こんにちはRAIMEIです。この記事は、一つ前の哲学記事の続きです。直接続くというのではありませんが、内容的には関連があると思います。
以下、何の根拠もなく、独断で書いていきます(一応参考文献はいくつかあるのですが、それを理解しないで、そしてあえて見ないで書いているので、劣化パクリ的な何かです)。
そして以下では、明らかに異なるものを、大まかに一つのものとしてまとめているのもあり、不公正な部分が多いです。
今回は、何を書きたいのか、事前に論の流れを提示しないで書いていきます。でも途中でそれは提示します。
Contents
- 1.実体・形態とは
- 2.スピノザの神と現代スピリチュアルの神
- 3.記事を書いている姿勢と、記事内での姿勢
- 4.マルクスの実体論
- 5.価値とは商品に内在する一般的な属性
- 6.価値という属性は商品の使用価値の捨象から生まれる
- 単純な価値形態
- 7.価値という属性は商品の交換関係(価値形態)から生じるのだが、商品にはあらかじめ価値が内在していないと商品ではないという矛盾
- 8.矛盾していることの引用
- 9.問題の整理と、なぜそれを問題視するのかその理由の整理
- 10.商品(の価値)が先か価値形態が先か、まずマルクスがどの様な社会を想定しているのかどの様な分析方法か等、それらを見る
- 11.振り返り
- 12章 振り返りその2(以前の8章)
1.実体・形態とは
実体や形態は、哲学や神学の用語であり、やっかいなことに、哲学者ごとに意味するところが大きく異なります。そして僕は全然理解していません。
この記事では基本的に、実体とは本質であり、神であるとします。そして形態とは、その具体的な現われとします。
2.スピノザの神と現代スピリチュアルの神
実体→属性→様態(個別存在)
(左の方が本質・神で、そこから分化する的な意味)
この考え方では、一なる者・本質である神が存在し、そしてそこから、様々な属性が生じて、最後に個別の存在が生じると考えます。
といってもスピノザの神は、遠く離れたところに存在する一なる者というよりは、汎神論、全ての中に宿る者なので、スピノザの場合、この3つは垂直的&下降的な関係とかではないでしょうし、自然の節理のようなものだと思います。
先に示した、より垂直的な考え方をするのは、ある種のスピリチュアルのほうで、例えば神は自身を認識するために、人間を作った、人間にはだから神の性質があるのであると考えます(これも考え方によっては、垂直的な関係といわれているとはかぎりません)。
この二つは違うものなのですが(スピノザは人間が考えるような神を否定しるわけですし)、同じような点があり、それは、世界の本質は同じものであり、それぞれの存在はそれを宿しつつも、一なる原理が、多様な属性としてまずは分化して現われて、さら個別存在に分化して現われているというような考え方であると思います。
ただスピリチュアルも必ずしも神を人格化して考えているわけではないし、別に人格化して考えていたってそれで悪いと誰かが証明したわけではないです。この記事では、例えばスピノザやスピリチュアルを下げて、マルクスをあげるというような書き方はしないように心掛けています。それは僕の本意ではありません。
3.記事を書いている姿勢と、記事内での姿勢
しかしマルクスの考え方を追っていくと、そのような書き方になってしまうと思うので、この記事ではあくまでマルクスの考え方を、僕なりに理解しようというものであり、別に僕自身がマルクスは絶対に正しいと考えて、他を非難しているというようなスタンスを取っていないということを、先にお断りしておきます。
しかし同時に、何かを学ぶときには、その場所では、まずは対象の信者にならないといけないと考えるので、記事内においてだけ、いや記事内ではなく、今パソコンの前に座ってこれを書いている時だけ、マルクスは正しいというスタンスを、僕は取っています。
(いや逆なのか、この記事内ではマルクス信者で、記事を書く姿勢としては、そうではないのか、そちらなのかもしれない、というか記事を書く姿勢以外に、記事を書いていないときの姿勢もあるわけね、記事内ではマルクスを理解しようということで、記事を書くときはマルクスが正しいということで、記事を書かない時はマルクスは正しいということを思ってはいないということなのか?)
これはある意味では、答えが先に決まっているような不公正なやり方だととらえられるかもしれませんし、ある意味ではそうだと思います。しかし僕としてはこの方が公正であると感じています。
僕には、現代経済学を学ぶ準備と一応少しだけ学んでいるということがあります。マルクスを親身に学び、今度は現代経済学を親身に学ぶ、対立する両者の意見をそのように聞いてこそ、判断もよりよいものになると考えます。そういうスタンスを取っています。
もちろんスピリチュアルとかスピノザもそうです。その時にある対象がある対象を否定しても、それをも親身になって考える必要があるということです。まあもちろんいい気持ちはしない時も多々あります。
それとは違い、似ているが、明らかに不公正なやりかたというものがあると僕は考えます。それは二つの対立する意見を同時に摂取するというポーズはとるのですが、実際は結論が決まっているという場合です。例えばマルクスを学ぶなら、同時にマルクス批判を学び、労働価値説が間違っているから、ほらマルクスは間違っているという風に結論をするというようなやり方です。
僕はあくまで、マルクスを学ぶときだけ、それを聞き入れるのであって、この記事以外で現代経済学を否定してはいない。逆に現代経済学を学ぶときは、それを聞くために、マルクスに否定的なスタンスをとると思います。しかしそれは結論が出ていることにはならずに、最後に両者を比べてみて、結論を出すというような形がより望ましいと考えます。
もちろんそういったって、人間にはある種の人生経験というか、個性があるので、特定の説と親和性があり贔屓をしてしまうのは仕方がない事ではあると思います。その点も一応考慮しようとしています。
また自分で考えたつもりでも、他者の意見に引きずられているということはよくあると思います。僕はそういうのが嫌なので、別にマルクスに基づいて、何かを分析しようとか、そういう枠組みを、固定したくないとも思います。
例えば、この記事を書く姿勢と、記事内の僕の姿勢というのは、たしかに精神分析とかにも引きずられた考え方だとは思いますが、しかし、それでもまず自分で考えたことであると、前々から考えていたことではあると思うんですけど、でもそこはかとなく明らかに、引きずられているような、嫌な感じがします。
何が言いたいのか、ここでの話をまとめると
何か正解があり、それを学ぶというような姿勢を取りたくないということです。
4.マルクスの実体論
マルクスの考えは、たぶんスピノザのそれを逆向きにしたものです。
様態→属性→実体
これに資本論の用語を当てはめると以下のようになると考えます。
商品→価値→抽象的労働
