こんにちはRAIMEIです。一連の哲学記事の3番目の内容となります。
1.論理的時間-三人の囚人-
(1)論理的時間説明のための問題・その概要
【問題】
三人の囚人A、B、Cが刑務所長の前に呼び出されて、クイズを与えられる。
「ここに3つの白丸○と二つの黒丸●がある。これを各自の背中に一ずつ貼り付ける。お互いに他者の背中に付けられたマークを見る事は出来るが、自分の背中に何がついているのかを直接に見ることはできない。また、お互いにそれを知らせる事も出来ない。論理的思考に基づいて、自分の背中に付けられたマークの色を判断しえた者はすぐにこの部屋から出ること。最初に部屋から出て、かつその論理的説明をなしえた者は、刑務所から釈放される。」
三人の囚人の背中には、すべて、白いマークが付けられている。
(上記の問題の個所で、部屋から出るのではなく、所長に色とその判断の理由をその場で説明するというもものもある)
【回答】
ラカンは、囚人たちの推論の過程を3つの時間に分けてとらえる。
(2)回答の解説
ラカンは囚人たちの行動や思考の時間をいくつかに分けて説明します。以下である調になっていますが、参照した文章と時間短縮のためです。
①眼差し(注視)の瞬間
まず各囚人たちは、相手の背中の丸の色を見る。
このとき、他の二人の囚人の背中の丸がともに黒丸●であれば、自身の背中の丸は白丸○だと確定する。なぜならば、●は全部で二つしかないから。
ただし、このクイズでは(囚人に見えないが)全員○であると設定されている。だから各囚人に見えるのは他者の白丸○であり、目視で確認した他者の色から、自身の色を直接導くということは出来ない。結果としては出来ないが、囚人たちはまずこれを行う。
②理解の時間(最初の結論)
各囚人は、他者の判断や行動をたよりに、推論を行う。
その際には、まず自分の色を仮定してみて、相手の反応を考える。
Aの推論のさいの仮定
「私(A)の目の前には、二つの○が見える(A?→B○、C○)もし私(A)が黒だとすると(A●→B○、C○)、他の二人は次のように考えるはずだ」
Aが想像する、Bの判断(BはCについて推論すると考える)
「私(B)の目の前には黒が一つ、白が一つ見える(B?→A●、C○)。もし私(B)が●だとすると(B●→A●、C○)、Cは目の前に黒を二つ見ていることになる(C?→A●、B●、C基準なのでC自身にCの色は? わからない)。
この場合、黒は二つしかないから、Cはすぐに自自身を白と判断して、部屋をでるために走り出すはずだ。だが、Cは部屋をでようとは、まだ今のところはしていない。ということはこのままいい加減動かない場合は、私は黒ではなく白と言うことだ。よし走ろう」
Aが想像する、Cの判断(CはBについて推論する)
これは上のBの判断と同じ。CもBが動かなとそこから、自分は白だと結論する。
ここまでのAの推論・仮定と結論のまとめ、とその帰結。
私(A)が黒だと仮定すると、BやCは、どちらかが早くか、同時に動き出すはずである。BはCが動かないことで、自分は白だと確信するし、CはBが動かないことで、自分は白だと確信するはずである。
しかし、目の前のBもCもまだ、現時点では動いていない。ということは、二人がこのまま動かない時、私が黒だという仮定そのものが否定されて、私は白になるということである。だから二人が動かない限りで、結論は、私(A)は白であるというものである。
BとCも同じ推論をして、同じ結論に辿り着く。さらに各人は相手がこの推論に辿り着いたのではないかという想定をする。
Aと同じく、他者が動かないのをみて、BやCは自分が黒であるという仮定を否定して、自分が白であるとする。そして、各人は相手が自分と同じ、推論をして、自分が白であると結論していると、その可能性を予想するところまで進む。三者が自分は白であるという結論を共有しているのではないか、というところまで認識が進む。
