価物となり、それで上衣の相対的な価値が表現されるかにかかわらず、上衣の価値の大きさは、その商品を生産するために必要な労働時間の長さによって決定される。したがってその価値形態とは独立して決められるのである(一体何の話だ? 価値という属性は交換関係から生じるのではないのか? いやここではその価値形態とはといっているから、おそらくどのポジションでも、という意味だろうか)。
・しかし上衣という商品の種類が、価値表現において等価物の位置を引き受けた途端に、上衣の価値の大きさは、価値として表現されることはなくなる。この商品の種類は、価値の等価関係をしめす等式においては、ある一定量の物の大きさを示す機能をはたすだけなのである。
・価値等価物は、価値の等式においてつねにある物やある使用価値のたんなる量の形態を示すだけなのである。ある商品の等価形態は、決して価値の量的な規定を含まないのである(上衣はその身体で価値そのものとなり、あくまで亜麻布20ヤードの価値を表す、上衣が価値そのものとなる)。
等価形態の第一の特性p78
・上衣の使用価値という自然形態が、その反対物の価値の現象形態(亜麻布の)になるということである。
・ここで注意が必要なのは、この一の交換は、ある商品Bにとっては、その商品にたいして他の任意の商品Aが向き合う価値関係の内だけで発生するということである。
度量衡の実例
・角砂糖の思さをはかる時に、一定の重さの鉄と比較することでそれが出来る。
その際鉄は身体形態としては、重さの現象形態ではない。しかし角砂糖の重さお表現するためには、両社は重量関係に置かれる。この関係において鉄は、重量のほかに何も表現しない。角砂糖の重さを図る尺度、重量の現象形態を代表する。
前記の価値表現においては、上衣の身体が亜麻布にとって、価値だけを代表する。
(しかし重量は自然の属性であり、価値は社会的属性だ)
等価形態の謎
しかし類似しているのもそこまでである。鉄は角砂糖の重量表現において、両方のぶっつたいに共通の自然の特性、重さを代表する。
しかし上衣は亜麻布の価値表現において、二つのものの自然の特性ではなく、超自然的な特性、価値を代表するのであり、この価値は純粋に社会的なものなのである。
(価値は社会関係がない場合存在しない)
・ある商品、例えば亜麻布の相対的価値形態は、その価値の存在をその物体の徳性とは全く異なるものとして、例えば上衣に等しいものとして表現する。このことによってこの表現そのものが、社会的な関係を含んでいることが暗示されているのである。
・等価形態については逆のことが言える。上着のような商品体は、その者が物であるかぎり価値を表現しているにであり、生まれつき価値形態を備えている。そしてまさにこれによってこの等価形態が成立するのである。たしかにこれは、商品としての亜麻布が、等価物としての上衣に関連付けられる価値関係の内だけで成立する。しかしある物の特性は、他のものとの関係によってうまれるのではなく、そのような関係の中で確認されるだけであるから、上衣もまた、重みがあるとかの特性と同じように、等価形態、すなわち他の商品と直接に交換できるという特性を生まれつき備えているようにみえる。
ここに等価形態の謎めいた特徴がある。
等価形体の第二の特性
・具体的な労働(上着をつくる縫製労働)が、その反対物である抽象的な人間労働の現象形態となることである(これは亜麻布のではなく、両方の。上着は価値を表現はされないが、価値を表現するためには、縫製労働は、抽象的労働の現象形態である必要がある)。
等価形態の第三の特性p83
・しかしこの縫製労働という具体的労働が、無差別な人間滝ふぉうの単なる表現になることによって、この労働は亜麻布の内に潜む労働と同等な形態を備えることになる。そのためこの労働は、さまざまな商品を生産する他の全ての労働と同じように、私的な労働でありながらも、直接的に社会的な形態をそなえた労働となる。
そのためにこの労働は、他の商品と直接に交換できる或る生産物のうちに自らを表現するのである。
アリストテレスの分析p84
・アリストテレスは、商品の貨幣形態は、単純な価値形態が発展して生まれた物であることを明快に指摘する。
5代のベッド=一軒の家
5台のベッド=ある量の貨幣
・「同等性なしでは交換できない。同等性は通約可能性なしにはありえない」
・アリストテレスには価値概念が欠如している。共通のものは人間労働である(そして通約性が価値である)。
・この分析が初めて可能になるのは、商品形態が労働生産物の一般的形態となる社会においてである。
四 単純な価値形態の全貌 p87
使用価値と交換価値
・ある商品の単純な価値形態は、異なる種類の商品との価値関係の内に、あるいは交換関係の内に、示されている。
・商品Aの価値は、商品Bが商品Aと直接に交換可能であることのうちに、質的に表現されている。
・商品Aの価値は。特定の量の商品Bが、与えられた量の商品Aと交換可能であることの内に、量的に表現されている。
・言い換えると、ある商品の価値は、それが「交換価値」として示されることで、自律的に表現されるのである。
・これまでの分析から、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生まれるモノであって、その反対に価値と価値の大きさが、商品を交換価値として表現することから生まれるものではないことが証明された(どうやって? そしてこの文章だけを読むと逆に読める。これは、商品は最初から生産物の交換関係であり、それゆえに、価値は商品の本性であり、交換関係に置ける表面的な、なんらかの変動が価値を決めるというようなものではない、という意味だろうか?)
・価値が交換価値としての表現から生まれるのだというこの考え方は、古典的な重商主義者たちの妄想となってきたが、これは彼らとは対極にある自由貿易論の一派が抱いている妄想でもある(交換価値の比率それだけが価値なのでという考えだろう、マルクスは交換比率は価値というものの表現だといっているから、これは価格だけで良いと判断する経済学とマルクス等の比較だ)。
価値の内的な対立と外的な対立 89
・単純な価値関係において、商品Aの自然形態は使用価値の姿として働いているが、商品Bの自然形態は価値形態または価値の姿としてだけ働いていることが明らかになった。
・だから商品の内に秘められている使用価値と価値の内的な対立は、その外的な対立により、すなわち二つの商品の関係により表現される。
・この二つの商品の関係において、みずからの価値を表現すべき商品は、直接的には使用価値としてだけ働いており、それによって(相対的形態の)価値が表される他方の商品は、直接には交換価値としてだけ働いているのである。
・このように一つの商品の単純な価値形態は、そのうちに含まれる使用価値と価値の対立の単純な現象形態である。
・いかなる社会的な状況においても、労働の生産物は使用対象になる。しかし労働の産物が商品になるのは、止揚対象となる物品の生産に投入される労働が、その物品の「対照的な」特性として、すなわちその物の価値として表現されるような歴史的に規定された発展段階においてだけであり、このような段階において、労働の産物が商品にかわるのである。だから商品の単純な価値形態は、同時に労働の産物の単純な商品形態であり、商品形態の発展は、価値形態の発展と一致することになる。
単純な価値形態の成熟への道 p90
・この形態は不完全である。
・二商品の同等性は、他の商品との同等性を示すものではない。等価物としても、上衣は亜麻布に対してそうなだけであり、全ての商品に対応するわけではない。
・だからもっと完璧な価値形態に移行する。次の形態は相対的価値形態が、上衣の他にもいろいろな商品で自身の価値を表現する形態であり、単純な価値形態を連ねた物である。
B全体的な価値形態または展開された価値形態
一 展開された相対的価値形態

商品世界の市民
・亜麻布(の使用価値の)の価値を表す他の商品は、どれも価値鏡になる。
・これにより初めて、無差別な人間労働が凝固したものとして価値は現れる。亜麻布の価値を形成する労働が、他の全ての種類の人間労働と同等な労働として、明確に表現されるからである(では、亜麻布に相対する、それぞれの商品ごとの、差異はないのか、ないらしい、しかしこれは亜麻布との関係の中だけでということか、いやあくまで亜麻布の価値をつくる労働だけが、ここでは市民権をえいる、他と同等であるといっているにすぎない、だからたの商品をつくる労働は、いまだに均一な抽象的労働にはなっていない)
・亜麻布は商品として、この商品世界の市民である(王ではない、これだけ、他の商品にたいして優位な関係に見えるのに一市民だ)。同時にこの商品の価値の表現が、無限の系列のうちにあるため、その商品価値が表れる商品の使用価値がどのように特殊な形態で亜往路もどうでもよい。
・第一の[単純な価値]形態は20ヤードの亜麻布=一枚の上衣であった。この形態では、二つの商品が特定の比率で交換されるのは偶然的な事実であるかもしれない。
・しかしこの第二形態では、偶然的な現象とは根本的に異なる現象が登場し、その現象を規定する背景が明らかになる。亜麻布の価値は、たのどの商品で表現されようと、つねに同じ大きさである(ということは、やはり、等価物ごとの価値の差はない、ここは僕の前提と違う)。
・偶然的な姿は消え、交換が価値の大きさを決定するのではなく、価値が交換比率をけっていする(しつこいが価値として統一された後にだ)
二 特殊な等価形態
しかし使用価値としては、その労働としては、等価物はそれぞれ、異なる物である。(そして、この特殊な身体が、そのまま等しい、価値物として、同じ価値を表現しているのであり、ここにはやはり差異がある。ここは重要だろう)
三 全体的な価値形態または展開された価値形態の欠点
3つの欠点
①この商品の相対的な価値表現は不完全である。表現する等価物の系列は無限であり完成することがない。
②この連鎖は、バラバラの異なる種類の価値表現の多彩なモザイクのようなものにすぎない。
③これはつねに起こることだが、どの商品の相対的な価値もこの展開された形態で表現されるようになると、全ての商品の相対的な価値形態が、他のどの商品の相対的な価値形態とも異なる価値表現の系列となり、これは終わりがなくなる。
(つまり、展開された価値形態は、亜麻布だけではなく、商品の数だけ存在する。その商品一つ一つが市民であり、それは潜在的には、無限であるといっている。)
展開された相対的価値形態のこれらの欠点は、それに対応する等価形態のうちでも明らかになる。それぞれの個別の商品の種類どれについても、その自然な形態は、たの特殊な価値形態と並ぶ、たの特殊な等価形態に過ぎないのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけで、そのうちでは、それぉれの等価形態は他の等価形態を排除するのである。
それと同じように、それぞれの特殊な商品等価物のなかに含まれる特定の具体的で有用な労働の種類も、人間労働の特殊で、したがって尽きる事のない現象形態に過ぎない。たしかに人間労働は、こうした特殊な現象形態の全体の領域のうちでは十全で完全な現象形態を備えているだろう。しかしそれでは人間労働が統一的な現象形態をもつことはないのである。(僕は、二商品の単位、それぞれに特殊な価値があるから、それによりシニフィエが生じると考えたが、そうでないようだ。価値は全商品で同じ属性なのだ。だから差異があるとしたら。それは価値が憑依する等価物の使用価値のうちにある。またこれで確認できたが、この展開された形態、そしてその無限個数、これらはお互いに関係できないし、この段階では、価値は一つの属性として成立していない)
普遍的な形式へ p95(ここが山場だ)
・第二形態は、第一形態の総和に過ぎない。
20ヤード度亜麻布=一枚の上衣
20ヤード亜麻布=10重量ポンドの紅茶
これらはどれも上下を逆転した等式を含んでいる
一枚の上衣=20ヤードの亜麻布
10重量ポンドの紅茶=20ヤードの亜麻布
・実際、ある人が自分の亜麻布を他の多くの商品と交換することによって、亜麻布の価値を一連の他の商品で表現するならば、他の多くの商品所持者もまた必然的に、自分達のもつ商品を亜麻布と交換することで、自分達のもつ商品を亜麻布と交換することで、自分たちのもつ異なる商品の価値を、亜麻布という第三の同じ商品によって表現するに違いない。だから20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、または=10重侶ポンドの紅茶、または=その他の商品という系列を逆転させて、この系列の内に実際に含まれていた逆の関係を表現してみると、次のような一般的な価値形態が得られる。
・引用、あっさりしすぎで、しかも疑問の残りまくりな文章だ。疑問点をもう書いておこう
①相対的な価値形態には、亜麻布だけではなく、他の商品もなりうるはずだ。市民なのだから。しかしここではそれはどこへいったのか。市民であることをあきらめて、自身はたの無限の商品を等価物として、自身の価値を表す形態はそんざいしなくなるのか
②亜麻布と他の商品の交換関係として、上の説明は理解できる。この場合、たしかに、亜麻布の所持者にとっては、他の商品は等価物である。そして他の商品所持者たちには、自身の商品が相対物で、亜麻布が等価物である。それはよい。ようは価値形態は、現実の交換関係として、必然的に、等式を逆にしたバージョンも同時に成り立つということだ。しかしマルクスは、これについて明らかにここまでは説明していない。
③以上より、二つの可能性が出てくる。それは他の全ての商品たちは、自身の展開された価値形態を諦めて、それがはなから成立していないから、亜麻布だけが第二形態をもつというもので、もう一つは第二形態は、無限に存在する、その関係の中から、第三形態が得られるというものだ。