マルクスは、神(一なる神)が最初から存在したり、最初から人々に内在していたりするのではなく、むしろ人々の行動から(自身の権利の委譲)、神がその集合として現れると考えているようです。
そして、人々は、それを逆にとらえて、最初に一なる神(または中心の神)が存在するから、他の神々や人間も存在する(または内部にその神が宿っている)、または一なる神(中心の神)は、どこかある点では他の神々を超越した存在であるのだと考えている。これが人間の疎外だと。
自分で書いていて、なんか釈然としない部分もあるのですが
経済の分野では、この神は貨幣であり、その内実は価値というものだと、マルクスは考えているのだと思います。といってもこれでは実体は、抽象的労働ではなく、価値のほうになってしまい、ピタリと当てはまらないわけですが、これは宗教をマルクス流に解釈した場合、貨幣は神そのものというよりもキリストやアダムという神人であり、結局のところこれは神の現身であり神なのだと言えると思えます。ただそうはいいつつも結局よくわかってないので、以下その補足も含めて書いていきます。
5.価値とは商品に内在する一般的な属性
現代人が商品価値というときに、これは、商品自体のなんらかの有効性と、それへの人間の評価や欲望と、それにつく値段のことを指しているのだと思います。
例えば携帯電話でいえば、電話機能とかその他いろいろな機能がついていること、それを人間が欲望していること、だから値段がついているということ、そういうことをさして携帯電話の商品価値と呼んでいるのだと思います。
それにたいして、資本論では、商品の価値=労働であると書いてあるので、読み始めて数ページでもう終わりだよこの主義となるわけです(効用はどうしたん?)。
しかし、マルクスのいう価値とは、実際には現代人が思い浮かべる商品価値のことではないと思います。現代人が考える商品価値は、資本論においては使用価値(物質としての商品やその社会的な有効性)のことであると考えます。
マルクスは需給法則による交換比率の変動を考えているのではなく、そもそも生産物が、商品として流通する仕組みについて考えており、その際にそれらの商品は、何か等しいものとして交換されているとマルクスは考えており、その同等性が価値という属性とそれにおける量なのだと考えているのだと思います。
価値というのは、例えば、亜麻布=上衣という等置関係の時に(亜麻布って何?という感じですが)、この両者は、物質的にはそれぞれ異なる特殊な存在だけど、それが等しいという関係内においては、両方とも価値存在なのだと、価値存在としてのみ、関係ができるのだと、マルクスは考えているのだと思います。
価値という言葉を聞くと、それは現代で言う商品価値(商品の有効性や需要等)を想像しますがその価値ではないということ、価値は特殊または個別な存在が関係するための、一般的な属性である(この一般的な属性を内在するものだけが交換できる)ということだと思います。
商品(様相)→価値(属性)→実体(抽象的労働)
という当てはめと、いまいち対応していない気がしますが、ここはスルーします。
次に、違う観点から同じような文章が続きます。実は、上に書いたのが後で書いた分で、下にあるのが、初めに書いた分なのですが、合わせて整理するのが面倒なので、そのまま載せます。もう十分だという方は、カッコというか線が終わるところまでスルーしてください。
――――――――――――――――――(以下初めに書いた分)
例えば、現代社会では、ジュースとパンがある一定量で、同じ値段が付きます。
カレーパン1個=ジュース1本=150円
カレーパンも、ジュースも、それを作る具体的な労働(生産工程)はことなり、それぞれ個別の存在です。見た目も味も違います。しかし、それが同じ値段という単一の量で表現される、値段としては実際等価です。同じものです。しかし異なるものが、同じものとして扱われるというのはおかしいことです。
マルクスはそれを自明視せず、それがどの様にして可能になっているのか、それを(その人間には認識されない仕組みを)問題にしているのだと思います。その際に、貨幣は、価値という属性が目に見える姿を取ったものであり、実際には商品同士は、価値としてのみ等しいのだとマルクスは考えているのだと思います。
全ての商品に、価値(現れとしては値段)という共通の属性が内在しているということです。神のアナロジーです。そしてその価値の表れが(他者の価値を表す鏡)貨幣である貨幣商品であるということだと思います。
ここで見えない仕組みというとき、これは人間の中にあるのではなく、社会的な仕組み、人間の行動を規定している見えない仕組みを、(僕は)想定しています(じゃあこれも神?)
マルクスは、貨幣の生成の仕組みを叙述する際に、価値形態という貨幣ぬきの交換関係から、貨幣を導出しようとします。それは3または4段階あるわけですが、その出発点は以下のようなものです
(実際の世界では貨幣なしの交換はありえないから、はい解散と思うかもしれませんが、之には理由があるみたいです。この記事ではその理由を完全に説明できませんが、少しは出来ると思います)。
最も単純な価値形態
商品AのX量=商品BのY量
20エレの亜麻布=1着の上衣
この時、普通に考えれば、ここでは歴史の初期に存在した物々交換であり、その交換比率は、両商品を交換する、人間の主観的な欲望により決定されると考えられます(そう読めます)。
しかし、マルクスがここで言いたいのは、そういうことではなく、人間の欲望による量の変動はここでは無視して、その背景として、一定の見えない法則が存在する、両商品は価値という単一の属性を受け取らない限りは、原理的に同じものとして等置すること、流通する事は不可能なのだと(単発の交換ならともかく、一定の社会的交換システムとして)、そういう視点で、書いているのだと思います。
(ここまでで前に書いた分として分離)
―――――――――――――――――――
(上の二つの記述に共通するものとして、ここから合流)
以上のような観点を整理すると資本論の労働価値説や価値というものに対するとらえ方として、これは確実に間違っている解釈なのですが、簡易的に書くと以下のような把握が可能だと思います。
人間の主観的による交換比率の変動、需給法則(意識)、下を前提として自立化
―――――――――――――
人間には無意識的な社会のルール(無意識)、上の基礎
ようは人間が主観的に行動して、その結果社会が動いいていくというのは否定しないが、それをまず資本論の冒頭では無視して(しかし商品は需要されているものであり、需要されないものは商品ではないとはしている)、その背景にあるルールやまたは起源について、書くというのが資本論の姿勢であると僕は考えます。
この段階で、交換比率に人間の欲望による変動を想定してはいけないし、極論人間そのものを思い浮かべてはいけないということです。
ただしここで当然疑問が生じます。それは例えば以下のようなものです。
①本当にマルクスがそのような捉え方をしているのか?