ただし同時に、2人の他者の内どちらかが先に動けば、それは、3者がこの推論にたどりついたのではなく、最初の仮定、自分が黒であるという仮定が正しく、その結果どちらかが動いただけとも結論が付けられることになる。
③結論の時(一度目に走り出すとき)
3者が焦燥にかられて結論を出す第一段階
各人が、自分が黒ではないと結論付けられるのは、他者が動かない時である。
もし、他者の内、誰かひとりでもうごけば、ひとつ前の否定された仮定、自身が黒であるという仮定が成立してしまう。しかし成立するだけなら良い、なぜなら自身が黒であると確定できるから。
問題は、ある時点で、たとえばAにたいして、BやCが動いた場合、それが、自分(BやC)が黒ではなく白であるというAと同じ推論の結論に達したからなのか(この場合Aも白)、それともAが黒だから自分(BやCは白なのだという結論に達したのか、判断が出来ないということだ。
この推論では、結局のところたしかな結論を得られない。
しかし釈放されるのは最初の一人である。だから不確かでも少しでも根拠のありそうなものに他者よりも早くすがるしかない。
この場合、他の二人が動かないのは、自分が黒ではないからだ、動かないから自分は黒ではない、白なのだ(さらに言えば全員白だ)というのがそれである。
そしてくりかえしになるが、これは、他者が動き始めると、その根拠はなくなる。
以上の二つの焦燥(曖昧な時間&他者よりも早く答え出さなければいけないこと、論理の必然性の一応の確保)から、各人は、自分は白だとして、部屋を出ようとする(ここでは、あくまで論理的時間について説明するものなので、三人は同時に走り出すとする)。
④走り出した後で一度立ち止まる時
しかし三人が同時に動き出すことで、この根拠と結論は否定される。つまり他者が動かないのは、自分が白だからである。それは他者が動かない限りで保障されているというもの。
これが、今までの推論で、辿り着いた最終的な、仮説。だから三人は、走るのをやめて、立ち止まり、再度考える。
それぞれは、他者が動かないから、自分が黒ではない=白であるという仮定(前提)をして、そしてこれを三人とも考えているかもしれないという想定までたどり着いて、結論を出すために、走り出した。
その結果、前提は否定されて、三者は躊躇して立ち止まる。再度推論の始まりであるが、今度は3人が同時に動き、同時に立ち止ったという条件が付け加わる。
そしてこの立ち止ったということから、各人は自分が黒ではないと考える。
例えばAの場合、BやCが立ち止まるということは、彼らはすぐに結論が出せないということであるから。もし自分Aが黒ならば、彼らは自分が白だと考えて、躊躇しないはずだから。
(ややこしいが、もし一人が黒なら、他の人間は、初めはうごかないが、結局はそのうち自分が白だという結論に的を絞れる。だから他者二人が、それを確信しなかったということは自分が白であるということになる)。
今黒がA1人で、白がBC二人だとすると、BやCはお互いに動かないことから、自分が白であることを確信できる。なぜなら、黒が二つあれば、すぐに一人は自分の色を判断できるはずだから。少しでも考え、その後行動したということは、BとCとしては自分が黒ではないということの証になる)
⑤再び走り出すとき(その後二度目のわずかな躊躇)
そして三人は一度立ち止まったあとで、自分は白だと、また一斉に走り出す。
するとまた他の二人も立ち止まっているという前提条件は消える。
だから、ここでまた少しの間躊躇を挟む。
しかし、今度の場合、一度目に3人とも立ち止まったという事実が存在する。
そこで再度走り出すということは、3人とも自分達が白であるという結論にたっしたということを意味する。
前提があればこそ、自分は白だと言えたが、二度目には前提の消失が、3人が同じ意見に達したことの証となる。3人はそれを確認して、急いで自分が助かるために走りだす。
(3)ここまでのまとめ
①私Aが黒であると仮定する
②相手Bもその仮定のもとに考えるとする。
③すると、Bは自分が黒であれば、第三者Cがすぐに動くはずだと考える。そして実際には動いてないので、そこから、Bは自分が白であると結論するはずである。