④とりあえず、ここまでの部分では、マルクスは、あくまで亜麻布の第二形態だけの関係を持って、第三形態の説明をしており、判別不能。
⑤ただし、例えば上の亜麻布が、これが古代において唯一皆がほしがる商品であり、それにより、交換の媒介物として、定着し貨幣になるとしよう。(そしていま思えば、この欲しがるというところがポイントだろうな、これがあきらかに投影と関係してくる。まず欲望の対象であること、また何らかの価値基準のメンバーであること、しかし皆がほしがるゆえに、みなは、またほしくなる、社会関係がここにはある。
貨幣となる黄金は社会関係を己に内在させる、また時系列をゆがめる。貨幣に社会関係が付着するのは、その他の商品の行為の結果なのだが、それを最初から貨幣の力だと錯覚させる。貨幣が貨幣なのは、流通するからだ、というような話ではない。なぜ流通するかが問題だ。そこに欲望されるものを人は欲望するという性質があるはず。そしてさらに一応はその物自体が欲望されるものでなければいけない。亜麻布は欲望されるものだ。しかしここでは僕にはまだわからないことが多い、この欲望や投影については、単純な価値形態と関連して考えた方がいいかもしれない)
C一般的な価値形態

一価値形態の性格の変化
・単純で統一的な形態である。
(おそらくだが、亜麻布が、他の商品にたいして、交換関係にある段階、第二形態が成立した時点では、歴史的な流れとしては、まだこの一般的な形態は存在しないと思われる。亜麻布がたの商品との関係をむすび、他の商品たちが、亜麻布が交換素材として、自分たちの関係を結ぶのに優れていると踏んだ段階で、亜麻布は貨幣になるはずだ、微妙にたいむらぐがあるだろう)
第一と第の二形態の欠陥p98
・第一と第二の形態は、どれも一つの商品の価値を、それに固有の使用価値とは異なるもので表現するという目的に為だけにやくだったのである(だから価値は、相対的形態の亜麻布の価値としての性質としての、一般性でしかないわけだ)
・第一の形態は、一枚の上衣=20ヤードの亜麻布、10重量ポンドの紅茶=0.5トンの鉄等、の等式を作りだした。この等式では上着の価値が、亜麻布の価値と等しいものとして示され、紅茶の価値が鉄の価値に等しいものとしてしめされた。しかし上衣が亜麻布と同等であり、紅茶が鉄と同等であることをしめすこの価値表現は、亜麻布が鉄と違う者であるのと同じように、互いに違うものである。この形態は、偶然でその場限りの交換によって、労働の生産物が商品に代わるごく初期の段階に登場するにしぎないのは明らかである。
・第二の形態は第一の形態よりも完全な形で、ある商品の価値をその商品に固有の使用ks地から区別する。そのためにこの形態では、たとえば上着の価値を亜麻布と同等なもお、鉄と同等なもの、紅茶とどうとうなものなどとして、上衣そのものと異なる全ての商品と同等な物として示すのであり、これらの商品は考えられる全ての形態において、上衣の自然の形態と対比される。
・他方でこの形態では、複数の商品の価値を共通して表現する方法は、全て直接的に排除されている。というのはこの価値の表現方法で、ある商品の価値を表現するたびに(相対的形態の)、他の全ての商品は等価物の形態としてだけ登場するからである。この展開された価値形態は、ある労働の産物、例えば家畜が、もはや例外としてではなく、習慣に基づいて、様々な別の商品と交換されるようになる段階で登場する。
第三の形態の特徴p99
・新たに与えられた第三の形態では、商品世界のさまざまな商品の価値を、商品世界から排除されたただ一つの同じ種類の商品、たとえば亜麻布で表現する。だから全ての商品の価値は、亜麻布と同等であることによって表現されるのである。
亜麻布と同等であることで、それぞれの商品の価値はそれに固有の使用価値から区別されるだけではなく、他の全ての使用価値からも区別される。
それによってそれぞれの商品の価値は、この商品ともあの商品とも共通なものとして表現されるのである。この形態に至って初めて、様々な商品が互いに価値として現実に関係し合うようになるのであり、それらをたがいに交換価値として登場させるのである。
・それ以前の二つの形態では、一つの商品の価値をそのたびごとに表現する。ここの商品はいわば個人の都合として自らに価値形態を与えるのであり、それぞれの商品は他の商品の手助け無しで、これを行うのであり。他の商品はそれぞれの商品に対して、等価物となるだけであって、ここでは単なる受動的な役割を果たしているのである。
・これとは反対に、一般的な価値形態は、商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。ある商品が一般的な価値表現を取得するのは、同時に他の全ての商品がみずからの価値を、同じ等価物で表現するからである。
・さまざまな商品の価値の実態(これは、貨幣のことだ、そして取りつかれるのがここではまだ亜麻布だ)とは、これらの物の単なる[社会的な在り方]なのであって、様々な商品の全面的な社会的な関係によってしか表現しえないということであり、商品の価値形態は、社会的に妥当な形態でなければならないということである。
・この亜麻布と同等なものという第三の形態において、いまや全ての商品は、質的に同等な物、すなわち価値一般として登場するだけではなく、同時に量的に比較可能な価値の大きさとしても登場する。全ての商品がいまやその価値の大きさをただ一つの同じ素材で、すなわち亜麻布で表現するので、これらすべての価値の大きさもたがいに他の価値を行原始合うようになる。たとえば10重量ポンドの紅茶=20ヤードの亜麻布であり、40重量ポンドのコーヒー=20ヤードの亜麻布であるとすると、10重量ポンドの紅茶=40重量ポンドのコーヒーになる。あるいは1重量ポンドのコーヒーの中には、1重量ポンドの紅茶の四分の一の価値実体すなわち四分の一の労働しか含まれていないと考えられるようになる。
一般的な等価物と人間労働
①他の商品が亜麻布を排除して、等価形態をおしつける。亜麻布の自然形態が、商品世界に共通する価値の姿になる。
②だから亜麻布は、直接交換性を持つ。
亜麻布の身体は、全ての種類の人間労働が受肉したキリストのパンであり、人間労働が一般的で社会的な蛹のようなものに化身したものである。
③亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的な形態を帯びて、他の全ての労働と同等
性という性格をえるようになる。一般的な価値形態を作りだした無数の等式は、亜麻布の内に実現された労働を、他の商品の内に含まれる労働と次々に等置することによって、織物労働を人間労働一般の一般的な現象形態ろするのである。
・このようにして商品価値のうちに対象化された労働は、現実的な性質を無視されたものとして消極的に表れる。積極的な性質として、この労働は全ての現実の労働を、それが人間滝御堂であるという共通した正確に還元する。
・この一般的な価値形態は、様々な種類の労働の産物を、無差別な人間労働が凝固したものとして表現する。そして自らの構造によって、それが商品世界の社会的な表現であることを明らかに示しているのである。
これによってこの一般的な価値形態は、この商品世界の内部では、労働の一般的で人間的な性格が、それに固有の社会的な性格を作り出していることをあらわにする。(これは、取り違えだ)
二 相対的価値形態と等価形態の発展関係p102
相対的価値形態と等価形態の対立
(この二つの対立とは、その関係の固定という意味だろう)
・相対的な価値形態がどの程度まで発展するかに応じて、等価形態の発展段階が決定される。ここで注意すべきことは、この等価形態の発展は、相対的な価値形態の発展の表現であり、結果に過ぎないということである。
・単純な価値形態では、亜麻布=上衣という対立であるが、これは逆転可能であり固定化されていない。
・第二形態では、そのつど、ただ一つずつの商品の種類が、みずからの相対的な価値を全体的に展開できるに過ぎない。その商品が展開された価値形態をもつのは、他の全ての商品がその商品にたいして、等価形態にあるからである。この第二段階ではもはや、等式の二つの極を逆転させることはできない。この等式は20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、または=10重量ポンドの紅茶、または=1クォーターの小麦のようになっているのであり、これを逆転させると、等式の全体的な性格が変わってくるだけでなく、それを全体的な価値形態から、一般的な価値形態に転換しなければならなくなる。
(第一と第二は違う。第二は第二であるためには逆転不可能)
・最後の形態である第三段階に至ってついに、商品世界は一般的で社会的な相対的価値形態を手にすることになる。それはただ一つの商品を除いて、この商品世界に属する全ての商品が、一般的な等価形態から排除されるからであり、その限りにおいてである。だからある商品、たとえば亜麻布が他のすべての商品と直接的に交換可能な形態を、すなわち直接に社会的な形態を帯びるのは、他の全ての商品がその形態をおびないからであり、その限りにおいてである。
・一般的な等価物の相対的な価値を表現するには、この等式をひっくり返さねばならない。するとこの一般的な等価物である亜麻布は、たの商品と共通な相対的な価値形態をしめすのではなく、たんの全ての商品身体の無限の系列の内で、自らの価値を相対的に表現する。これは、第二形態の展開された価値形態の等式であり、そこにおいて等価物商品の特殊な相対的な価値形態が表現されるのである。
(まず、展開された形態としては、可能性としては・理論としては、全ての商品がこれを持てる。この形態は、自身以外を、自分の表現材料にできるから、ようは優位な形態である。これは可能性としては平等だが、実際の現実としては、ある商品が第二形態で、相対的形態にいる時は、他の全ての商品は、特殊な等価形態におかれるしかない。だから複数の相対的形態が可能性として、しのぎをけずるという理論的な過程と、現実には齟齬がある。あくまで理論の上では、可能性としては、全ての商品が第二形態の相対的価値形態に立ちうる。しかし現実としては、本書の例では亜麻布が、その位置にたちそれが固定されていくはずであり、特権的な相対的価値形態商品と、そのた等価物商品で別れる。この時点ではまだ第二形態で、しかし第三形態としては、等価物に甘んじていた商品たちが、逆に自らを相対物にしようとするために、この関係を利用して、等式を逆にして、特権的な相対物を自分たちの世界から排除する。すると亜麻布は、等価物となるが、これは一般的な等価物なので、結局はある種の権力を得る。まるで権力はないが、日本人の精神を規定している天皇のように、または殺された安倍首相)
しかし、上の理論は、結局はよくわからない。というのは、価値とはなにかよくわからないからだ。人間で例えると、これは投影だろう。リーダーをみこしにして、人々が同一化する。典型的な父の名だ。この場合、人々が、誰かを自分達から排除して、神の如くあがめて、その人と同一化した後で、横の関係として、自分たちが同一化していく。
しかし、その前に、商品世界の共同作業として、まずある商品を排除しているのだから、まとめやくがいないと孤立した人々のあいだにも、なんらかの共同作業がないとおかしいのではないか。
それに理論的には、全ての商品が相対的な形態に立ちうるはずであり、人々はそれにどう折り合い付けるのか、それは同一化だろう。ということで投影とか同一化だとか、いってみたところで、その意味が解らないからこまるよ。
それとも逆なのか。全ての商品は、願望として、相対的形態を取る。そしてそのなかの、一等価物である亜麻布だけを、みなが自身から切り離す? うーんわからないな。
三 一般的価値形態から貨幣形態への移行
貨幣としての金の登場
・一般的な価値形態は、価値一般の一つの形態である。だからどんな商品も、この価値形態をとることができる。他方で、一つの商品が第三形態の一版的な価値形態をとることができるのは、それが他の全ての商品によって、等価物として排除された時に限る。
・そして排除されるのがある特別な種類の商品にだけ決定的に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態が、客観的な固定制を取得し、一般的な社会的な通用性を取得したのである。
・第二形態では、亜麻布の一つの特殊な等価物として機能していたさまざまな商品のうちの一つである商品が、そして第三形態では、それぞれの相対的な価値を共同して亜麻布によって表現されていた様々な商品の内の一つである商品が、この優先的な地位を歴史的に取得した。この商品とは金である。だから第三形態で、商品の亜麻布のかわりに金(黄金の事だ)を置くと、次のように表現できる。
C貨幣形態

(ということは、第二形態の相対的形態、第三形態の等価形態は、理論的には全ての商品がなれる。だが原理的に可能性としてなれるだけで、理論の実際として、一つのこれらの形態が成立するさいには、他のものは排除されて、第二の等価形態、第三の相対的形態におかれる。
そして、現実には、いきなりただ一つの一般的等価物が貨幣になるのではなく、複数の貴金属等の貴重な商品のせめぎあいがあるということだ)
第四形態の特徴p108
・第一から第二に移行する際、第二から第三へ移行する際、それらは本質的な変化が発生していた。しかし第三形態から、第四の貨幣形態の移行は、商品が変わる意外に違いがない。一般的な等価形態が、いまや社会的な習慣によって、商品の金の特殊な自然の形態と最終的に癒着していることにある(だから考えるとしたら、複数の第二や第三形態から、たった一つの商品に、それが癒着するその移行理論だ)