②そのような無意識的なルールが存在するのか?
③存在したとして、それはマルクスがかんがえたようなものか?
この疑問には今の僕では答えられません。しかしいわゆる需給法則と労働価値説が対立概念であるというのは、無前提の前提(社会的な通念)であると僕は考えるから、上のようなまとめ方をしています。そういう風にマルクスを理解しようとしています。
もともとは労働価値説=間違いというよりの意見でしたが、この点はラカンの記述により、約一年前程から、とりあえず、考え方を変えました。
6.価値という属性は商品の使用価値の捨象から生まれる
単純な価値形態
20エレの亜麻布=1着の上衣
僕が今読んでいる一連の参考文献では、価値という属性は、商品の交換関係から生じるものだと書いてあります。そしてマルクスの理論としては、これは正しいと無理解ながら僕も思います。
価値とは商品同士の交換から生じる関係概念でしかないのに、それは物体に内在する固有の属性であるように社会で流通するというのが、マルクスのいう物象化であると考えます
(そして商品はその価値を内在するかぎりで商品であり、価値が内在化されていないものは、財や生産物、使用価値でしかないという理解)。
マルクスも同じようなことを直接書いていますし、これもこの記事の根拠となります。(引用は8章でします)
人々が、商品を(無意識に)価値として交換するから、その結果、商品は価値となり、人々の労働は抽象的労働としてひとつの等しい労働(単位)になる・還元される、生産と流通が生じている中で一つの価値体系が生じるという理屈だと思います。
この考え方について、本来、価値形態論事態や、交換過程論等から、この原理を説明すべきですが、ぼくはよくわってないのでできません。なので、別の例えを用います(これも劣化パクリだけどね)。
今卵が目の前に二つあるとします。
この卵の個数は、1+1で2個です。
卵は、同じ卵であり、同じ1です。
しかしよくみると、この二つの卵は、模様が違います。というか違う物質です。ちがうものを、人間は同じものだと認識します。それは両者の違いを無視してこそ可能な事です。
商品の価値形態(交換価値)でも原理的に同じようなことが起きていないでしょうか。
両商品が交換される関係において、その質的な違いが無視されることで、価値という共通の属性に還元される。これはもちろん交換関係内部だけでの(二商品だけの)関係であり、しかも、現実に商品の見た目も大きく異なるという、上の例との違いもある。
しかし、これは人間の認識ではなく、見えない社会的な認識なのであり(資本制社会自体の無意識的過程)、もしそのような質的な違いが無視されることで、価値という唯一の属性として両者が等しいとしてあつかわれるなら、その際には、両者を生産する際の労働=質や量の社会的コストも、ことなる特殊な労働ではなく、なにか一般的な、この両者の間だけで一般的な抽象的労働(コスト)というものとしてあつかわれ、要は調整換算されて、その抽象的な労働の凝集物として価値はとらえられ、それにより、それを作るのに費やした具体的な労働と抽象的な労働は等価であるとされて、それぞれ異なる具体的な労働の産物であるそれらは、等しいとして扱われる、そういうことではないかと。
そしてこのような商品の交換関係が広がると、商品同士は価値として統一されて(だから全ての労働が同じ抽象労働の特定の大きさになる)、そこから、その価値を表す貨幣が表れるといそういう議論ではないかと思います。
まあ何言ってるのか結局はわからないけど(特に無意識という領域に関しては、どうとでもいえる、反証可能性がないと等、という面があるので、少なくともここでの話は、僕が無意識を自明視しているような態度で予測として書いているので、それを、または労働価値説をこの文章で証明しているとかそういう話ではないです)
ここでは、二つの異なるものの差異を無視することで、それを共通のものとして認識するような働きがあると、それにより価値という神の属性が生じるのだとそういう視点で僕は書いています。
7.価値という属性は商品の交換関係(価値形態)から生じるのだが、商品にはあらかじめ価値が内在していないと商品ではないという矛盾
商品の価値は、価値形態、交換関係により、はじめて、労働の生産物という使用価値に内在するようになるものだと、上では想定しました。価値という属性自体、価値形態(交換関係)からしか生じないと想定しました(使用価値の差を、無限に無視することによる)。
亜麻布=上衣
この関係内部で、亜麻布と上着の差異が無視されて、亜麻布は実際に交換価値、価値対称性を持つと資本論に書いてあります。価値対称性とか、交換価値というのは、亜麻布の価値対称性とは、価値としては上衣と等しい、亜麻布の価値(という目に見えるはずがない抽象概念)はそのまま上衣の使用価値という現実形態で現れるということです。
(価値として両者は対称的だということだと思います。読み方は上の場合は、亜麻布の価値形態または交換価値は上衣であると読みます。)。
しかし一方で亜麻布の価値形態は、亜麻布の価値を、上衣で表現するための方法です(わかりづらいですが、亜麻布の価値形態は=上衣なんだけど、それは亜麻布が自分の価値を表現する手段ということです)。
だとしたら、ここでおかしいことが生じます。
①表現するということは、亜麻布にはあらかじめ価値という抽象的な属性が内在していないといけないことになり、上の価値形態または交換価値から価値が生じるということと、時系列的に矛盾してしまいます。
②基本的に同じことですが、労働生産物→価値形態→商品となる、このような時系列ならわかりやすいです、なぜなら商品は交換価値と使用価値の統合体であり、交換される前(または原理的な等置関係をもつ前は)は商品ではなく、使用価値・生産物である、そしてそれは交換価値をもつことで、はじめて商品になると、理解すればよいわけです。しかしマルクスは商品(価値が内在、交換価値も持っている)→価値形態→商品という時系列で語っており、これでは時系列的に矛盾が生じるように思えます。
亜麻布の価値を上衣で表現するという時には、むしろ亜麻布ははじめから商品であり、この商品には超自然的な価値という属性がはじめからやどっており、それが価値形態という交換喚関係で表現されるだけだと、マルクスがそう考えているように、受け取るのが自然に思えます。そしてその価値は労働価値であると。
8.矛盾していることの引用
(1)商品交換から、価値が生じると読める記述(そして抽象的な労働になると読める)ただし、逆に読める個所もあり
資本論 日経BP 中山元訳 p126 社会的な象形文字としての商品
『だから人間が、みずから作り出した労働の生産物をたがいに価値として関係づけるのは、これらのものが同様な人間労働を単に覆い隠している物品として通用するからではない。その正反対なのである。人間が、それぞれの異なる生産物を交換しながら、それらをたがいに価値として等置するからこそ、彼らは自分たちの異なる労働を、互いに人間労働として等置するのである。生産者たちはそのことを意識していないが、実際にはそのように行動しているのである。』