④Cも同じ結論に達するはずであり、その結果自分が黒なら二人はそのうち走り出す。
(ここから三者同じ扱い)
⑤また、相手も同じような推論をしているという推測も行う。この時点では相手が動かないことから、自分が黒なのか、白なのかを完全に推論することは出来ない。
⑥しかし、相手に先に動かれると、自分が黒ではないという根拠はなくなり、自分が黒か白かという二択になってしまう。
⑦他者よりも先に動く必要性と上の推論から、自分は白だとして先に動く方が良いと考える。というよりも、詭弁としてそういう答えを出す。
⑧しかし、自分Aが動き出した瞬間(このクイズでは)他者B,Cも同時に動いてしまう。
⑨他者が動かないので自分は白という前提(そして自分が白だから、他者が動かない)がここで否定される。
⑩しかし、他者は立ち止まって、そのまままたまた考え込んでしまう。
⑪もし自分(例えばA)が黒なら、最初の想定通り、他者はそれほど悩まずに、自身を黒と仮定した上でそれを否定するだろう。だから躊躇しても少しの瞬間で走り続けるはずだ。しかしそうしないのは、自分は黒ではないからだ。
⑫再び三者は走り始める。しかしまた三者が走り出したことで、わずかな立ち止まりが発生する。しかし今度の場合、一度全員が立ち止まっているという事実がある。それゆえに、最初は立ち止まっているということが自分は白であることの条件だったが、ここではその前提が破られたことが、三人ともが同じ結論、自分たちは同じ推論をしてその結果、全員白であるということにたどりついたという証明になる。
2.マルクスの論証(循環論)
(1)時系列的な疑問点
価値は商品同士の交換関係から現れる属性
価値は商品にあらかじめ内在していないと、表現できないはず。
種差(例えばカラスやオウム)の差を無視することで、種概念(鳥)が生じる。
類や種概念(例えば鳥)があるから、それぞれことなる鳥のような種差(カラスやオウム)を認識することが出来る。
さらに言えば、類概念(動物)というものがあるから、それ以外の人間や鳥などの種も認識することが出来る。
どちらが先なのか。
これが今回の問題でした。これをマルクスの認識にそって、考えようとしてきました。
といいつつも、この二つが同じようなことなのか、それとも違うのか、いまさらちがうかもと思いながら、あとラカンとの相同性とかも違和感がありながらも、まとめていきます。
あと種類の部分は、個別の存在ではなく、上では種と種差の関係にしています。
(2)マルクスの記述法・商品の価値に関する論証
この時系列の問題の解決方法は、とりあえずここではラカンの論理的時間と同じ構造という結論です。
まずマルクスが資本論冒頭で、記述する順番はだいたい以下のような感じです。
①商品には価値と交換価値がある(使用価値と交換価値の統合体)。
②交換価値は価値を表している(使用価値の交換比率は価値として等価)。
③使用価値を作り出すのは具体的有用労働、価値に対応するのは抽象的労働
④単純な価値形態の説明(交換から価値や抽象労働が生まれるような説明?)
⑤単純な価値形態の説明から、商品の価値の本性から交換価値が生じるのであり、交換価値から価値が生じるのではないということが証明された。
④のところでは、亜麻布と上衣を作る労働はそれぞれ異なるものだけど、それが等値される関係内部でのみ、それらの労働は価値を作る労働として等しい抽象労働になるというような内容が描かれており、交換関係の前から、亜麻布と上衣に同じ価値という属性(抽象労働の凝集体)が存在しているようには読めない部分があります。
⑤でマルクスは商品の価値の本性から交換価値が生じると証明されたと言いきっているのですが、上と矛盾するように思えるし、その根拠が普通に読んでも全然わかりません。
商品に価値が内在しているから、それは価値形態で表現されるんじゃよ。価値形態で価値が表現されるんだから、価値はほら商品に内在しているんじゃよ。
循環論法では?