・金は他の商品と貨幣として向き合っているが、それは金がそれまで他の商品と、商品として向き合っていたためである。
・金もまた他の全ての商品と同じように、等価物として機能していた-個々の交換において別個の等価物として機能していたし、他の商品等価物と並んで特殊な等価物として機能していたのである。
・しかしやがて金は、狭い範囲であるか広い範囲であるかを問わず、一般的な等価物として機能するようになっていった。ついに金が商品世界の価値表現のうちで、独占的な等価物としての地位を取得すると、貨幣商品となったのである。
・ある商品、例えば亜麻布の単純な相対的な価値表現を、すでに貨幣商品として機能している商品(例えば金)によって表現すると、これは価格形態になる。
20ヤードの亜麻布=2オンスの金
そして金貨幣がポンドという名前で呼ばれるならば、次のようになる。
20ヤードの亜麻布=2ポンド
脚注18価値鏡について
ある意味では、人間でも商品でも同じことが起きている。誰もがまず他人を鏡として自分を映し出してみるものである。人間ペテロは、自分と同類の人間であるパウロとの関係によって、はじけて人間としての事故自身と関わるのである。そしてペテロにとってパウロは、その被虐と髪を備えたパウロとしての引退のままで、人間という〈類〉が現象する形態としての意味を持っているのである。
種が単体で、その集合であるはずの類として現れてくる。
つまり、その人間全体、一般性全体、この類が価値だ。
第4章 商品のフェティッシュな性格とその秘密 p119
商品の妄想
・テーブルは感覚的な物であるだけでなく、超感覚的な物にかわってしまう。テーブルは4本の脚で床の上に立っているが、他の全ての商品に対しては頭で逆立ちをしているのである。そして、テーブルはその機材の頭の内で、奇妙な妄想を繰り広げる。(どういう意味だ?、他の全ての商品は使用価値であるが、自分だけは価値=抽象労働の産物としてだけ向かい合うということか? 神秘的な性格自体の説明があいまいすぎる。 しかしこれは、それぞれの商品は第二形態として、相対的価値物として、他の使用価値である等価物と向かい合うということかもしれない。それとも逆か)
商品の神秘的な性格
・商品の神秘的な性格は、その使用価値から生まれるものではないし、その価値規定の内容(労働のことだ)から生まれるものでもない。なぜならば第一に、有用な労働や生産的な労働はたしかに多様なものではあるだろうが、こうした労働が人間の有機体の働きであるということは生理学的な事実であり、こうした働きはすべて、その内容や形式がどのようなものであろうと、本質的に人間の頭脳、神経、筋肉、感覚器官などが利用されたものだからである。
・第二に、価値の大きさを規定する根拠は、こうした労働が投入された時間の長さであり、労働の量であるが、こうした労働の量は感覚的にも、労働の質とは明確に異なるものである。人間の生活手段の生産に必要な労働時間は、社会の発展段階に応じて異なるものであるが、いかなる状況においても、人間はこれに関心を持たざるを得ないのである。
・最後に、人々が何らかの形で互いに他人御ために働かざるを得なくなると、ただちに人間の労働は社会的な形態を帯びるようになる。
・それでは、労働の生産物が商品の形態をとると同時に生まれるこの謎めいた性格は、どのようにしてはっせいしたのだろうか。あきらかにこの商品形態そのものから生まれたのである。
・さまざまな人間労働は、抽象的な人間労働としては同等な物であり、その同等性はさまざまな労働の生産物において、同等な価値の実態という物体的な形態をとる。また人間の労働力の持続時間で測定した労働の投入量の尺度は、労働の生産物において、価値の大きさという形態をとる。
最後に、生産者たちの関係は、労働の生産物において、価値の大きさという形態をとり、ここにおいて生産者たちの社会的な規定が確認される。
だから商品形態の秘密とはたんに次の事である
すなわち人間はこの商品という形態を目にすると、自分たちの労働の社会的な性格が、あたかも労働の生産物の対照的な性格でもあるように、いわばこれらの物に自然にそなわった社会的な性格でもあるかのように、思われてくるのである。
商品のフェティッシュな性格p123
人間の私的な労働は社会的な労働の全体の一つの部分を構成するものとして認められるのは、交換によって労働の生産物が互いに関連し合い、そしてこの労働の生産物を媒介にして、生産者たちが互いに関連し合うからである。だから生産者たちには自分たちの私的な労働の社会的な関係は、あるがままのものとして現れる。すなわち、労働する人格が直接的に他の労働する人格と作り出す社会的な関係としてではなく、人格の物的な関係として、また物と物との社会関係として現れるのである。
(だからただ人間同士の関係が、商品関係に投影されるというようなただの思い込みの関係ではない。じっさいに人間関係自体が、商品関係としてのみ成立するようになる社会である。ただ人間は、商品関係ではなく、商品そのものの使用価値にこれがあると投影する。これは、価値という社会関係が等価物の使用価値で表現されることで、かえって相対物はその等価物を価値そのものとして思い込むのと憧憬である。または第二形態において、相対的形態の亜麻布にたいして、他の商品たちがそれぞれ等価物となり、全体として亜麻布の価値そのものとして現れる。これと関係がある、人間は商品関係と自己を同一視する。これは現実であり行動の上でだ、さらにそれをとらえ返す際には、ある商品たちがそれぞれに、価値を内蔵しているように、社会関係を個別に内蔵している用に見える。)
商品フェティッシュとは、商品の妄想ではあるが、人間は商品をおとしてかんけいするから商品の妄想は人間の妄想でもあるわけだ。だからこの章は、結局は人間の妄想について語っている。価値という関係属性とその関係性の間だけで通用する商品の価値を、その関係をわすれてここの商品にそもそも内在すると思うわけだ。ここではある価値関係における価値というのを話売れてはいない。そうではなくて価値という属性が、既出だとおもうわけだ。価値は交換により出来るのに、それを見ないで、最初から暗黙に貨幣のある世界を考えたうえで、商品の価値をみる。
この妄想はアダムスミスのものであり、それがさらに進むと使用価値=価値があるという効用価値説になる。
私的な労働の二重性
・有用な生産物が交換を目的に生産されるような段階において、生産者たちの私的な労働は、二重の性格を帯びるようになる。一つは社会的欲望を満たす有用労働である。もう一つは他者の私的な労働と交換できる社会的に同等な性質の労働であるということだ。
・私的な生産者は頭の中で、自分たちの私的な労働がこのような二重の社会的な性格をもつことを、実際の取引において、生産物が交換されるときに現れる形だけで思い浮かべる。そして自分たちの私的な労働の社会的に有用な性格を、労働生産物は有用なものでなければならず、しかも他人にとって有用でなければならないという形で思い浮かべる。すなわちさまざまに異なる種類の労働が同等なものという社会的な性格を手に入れることを、素材として異なるこれらの労働の生産物に共通した価値がそなわるという性格として思い浮かべるのである(価値という属性はまだない、それを先に商品の使用価値に内在すると思い込む)。
社会的な象形文字路しての商品
だから人間が、みずから作り出した労働の生産物をたがいに価値として関係づけるのは、これらのものが同様な人間労働をたんに覆い隠している物品として通用するからではない。その正反対なのである。人間が、それぞれの異なる生産物を交換しながら、それらをたがいに価値として等置するからこそ、彼らは自分たちの異なる労働を、互いに人間労働として等置するのである。生産者たちはこのことを意識してはいないが、実際にはそのように行動しているのである。
価格の決定 p128
この比率(交換比率)が慣習によって一定の値に固定されるまで成熟してくると、この比率はあたかも労働の生産物の本性から定められたかのように思われてくる。例えば1重量ポンドの金と1重量ポンドの鉄は、それぞれに物理的な特性も科学的な特性も異なるのに、おなじ重さである。これと同じように、1tの鉄が2オンスの金と同じ価値を持つように見えるのである。
しかし実際には、労働の生産物の価値としての性格は、それぞれが価値の大きさとして認められることで初めて決定される。この価値の大きさは、生産物を交換する人々の意思や予測や行動とは独立して、絶えず変動する。生産物を交換する人bとの社会的な動きは、彼らには物の動きのように思われるのであり、彼らはこの物の動きを成業するどころか、この物の動きに制御されるのである。
私的な労働は、たがいに独立しておこなわれるものの、社会的な分業の以前はっつぇい的な一部を構成する労働として、あらゆる面で互いに依存し合っている者であり、[その生産物の価値は]その社会にふさわしい比率の尺度に次第に収斂していくものである。私的な労働の交換比率は偶然的に決定され、たえず変動するものではあるが、その生産物を生産するために社会的に必要な労働時間の長さが[この比率を決定する上で]自然法則として、強い力で貫徹する。それは家屋が崩れるときには、重力の法則によって屋根がその家に住む人の頭に落ちてくるのと同じである。
商品の価値の貨幣形態の役割
・人間生活のさまざまな形態についての考察と、その学問的な分析は現実の発展とは反対の道をたどる。事後的なものであり、完成した結果から始まる。
・労働生産物に商品の刻印を押し、商品の流通の前提となっている生活形態が、すでに社会の自然な家歌いになったあとで、はじめてこの歴史的な生活ではなく、その内容を説明しようとする。歴史的な性格は、変えようのない千古万来のものだと人々には見える。
・上のようなメンタルで
商品の価格を分析することで、商品の価値の大きさが決定される。
商品に共通する貨幣表現を分析することで、商品の価値の性格が決定された。(これはアダムスミス等が、そう分析したという意味)
・ところがこのような商品世界の完成した姿である貨幣形態は、私的な労働の社会的な性格と、私的な労働者の社会的な関係を明らかにするのではなく、実際には物の形によってそれを隠蔽してしまうのである。
・わたしが、「上衣やブーツは、抽象的な人間労働が一般的に受肉したものとして、亜麻布とかかわる」と語ると、いかにも奇妙に聞こえるだろう。しかし上衣やブーツなどの生産者が、これらの商品を一般的な等価物としての亜麻布に(それが金でもなんでもかまわない)関係させる時、彼らにとって自らの私的な労働は、社会的な全体の労働とのあいだで、まさにこれと同じような奇妙な形で表れているのである。
(貨幣が出来るまでの発展段階では、商品たちの能動的な関係があった。またはそれに同一化した人々の関係が。だからその交換関係のけっかとして抽象労働というもの、かちというものがうまれ、それが黄金に固着した。しかしこの全ての商品の不変的な価値をあらわすものであり、自身がその価値一般である黄金貨幣が表れた後では、その最初の過程は忘れ去られて、人々の生産物は、最初から価値一般(抽象的労働)の受肉したものとなる。貨幣もまた価値が黄金という物質に受肉したものではあるが、同時に貨幣は価値一般そのでもある。
ロビンソン物語 p131
・これはイメージに反して、貨幣が既に存在する場合の例えである。ロビンソンの労働の産物が、すべて抽象的な労働の支出であるという場合である。
中世の世界 p132
ここでは、人格的な従属関係が社会の土台を構成しているからこそ、労働もそれぞれのとくしゅせいのまま、社会的な形態になる。
共同労働と商品生産労働 p134
自由人の団体の例
商品生産者の社会の状況
経済学のフェティシズム p138
商品形態は、ブルジョワ的な生産のもっとも一般的で、発達のごく初期の段階から登場する形態であるから、今日のように支配的で特徴的な形ではないとしても、歴史のごく早い段階から登場している。
脚注32
だから経済学者たちは、商品の価値の大きさを労働時間で測定することについては意見が一致していながらも、一般的な等価物が完成された姿である貨幣については、きわめて多彩で、矛盾した考え方を示しているのである。これは、貨幣の常識的な定義ではもはや取り扱うことのできない銀行制度を考察する際に、特に明確になる。その時は反対に、価値の内に、労働時間の長さではなく、社会的な形態だけをみようとする重商主義が再び登場して、価値の内に社会的な形態の実態無き仮称だけを見出そうとするのである。
34
引用は『経済学におけるいくつかの用語の争いについての省察、特に価値、供給、需要について』
第二章 交換過程
契約関係 157
実際に交換が行われるためには人間が必要である。
考察が進むにつれて、人格のこうした経済的な性格という仮面は、経済的な関係が人格化されたものにすぎず、人格はこうした経済的な関係の担い手として、互いに向き合っているに過ぎないことが明らかになるだろう。
商品の価値の実現
・商品にとってはほかのどの商品体も、自分の価値の現象形態としての意味しか持たない。
・商品には他の商品体の具体性を感じ取る感覚がないので、商品所持者がこれを補うために、自分の五感と第六感を使用する。商品所持者が現に所有している商品は彼には直接の使用価値がない。この商品は他人にとっては使用価値がある。
・商品所持者にとってその商品に使用価値があるとすれば、それは直接的には、交換価値の担い手となって、交換手段となることにある。
全ての商品は、その所持者にとっては使用価値のないものであり。それを所持していないものにとっては使用価値があるものである。だから商品はあまねく所持者を変える必要がある。