(2)どちらとも読める記述
資本論 日経BP 中山元訳 p67 〈価値物〉の役割 価値形態の記述
『私たちが、「商品は価値としては、単に人間労働が凝固した物とみなされるにすぎない」と語る時には、私たちは分析しながら、その商品を価値という抽象物に還元しているのである。ただし商品の自然の形態とは異なる価値形態を、その商品に与えているわけではない。ところがある商品を他の商品との関係において考察するときには事情が異なる。ある商品は他の商品との固有な関係を結ぶことによって、その商品の価値という性格をあらわにするのである。
例えば価値物としての上衣が亜麻布に等置されると、上衣のうちに潜んでいた人間の労働が、亜麻布の内にひそんでいた人間の労働に等置されるのである。上着を製造する縫製労働は亜麻布を製造する織物労働とは異なる具体的労働である。しかし縫製労働は織物労働と等置されることによって、実際にこの二つの労働の内にそなわる人間労働という共通の性格に還元されるのである。
この迂回路をめぐることで、次のように語ることが出来るようになる。織物労働もまた、製品に価値を織り込むものとして、縫製労働から区別されるような指標はそなえていないのであり、どちらも抽象的な人間労働なのである。異なる種類の商品を等価なものとして表現することによって、初めて価値を形成する個々の労働の独自な性格があらわになる。それはこの等価表現によって、異なる種類の商品に潜んでいる異なる種類の人間労働を、実際にそれに共通するもの、すなわち人間労働一般に還元するからである。』
(還元は大元に戻すことですが、還元するとか、されるという表現には、なにかそれとは違う意味があるようにも思います)
(3)価値がはじめから各商品に内在していると読める記述
資本論 日経BP 中山元訳 p88 使用価値と交換価値 単純な価値形態の全貌
『この章の冒頭で普通の言い方にならって、「商品には使用価値と交換価値がある」とのべたが、厳密に言えば、これは間違いだったのである。「商品は使用価値または使用対象であり、同時に〈価値〉でもある」というべきだったのである。商品の価値がその自然の形態とは異なる独自の現象形態である交換価値という形態をそなえるようになると共に、商品はその本来の姿である二重性を示すようになる。そして商品を孤立させて考えているあいだは、商品はこの形態をとることはない。別の異なる種類の商品との価値関係あるいは交換関係の中でのみ、商品はこの形態をとるのである。ただしそのことがわかっていれば、「商品には使用価値と交換価値がある」といっても問題はないし、簡略である。
これまでの分析から、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生まれるものであって、その反対に価値と価値の大きさが、商品を交換価値として表現しることからうまれるものではないことが証明された。』
9.問題の整理と、なぜそれを問題視するのかその理由の整理
(1)問題点
問題点は下記の二つの考え方の対立であり、同時に前者を軸に考えた場合には時系列的な矛盾に陥るという点です。
価値は交換から生じる属性であるという理解
価値は商品にあらかじめ内在しているという理解
(2)これについて考える背景1(マルクス研究史的なものから)
マルクスに対する理解として、これは色々な派閥があるようですが、ここでは、価値というものの理解として、二つの意見の相違を想定します。
マルクスは資本生産様式において(正確には冒頭の単純商品の単純流通の社会において)、各商品はそれぞれ独立した生産者により作られて、それが社会的に循環する過程で、価値は抽象的労働の凝固物となる、つまり資本生産様式においてだけ、労働価値説が成立すると考えたという、考え方が出来ます。
一方で、マルクスは価値を超歴史な内在物としてとらえて、その普遍的なありかたがこの資本生産様式でも貫かれている、その際に価値は実体であり、価値形態がその形態であり、マルクスは、その形態について考えた点が(労働価値説を唱えたアダムスミスと比べて)特徴だという理解し方もあります。
どちらかというと前者は、価値が交換から生じるという理解と対応しており、後者は価値が内在しているという理解と対応しているように思えます。また後者の方は、マルクス批判の文脈でも、そのような理解がなされる場合があるようです。
そして僕は前者の立場に立ちます(ざっくりとわけただけなので、こういう分け方自体が正しくないきがします)。
しかしそうすると、資本論の記述と、時系列的におかしくなってしまうという問題点があります。そしてもう少し言えば、1年ほど前までは、どちらかと言えば、後者のマルクス理解の立場でした。その方が時系列的にわかりやすいです。
(3)これについて考える背景2
類が先なのか、種が先なのか、種差が先なのか(あるいは今回は除外しているけど個別存在が先なのか)。
種差や種から、類概念が生じるというのが、上の商品交換から価値が生じるという考え方に対応すると考えます。
類を貨幣や価値とした場合、類があるから種や、種差がある、それぞれの商品の価値がある、というのが、後者のマルクス理解に対応すると考えます。
卵が先か、ニワトリが先か、という話です。
なぜ人間の認識と経済学がつながるのか、それはフロイトやラカンとマルクスが同じようなことを語っていると考えるからです。というかそれを教えてもらったからです(嫌ないいかたかもしれない)。
10章以降では、これについて考えるために被るところもありますが前提を整理していきます。
10.商品(の価値)が先か価値形態が先か、まずマルクスがどの様な社会を想定しているのかどの様な分析方法か等、それらを見る
資本論は初めて読むと、というか基本的にわけのわからない本だと思います。
マルクスが、読者が読むための流れのようなものを全然提示していないことがその原因の一つだと思います。
ここで言う流れとはたとえば、以下のようなものです。
(1)資本論はどのような方法で分析または叙述されているのか
(2)どの様な社会や商品が想定されているか
(3)価値や価値形態等、または全体の議論の論証方法はどのようなものか
(4)時代背景、批判の対象は誰か(副題が経済学批判だから)
(5)経済のどういう領域を想定しているのか
こうしたことを説明してくれないので、読者の方で勝手に想定して読むしかなく
現代の日本人が読むと、少し好意的に読んだとしても、当たり前のことを偉そうに、しかもあたり前どころか間違っていることを偉そうに話す、愚かでしかも他の経済学者を罵倒しまくっている性格も最悪なおじさん(まあわかってたけどさ)という感想しか残らないではないかと思います。いったい誰の感想かって、3年前くらいの僕です。
しかし、今この記事内(というかマルクス関係の記事内)では、一応、部分的には、そうしたスタンスを取っていないのはある意味自明だと思うので、その後の経緯(マルクス理解の変遷?)については過去の記事を見ていただければと思います。