これがどのような証明方法・記述方法なのか、今回の形だけの僕の理解をもとに、次の節で再度上の順番を整理してみます。
(3)循環論としての記述法、ラカンとの相同性
資本論冒頭
①商品は交換価値と使用価値の統合体
②交換価値は、交換関係を分析すると、使用価値で表される価値である。
(現実の存在が概念を表している)
③価値は価値形態で表現され(等価形態の使用価値が=価値存在となる)。
④商品は交換価値と使用価値の統合体
ラカン論理的時間
①誰も動かない場合自分は白、そして全員が同じ推論をしている。
②3者がうごくことで前提を否定(黒かもしれない)
③しかし立ち止まり、さらにもう一度走り出したことで黒は否定される。
④誰も動かない(立ち止まった場合)は白、そして全員が同じ推論をしている。
これが同じような関係なのか、正直思い付きで並べただけですけど
まず最初の前提が仮定であり、十分に実現していないその仮定から、推論を進めていき、そしてその結果、最初の仮定が結論として得られることで、最初の仮定が前提として正しいことが論理的に証明される(遡及的にそう扱われる)、というような関係ではないかと考えます。
資本論だけに注目すると
商品は使用価値と交換価値の統合体であるという前提から、それが価値を表していると考える(具体物から抽象物へ)。しかし、価値を表すには価値形態が必要(抽象物から具体物の関係へ)。そしてそこから価値が生成されて、その結果商品は使用価値と交換価値の統合体となる。これにより最初の前提も論証される。最初の前提は論理的に正しいことが証明される。
前提①→過程②
結果④←過程③
この流れで、①から④が得られたときに、遡及的に①は前提として本当のことになる。ややこしいですけど、①→②は前進過程、③→④は遡及過程と参考文献では書かれています。この場合僕の書いている遡及的に①が証明されるということとはまた別の、進路として遡及する過程ということです。
(3)参考文献の引用
ここまでかいておいてなんですが、僕の理解が正しいという保証はどこにもないし、もし形だけは少しは正しくても、当てはめているだけなので、内部の理解は進んでいません。だから参考文献を引用します。
資本論序盤の商品の価値の導出~価値形態にいたるまでの説明(論証形式についての)です。
『前進=遡及
先の「問いと解」で、「(1)商品→「使用価値+交換価値」→「(2)交換価値」→「使用価値の交換比率」→「(3)人間労働の二重性」→「具体的有用労働+抽象的人間労働」→「相異なる使用価値を等置できる価値実体という共通の尺度」まであとづけてきた。この《交換価値の価値への還元》の直後で、《価値から交換価値=価値形態への展開》へと反転する。観点が「価値から交換価値=価値形態へ」と反転する。
この反転した順序は、「3」価値の使用価値への表現=価値形態→「2」使用価値と交換価値の生成→「1」使用価値と交換価値との統一物としての商品という順序、いいかえれば
到達点から逆に出発点に戻る順序、遡及する順序である。全体で見れば、《前進(progress)→遡及(retrogress)》という順序である。これは単なる堂々巡りではない。単なる繰り返しでもない。前進するための前提である根拠に遡及して、最初に前提としたことが実は前進する過程で措定された結果であることを論証する順序である。商品の運動は《前提→過程→結果=前提》というシンメトリーを描く円環運動である。このことを論証する様式を、『資本論』第一部第一章の「第一節と第二節」は確認する。』
この文章自体導入のようなものでもっと詳しい論文もありますが、いまぱっと引用できるものはこちらになります。あと文中で措定という言葉が出てきましたが、どういう意味なのか今一わかりません。
コトバンクには、推論の助けを借りないである命題を主張することとなっているのですが、どうにも釈然としません。
ただこの分を再度読んで思ったのは、上の文で言っていることは、マルクスの記述様式が、前提と結論は、間の仮定が根拠である(ただし前提がないといけない)ということを、論証するためのものであるということです。
これは僕の上の理解とは違います。