・商品は交換されることでのみ、自らを価値として互いに関係させるのであり、商品の価値が現実のものとなる(一度社会的関係ができたとしても、たえず売れつづけないといけない)。
すなわち商品は、自らの使用価値を実現できる前に、自らを価値として実現しなければならない。
貨幣の登場 p160
全ての商品所持者にとって、他人の商品は、どれも自分の商品の特殊な等価物であり、自分の商品は他の全ての商品の一般的な等価物となっている。しかし全ての商品所持者が同じことをするおだから、いかなる商品も一般的な等価物となることはない。商品は互いに価値として等置し合い、価値の大きさを比較し合うような一般的な相対的価値形態を備えていないのである。このように商品たちは一般に、たがいに商品としてむきあうのではなく、たんに生産物として、あるいは使用価値として、他の商品と向き合うだけである。
困惑したわが商品所持者たちはファウストのように考える。はじめに行為ありきというわけだ。だから彼らは考える前から、すでに行為していたのである。
商品の本性の法則は、商品所持者たちの自然の本能のうちで現実に働いていたのである。彼らが自分の商品を価値として、すなわち商品として互いに関係させることができるためには、自分の商品を、一般的な等価物である別の商品に関係づけねばならないのである。これは商品の分析によってすでに明らかにされたことである。
しかしある特定の商品を一般的な等価物にすることができるのは、社会的な行為だけである。だから他のすべての商品の社会的な行動は、ある特定の商品を排除し、そのことによって他の全ての商品はこの特定の商品のうちにあまねく自分の価値を表現する。これによって
この特定の商品の自然の形態が、社会的に通用する等価形態になる。
貨幣という決勝は、交換プロセスから生まれた必然的な産物であり、さまざまに異なる種類の労働の生産物は、貨幣において互いに実際に同等な物とされ、実際に商品へと変わるのである。交換が歴史的に拡大し、深化すると、商品の本性の内にまどろんでいた使用価値と価値の対立が発展する。そして人々の間に、この対立を取引においてはっきりとみえるものにしたいという欲求が生まれ、商品価値がある自立した形態をとるまで進む。そしてある商品が商品であると同時に貨幣であるという二重の形態をとって、この自立した形態が最終的に実現されるまで、この欲求は休まることがない。このように労働の生産物が商品となるのと同じように、ある商品が貨幣になるのである。
外部の共同体との交換
直接的な生産物の交換は、単純な価値表現の形態をもつ一方で、他方ではまだこの形態を備えていない。この単純な価値表現の形態とは、商品AのX量=商品BのY量という等式だった。直接的な生産物の交換の形態は、まだ商品ではなく使用対象AのX量=使用対象BのY量である。ここでは物品Aと物品Bは、交換されるまえにはまだ商品ではなく、交換されることで初めて商品になる。一つの使用対象が交換価値になるための最初の可能性は、その使用対象が使用価値のないものとして、それをしょうゆうする人の直接的な欲望を上回る量で存在する使用価値として、現実に存在することで生まれる。
物品の量的な交換比率は、最初はまったく偶然によって決められる。物品をたがいに譲渡しあおうとする物品の章勇者の意思行為によって、物品は交換可能になる。やがて他人の使用対象を浴する欲望が次第に固定されたものになっていく。交換が絶えず繰り返されると、交換は規則正しい社会的なプロセスになる。やがて労働生産物の少なくとも一部は、はじけ~交換を目的として生産せざるを得なくなる。この瞬間から二つの事態が起きる。第一に、直接的な生活の必要性のために利用される物品の有効性と、交換を目的とする物品の有用性が分離され、この分離が固定されるようになる。さまざまな物品の使用価値が、その交換価値から分離するのである。第二に、物品が相互に交換される量的な比率が、物品の生産そのものによって決まるようになる。習慣が量的な比率を、そのものの価値の大きさとして固定する。
貨幣形態の登場
生産物の直接的な交換においては、それぞれの商品はその章勇者にとっては、直接の交換手段である。それを所有しない人にとってそれが使用価値であるかぎり、その商品は交換すべき等価物として現れる。だからこの状況では交換されるこの物品は、それ自身の使用価値から独立した価値形態も、交換する相手の個人的な欲望から独立した価値形態もそなえていない。交換プロセスに参入する商品の数が増大し、多様な物となるとともに、このような価値形態の必要性が痛感されるようになる。
(この増えた状態が第二形態。それぞれの商品は、相対的形態にあり、他の商品を等価物とする。商品の数だけ第二形態が存在する。)
取引において商品所持者たちは、たがいに自分と相手の物品を比較し、交換するのであるが、さまざまな商品所持者の所有するさまざまな商品が、取引においておば寺第三種類の商品と交換され、価値として比較されるようになると、たとえ狭い範囲であっても、
直接に一般的な等価物または社会的な等価物の形態を受け取る。
この一般的な等価形態は、これを成立させた一時的な社会的な接触の旅ごとに、発生したり、消滅したりする。これはかわるがわる一時的にあの商品に固着したり、この商品に固着したりする。しかし商品交換が発展してくる値、特別の種類の商品だけに固定化されるようになり、貨幣形態へと、結晶する(黄金のことではない、貨幣という形式が結晶である)
貴金属貨幣の誕生p167
ただしこれまで確認してきたのは貨幣の一つの機能だけである。商品価値の現象形態として役立つこと(つまり、第一形態の等価物と同じ役割、たの商品の価値が憑依するものとして)。
(もう一つの機能は、第二形態の等価物としてのそれである。第二形態では、一つの相対的価値形態にたいして、他の無限数の商品が、全て同じ亜麻布の価値をあらわすものとして現れる。この時、これらの商品は価値を表す憑代というよりは、価値そのものなのである。全体としての集合で、価値そのものとして、亜麻布に相対する。
性格には、第一形態だけでも、亜麻布に対する、上衣は、価値を表現するものであり、どうじに価値そのものである。しかし、価値という一般的な属性(類)を、たった一つの商品(種)で表現することは、完全に不可能とはいえないが、不完全なのである。だからこの形態だけでは、等価物が=価値そのものになるとは言えない。それが出来るのは、亜麻布に対して無限の商品が類として相対するとき。
だから、貨幣形態にある黄金は、このとき、二つの性質をうけとる。その他の商品の価値を表現する素材であること。そして価値そのものであること。黄金という特殊な一商品(種)が、価値という本来無限的な性質をもつ属性(類)として通用する。
貨幣の二重の使用価値
貨幣商品の使用価値は二重のものとなる。第一に、金自体の性質どおりに。第二に貨幣商品には形式的な使用価値があり、これは貨幣としての独自の社会的な機能から生まれた物である。
他の全ての商品は、貨幣の特殊な等価物であるだけで、貨幣は商品の一般的な等価物である。すなわち他の商品は、一般的な商品である貨幣にたいして、特殊な商品としてふるまうのである。
(貨幣=他の商品、この時これは向かい合う関係であり、商品は、貨幣を一般的等価物として自信の価値を表すが、貨幣は自身の価値を、商品を等価物としてあらわす。これは不平等な合わせ鏡だ、第一形態ではこれは平等だった。第二形態において相対的形態と、等価形態は、非対称的なかんけいとなっていく。)
貨幣の価値と価値形態 p168
すでに確認したようn、貨幣形態は他の全ての商品の関係が、一つの商品のうちに反射し、その商品に固着したものにすぎない。
貨幣が商品であるという事実を、こと新たに発見するのは、貨幣の完成した姿から出発して、事後的に貨幣を分析しようとするものだけである。交換プロセスにおいて、ある商品は貨幣になるが、その商品はこのプロセスによって価値を与えられるのではなく、独自の価値形態を与えられるのである。
すでに私的しておいたように、ある商品の等価形態は、その価値の大きさの量的な規定を含まない。金は貨幣であり、すべての商品と直接に交換できることが分かったとしても、たとえば10ポンドの重さの金がどのような価値をもつかはわからないんである。どの商品についてもいえることだが、貨幣もみずからの価値の大きさを、他の商品との関係で相対的にしか表現できない。貨幣自身の価値は、その生産にひつようであった労働時間によって決まり、それと同じ量の労働時間が凝固している他の任意の商品の量で表現される。
貨幣の相対的な価値の大きさは、それを生産している場所で、直接に物々交換っすることで確定される、それが貨幣として流通するようになった瞬間に、その価値は既に定められている。
難しいのは、商品はどのようにして。どのような理由から、何によって貨幣であるかを把握すること。
貨幣の魔術的な力
もっとも単純な価値表現が、商品AのX量=商品BのY量という等式で表現できることは、既に確認したとおりである。この等式で、他の商品の価値の大きさを自らの内で表現している物品は、この等式とはかかわりなしに、社会的な素善の特性としてその等価形態を備えているようにみえる。
(相対的形態の商品は、因果関係と社会的関係を取り違える。商品が価値を表現しようと無意識に行動するから、逆に価値は生まれるし、その関係のなかでのみ、相手は等価物として価値を表現するにすぎない。それを逆にとらえて、等価物ははじめから、価値である、または価値という王座に座る王であると考える。取り違えをするのは商品自身だ。そしてこれは交換される二商品が自信を相対的価値形態として、相手を等価物として行う、合わせ鏡の関係だ)
私達はこの誤った見かけがどのように固定されていくかを追跡してきた。この見かけは、特別な種類の商品の自然の形態に、一般的な等価形態が固着して、それが貨幣形態に結晶したときに、完全な物となるのである
(固着とは、この場合黄金と等価形態が、同一視されること、人間に意識にではない、人間意識は、貨幣は関係の産物だとたいがいの人は考えている、それがどのような関係かわからないだけ。商品たちの取り違え)
ある商品が貨幣となるのは、他の商品体があまねくその商品によってそれぞれの価値を表現するからなのだが、その反対に、その商品が貨幣であるからこそ、他の商品がそれぞれの価値をその商品によって一般的に表現するかのようにみえるのである。
(その商品が、なんの手続きもなくはじけから価値であるからこそ。そしてここでもやはり、人間にどう見えるかの話はしていない)
貨幣=自我理想、その他の商品は自我
自我理想は、自我をまとめるもの。
一般と特殊の関係。天皇と国民
国民の主体的な表現(主権の表現)それが主権者候補の数だけある。第二形態。
誰もが無限の権力をもつことは不可能である。だからただ一人を代表としてえらび、その他の人間達は、そのなかで、自分たちの一定の権利を保持しようとする。
この活動に成功すると、人々はこの経緯をわすれて、因果関係を逆転させる。
その時、天皇になる人間は、それ自身で天皇であり神であり。(王と王座の混同、等価形態と等価物の混同、)、同時にそれぞれの国民に対して、神聖を表現する憑代になる。八百万の神の司祭となる(ことで国民も納得する)。
天皇は昔から民主主義の象徴。マルクスは平等な人々の関係から貨幣が生まれると考える。
相対的形態と等価形態の区別に注意
貨幣が、他の商品の価値を表現する時、貨幣自身の価値は表現されていない。
ジュース1本=金貨1枚としよう。ここではジュース1本という使用価値が、社会的にどれほどの価値を表しているのか、それを金貨の使用価値(金貨自体の特定量)で表しているわけだ。
金貨の価値を表現したいなら、等式は逆になる。そして黄金=その他商品、というときには、黄金の価値表現も、商品の価値表現も、両方の等式が含まれている。
商品たちの思い違いとはなにか
そもそものはじかりは、自分の価値というありもしない属性を表現しようという行動があった。そして一応、自分だけの価値の表現なら、第二形態でことたりた。このとき商品たちは、自身の価値をもっていたし、自身が価値そのものであった。
しかし、最終的な形態では、貨幣だけが価値一般になる。だから、商品自身の本来特殊な価値は、価値一般で表現されなければならない。だからジュース1本=100円という値段が付き、そして直接交換可能な貨幣と、うることでしか貨幣に交換できず、それがないとお互いに関係することもできない一商品というふうに、両者の間に、平等めかした不平等うな関係が生じている。
商品たちの価値の表現としての価値形態が完成すると、黄金と貨幣形態が癒着することで、それまでの過程、すべては商品の価値表現ということがみえなくなる。社会的な行為として、貨幣が直接交換可能性を持つ。
ところで、価値と価値形態の違いを把握する必要がある。貨幣が出来上がればとりあえずは価値体系はある。ある商品は価値○○分として現れる。商品の生産、例えば、以前より少ない価値で、大量生産できる場合、それでりえきがえられるわけだが、その際に、価値体系そのものが更新されるのか、価値体系はかわらずに、ただ商品同士の関係が変わるだけなのか、それを把握する必要がある。今商品が表す価値量は、それぞれの商品の生産力の変動により、変動するとする。これは確定だろう。しかしこれによっても、価値体系そのものが変わるわけではないように思える。言語の場合はどうだろうか、あるシニフィアン同士の結びつきが、シニフィエと関係するとして、そうだとすると、シニフィアン同士の関係が価値形態だとすると、それにより、価値量はかわらずとも、価値の性質はかわるのではないか。価値をとりあえず、シニフィエとすればだが。だがそうすると価値量とはなんだ。共時的ななにかであろうか。縦の包含関係?