この10章では、上の疑問(直上ではなく、類が先か、種が先かという話)について考えるために、資本論における前提を、自分なりにまとめていきたいと思います。
僕自身、読んでいるつもりでも、結構読み飛ばしていることが多いので、もう一度前提理解をしてみよう、見落としを確認しようという感じです。
(1)マルクスの分析・記述法
マルクスが資本論で行っている記述方法は上向法と言うものだそうです。
これは、まず下降法というもう一つの方法(これは分析方法らしいですが)をおこなったあとに、用いられる方法らしくセットなのだと思います。
実際の経済現象や社会に現れる現象を対象にして、それを抽象的な内部原理へと掘り下げていく過程が下降法で、そこで掴み取った根本原理から、再度現実の現象に発展する過程を描くのが上向法であるということらしいです。
資本論では、記述法としてこの上向法が用いられている、または上向過程が記述されているということのようです。
冒頭の商品や価値形態が、マルクスが考える資本生産様式の根本的な原理、細胞形態であり、そこから貨幣や資本や資本間の競争等を描いていくというような流れらしいです。
しかしじゃあ、下降法はいつもちいたん?そういう疑問が湧きます。
『本書は、1959年に発表した私の著書『経済学批判』につづくものであり、その第一巻をごらんにいれる』
続編だった。
(2)前提とする社会や商品(資本生産性社会・単純流通)
『資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は、「一つの巨大な商品の集まり」として現れ、個々の商品はその要素形態として現れる。だから私たちの研究もまた商品の分析から始まる』日経BP 中山元訳 p27
マルクスが想定している分析対象の世界では、商品生産はもう自明のものとして現れている資本生産様式がかなり典型的に発達した社会を想定しているようです。
そして商品は、他の商品の集合であり、そしてさらなる商品の要素であるという集合論が、語られています。マルクスはこの商品と、商品の価値形態が、資本生産様式の隠された細胞形態であるとして、それから上向していく過程を描いているようです。
商品の集合関係は、これは物理的には(使用価値としては)、以下のようなものだと想定できます。
例えば、を例にとれば、それは使用価値としては以下のようなものの集合です。
ジャガリコ
={ジャガイモ、加工するエネルギー&工程、包装材、小売店の労働}
そしてこのジャガリコという商品も、他の商品の構成要素となりえます。
これは使用価値のつまりあくまで物質的な集合の話で、ここの価値という抽象的な物が登場してくると、その関係は僕にはまだわかりません。
ただ、しったかをすると、商品はそれ自体で、自己を含まない集合のはずです。そしてその集合としての商品を、要素とする別の商品が存在するはずです。しかしこれは本来あり得ないはずです。なぜなら、自己を要素として含まない集合の集合は定義できないはずだからです。しかしこれはまちがいです、なぜなら、自己を要素として含まない集合を無限に要素とする集合が定義できないものだからです。
あと冒頭では書いてない僕調べですが、この資本論最初の資本制社会における商品は、単純商品と呼ばれ、ただ人々が自分たちの生活のために、お互いに独立して生産したものを、社会的に交換していくということが想定されており、だから資本の集積(貨幣の偏り)ということは無視しているそうです。しかし同時に資本制社会を考えているのだから、仕組みとしては資本というものの存在は前提としているようです。あくまでそれが積み重なり成長するという部分はまだ無視されているということだと思います。資本論にはこの無視する、捨象するというやり方が用いられており、どうしてそのような事が出来るのか、その根拠や仕組みはまだわかりません。
(3)価値形態やその他の論証方法はどのようなものか(貨幣導出過程の不自然さ)
①論証形式について
ここが一番わからないので曖昧な事しか書けません。
論証方法といえば、例えば、定理や定義が与えられれば、命題がそれに矛盾しないことで、その命題が証明されるとか、あとは具体的な現象の集積から、同じ規則を導き出すとか、そんな感じでしょうか。
ただ論証の形式について、理論と現実の両面で、僕自身未整理で素人なので、今のところはマルクス理解としても、一般的な理解としても、深く触れることができません。
②価値形態と貨幣生成論について多少振り返り
だからここではそれにたちいらず、マルクスが価値形態論で、貨幣の生成過程(貨幣とは何か)を論じた部分について、その不可解な方法に注目していきます。
価値形態について詳しくは、過去の記事等を見ていただくとして、ここでは、マルクスが全ての謎がそこにふくまれているという、単純な価値形態だけをここでは振り返ります。
第一形態、単純な価値形態
20ヤードの亜麻布=1着の上衣
この二商品の交換比率の関係では、両辺は同じ役割をしておらず、亜麻布は自身の価値が表される役割、上衣は自分自身の身体で、亜麻布の価値を表す役割を受け取っているといいます(ここで現代社会では、物々交換があり得ないから、これ自体おかしいというのは、しごく当然な意見だと思いますがそれはたびたびわすれてください)。
この方程式の内部では、亜麻布の価値を上衣が表しているということで、ここで思い出してほしいのは、価値は量だけではなく、質であり、異なる物質が同じ質をもっている上に、亜麻布の抽象的な質である価値を、上衣が物質のままで表現できているということです。
この価値形態の内部関係自体よくわからないし、もう混乱しているのですが、とりあえず、マルクスの考えでは(僕は読み取った範囲では)、価値という抽象的な質は、物質で表現できるということであり、そして最終的に全ての商品の価値を物質で測るものが貨幣商品(例えば黄金)であるという理論です。
最も単純な価値形態から、第二形態、第三形態と商品の関係が発展していく過程として、これは描かれていると思います。
そして第三形態、または貨幣形態では、全ての商品が同じ価値(つまり属性としての価値、量は別)を内在していて、その価値と価値量を貨幣が表現しているということらしいです。
③価値形態の発展過程は、歴史的記述か、それとももう出来あがった世界なのか
さて上の部分は、なんかそれっぽいことを誰かがいっていたなという感じで、もう忘れてください。僕がここで本当に書きたいことの準備のために、わけのわかってないことを書きました。
ここで注目したい価値形態論の不可解さとは、価値形態の発展過程の記述が一見すると、貨幣のない世界から、商品の関係により貨幣が誕生する歴史的なもの(古代→封建→現代)に思えるのに(じっさいそのように書かれていると読み取れる部分はあるし)、しかしマルクスが資本論内で想定している商品は、もう貨幣が存在している世界でのそれだということです。