僕が上にいたのは、あくまで商品自身が自己を証明するという視点です。この参考文献でいわれているのは、間の仮定が本当の根拠ということです。
ラカンの例では、囚人たちが、自分たちに共通のルールを確定できるのは、行動の後、しかし最初に無前提に自分たちに共通のルールがあるのではと仮定して行動した後でした、だから行動こそが根拠であるということが言えると思います。
一方で、この二人が動かない場合、二人とも同じルールに従っていて全員白だ、全員白だと考えているはず、というこの結論は、最後に一応証明というか、疑似的に証明されているというか、そういうことも言いえるのではないかと思います。
これをまとめます。
①共通のルールが自己を確立し続ける形
②その原因が(その共通のルールや認識を前提とした)行動にあるということ
この二つが、上の資本論やラカンの論理的時間から、考え方としてとりだせるのではないかと思います。①のほうも僕が考えたとかではなくて、参考文献に書いてあることです。といか僕がそれを理解しているのか疑問ですけど、とりあえずこの二つが言いえると思います。
あと文中で、もう一つ目を引いたのが、使用価値と交換価値の生成という部分です。
使用価値は端的に、物質というか、ある有効な商品体なわけで、これが交換関係から生成するというのはおかしく思えます。
ただし、使用価値というものが、資本制では、特別なやくわりをしていると考えれば、これは少し納得できます。
つまり他の社会でも使用価値はあるけど、資本制では、さらに特別なやくわりがあり、それは価値の担い手であると考えればいいと思います。
『商品の使用価値は、商品学という独自な学問で研究する対象である。使用価値は、商品が使用され、消費されてはじめて現実のものとなる。使用価値は富の内容の素材となるものであり、その富の社会的な形態がどの様なものであるかにはかかわらない。
わたしたちが考察している社会形態では、使用価値は「富の内容とは」別の素材の担い手となる。使用価値は交換価値の担い手なのである。』日経 p29 使用価値と交換価値
これを類(動物)、種(例えば鳥)、種差(オウム)、個別存在(オウムのような何か)の関係で考えられないでしょうか。
個別の存在は、言語体系の中では、類や種として把握されることで、種差としてあつかわれると、個別の存在を、それらをオウムとして、ひとくくりにしている等。
種差=資本制での使用価値(と価値)と考えられるかもしれません。
(4)ここまでのまとめというか、商品と価値にかんして具体的な上との対応
最後に大まかにまとめるとして、ここではラカンの囚人の例と資本論における具体的な価値と商品の関係についてまとめます。
商品→価値→商品
全員白という共通認識→行動→全員白という共通認識
価値形態論ではまだ人間は登場していないのですが、その後の交換過程論では、人間が登場します。この関係は、今は僕はわからないのですが、とりあえず、ここでは今までの考え方とは、少し矛盾するようですが、人間を出します。
そして完全に説明できているとかではありませんし、自分自身、なにか違和感があるというか、理解していません。
①生産者たちは生産物に価値(社会的に交換できるための性質)が内在していると無意識的に想定している。生産物が商品であり、交換価値があると無意識的に想定している(それはただ無前提の前提としてあるわけではない、少なくとも資本制社会においては、もう既にそういう社会があるから、だから潜在的にはやはり商品である)
②生産者たちは、その前提により、交換を行おうとして、その過程ではじめて、生産物は価値として扱われる。
③この過程を得る中で、ある商品の価値を表す交換価値はある程度その時々に応じて固定化される。
これは、人々の行動により、再生産される関係を、最初から行動ななしでも、存在すると仮定して人々が行動しているという話だと思います。
3.資本論全体の記述様式(再生産関係)