マルクスが価値というとき、やはり、それは一つの意味ではないのではないか。二商品の間の価値、単純な価値形態の価値は、特殊なものでしかない。それはさらに一般的な価値の内部に、存在しているのではないか。単純な価値形態の総和が展開された価値形態であり、その展開された価値形態を反転させたものが、一般的形態だ。 貨幣が存在する時、各商品の価値があらかじめ与えられているというのは、一般的な価値に過ぎない。その内部では、それぞれ特殊な価値が内在しているのであり、それが各商品の交換関係であり、そこに特殊な価値があり、それが商品が価値形態をもつということの意味ではないか。
―――――――――
5-3.引用から得られた知識
①マルクスの労働価値説の概要(暫定的)
(1)二商品の交換比率は、第三の価値を表す。価値そのものではない。
亜麻布20ヤード=上衣一枚
上の等式は交換価値である。
ことのとき、亜麻布や上衣の交換比率を交換価値(=価値)として考えてしまいがちだ。そして需要と供給の均衡点で価格(=価値)が決まると。だからそれは絶えず変動して、労働価値説などは意味がないのだと。
しかしマルクスはそうではなく、これらは価値という第三の性質として等しく、そして使用価値の質と量・交換比率はそれを表す記号になっているのだと考える。
今仮に、亜麻布20ヤードを作る織物労働を3時間、上衣1枚をつくる縫製労働を10000時間としてみよう(もちろんこれはあり得ないがわざとだ)。
そしてこれが仮に500価値として等価であるとする。そして以下の式を作る。
亜麻布20ヤード(織物労働3時間)=上衣1枚(縫製労働1万時間)
――――――――――――――――――――――――――――――
500価値(抽象手労働) =500価値(抽象的労働)
二商品を作るための労働(コスト)は、質も量もまるでことなるものである。
上の例では、亜麻布を3時間かけて20ヤードつくり、その時点で上衣の3時間分と等価であるとは考えない。上衣は切れ端しかできていないだろう。
そうではなく、それぞれことなる具体的な労働が、価値という一定の尺度として換算されることで(抽象的人間労働)、価値としては、一定の使用価値の交換比率という形で現れるということだ。
いま交換比率が変動したとしよう(交換比率は絶えず変動する)
亜麻布40ヤード=上衣1枚
このようになったときに、価値が労働だというのはおかしいと思う。
労働により価値が一定なら、著しくそれが変動するのはおかしい。
しかし、この時実際には、亜麻布を生産する織物労働の生産力があがることで、亜麻布に内在する価値が少なくなったのである(生産力があがるほど価値は小さくなる、大量生産できる希少価値のないものは安い)。
40ヤード亜麻布=上衣1枚
―――――――――――――
500価値=500価値(500としたのは例え)
だから、上のように、先ほどと同じ500価値を表すには、使用価値の交換比率は絶えず変動するが、あいかわらず目に見えない概念であり、社会属性である価値としては、等式が成立した二商品は同じものである。
この交換価値と価値の差は最初から提示されていたものだが、二商品の交換関係は、需要と供給、またはなんらかの主観で決まり、そこに労働比率などは意味がないという観点から、それらがちがう価値という属性において等価であるという考えをなかなか理解することが僕には出来なかった。あくまでマルクスの考えということだが。
(2)価値は交換関係から事後的に生まれ社会的に固定されていく。しかしそれでもその基準は労働であり、けして主観的な交換比率から価値が決まるのではない。
価値という属性が、二商品を生産するための異なる労働を、同一の抽象的労働に換算するそしてこの価値という属性は、事前にはない。これは商品の交換関係から生じる。
例えば、亜麻布と上衣が交換される比率は、最初は任意である。しかしそれが社会関係として確立されてくると、その交換比率は習慣と生産力等により、ある値に収束してくる。
だがまだこの関係では価値は完全には固定されたものではない。なぜなら、この価値は、交換関係から生じた、二商品の間だけの等価性でしかない。
全ての商品がある一定の交換比率のもとで、等価交換されるためには、全ての商品にあてはまる価値が必要なのである。
そうしてこそ、はじめて、全ての商品は価値(抽象的労働、全ての特殊労働は、これに換算され手計算される)として等しい交換比率をもつことになる。
そしてこれが完成するのは、ある商品社会において貨幣が登場する時であると考える。
(3)貨幣は価値の現象形態である。
じゃあ同じじゃないか、値段=価値で、なにも新しいことを言っていないと思うかもしれないが、そうではなく、それぞれの労働の生産物を交換する行為から、価値という普遍的な属性が生じて、それが完成するのが貨幣においてであり、貨幣は他の商品の価値(抽象的労働量)を表しているとマルクスは考えている。
またこの時、貨幣による値段と労働価値が実際には、ずれるとマルクスは述べている。しかしこの時点ではそれがなぜずれるのかは語られない。
(4)実体と形態というマルクスのひっかけ・誤誘導
資本論では価値の実体、価値形態等の言葉が出てくる。そして完成した商品関係では、各商品は、ある価値という一般的な属性(というか神)の一定量を表現する記号でしかなくなる。
だから、価値は実体、価値形態はそれが表れる形態であるという、風にとらえることができる。これは西洋人やそれをかじった人間にはおなじみの関係性である。
もっとも実体というのは哲学用語であるから、色々な理解があるだろうし、僕も全然詳しくないが、たとえば、実体は一なる神であり、形態はそれから派生した個別存在だというような理解が、おおおよそベーシックなものだと思われる。
しかしマルクスの言いたいことはそうではない、しかしたぶんだが、マルクスは意図的にそういう思い違いをするような言葉使いをしている。理由はわからないが。
マルクスが言いたいのは、まず商品どうしが自身の価値を表現しようとする関係があるということだ。
最終的に一般的な尺度として得られた価値にたいして、商品がそれを表す記号になるとしても、まずは商品が主体として行動することから(行動は人間だけど、理論や構造としては商品)価値は生まれるというのは、上の実体(万物の創造主の神)と形態(神の表れとしての個別物)という関係とは違う。
あくまで価値という属性は、商品の交換関係からつくられる。そして最初は偶然の比率から、徐々に習慣や生産を基準として交換比率が収束し、最後に貨幣形態(せいかくにはマルクス的には一般的形態)としてその価値関係がまとまるときに、それぞれの商品の交換比率は労働価値として大まかに固定される。
価値は実体であり、価値形態はそれが表れる形態であるという理解をすると、価値というものの性質を、関係としてとらえられなくなる。物質の間の関係概念がある一つの物質に固着するという視点がわからなくなる。
(5)ここまでのまとめと引用
『この比率(交換比率)が慣習によって一定の値に固定されるまで成熟してくると、この比率はあたかも労働の生産物の本性から定められたかのように思われてくる。例えば1重量ポンドの金と1重量ポンドの鉄は、それぞれに物理的な特性も科学的な特性も異なるのに、おなじ重さである。これと同じように、1tの鉄が2オンスの金と同じ価値を持つように見えるのである。
しかし実際には、労働の生産物の価値としての性格は、それぞれが価値の大きさとして認められることで初めて決定される。この価値の大きさは、生産物を交換する人々の意思や予測や行動とは独立して、絶えず変動する。生産物を交換する人々の社会的な動きは、彼らには物の動きのように思われるのであり、彼らはこの物の動きを成業するどころか、この物の動きに制御されるのである。
私的な労働は、たがいに独立しておこなわれるものの、社会的な分業の自然発生的な一部を構成する労働として、あらゆる面で互いに依存し合っているものであり、その生産物の価値は]その社会にふさわしい比率の尺度に次第に収斂していくものである。私的な労働の交換比率は偶然的に決定され、たえず変動するものではあるが、その生産物を生産するために社会的に必要な労働時間の長さが[この比率を決定する上で]自然法則として、強い力で貫徹する。それは家屋が崩れるときには、重力の法則によって屋根がその家に住む人の頭に落ちてくるのと同じである。』P128 価格の決定
ここでマルクスは、人々の意識的なものや偶然の変動というものにたいして、労働価値は自然法則として、それよりも強い基本的なものとして、存在していると言っているように思う。他の要素はそれよりは付随的、または影響がすくないものとして、とりあえずここでは無視しているのかもしれない。
(6)労働価値説に対して、この時点で現実と矛盾しているという指摘は成りたたないのではないか
労働価値説にたいする批判は当然想定できる。というか僕がしているわけだし。
ただ僕はここではマルクスの信者になっているから、これを擁護しなければならない(他のところでは、例えば現代経済学を学ぶときはそちらの信者になる)。
例えば、変動為替性とか株とか土地の値段の変動を上では説明できないし、矛盾していると考えられる。またマルクスは需要と供給という基本的な用語や概念をこれまでの180ページ時点ではほとんど無視している。
しかしマルクスが、まず何を語ろうとしているのか、どうやってなのか、どんな理由でそうなのか等を考えないで、これを現実と矛盾していると指摘することはできない。
例えば、価値形態論であれば、人々の交換関係のなかから、貨幣が生まれるという、貨幣の論理的な構造やその構造的な起源を説明しており、貨幣が完成してからそれがどういう動きをするかということはまだ完全には語られてないのである。
また、一見現実と違う理論をマルクスや誰かが提示していたとしても、それをすぐに現実と矛盾するからといって否定はできない、なぜなら、その二つのずれを、説明する理論が後のほうに用意されているかもしれないからだ。
だからこれらの理由から、少なくとも僕自身としては、労働価値説をこの時点で完全否定するだけの根拠がない、というかなくなった。
労働価値説についてさわりはわかった?そしてこれを読んでくれた方がいるとして
ほらみたことか、やっぱりね、散々労働価値説を疑っているふりをしながら、結局はここに持っていきたかったんでしょ。だから左翼信者はいやだよああ怖い。
というようなことを思った方がいたとしたら(いやいるだろう)、別にこの記事外で、信者になったわけではないと、だけ付け加えておく。
②価値形態論その1(価値とは何か)
(1)価値形態において商品が置かれる二つの場所
亜麻布=上衣という等式から、これが第三のものである価値を表していることはわかった。
しかし上のまとめでは、等式の左辺と右辺の役割の違い、そしてそこから価値が生じることについては書いていないし、商品の通約性としてしか価値を描いてはいない。しかしまずはその通約性というか、今まで調べてきた部分にそってまとめなければならない。なぜなら僕には価値とはなんなのか全然分からないからだ。
亜麻布=上衣
左辺は相対的価値形態、右辺は等価形態である。
左辺の商品は自身の使用価値の価値を、右辺の商品の使用価値との交換比率で、相対的に表される。これにより、二商品は価値の表現となる(ただしこの交換が、単独で存在している場合、単純な価値形態の場合、この関係ないでのみ、この価値という通約性は乗じている)。
だから価値は通約性だとしても、それはこの商品の間の独特の関係から生じるものであり、それを詳しく見ることで、それ以外の本質的な性格も(少しだけか?)わかるはずなのである。
ここではまとめ風に今まで書いてきたが、内容のまとめとかはもう同じことの繰り返しになるので、ここからは自分が調べたこと、考えたことのみのまとめとしたい。
(2)単純な価値形態は、事前には完成しておらず、貨幣形態が完成した時に、商品は価値においてまとまる。単純な価値形態は、その価値が発展していく最初の形態である。
これは上で先取りしてしまったが、4章の時点での疑問の答えだ。
マルクスが単純な価値形態から議論をし始めているのは、価値が生じてくる最初の段階だからであり、また商品の価値関係の基礎、等価物の性質等が、ここで把握できるからだ。
単純な価値形態の段階(単発的な物々交換、から徐々にその交換関係が固定されていく)では、価値は完全ではなく、交換比率は習慣と生産の関係で決まる。
しかし、価値というものはもうこの時点で芽生えており、しかしそれは不完全なのであり、だから次の形態に移行するというのがマルクスの理論であろうと思う。
亜麻布(相対的価値形態)=上衣(等価形態)
この場合、上衣が亜麻布の価値を、その身体で表現する。
価値とは神である。上衣はこの関係の内部においてのみ、神の憑代となり、また同時に神でもある。
亜麻布(種)=上衣(類)
神は類であり、人間は種である。類は種をまとめたもので種の集合。
神という実体から、それが分かれて人間という形態になる(と宗教では考える)。
しかし、一つの商品が類であり集合となり、他の一つの商品が種・集合のメンバーであるというのは神の世界、価値の表現としては十分な物ではない。だから価値を表現するための次の形態に移行する。
このさい、その原動力は、人々が自分の商品の交換可能性である価値を、実現しよう、高めよう、より多くの商品と交換できるようにしよう、また交換の簡単のために、価値の尺度を得ようという、それであると考えられる。
マルクスは、神が人々より先に(外側に)存在して、人々がそこから枝分かれたものなのではなく、人々の関係から神(価値≒貨幣)が生じると考える。しかし人々は価値≒貨幣が生じてしまうと、それが生じた起源を忘れてしまう。(ラカンなら、人間が幼少期を忘れるように)。
いや貨幣が関係概念であり、労働価値などとは無縁であり、ただの想像的なものか、または人間の社会的行動の産物であることは人間意識には明らかである。とそう考えられるが、マルクスは、人間はそれを知っているつもりで、実はその内部に関係性について、やはり知らないのであるという意見を持っているようだ。