歴史的な記述だと理解すればこれは簡単です。過去から現在です。
しかしマルクスは商品(資本論内での商品は最初から貨幣が存在する社会でのそれ)の関係から、貨幣を生成させていると、考えると、これは時系列的に意味が解らないことになります。つまりここでも、卵が先か、ニワトリが先か、貨幣が先か、商品が先かという話になってしまいます。それどころか、卵が先だけど鶏を前提としており、鶏が先だけど卵を前提としているというような関係になってしまいます
貨幣が先かというのは、貨幣が代表しているのは、他の商品に内在している共通の属性である価値であり、その価値として統一されてないなら、それら商品は、この社会では商品と呼べない、商品としては存在しないということです。
しかし一方でマルクスは商品同士の関係から、その商品の交換関係から、価値という属性としてそれがまとまる発展過程を、貨幣の生成論として記述しているように見え、この見方だと、商品が先に存在しないと統一的な価値や貨幣も存在しないことになります。
もし価値形態論を、もう貨幣のある世界で、貨幣の生成過程を語るというものだと理解すると、それじたい一見意味不明だし、貨幣が存在しなければ商品は存在しないし、商品が存在しなければ貨幣は存在しないというお互いに依存し合っている、よくわからない整合性も何もない関係になってしまいます。
だからここで疑問に戻ってきたというか、ここがこの記事で重要な部分で、そしてその解決方法としては、完全ではないですが、一応考えられるかもしれません。
それは、資本制社会の内部では、商品交換関係から、貨幣が生じるという過程が、歴史的な過程が、繰り返されているとそう考えればいいのではというものです。貨幣は貨幣になり続ける存在だと考えればということです。
そうとらえると、あくまで貨幣のある世界において、貨幣が生成する仕組みを説くということそれ一自体、あとは歴史的な発展過程としても描かれていること、それらを矛盾させずに説明できると思います。
また、単純な価値形態が物々交換に見えること、そしてそれが現実の社会ではありえないことについても、一応不完全ですが、説明ではないけど、なにかを言いえます。
歴史的には、これは物々交換であったけど、実際の社会では、この商品同士の交換比率というのは、貨幣形態に覆い隠された細胞形態であり、それは貨幣と商品、お互いを根拠に存在し、第一形態や第二形態もこの社会に、商品の交換関係として、内在しているものなのだと。
といって、少し整理できましたが、これでは結局は時系列の問題は解決していません。貨幣は生成し続けている存在だという、そういう仮定というか受け売りの劣化のようなパクリをここではしました。でも形から入るのも大事だと思うんだ。
④時代背景、批判の対象
資本論は副題として経済学批判と付けられています。
この副題はともかくとして、資本論を読むとき、現代日本の読者は、マルクスは共産主義者なのだから、当然資本主義社会を嫌悪しており、さらに労働価値説を唱えているから、需給関係とか限界効用とか、まあ時代背景はよくわからないけど、そういう現在主流か、それにつながる過去の学派の経済学をブルジョワ経済学として、批判しているのだろう
と、そういう前提を、かなり多くか、多少なりともか、もっていると想定できます。というか初めて読んだ時の僕です。
そしてここにも資本論のわかりにくさがあります。
マルクスのスタンスは、上で想定したようなそれではないのであり、それはよく読めばわかるはずなのですが(あくまで僕の理解が正しいと仮定しての話)、言葉の意味や受け取り方の違いがこれを理解することを難しくしています。あとはマルクスの罵倒もこれに拍車をかけていると思います。
・言葉の意味やそれが指し示す対象
言葉の意味というときに二つのワード(やそれが指し示す対象)のわかりにくさがあげられます。
まず批判という言葉が重要になります。
この批判とは一般にはネガティブな意味でとらえられますが、学術的な意味では、敬意を持った批判、相手の良い所を活かすためのもの、という意味合いがあります。マルクスは学者なので、経済学批判という時には、こうした良いニュアンスが含まれていると想定できます。
次にブルジョワ経済学です。
現代の用法?で考えれば、これはマルクスに完全に敵対するくだらない経済学者ぐらいの意味にとらえられますが(マルクスの意見をくみとろうとすれば)、実際はそうではなく、これはアダムスミスとかリカードのような、労働価値説論者です。マルクスが優秀あるいは偉大ですらあると認めた人達のことです。はあ?という感じですが、マルクスは労働価値説を最初から認めない経済学者のことはブルジョワ経済学ではなく、俗流経済学といっており、わけられています。
・批判の関係
マルクスVS俗流経済学(偉大なアダムスミス、リカード等=一時代の主流派)
どうでもいい存在=俗流経済学
関係性はこのようなものであり、マルクスは、ただ労働価値説は当然の前提であり、かなり有能な存在であるアダムスミスやリカードは、それを中途半端にしか分析できなかったから、わし超えちゃいますよと言っているだけです(本当はだけじゃないようです)。
だから、労働価値説とか、商品が使用価値と交換価値であるとか、そういうことが当然のように最初から出てくるわけです。
一方で、労働価値説を理解しないマルクスにとっての俗流経済学者は脚注で罵倒されているだけです。この時点でわかりにくいですが、さらにわかりにくさを増しているのは、マルクスは一方でアダムスミスにたいして、価値=労働であるということを発見したのは、歴史的なことだと敬意を払い、しかし同時に違うページではアダムスミスのことも、罵倒しているという点です。
またベイリーというマルクスからすれば俗流経済学者の人を、意外に特別あつかいというか、わりかし有能な人間(しかしこの有能な人間でも労働価値説、価値形態は理解できなかったのだ)としており、これもスタンスをわかりにくくしています。
ではなぜアダムスミスやリカードがブルジョワ経済学とよばれるのか、それは基本的に資本生産様式にたいして、マルクスから見れば、肯定的過ぎる立場を取っていたからということです。どのみち罵倒ばかり目にするこちらとしては、もともと良い印象がないおじさんなのに、余計に嫌いになるしかなくなります。
少し整理します。
マルクスはブルジョワを批判している、だから必然的に限界効用説とか需給法則の批判なのだと、そう想定してよむと、アダムスミス等の、労働価値説を所与の前提にして、それを批判しているマルクスのスタンスがわからなくなる。
さらに、マルクスの書き方もわかりにくい。同時に二つの対象を罵倒しているので、それが同じものだと混乱してしまうし、違うものだとしても、どちらを批判しているのかわかりづらい。
以上のことから、時代背景がわからない読者としては特にわかりにくいし齟齬が生じてしまうということだと思います。
⑤資本論は経済のどの部分を対象にしているか