序盤の商品の価値の論証形式は、資本論全体の論証形式と同じだということを書いていきます。といっても、参考文献でそんなことが書いてあっただけで、自分はそれをうろ覚えで無理会で、それを見ないでこの記事をかいているので、間違いかもしれません(この場合間違いというのは、参考文献を理解していないということで、そもそも参考文献が絶対に正しいとかそういうことをいってはいません)。
以下の内容は、メインとする参考文献と、あとはいくつか調べたことを、合わせて自分なりの理解を書こうというものです。
(1)資本論における、わたしたちとは誰か、誰が誰に何を証明したか
『わたしたちが、「商品は価値としては、たんに人間の労働が凝固した物とみなされるにすぎない」と語る時には、私たちは分析しながら、その商品を価値という抽象物に還元しているのである。ただし商品の自然の形態とは異なる価値形態を、その商品に与えているのではない。ところがある商品を他の商品との価値関係において考察するときには、事情が異なる。ある商品は他の商品と固有な関係を結ぶことによって、その商品の価値という性格があらわになるのである。』p66 価値物の役割
上のような文章で、わたしたちとは、普通に考えると、マルクスと読者だと考えられます。しかしもしかしたら、これは人ではないのかもしれません。
資本論の内容が、価値や商品が、自己認識をして、そして自己認識により自身になり続ける、そのような在り方をなぞることであると仮定すると、そこで分析する主体も、分析される主体も、価値や商品自身ではないのかと、そう考えられます。
だからこの考え方を取ると、今までマルクスが言っていることは云々、というような言い方は間違いだったことになります。
どうしてこんな考え方が出てくるかというと、一つには、精神分析やその他心理学でいう自我が、そのような自己が自己になり続けるような運動をするのではと、そう思うからです。
(2)資本論冒頭の商品社会の性質
これは、生産者が自己労働の成果だけを所有して、等価交換を行うことで、人々が暮らしていく社会であるといいます(資本は前提としているが、資本の集積は無視しているらしい)。
マルクスの置く前提の社会がこれなのですが、しかしマルクスは剰余価値というものがあり、資本制の社会では不払い労働があるのだということを述べているはずです。
だとすると最初にこのような自己の労働の成果を等価交換する前提を、もってくるのはおかしい気がします。もちろんあとから実はこうで等価交換は嘘だ。みたいな展開にすればいいし、実際にそうなっているようです(読んでないから知らんけど)。
しかしそれでも最初の前提として、等価交換から価値を導き、そこから剰余価値を導入するというのは、何か矛盾したものになっている気がします(価値の前提が等価交換なのだから)。少なくとも初めて読んだ人からすれば、マルクスが労働価値による等価交換を主張しているのか、それとも不等価交換を主張しているのか、一体何を言いたいのか、いきなりよくわからない気がします。
ここで、この前提とする社会や、この時点での商品が、再生産される結論であり、前提であると考えると、これはとらえやすいのではないでしょうか。
資本が前提としてもっており、そして結論で確かめられるそれが最初に述べられており、その前提から、最後の結果に発展する過程を記述するのが資本論の様式なのではないかと、いや僕が言ってるんじゃなくて、そういうのを読んだだけですけど。理解しているかわかわからないので、曖昧な部分は否めません。
(3)冒頭の単純商品社会(労働価値、自己労働による自己所有による等価交換)は誰の思考(行動)産物か
①イデオロギーとしての自我と、行動としての自我
まず精神分析・心理学方面から見ると、自我は二つに分けられると考えます。
ただ実際のところもっとわけられるようで、ここで言う自我が二つに分けられるというのは、意識に関する自我、ラカンで言えばS1に部分の話だと考えます。
自我分裂という時に、原存在と言語的自我の分裂、言語的自我内でのS1とS2の分裂という二つが考えられますが、今書いている内容はこれではなく、S1の部分で、さらに自我を二つに分けて考えるという話です(S1とか、ここは以前の記事を見てください。間違いかもしれませんが、多少ニュアンスはつたわるかも)。
