「哲学メモ」唯物論に対する誤解

 

ニーチェに対するよくある誤解等、間違いばかりの記事を書いていますが、しょうこりもなく、誤解を繰り出していきます。

あとマルクスの資本論の記事と異なり、ここでは特定の誰かが正しいとか、そういう想定はしていません。誰かの一人の思考を丹念に追おうという試みではないからです。

また以下では、ラカン、フロイト、マルクス、ハイデガー、カント、等を大体同じ考えのように扱って当てはめていますが、当然意図的に差異は無視しています。

 

 

1.唯物論は物質が全てだと考えているという誤解

全ての存在は(人間も含む)は物質であり、世界は物理学的な自然法則が貫徹される場所だと、そのように世界をとらえている、というのが唯物論に対するイメージだとこの記事では考えます。

マルクスが、生産関係が、思想や社会制度をつくるというとき、上のような理解と関連して、受け取られていると想定します。

しかしこれは、唯物論の理解としては、間違っていると僕は考えます。

 

 

2.カントの物自体と現象としての物質

 

①ある物質?を観測する際の例

物質という言葉の理解として、普通に考えれば、これは不思議な部分などはない現実に存在するものであり、人間が観測するさいには、それをある程度ありのまま(多少脳内での加工はあるとしても、それが脳内映像に過ぎないとしても)観測するものと考えられます。

物質は素材として外部にあるものです(とします)。下の例では、僕が今操作しているパソコンのマウスを見ることにします。

普通の見方
物質(観測対象、黒色のマウス)→人間の認識→物質(観測結果、黒色のマウス)

 

しかしある種の哲学ではそうは考えず、物質にはその大元となるモノ自体があり、それが人間の認識として現れる際に、物質という形態をとると考えます。

モノ自体(マウスと認識される前の何か)
→人間の受容能力(感性・悟性・理性、時間・空間・カテゴリー)→物質(マウス)

 

物質は人間の認識が統合された最後に現われるもので、それは素材そのものではないという考え方です。人間は、特定の存在(存在者か?)、例えば黒いマウスを見れば、これは特定の黒い、なんというかマウスの形をしているな、バッファローとか書いてあるな、これはマウスという名前だな、等色々な情報をそこから受け取ります。それはマウスの特性をそのものを受け取っているわけです。

 

しかしこの哲学の考え方によれば、大元の素材というかそう呼ばれる何かには、マウスという名前も別に固定していないし、それどころか、黒いとか、クリックするためのボタンがついているとか、そういうマウス独自の特徴、内在する属性とおもわれるものは、実はマウスに直接内在しているのではないと考えます。

 

モノ自体にたいして、人間がその様に受容して統合する能力があるから、目の前のマウスは黒くて、握りやすいボタンが付いたものとして、見えるということです。つまりマウスの元となるモノ自体には、何らかの形で特徴のようなものはあるのだけど、それは別に黒とかスクロールするためのボタンがついているとか、そういうことではなく、そういう属性は、マウスの元となるモノ自体を、人間が観察することで、はじめて、人間が独自の理解の仕方として、そうとらえているということです。

 

モノ自体(マウス)を人間が見ることで初めて、それは黒くて握りやすい形で、クリックするボタンがあるマウスだと認識されるのですが、普段の僕の意識では、そうではなく、マウスは初めから、黒くて、握りやすい形があって、等それはマウス自身の属性だと思っていると、この哲学では言っています。

 

②本質的には異なるものを同じものとして扱う例(概念の投射)

上はなにかよくわからないモノ自体といういわば素材を認識する際の例でしたが、ここでは、もうある種見えている存在にたいして、概念を当てはめている、それが物質であるという話になります。

今、人間は道を歩くときに、何気なく風景を眺めています。これも散歩をした日の僕です。

目の前の風景を、どの様に扱っているかというと、目の前の道路や木や石を認識する際には、道路や木や石として名前のある状態で意識的に認識します。また無意識的(はっきりと意識していない状態)でもそう認識しているはずです。

しかしその他の動物はそのような認識を持つでしょうか。

他の動物も自分なりのやり方で道路や木や石を認識するでしょうが、人間のように、道路や木や石などの名前があるものとして認識はしていないはずです。

道路や木や石と呼ばれるそのそれぞれには、見えている段階でも、それぞれの個性や特性があり、同じ道路や木や石などは、実際には存在しないはずですが、人間だけがこれは道路だ、木だ、石だ、という風に、ことなる存在を、言葉により、同じものとして簡略化してとらえることができます。これは物質というか、とりあえず対象に対して、概念を投射してとらえているからだと考えられます。