(3)価値形態(交換関係では)では同時に二つの式が成り立つ
今亜麻布職人と上衣職人が、お互いに自身の生産物を交換する。
すると亜麻布職人、上衣職人から、一つずつ交換の式がえられる。
亜麻布職人による交換 亜麻布(相対的価値形態)=上衣(等価形態)
上衣職人による交換 上衣(相対的価値形態)=亜麻布(等価形態)
実際に交換がなされるときは、単純な価値形態は、同時に二つ(の価値の表現が)存在することになる。
(4)価値形態における商品の取り違えについて
亜麻布=上衣
この関係では、もともとは亜麻布が自分の価値を、上衣の身体で表現しようとするものである(実際には亜麻布職人が、交換の場に持っていく、亜麻布職人は個人的には、ただ他の商品がほしいから亜麻布を交換するだけだが、同時に社会的なレベルでは亜麻布という生産物を商品世界の仲間である価値物=その他の商品と交換可能な商品として表現しないといけない)。
この関係はあくまで亜麻布自身の能動的な表現である。
上衣はその身体で亜麻布の価値を表現するだけの素材となる。上衣は亜麻布とかかわる内部でのみ、価値の素材として現れることができる。これが本来の時系列のはずだ。
(この単純な価値形態が生じるある段階では、実際には価値という属性を誰かがもっているわけではない。人々が生産物を交換する関係が固定していく中で価値は生じてくるが、人々はそれを別に想定していない、人々の行為から価値という者、商品に含まれる異なる労働を通約する属性が生まれ始めるのである)
しかしこの関係の内部では、これが成り立つと、3つの取り違えがおこる。
①関係概念である価値を等価物の自然属性だと亜麻布は考える。
価値はこの場合、亜麻布の能動的な表現における二商品の関係から生じたものであるが、亜麻布にとっては、価値は上衣の自然の属性だと見える。
②属性と個別存在の固着可能性
この時点で亜麻布にとって、上衣は神の憑代である。厳密には神自身ではない。これは王と王座の関係である。王はあくまで王座に座るから王であるが、しかし王自身が王座という場所と同一の存在であるという勘違いも生じえる。価値形態では、単純な形態でこれが完成するのかはともかくとして(貨幣形態でこれはおこるのだろう)、上衣は価値の憑代から神自身(価値)になる可能性がある。
③因果関係の逆転
亜麻布が自身の価値を表現しようとするから、上の二つはおこるのに、亜麻布は逆に、上衣が価値そのものだから、亜麻布の価値表現が可能だと思う。
(5)価値形態の発展と歴史的な把握(ここまでのまとめ)
ここまでの視点、今まで記事を書いてきた僕の認識としては、マルクスは商品の交換や価値を、以下のような歴史認識と論理・その関係としてとらえていると考えてきた。またそれと関連して、かいてはいないがラカンの発達理論を考えてきた。
・歴史的・論理的発展。
古代より物々交換から発して(単純な価値形態の萌芽)
それが広がり(展開された価値形態)
局所的な貨幣が生じる(一般的な形態)
これは古代より繰り返されてきた形であり、この関係が横に広がり続けることで、歴史的縦の区分も生じさせてきた。封建制では、共同体内部では自給自足であり、商品交換はされないが、共同体どうしでは商品交換が行われるというように、商品交換が全面的におこなわれているわけではない。さらに商品の交換関係が、人々の間で広まった社会が、資本生産性であり、一般的な等価形態に一商品(たとえば金)が固着した貨幣形態が生じる。
ところで単純な価値形態は、この貨幣が生じた段階ではじめて完成するのである。その前は価値の不完全な表現として存在し、そしてそれは人々が生産物を交換するところから価値という属性は生じるのである。
交換(不完全な単純な価値形態)→交換の広がり(不完全な相対的形態)→貨幣→遡及的に前の二つは完全となる。
・ラカンの発達理論(僕の視点として発生と循環の違いの重視)
まず、人は母親の言語を話す。そして5歳くらいまでに、原抑圧がおこり、それから同時に?もっと社会的な言葉を話すようになる。これはフロイトが考えたような、父と母をめぐる戦いがあり、そのせいで母を諦めるというようなものではなく、逆に母からの分離の必要性から、より社会的な方向へ進むというものである。
意識
力動無意識(言語構造)社会的な言葉(母の言葉が社会化されたもの)
―――――――――
原抑圧(言葉存在)・母の言葉(シニフィアン)の置きのこし
ここで、僕がいいたいのは、別に無意識論ではない。線を引いたさいの上二つは、フロイト的視点では、おおまかには自我であり、そしてこれをマルクスとの類比的観点でみると、自我(全体)=貨幣なのである。
フロイト的には、ある種の無意識は自我の領域にある。
以前僕は西洋では無意識というものが忘れさらされており、フロイトがそれを再発見したというようなこと、それにたいして日本仏教の唯識理論では2000年前から無意識論が発達していた、西洋ではそれが長らく忘れられていたというのは驚きである、とそのような事をかいたが、これは正確ではないし、まちがっている。
夢というのが、無意識とつながっているというのは、西洋でも古くから言われてきた(そして僕は夢診断の序盤でこれを、勘違いをする前から読んでいたはずだ)。フロイトが革新的だったのは、この無意識を言語的(シニフィアン関係)な詐術であり、願望実現であり、その背後には、さらに深い無意識が存在しているということだ。
人間は3~5歳くらいまでの記憶をほとんど思い出すことができない。この時代に人の基本は出来上がる、構造的なトラウマや願望だ。そしてそれから先は連続的な記憶ないし意識を持っている。この段階で人間としての心理的な枠組みが出来上がるのであり、それまではある意味では前世や古代なのであり、この古代の願望をかなえようというのが、それからの人生なのであると、フロイトは考えているようだ(だから夢には、直近の欲望も表現されているが、実際にはそこに幼少期の願望が表現されているのである)。
・生成理論と循環理論をきりわけること(しかしもしかして同一では?)
僕はここで何を言いたいのか、それはマルクスの貨幣の生成理論と、フロイトやそれを論理的な視点で練り直したラカンの自我の生成理論が、同一の観点をもつということ、貨幣の発生を、自我の発生と同じようにとらえられるということだ。
ここまではいい。しかし今記事を書いていて、上の認識の内部で、ことなる二つの考え方ができるということに気が付いた。
ここまでの僕の理解を簡単にまとめると、あらゆる単純な価値形態で、価値は事前にはなく、生産物の交換そのものから価値という属性が生じて、それが貨幣形態に発展するというものだ。
僕は、この記事のここの文章を書くまで、貨幣の発生と、貨幣の循環を切り分けて考えてきた。貨幣が生成するのは、労働生産物の交換によるもので、具体的な労働が、労働価値としてまとめられる過程があり、それが貨幣として完全な物になる。そして遡及的に他の形態でも価値としての等置は行えるようになる。
そしてそれとは別に貨幣がある世界では、貨幣が貨幣であり続ける仕組みもあるが、マルクスはその点はまだかたってはいないから、この時点で、マルクスの貨幣感と、現実認識の間に齟齬があろうとも、理論を否定する根拠にはならないと考えてきた。
この二つを切り分けるという視点は、僕は基本であるし、重要であると思う。自分がどれを対象に、どういう場で(理論的な、実践的か、その他か等)、どの様な方法で、どういう理由(等々)で、それを行うのか、大体勉強がわからないのは、こういうことが把握できてないからだ。そして僕は論理学とか数学とかでまさにこの状態だし、資本論も精神分析でもそうだ。
しかし、今というかさっきから考えているのは、マルクスの貨幣の生成と、貨幣が貨幣であるという仕組みと、かかわりがあるのではないか、というかそのものなのではないか、という視点だ。
少なくとも、上の歴史認識では、貨幣と商品は横に広がっているのであり、それにたいして、僕の理解(精神分析にしてもマルクスにしても)は齟齬があるように思う。いや世界的な貨幣が生じるのはある種一度きりであろうけど、一般的な形態という世界的ではない貨幣が生じるのは一度きりではない。それに、世界的な貨幣も生じ続けなければならないし、そして黄金から他の物に固着し直すことも考えられる。
つまり、少し前の考え方からかわってきているが、とりあえず、これまでの視点や結論としては、しつこいが、事前に価値などは存在しない生産物の交換から価値という属性が生じて、そしてそれが貨幣形態にまで発展するというものだということだ。
③価値形態(特にわからないこを書く・整合性はない)
(1)歴史的に最初期に生産物が交換される段階ではともかく、ある程度時代が進んだ時点では、価値は二商品の交換から生じるだけではなく、事前に二商品に価値(交換され他後と同じものではないとしても)があるのではないか?
『これまでの分析から、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生まれるものであって、その反対に価値と価値の大きさが、商品を交換価値として表現することから生まれるものではないことが証明された。』
p88 使用価値と交換価値より引用
上の文章を最初は、ただたんに価値の本性から生まれるという部分と、商品と生産物の違いとして認識していた(生産物は交換されなければ交換される関係を築けなければ商品ではない、だから商品は価値を持つはずである)。
しかし、よく読むと、交換価値から価値が生まれるのではないと書いてある 。交換価値=価値形態だとすると、これはおかしい。
しかし、生産物を交換する関係から価値が生じるという部分は上と矛盾しないと考える。しかしその生産物と同じ種類の生産物が、もう以前に商品であったなら、新しい生産物にも価値は内在しているといえるのではないか。だからある歴史的な時点で、以前の価値は商品に内在している。貨幣も存在する。そしてそれが新製品として交換されるときに、価値は新たなものに更新される。そして貨幣の性質か量かはわからないが、その都度確定していく。そういうような関係なのではないか。
歴史的にみるならば、ある範囲で商品経済は発達していたが、それは農村共同体にまでは波及していなかった。しかしだんだんと時代が進むにつれて、商品となるものの数がおおくなり、貨幣により勘定される生産物の範囲が大きくなり、貨幣はより一般的な性質をもち(一般的形態→貨幣形態)そして今に至ると。
歴史的な最初の時点で、生産物がどうやって価値をもつのか、これでは完全に説明できない。結局のところ価値とは何かということが、全然わからないからである。
(2)価値は投影(しかし投影とはなんだろう)
僕にとって、投影とは何か、それが結局全ての疑問である。
この投影というものは、色々な考え方があると思う。
例えば、対象а、ある特徴を持つ人間に対して、その特徴だけで、その他の性質も判断してしまう。ようは昔幼少期にだれかそういう特徴を持つひとがいて、その性質だけをとりだして、目の前にいる成長してからであった人も、同じような人間だと思ってしまう。また思わなくても無意識にそう行動してしまう。
自身の思い出からくる印象を、他人をスクリーンとして、そこに投影する。
そして、それは自分の内部の印象や感情にすぎないのに、相手の属性だと思い込む、相手からそういう属性を自分にむけているから、そういう印象を抱くのだと思い込む。
例えばある人Bが早口でしゃべる癖がある。その人にとってそれは癖だ。
しかし、それをきいたある人A、この人は幼少期に早口でしゃべるひとから、嫌がらせを受けたことがある。だから早口でしゃべる人は苦手だ。
Aは、Bの早口をきいて、自分に嫌がらせをしているとか悪いやつだとか、思い込む。また思い込むまで行かなくても、なんか嫌な印象を受ける。
Bにはそんなつもりは一切ないが。これはBのほうから自分にそういうアクションをしかけているのだと思い込んだりする。
これは何か商品の関係に近いものがある。
ただ商品の価値関係においては、亜麻布と上衣は価値としては同じ存在なのである。同じということはどういうことだろうか。
それに商品では、亜麻布と上衣なら、これは両サイドのからの投影関係、合わせ鏡の関係であり、上のように一方的な関係とはことなる。
亜麻布に価値があらかじめ内在しているとする。ここでいう内在は今の亜麻布にではなく、過去の別の亜麻布に内在しているということ。今の亜麻布は売れない限り価値ではない。そしてこの世界ではもう貨幣は存在している。
今の新製品亜麻布は過去の亜麻布の価値を自分にあると想定して、その価値を、上衣で表現しようとする。
等価物である上衣の価値は、過去の上衣の価値である。ただし、等価物なので、上衣の価値は表現されない。上着は新しい亜麻布の価値を自身の使用価値で表現するだけだ。
しかし、これだと、亜麻布の一定量と上着の一定量はある時点では同じ価値を持つとしか言ってない。いや別にそれで等価交換でいいのだけど、まやかしの等価交換としてはなにかちがうであろうし、投影にもなってないから、少し変える必要がある(言うまでもなくまるでわかってない中で書いている)。
今新商品の亜麻布20ヤードにとって、自身の価値は不明であるが、古い亜麻布20ヤードの価値は明らかである(例えば500円だ)。
そして、新商品の亜麻布の実際の価値は、これより低くなければいけない(低い価値で同じような商品をつくれると利益が生まれる、だから端的にこの亜麻布20ヤードには500円というコストは投じられていない。400円だ)
新しい亜麻布の価値=400円
古い亜麻布の価値=500円
新しい亜麻布20ヤードは、自身を以前の価値500円で売りたい。そこで以前の古い亜麻布と同じ値段であった上衣一枚と交換をしようとする。
だから亜麻布からみたら、
新しい亜麻布20ヤード=上衣1枚(500円)
(本当は400円か?)