これは記事の最初のほうでも、似たようなことを書いたのですが、ここでは、無意識論、フロイトとのアナロジーで理解しようとしています(断定的な書き方になっていますが、詳しくは論文や書籍で読んでください。僕自身は僕自身の責任の元に文章をかいています)。
意識=需給関係=現代の人々や、主流経済学の意識
――――――――――
力動無意識の内容=商品の価値は労働=アダムスミスやリカード
力動無意識の運動形式=生産物が価値として現れるありかた=マルクス
――――――――――
システム無意識
力動無意識は、例えば夢診断で、おかしな夢から、それを時ほどいていくと、思わぬ本心がそこにあらわれてくるという、そういう領域の話です(分かりにくいですが、この本心が内容です)。
アダムスミスやリカードは、経済の無意識=価値を発見した。これは大発見だとマルクスは考える。しかし、それではこの力動無意識の本質までは達していない。どうして商品が価値として現れるのか、価値として等価交換という無意識的が成立しているのか、それを解明することが重要だというわけです。
話をフロイトに移すと、フロイトは無意識を発見した人ではありません。
夢診断のなかで、フロイトは、それまでの無意識論についてふりかえっています(そして僕はその部分を数年前に、一読していたいもかかわらず、わりと最近まで普通にフロイトは無意識を発見した人だと思っていました)。
フロイトが画期的であるのは、夢の内容を解き明かすということではなく、夢はある詐術をもちいてつくられるのであり、その夢の詐術、夢の内容の現れ方を研究している部分だと考えられます。
夢を分析すると、ある抑圧された本心につきあたるとします。
しかしこの抑圧された本心というのは、あるいみでは、そこまで深い内容ではないと考えられます。たしかにそれは生活のなかで、このましくないから忘れられて、本人にはなかなか意識することが難しいものなのかもしれませんが、しかしそれは、凄く努力すれば意識化可能だし、人によっては、全然意識的な内容にすぎないのだと。
むしろその背後にある、幼少期の願望のほうが、夢では重要で、それは解き明かした夢の本心にかくされているのではなく、夢が表れる形式、その現われ方に隠されていると、フロイトは考えているようです。
フロイトから離れて、上で(だけじゃない)とかいたのは、マルクスが、なぜアダムスミスやリカードを、ブルジョワ経済学と呼ぶかということと関係します。
アダムスミスやリカードは、労働価値説という見えない原理から、資本制社会を分析、説明しようとしたのだが、その際に、この資本制のもとに分業する社会や、労働価値説を、本来与えられた自然本性的なものだと考えていると、マルクスは考えるようです。
一方でマルクスは、価値が抽象労働として成立するのは、労働価値による等価交換が成立するのは、歴史の一時代であると想定しているようです。そしてそれは人々の社会的な関係により作られるものだと。
ここでわかりにくいという部分に話が戻るのですが、なにがわかりにくにのか、それは
労働価値なる概念、この見えない原理を、自然本性としてとらえて、それで経済を説明するということは、実際にはかなり、高度な事であるということです。
そして、だからこそ、マルクスはその成果をもとに、それを批判しているということです。
アダムスミスたちは偉大なのだけど、しかし彼らでさえ、現代の社会体制を、永遠不変の法則のように錯覚してしまったのだと、それが社会的・歴史的につくられるものだと考えることをしなかった、だからブルジョワ経済学だというのだと、そういうことだと思います。
現代人には労働価値説などは何の価値もないように思えるし、マルクスがブルジョワ経済学というのは、現代経済学的なものだと想定しているので、上のマルクスの前提が理解できないということだと思います。
とりあえず、ここでは、マルクスが資本論で取り組んでいる場所は、フロイトの無意識論にあてはめられるなら、無意識の内容ではなく、それが生じてくるそのあり方の部分だと、それを記述していると、その様に想定しています。
11.振り返り
振り返りと言って、これは今までのまとめをするのではありません。
そうではなくて、実は11章は、この記事をはじめざっと書いた時には、7章に当たりました。
それはどういうことかというと、この記事を読むと1~12章まで続くわけですが
しかし実際の記述の時系列としては、1~6章の途中まで書いて、その後に資本論の前提を確認する記述を書く予定を置いておき、とりあえず7・8章として、以下の11・12章の内容の一部を書いていました。もう少し詳しく書くと以下のようになります。
①この記事、1~6章、現在の11・12章=前の段階での7・8章、ここの部分で疑問点が生じる)
②他の記事、集合論を少し書く
③他の記事、ラカン論理的時間を少し書く
④この記事の7~10章を書くことで、以前の7・8での疑問点を掘り下げる(調べたことの整理やその他の記事を考慮して書いた)
⑤この記事の11~12章←いまここ
⑥集合論の記事を書く予定
⑦ラカン論理的時間の記事を書く予定
なぜこのようなことを書くかというと(誰もそんなこと興味ねえよというかんじですが)
それは、この記事の11~12章、旧7・8章の文章が、結構その後考えるきっかけになっているということです。
しかしきっかけの後に、その前の文章を大幅に書き換えたり、追加したりしているので、今前の7・8章の文章をのせると完成した記事の時系列的には、おかしくなってしまうということで、そのことわりをいれているということです。
――――――――――――(以下最初に書いた7章の内容)
上記のスピノザやマルクスの考え方に、実体と形態というあてはめはただしいか(価値を実体として、価値形態を形態としてとらえる考え方もある)
少し話をかえて、ここでは、タイトルの通り、実体と形態(本質とその表れ)という考え方を、商品→価値→抽象的労働(価値の実体)という考え方にあてはまるのは、ただしいのかを、その他に価値論にこのようなあてはめをする例をあげることで、考えていきたいと思います。
それは、価値こそが、超歴史的な実体であり、価値形態はそれがあらわれる形態なのだという理解です。
価値(歴史を通して変わらない実体・それは同等な人間労働)→価値形態(形態)
以前の記事では、この読み方は誤りだと書きましたが、しかしここでは、そういうことを書きたいわけではありません。これを否定して、自分の主張を際立たせたいわけではありません。だって際立たせるほどの知識が僕にはなく、ただ特定のインターネットの論文をパクっているだけですから。
資本論を読むと、上のように読めるのはむしろ当然だと思います。だって、商品の価値があるから、価値を表現する価値形態があるはずです(それが正しいかはともかく、マルクスはそういっているはずだと読めます)。僕もはじめて2年少し前に読んだ時は、そのような読み方をしました。
『これまでの分析から、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生まれるものであって、その反対に価値と価値の大きさが、商品を交換価値として表現することから生まれるものではないことが証明された』p88