 

最初の例ではなにかよくわからないモノ自体を、形のある存在として、人間が捉える的な話であり、今の例は、既に形を認識できるものに、人間が概念を当てはめて、本質的にことなるものも、いっしょくたに扱えるということで、これには差異があります。しかし、構造として(下の意味での構造ではなく)は相同性があると考えられます。

観測対象→なんらかの観測方法や構造→物質(視覚世界・言語的概念が内在化)

 

3.唯物論では物質に概念が投影される見えない構造を論じる

 

唯物論も上の哲学と同じです。

物質には既に概念が投影されていると考えます。

モノ自体から、どのようにして、物質が生じるか、概念が内在化するのか、それを把握することを目指して、提示しているのが、カントの超越論的哲学であり、マルクスの唯物論であると考えられます(全体の一部だろうけど、ここで僕が理解するための視点として)。

その際に、この構造自体は、決して、見える世界には物質として存在せず、人間の言語構造的な働き、見えない働きを考える必要があります。だから通念と違い、唯物論は非物質的領域に対するな学問的探求です。

 

 

 

4.補足、カントのモノ自体とフロイトのモノ

 

ラカンは、人間の認識能力を、象徴界、想像界、現実界という風に分けています。これは、特定の実際にある場所をさすのではなく、あくまで働きを示しています。

想像界は視覚的な働き、象徴界は言語的なはたらき、現実界はそこから排除された働きです(人間が普段現実と言っているものとは違い、人間意識にはとらえることができない)。

この考え方は、ラカンが師匠としているフロイトの思想をカントや構造主義的にまとめたものです。ラカンが現実界とよぶものを、フロイトはモノと呼びます。これは人間存在の核、いわば本当の自分=無意識です。

そしてカントのモノ自体は、上の区分だと、捉える事が出来ない存在として、現実界だと想定できます。

現実界(モノ自体)→象徴界(言語構造)→想像界(概念が投影された物質)

 

これはカントのモノ自体とフロイトのモノが、名前が似ているところからあてはめていますし、人間には見ることができない存在として、現実界として考えているのですが、しかしよく考えると、カントのモノ自体とフロイトのモノには差異が存在します(ハイデガーが想定するモノ自体は、フロイトのモノに近い概念だと思います)。

というのは、カントのものは、たしかにそれ自体は決して直接はのぞくことはできませんが、しかしそれでも、人間が観測することで特定の形で現れる存在なのですが、フロイトのモノは、ある意味では、決して人間にはとらえられない存在だからです。

 

フロイトは、無意識を二つに分けています。力動無意識とシステム無意識です。

力動無意識は言語的な無意識であり、夢はシステム無意識から生じたものを、言語的に歪曲して表現するものだと考えられます。

人間が、夢で見た物を、後から分析して、それがなにか隠された願望を歪曲してあらわしていると考え夢を分析しても、それらの内多くは現在の生活の中から拾ってきた素材にすぎず、本当は幼少期の願望やトラウマこそが、夢で表されているとフロイトは考えます。むしろ夢の中で抑圧されていると思われている思想というのは、少し深堀すれば本人も認識できるレベルのことでしかないと言います。言語的な構造により本当の願望やトラウマを隠す、その際には現在の欲望や出来事を素材にするということです。

 

前者力動無意識が象徴界、システム無意識が現実界に対応すると考えられ、システム無意識のそれは、人間には基本的には把握不可能だと言います。

この無意識論にカントのモノ自体を再度当てはめれば、カントのモノ自体は、あくまでも目に見える領域のことであり、力動無意識、想像界と象徴界に対応すると考えられます。

 

5.商品の交換から、価値が生じて、それが内在化されるというマルクスの理論

商品Aと商品Bの交換関係の内部で、価値という属性が生じる。これは商品Aが商品Bで自己の価値を表現しようとする行為・関係内部でのみ事後的に生じるのだが、商品Aには、まるで商品Bがあらかじめ事前に価値であるように映る。

 

最後は蛇足か、どの道よくわからない。というわけでこの記事は終わります。見ていただいてありがとうございます。

 

 

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