・・・・・ごめんわからない。
そして今暖房が壊れて寒すぎるんですけど。というわけで、ここでは保留。
単純な価値形態、展開された価値形態、一般的な形態、貨幣形態、が合わせ鏡の関係であるということ。それがお互いに相手を映し出すことで、自身を認識するというような関係であること、しかしそれがどういうものなのか、全然わからない。もし少しでもわったら、ここは追加する。
(3)展開された価値形態

亜麻布の価値(亜麻布という一定量の使用価値が他の商品と交換するさいのものだけ)は、この形だけである程度、表現される。他の商品、例えば上衣の価値は、ここではいっさい表現されない。
亜麻布の価値が、無限の商品の使用価値で表現されるこの形を、マルクスは、亜麻布が商品社会の市民になるとのべる
(もしくはある範囲で、とりあえず等価物がどんどん増える形で、またこの市民はギリシャ的な市民か、それとも現代的な市民かで大きく意味が変わる。ギリシャの市民は支配階級のニートだから)
単純な形態では、亜麻布と等価物である上衣の関係では上衣が、神として存在すると想定した。上衣(価値)が集合で、亜麻布はその要素であると。
しかし、これはちぐはぐで、やはりよくわからないのだが、この第二形態では、むしろ亜麻布が集合(集合の名)で、その他の商品が要素だと考えた方が、しっくりくる。
それに亜麻布は、他の無限の商品を対置することで、自身は価値として自立することが出来るともいえる。
だからここでいう市民とは、僕はギリシャ的な市民を想定していると考える(そして生産力が上がると、ある種の市民が増えるし、それが現代であるというのが、マルクスの考えだろう)
ここでは僕が考えたいのは、第一形態では等価物を神としてあがめていた相対的価値形態の商品が、第二形態では意識の上でも、自律的な存在になるのではないかということだ。
(4)一般的形態のへの移行の簡潔さ

図を入れる。二つ。
『実際、ある人が自分の亜麻布を他の多くの商品と交換することによって、亜麻布の価値を一連の他の商品で表現するならば、他の多くの商品所持者もまた必然的に、自分達のもつ商品を亜麻布と交換することで、自分達のもつ商品を亜麻布と交換することで、自分たちのもつ異なる商品の価値を、亜麻布という第三の同じ商品によって表現するに違いない。だから20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、または=10重侶ポンドの紅茶、または=その他の商品という系列を逆転させて、この系列の内に実際に含まれていた逆の関係を表現してみると、次のような一般的な価値形態が得られる。』p95よい引用
あまりに簡潔すぎる。そして貨幣形態の説明も簡潔すぎる。
マルクスはないか奥深いことをかたってくれるんだろうなと、価値形態論を読み進めるとがっくりくるのがこの部分だ。
そしてマルクスは、第四形態の貨幣形態では、ただ黄金、金に一般的な形態が固着するだけだという。つまり、第三形態の説明で等価形態にあった亜麻布を金に変えただけだと。
何が不満なのか、それはつまりマルクスが何を言いたいのか、よくわからない。何言ってるのかわからない。
思いだそう、価値形態論では、貨幣の生成を明らかにする。その際に交換される商品を二つの場に分けていた。そして価値表現に不完全さから、完全な関係が成立するまでを跡付けようとしている。そして貨幣が生じるのは、実践的には生産物を交換したい人達が、それを円滑にするためだ。
(ただし、マルクスは一般的な形態にあるものを、限定的な貨幣、貨幣形態にある金をおそらく世界貨幣と考えていると思う、もちろんだが世界的な交換関係が行われる前から、金は限定的にでも貨幣であるし、それはかなり昔からそうであるし、他の貨幣を駆逐している)
だからこの等式を逆にするというのは、人々の関係で見れば、亜麻布が色々な商品と交換可能になり(亜麻布の一定量と、ということは、逆にその他の商品の所持者たちから見れば、亜麻布を貨幣(限定的な)にすれば、自分たちが価値として関係できるようになるということである(亜麻布自身の価値は、他の商品を等価物とすることで表現される)。
(5)第三形態と第四形態の関係
そしてこの第三形態の形において、結局は最後には亜麻布ではなく、黄金に固着するから、第四形態は内容の差でしかないと。
しかしこれはおかしい。
なぜか、それは商品交換が広がった世界では、かなり多くの商品、人々が市民になれるのである。だから、亜麻布だけが市民というのはおかしい(上衣も、鉄も、うまい棒も、全ての他の商品に対しては、価値を表現される相対的な価値形態として相対しているはずだ)し、市民からその代表が選ばれるには特殊な手続きが必要なはずである。
全ての市民が、自分の権力を振るおうという関係(第二形態)が存在し、
そしてその中から、争いをさけるために、代表者が選ばれる(第四形態の等価物)。これは社会契約説である。
第三形態は第二形態に相対物が、一つだけだという想定のもとにその反転をおこなったが、実際には、そうではないから最終的に金に固着するという表現がでてくるのではないか。
または、一つの経済が広がるようなかんじだろうか。まず特定の範囲で貨幣(一般等価物)が存在し、その内部において商品が増えていき、そして新たに貨幣の量が増える。
そしてこの範囲を広げた貨幣どうしがであい。その貨幣の間で競争が行われて、最終的に金に固着する等。
この部分はわからないが、今ここで述べたいのは、例えば、全ての商品が商品社会の市民であり、第二形態をもち、そしてその中からある商品、天皇や総理大臣が商品世界から排除されて、貨幣になる等の場合、その移行理論はどのようなものか。
そして完成した姿としては、貨幣は、他の商品からどのように見えているのか(つまり貨幣にたいして、商品は投影をしているわけだから)ということだ。
(6)貨幣は結晶でありそれが金という商品に固着するということ&上の移行関係の考察
マルクスは、貨幣は結晶であると言っている。そしてその結晶はおそらくは社会的な関係の結晶であろう。
そしてそれが金という一商品の使用価値(身体)に固着する。
この固着するというのは、逆に言えば他の商品たちにもその位置につくチャンスは理論的にはあったし、そして一旦固着した場合は、その黄金の反射する身体に、商品たちは、ある結晶を見ているということだろうし、さらにいえばその結晶と金自体の区別すらついていないということだろう(投影)。
『すでに確認したように、貨幣形態は他の全ての商品の関係が、一つの商品のうちに反射し、その商品に固着したものにすぎない。
貨幣が商品であるという事実を、こと新たに発見するのは、貨幣の完成した姿から出発して、事後的に貨幣を分析しようとするものだけである。交換プロセスにおいて、ある商品は貨幣になるが、その商品はこのプロセスによって価値を与えられるのではなく、独自の価値形態を与えられるのである』貨幣の価値と価値形態 p168引用
さてこの、他全ての商品の関係とはなんだろうか。
また金もその他すべての商品にたいして、何らかの投影をしているはずである。
おそらくだが、金の投影とういうのは、金という素材自体の価値、相対的価値を、他の商品の価値を表すという。第二形態、展開された形態だろう。
(金も何らかの方法で価値を表現しないといけない、貨幣形態では、金はたの商品の(使用価値の)価値をただ自分の身体で表現するだけで、自分の価値は表現できない)
だから、完成された貨幣形態には、金の価値を表す関係が同時に含まれている。それは、金のがわからの価値表現として存在する。
貨幣形態の中に同時に存在する(金の価値を表す)第二形態
金(相対的価値形態)=全ての商品の使用価値(それぞれが特殊な等価形態)
これで金の価値は表現されている。
一方で、その他の商品たちの関係とはどのようなものか。これがわからない。
例えば、亜麻布は、第二形態としては、
亜麻布(相対的価値形態)=全ての商品の使用価値(それぞれが特殊な等価形態)
という関係を、その他の商品との間に持っている(のであろうか)。
自身の価値を、その他の全ての使用価値であらわす。
亜麻布は、巣の他全ての商品の集合(集合体・集合の名)である。
そして、全ての商品においてもこれが成立するとする。
(上衣も、鉄も、上の第二形態を持っているとする)
金は一般的な等価物であるから、他の商品たちは、金の反射する身体の内に、第二形態における、その他の全ての等価物を見ているということなのだろうか。
亜麻布から見た金の姿
金(全ての商品と亜麻布の関係・亜麻布以外の特殊な等価形態)=亜麻布
鉄から見た金の姿
金(全ての商品と鉄の関係・鉄以外の特殊な等価形態)=鉄
これが全ての商品分あるということだが、うーん、いまいち、何か違うだろうな。
並列的に考えていて、もっとお互いがお互いを包摂するような関係としてとらえられてないように思える。あとここの部分というか全体的に言えるけど、別に自分で考えたわけではない。考えた風のかきかたにはなっているが。ということでなげてここはおわり。
(7)貨幣理解においてもっとも重要な再帰性について
おわると言って、まだ少しかくが、貨幣というものが、再帰的な構造をもつということ(この再帰性と投影には関係があるだろう)それが、僕の理解したいことの二つ目である。
再帰性という考え方を理解するのが表情に難しく、その中身には触れられないが貨幣なら、貨幣は固定した存在ではなく、貨幣がまずあるとして、しかしそれは再度貨幣にならなければいけない、運動をしてその運動により得られる関係が貨幣だということだろう。
また自己再帰性とは、自己言及性ともいわれ、自己が自己について言及することにより、最初の自己の性質そのものが変わってしまうというものだという。
またラカンのある格言からもこれを少し垣間見ることができる。
「一歩進むためには二歩後退」というものだ。
上の言葉は人生訓のように思えるが、ラカンはこうした格言で、自分の理論を述べていることがあるようだ。ラカンもマルクスと同じく隠蔽が好きらしい。
上の自己言及性と合わせると、自己が自己であるためには、過去の自己とか、自己の出自とか、そういう昔の要素につて言及することが必要で、それにより、新しい自己として、自分を定義し続けているというのが、人間ではないか。
またラカンは主人のシニフィアンS1(貨幣である)は、ミツバチの群れであり、その他のシニフィアンS2(他者の場にあるシニフィアンの集合だろう)を入れる封筒であるという。
これは、貨幣が結晶である。ということと符合しているように思える。
ミツバチの群れとは集合である。だから貨幣も実は集合である。しかしそれが一つのシニフィアンに固着しているときには、それは関係の集合としてみえないで、一つの言葉として、一つの自分として見える(のか?)。
そしてS2も集合である。
だから主人のシニフィアンS1や貨幣は、S2の集合であるS1のさらに集合であるあらたなS1だとも考えられる。
S1(S1(S1(S1→S2)
そして、これらをまとめると・・・・まとめられない。わからない。
というか、参考文献には、之の答えらしきものがのっているのだけど、まるで理解できない(貨幣は有限内無限)。まるで理解できないから、それを理解しようとする努力と並行して、この記事を書いている数か月はあえて、それをあまり観ないで自分なりに考えを深めようとしているわけだし(だから最初に書いたように、これらは自分で考えた部分ではない、あとラカンとマルクスとフロイト等を調べることで、そうとう僕のなかでとっちらかっているというのもわかってもらえると思う)、だから今回資本論を読んだ観点から、これを考えよう。
例えば、歴史の最初には、きっと生産物しかなく、生産物同士の交換により、価値という属性が生まれる圧力が発生し、そしてそこから人間の社会的な行為により一般的な価値形態におけるある地域限定の貨幣が誕生する(もしくは歴史の前段階で、そのきっかけになった出来事がある、他の商品を前提としない唯一単独商品=原父の名)。
古代におけるある地域でこの一般的等価物が、できがあると、この時にはじめて、それを構成する商品たちの交換関係は、価値による等価交換となる。それまでは価値は不完全である。
ここで一つの集合(といっても、内部では二重の集合かもだが)が完成するが。
他の地域との接触(外部の他の貨幣集合)や内部の生産力の向上(商品になる生産物の増加)により、この貨幣(貨幣となる素材)は違うものになっていく。
この際、どういう形で変化するかというと、新しい貨幣は(新しく貨幣となる関係と、それが一時的に固着する貨幣素材は)、既にある前の貨幣による価値関係をまず基準とする(だからこの時点で既存の商品の価値は確かに存在するし、それは前の段階での労働を根拠にしているのであり、しかし同時にこれはさらにまえの段階での貨幣を根拠にしているし、それはさらに前の労働に根拠をち)。
次に、貨幣が貨幣になるには、二つの要素が必要である。一つは新しい生産物での生産、これは種類でもいいし、前の商品と同じものを低コストで造ったものでもいい。低コストで作った場合(前の商品にくらべて、コストとして価値が低い場合)は同じ価値で、売れるので儲けになる。
そうもう一つの要素は剰余価値だ。この剰余価値は、最初の段階での貨幣と商品集合と比較して、次の段階、今目指す段階の貨幣とその商品集合においては、コストとしての価値は生産性の向上で少なくなり、全体としての富(商品の使用価値)はおおきくなり、しかし交換の際には等価交換がおこなわれるから、一応価値量としてはある時点では一定のはずだ。
貨幣が表す価値というのは、これはラカンの主体の事で、一方で労働イコール価値という時には、これはその内部での事後的遡及的な商品の等置関係ということになる。
だから、前の段階といっても、それは遡及的に、発展段階の単純な価値形態、展開された形態がそうなっているだけであり、そして新しい貨幣に更新される際には、それを参照する一方で・・・・・・やはりわからない。
ということでおわり。
④マルクスの記述方法&その他の考察
(1)冒頭の価値分析、価値形態論、商品フェティッシュ論、交換過程論の関係
冒頭の価値分析では、二商品の交換関係から、これが第三の性質と共通の量を表しているということを想定している。
また商品を構成する属性を使用価値と価値にわけて、使用価値を作る労働を具体的で有用な労働として、価値を作る労働を抽象的な労働としてわけている。
ここでは、商品に価値が内在していると想定しているが、価値形態というものを考えずに、ただ単独の使用品として価値が内在するとしている。
価値形態論では商品を主体(主役)にして、価値が表される関係、そこから貨幣が生じる関係を描いている。この時、一商品の使用価値に内在する価値は、もう片方の使用品の使用価値で表される。これにより等価物をつくる具体的労働は、そのまま社会的な抽象的な労働になる。ここで商品の使用価値と価値が同一化して扱われる仕組みを描いている。
第一形態の説明を終えた時点で、マルクスは、価値が商品に内在するものであり、交換関係が価値という属性や価値量をきめるのではないことが証明されたという。
(この交換関係が価値量を決めないというのは、交換比率は人々の主観ではないということだろう。商品の価値という属性が、交換により生じるのではないというのは、これが生産物ではないからと、事前のある貨幣段階では、商品に価値は事前に与えられているからだろう。ただマルクスがいうのは、価値は価値形態がないと、現象しないということだ。しかしこれは価値という実体と商品という形態の話ではない。あくまで事前に商品に与えられた価値があるのはそれが労働生産物ではじめから、他の商品と関わるものだからだ
いやしかし関係を個別の属性として思い違いをするというのなら、新しい商品にたいして、または古い商品に対して、もしくは、自分があたらしいのに、なんというか、前の相手との関係を、違う相手に投影する等考えられないか)
(1)商品の等置関係は価値によるものであり、商品は使用価値と価値で構成されていると仮定。
(2)仮定を元に、商品には二つの要素、使用価値を作り出す労働と価値を作り出す労働があるとする。
(3)価値形態において、等価物の使用価値に価値が現象する。
(4)ある仮定からはじまり、その仮定をもとに演繹していくと、最初の仮定が得られる。
これが証明?循環論法とどう違うのか。
それともこれが再帰的な照明方法なのか?