これまでの分析とは以下の通りです。
①商品には価値と交換価値がある(使用価値と交換価値、または価値との統合体)。
②交換価値は価値を表している(使用価値の交換比率は価値として等価)。
③使用価値を作り出すのは具体的有用労働、価値に対応するのは抽象的労働
④単純な価値形態の説明
僕がここで何が言いたいのか、それは以下のものです。
①実体と形態という当てはめを、資本論に適用するのは正しいのか
②正しいとしても、それはどれに当てはめて考えればよいのか
③価値と価値形態の事前・事後的な関係性について
④単純に価値という実体と価値形態という形態という理解を否定していたのは、あるドグマ的だった。
最初はこの記事の主張を正当化するための間違った理解として、これを提示するつもりだったのですが、それは色々な意味で、明らかにおかしいと思い至りました。だって価値は、価値形態から生じないといけないのに、事前に価値がないと、価値表現がなりたたないんだよ。意味が解らない。意味が分からない事の手がかりは、自分のドグマの外にある、なんて今思いついたから書いてみました。
―――――――――――――――――――(以前の6章の内容終わり)
考えに囚われたくないというのは、上で書いた文章ですが、実際はここで、それを再度振り返ったということです。
12章 振り返りその2(以前の8章)
―――――――――(以下以前の文章)
『資本論の誤訳』性格概念と形体概念
上の7と関連して考えたことを書きます。
『資本論の誤訳』という書籍のその内容は一言で言えば、資本論や他のマルクスの書籍において国有化というワードが一度もでておらず、これは翻訳のさいの誤訳であるということを主張する内容です。
そこで翻訳では、性格概念と形体概念の区別が曖昧であるという主張が書かれている個所があります。
例えば、この本の主張する(というより、マルクスのドイツ語や英語翻訳を正確に読んだ場合とされる)社会主義とは、性格(概念)としては協同組合のような水平的な運営方法であり、しかし形態(概念)としては株式会社である、これが社会的な組織として、主体性を発揮するものだとしています。
ただ性格概念とか形体概念とか言われても、あまりピンときていないというか、単純に今まで読んだ本とか、インターネットでしらべてもそれと同じ言葉がでてこないので、なんていうか、この本の主張を完全には理解していないし、もしかしたら上の説明は間違いかもしれません。ただ僕的には、性格概念は本質的なもの、形体概念はそれが表れる形として、とらえることにしています。
そしてこれを、価値と価値形態にあてはめると、価値を性格概念、価値形態を形体概念としてとらえることが可能なのではないかと。ただこれだけだと何も言ってないというか説明不足なので、もう少し付け加えると、性格概念は、形体概念の量的な変化により、質的に変化する等、そのような事が書かれていたので(弁証法の相互浸透?)だから、ここでは、内部としての性格とその土台としての形態というのが、一種の相互作用するものとしてとらえられないか、価値の性格の部分が不変ではなく、価値という性格はあるのだが、それが価値形態の在り方により、性格も変質するのではないか(そして逆に形態も変化するのではないか)、等そういうことを今考えています。
6にあてはめるなら、価値というものは、超歴史的なものであり(生産物を人は交換するから?)、しかし価値の性格(実体?)と価値の形態は、歴史的(限定的な一時代)なものだと理解できるかもしれない。
またこの実体と形態という理解は、実際には、1や2の3種類、実体→属性→様相というものに分解でき、そしてこれは一つのカテゴリーというか、一種類にだけあてはまるものではなく、何らかの階層性や、関係性をもっているのではないか、そういうつなげ方を、参考文献を見ながら(これはインターネットで調べると、沢山得ることが出来ます)、考えています。
資本論の誤訳は、8年くらい前に少しよんで、最近また150ページくらい読んだだけで、しかも今手元にないから、正直あまり理解していないのですが(参考文献には結構参照されているのですが)、時間があれば購入して、また読み直してみようと思います。
――――――――――――――(以前の8章終わり、以下12章であたらしくかいたもの)
以下に文章を引用し、それを、上の理解に基づいて、整理します。
『どの国民も、もし一年とは言わずに数週間でも労働をやめれば、死んでしまうであろう、ということは子供でもわかることです。また、いろいろな欲望量に対応する諸生産物の量が、社会的総労働のいろいろな量的に規定された量を必要とするということも、やはり子供でもわかることです。このような、一定の割合での社会的労働の分割の必要は、けっして社会的生産物の特定の形態によって廃棄されうるものではなくて、ただその現象形態を変えうるだけだ、ということは自明です。自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。
歴史的に違ういろいろの状態のもとで変化しうるものは、ただ、かの諸法則が貫かれうる形態だけです。そして、社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会状態のもとでこのような一定の割合での労働の分割が実現される形態、これがまさにこれらの生産物の交換価値なのである。
科学とは、まさに、どのようにして価値法則が貫かれるか、を説明することなのです。もし外観上法則と矛盾する現象をすべてはじめから「解明」しようとするならば、科学以前に科学を提供しなければならないことになるでしょう。リカードの誤りは、まさに、かれが価値に関するかれの最初の章のなかでこれから展開されるべきあらゆる可能な範疇を与えられたものとして前提して、それらが価値法則に適合していることを論証しようとしている、ということなのです。』
(1868年7月11日づけの「クーゲルマンへの手紙」、岡崎次郎訳)
価値法則:人間が欲望量に応じて、社会的に生産すること
価値が表れる形態:社会のありかた(資本制では平等な人間の生産と交換)
価値の性格:抽象的労働であるということ
ということで、ドグマは良くないと言いつつも、結局は同じ意見なんですけど。
しかし変えたのは、価値法則が超歴史的なものだという認識を、価値法則と価値の性格に分けて、前者はそうだが、後者は別であると、そういう風に解釈したということです。
これらの記事の目的は、価値や貨幣が先か、商品が先かというものでした。この結論は一応次の記事で多少形になります。この記事自体はここで終わります。
あと、書く場所がないので、ここで書きますが訂正があります。
何個か前の記事では、価値はことなる商品における共通の単位のようなものだと書きましたが、たぶん抽象的労働が単位であり、単位量であり、価値は凝集体だという理解のほうが正しいと思います。
こまで見ていただいて、ありがとうございます。