これは置いておいて、次に商品フェティッシュ論では、これは商品の妄想と題しているが、実際には初めて人間を登場させて、人間が商品にそって妄想を抱く過程が描かれているように思える。だからマルクスはここでは、人間と出来上がった商品関係の間の関係を描いているのであると考える。
この時僕的に重要なことは、人間が商品関係に疎外されるといっても、それは元からある人間関係が、商品関係という幻想に疎外されるということではない。
狭い共同体と違い、人々が広範に関係するには、最初から商品関係しかないのであり、人々は疎外されるどころか、商品関係としてしか関係できない。
人間が間違えるのは、価値を商品の自然属性であると考える部分。
商品同士の関係=人間の関係は社会的なものであり、ある商品の使用価値とある価値量の組み合わせは、有る使用価値に内在する価値は、この結果でしかない。
しかし、人々には、使用価値=価値であり、使用価値同士の関係が価値関係なのだと見える(これはアダムスミス等の労働価値説のこと)。しかし実際には使用価値は、ある関係ないでのみ、特定の価値量=労働量を表しているに過ぎない。
労働の生産物は、商品とし存在する時にのみ(他の商品との関係している時)一定の価値関係を表すことで、使用価値に価値が現象するのであり、特定の質の特定量の使用価値が、ある価値量を表すのは、関係の産物に過ぎない。
しかし人々には、この価値形態という関係(商品の主体的な関係)がみえないで、そこから商品の使用価値に一時的に内在するようになった価値だけを見る。しかもその見方は商品の使用価値=価値という見方である。
だから亜麻布20ヤード=上衣1枚という等式において、
亜麻布40ヤード=上衣1枚に変動した場合
亜麻布20ヤード=上衣2枚に変動した場合等は、交換比率の絶え間ない変動があるわけだから労働価値説は成り立たないと考える。
次に交換過程論では、最初は貨幣の導出について述べて、その後、歴史的な人々の行動と、価値形態論を対応させている。
価値形態論では、肝心の貨幣形態への移行について、全然詳しく述べられていない。マルクスは、多くの商品の中から、ある商品だけを、排除するというのは、人間の行為であり、そこに価値形態論では導くことができない、ある種の理論があるのだと考えているようだ(価値形態論では、一般的な価値形態までが完成の限度)。
(2)その他
もうかけることないや。色々疑問だらけ。変動為替とかと、マルクスはどう折り合いをつけているのだろうか。
6.おわりに
6-1.まとめ
①今回の成果らしきもの(多少自信があるもの)
(1)生産物の交換関係から価値という属性が生じる
(2)単純な価値形態→展開された形態→一般的な形態(→貨幣形態)
(3)価値形態は商品が主体となる論理関係。実践として持ち込むのは人。
(4)初期の物々交換では、価値形態はない。ある程度交換関係が固まる段階で価値形態を持つ(交換比率が生産と関係するようになる)
(5)単純な価値形態ははじめから完成してはいない、むしろ一般的な形態が完成した時に遡及的に価値関係として完成する。
(6)労働価値説において、商品の交換比率は、価値という第三の属性の一定量を表すものであり、その見かけの交換比率が変動しても、これと矛盾しない。他に変数があろうと、この社会的な生産コストの関係を、商品の使用価値が表すという関係は、重力の法則のように貫徹する(ただしここでは信用貨幣や株などはまだ登場していない)。
(7)価値形態は、相対的価値形態におかれた商品(亜麻布)が自身の価値を、等価形態の商品の使用価値(上衣)で表そうとする、主体的な関係であり、上衣はその関係においてのみ、等価物である。しかしその関係が成立した内部では、因果関係等取り違えが起きて上衣の使用価値が、もともと価値そのものであるから、亜麻布は上衣と関係すると亜麻布は考える。
②今回の成果らしきもの(自身がないもの、まちがいか)
(1)貨幣の生成は一度きりではなく、内部の商品関係を再編しながら、自己に再帰する。
(2)価値とは関係概念であり、それが商品たちや人間達には、等価物の自然属性であるように見える。
(3)価値は投影関係である。価値鏡。合わせ鏡。
(4)商品である以上(生産物ではないから)、価値は、新たに他の商品と交換する関係の前から内在している。新しい交換関係が生じる時、商品は、価値を得るわけではない。価値形態をえるのである(ある貨幣の中で価値の尺度自体はかわらない)?
(5)貨幣は、概念であり、他の商品の関係が結晶化したものであり、金にその関係性が固着して、他の商品たちに反射している。
(6)貨幣は集合、商品集合を包摂する、有限内無限=商品の神(まあ参考文献のパクリだから、これはそうだと思うんだけど、僕にはなにがなんだかわからない)
③全然わからないもの(または今後の課題)
(1)結局価値は商品にもともと内在するのか、しないのか、そして価値とは何か
(2)マルクスはこれらの考えをどういう形で証明しているのか
(3)自己再帰性について、貨幣の構造
(4)貨幣が生成する際の、貨幣形態への移行に理論
(5)投影とは何か
(6)以上を調べるために、また1年くらいラカンとマルクスに学ぶ。
(7)あとは現代経済学や他の現実の経済関係の話も引き続き少しずつ学ぶ。
今回はここまで終わります。今2月13日なので、この記事は15日に適当に見直してあげようと思います。一応書いたから、少し参考文献をみながら、追加できることがないか、考えてみます。それが、6-2ということで。
6-2.2月15日追記
以下、参考文献からの丸パクリですが、あいかわらず理解してないので、自分で考えようとした、断片的なものにとどまります。
①投影は包含と関わる
まず上の題目は何をいっているのか、自分でもわかりません。ただ正直に言えば、僕の読んだ本では、自己は、他者に自己を反射させることで、他者を包含する的な事が書いてありました。大元はカントやヘーゲルらしいです。
これが全然理解できないので、少しは勉強した部分である別角度から考えます。
ラカンは、言語の構造において、隠喩と換喩を根本的な物だと考え、そして換喩のほうがより本質的に先に生じていなければいけないと考えます。ラカンの定義する換喩とは、部分で全体を表現する、置き換えの方法です。
例えば、「草原をライオンが走る」という文章を換喩表現してみます。
「草原をタテガミが走る」
これでも意味は伝わるし、この場合、タテガミはライオンの一部分です。僕は、マルクスの単純な価値形態における商品Aと商品Bは、この換喩と関係があるのではと考えます。
ラカンの換喩は、明らかに包含関係を含みます。ライオンとタテガミです。そして商品同士の関係も、商品Aは他者である商品Bを自身に包含して、商品Bは他者である商品Aを自己に包含する。
うーん、なにをいっているのか、またわからなくなった。
ただ隠喩はフロイトの圧縮であり、換喩は置換に相当するようで、置換とは移動ということも含むはずです。商品の持ち手を変える移動、これがなにかの法則と関係するというのは、ただ個人的な物々交換だけを考えれば、なにも必要がない概念です。
しかし、貨幣が存在する世界では、貨幣は他の全ての商品の価値を通約する能力をもち、この場合、その通約性がどう成り立つかということが、重要になります。
実際に物々交換は貨幣のある世界では基本的にあり得えない。しかし、例えば、ある特産品、これは海で取れて、すぐ鮮度が悪くなるもの、マグロの大トロとします。これが、ある値段でスーパーに並ぶまでには、猟師さんの仕事、トラック運転手さんの仕事等沢山の労働(ここではコストという意味で汗水たらしたといことではない)を経由して、それではじめて市場価値が付いています。
スーパーで表示される値段は、海から釣り上げられたマグロをある部分に解体したそのままのものではなく、色々なコストを経由して、その値段がついていると考えられます。
この時、マグロの大トロの刺身は、その他の商品、猟師、トラック運転手等の労働を包含しています。そして大トロを食べた人間、この人が労働者なら、労働者の仕様価値の中に、このマグロという商品も包含されているということです。(いやこれ、鉄筋とビルとかのほうが絶対例えとして適切だ)
ただ上は、メインは使用価値の話です。問題は価値の包含、そして価値が使用価値に取りつく(等価物にとりつく)ということで、そして値段の関係には、この価値が使用価値を経由して、より大きな価値として現れて、最後には貨幣として現れるというような、働きが考えられるのか
貨幣→生産手段(材料等)→生産された商品とその売却→増殖した貨幣
増殖した貨幣【(生産された商品とその売却(生産手段(貨幣)))】
下は、左側のものが、右側のものを包含しているということを意味しています。
していますといっても意味がわからない。あてずっぽうでパクっているだけだから。ただこれをみると、自己は過去の自己を包含している?そしてそれが投影と関係あるなんていうふうに思えます。というか思えないけど、それが観点です。
わからないままここは終わり。
ただ例えば、ライオンという商品Aは、自身を表現するために、タテガミという商品Bをつかう。この場合、ライオンが自信を、タテガミという言葉に反射させることで、同じ概念だと考えている。しかしそれが逆転して、この関係の内部だけでは、タテガミという部分がある概念そのものだから、ライオンは自分もタテガミと同じ概念だと思う的な。はい意味不、終わり。
②クレタ人のパラドックスと自己言及性
名前は忘れたが、哲学者か何かで自身もクレタ人であるある人が、全てのクレタ人は嘘つきだという。調べたエピメニデスです。
Aエピメニデス→B全てのクレタ人は嘘つき
(1)まずBを真だとすると→Aのエピメニデスは嘘つきということになる。
(2)Aエピメニデスが嘘つきだから→Bは嘘ということになる。
(3)これにより、最初の前提Bは真であるということから出発した推論の結論は、これと矛盾したもの、Bは嘘(偽)であるということになる。
(1)Bを偽だとする→Aエピメニデスは正直だということになる。
(2)Aエピメニデスが正直なので→Bは真でありクレタ人は嘘つきである。
(3)これにより、最初の前提Bは偽であるから出発した推論の結論は、これと矛盾したもの、Bは真であるになる。
これがクレタ人のパラドックスです。
この関係において、エピメニデスは、クレタ人の1人といい意味では、クレタ人という集合の要素である。しかし、同時に、このクレタ人という集団にたいして、エピメニデスは、ある種の特権的な地位にいる。ある意味では全てのクレタ人たちのほうが、エピメニデスという集合の要素であるとも考えられるかもしれません。
エピメニデス【全てのクレタ人という集合の名(エピメニデスやその他クレタ人全員という集合の要素)】
だからなんなん。いやわからない。ただ自己言及性とは自己が自己を含む世界に働きかける事、それについて語ることで、最初の自己がかわってしまうこと、そういう風に書いてあったし、クレタ人のパラドックスはそれにあたるようです(過去の自己、エピメニデスが自己について語ることで、エピメニデスがかわる。自己に再帰する?)。
今、上の推論をもう少し続けてみる。
Aエピメニデス→B全てのクレタ人は嘘つき
(1)まずBを真だとすると→自動的にAのエピメニデスは嘘つきということになる。
(2)Aエピメニデスが嘘つきだから→Bは嘘(偽)ということになる。
(3)これにより、最初の前提Bは真であるということから出発した推論の結論は、これと矛盾したもの、Bは嘘(偽)であるということになる。
(4)Bは偽なので→Aエピメニデスは正直である。
(5)Aエピメニデスは正直だから→Bは真である。
二周すると、最初の前提にもどることができる。
ただしエピメニデスは、この時直前では正直者である。しかしすぐに嘘つきになる。
Aエピメニデス→B全てのクレタ人は嘘つき
(1)Bを偽だとする→Aエピメニデスは正直だということになる。
(2)Aエピメニデスが正直なので→Bは真であり、全てのクレタ人は嘘つきである。
(3)これにより、最初の前提Bは偽であるから出発し多推論の結論は、これと矛盾したもの、Bは真であるになる。
(4)Bは真なので→Aエピメニデスは嘘つきである。
(5)Aエピメニデスは嘘つきだから→Bは偽である。
上と同じ。この直後、エピメニデスは正直者になる。
なにがいいたいのか、うんわからない。
ただこのパラドックスを回避する簡単な方法はある。それはラカンが述べている。しかしそれでは十分ではない。AとBは、何において同一なのか、何かにおいて同一であり、しかしAとBは異なるものである。
というわけで(どういうわけよ)、今回はここまでで終わりです。自分で学んだ内容があまりないという感じもしますが、一応ここ2年くらいの間に資本論関係で学んだことのまとめ的な感じです。
そして記事をあげる前に、全体を見返してみたんですが、全然何もわかってないね恐ろしいほどに。このわからなさを克服すするために、再帰性・投影等の概念について今後は調べていき、そしてまた一年後くらいにこれ関連の記事をあげようと思います。今はもうひたすら眼精疲労で目がいてえ。ここまでみていただいてありがとうございます。ではまた来年-