イデオロギーとしての自我はわかりやすく自分の考えや意識です。
行動としての自我とは、例えば人間が自然に普段行っている行為です。
今ある種の哲学的知識を得て、自我というのは幻のようなものだと考えるとします(イデオロギーとしての自我)。
しかし、そう考えても、なお自分というものをもって生きていくし、他者の自我も存在するものとして接して生活します。後者が行動としての自我ということです。
また例えば、マルクスがいうように剰余価値というものがあり、実は交換は不平等なのだという知識を得るとします。しかし行動としては、自分の所有する労働力を、賃金と等価交換している等が、考えられます。
ただこれを書いてからしばらくして、思いついたというか(だからここだけ追加した分)、前回もこういう書き方をしていたか忘れたというか、今思いついたのは、上のイデオロギーとしての自我とか行動としての自我とかは、旨く意味が伝わらないと思いました。自分自身整理できていなったと。だから書き直します。
イデオロギーとしてのイデオロギー(自我)
行動としてのイデオロギー(自我)
ようは自我=イデオロギーということ、フロイトやマルクス的な考え方ではそうであると考えます。
②資本制における自我(行動としてのイデオロギー)が自己を再生産する認識(全て自己労働の産物が等価交換される)
人間の自我と、資本の自己認識を類比的にとらえると、労働価値による等価交換という前提=結果は、資本の自我(無意識、S1の行動の自我)の思考、自己を認識するための思考の結果であり前提なのではないかと考えます。
あと資本の無意識と言って、別に資本家の無意識ということではないし、そもそも価値の無意識なのか、資本なのか、貨幣なのか、それもよくわかっていません。
③資本の無意識を、意識的に説明するのはアダムスミスやリカード
労働価値による等価交換というものが、この無意識的過程の前提=結果だとするとそれを隠された原理として意識的に、説明するのは、アダムスミスやリカードであると言えると思います(マルクスにとって、ブルジョワ経済学)。
資本論ではこの二人の発見に基づいて、それが自己循環するあり方(価値形態がその基礎か?)を述べるというような、内容であると思います(批判の内容、価値を発見はしたが、それが再生産される関係をみなかった、しかしこの批判がある意味ではアダムスミスたちの価値論をいかすことにもなる。または別の視点で言えば、批判しているのも資本自体の運動なのかもしれない)。
(4)その他(主に歴史的な話)
①現代人が読むときの意味の解らなさ
まずアダムスミスたちは、資本制を人間本性に基づくものとして自然的なものだと扱っており、同時にその隠された法則である労働価値法則を説くとします(労働価値法則に基づき、資本制社会が自然の体系だと説く)。
マルクスは、それは自然的なものではなく、労働価値説は、資本制という社会でしかなりたたないというような視点から、批判をしていると思いますが、このような整理をしてもまだ、マルクスが何を言いたいのか、ピンとこない面があります。
それは、アダムスミスやマルクスが述べる労働価値説とかはあり得ないし、そもそもそれ以前に、交換が等価交換である必要もないし、個人が所有するものが、自己労働の産物である必要もないと考えるからだと思います。
例えば、資本家とかある個人が、なにか商売をして、それが雇った人間を、いわゆるブラック労働して働かせてもうけても、それは資本家がリスクを取ったからであり、当然なのであると現代人は考える人が多いと思います。
ここでは個人のリスクということ以外に、そのような労働の機会を提供しているのも雇い主の方であるということが考えられます。またその結果として、あるいは結果としなくても、労働した人の成果が、雇い主に流れてもそれは当然だと考えられます。
結果としなくてもというのは、そのように賢い立ち回りをすることが努力であると認識されているからです(ここではなにも僕の意見を述べていません、実際単純にわかりません)。
また経済学の学説というか派閥も色々あり、経済の要因として様々な事が語られます。
これらは全て人間の意識的な産物です。しかしアダムスミスたちのそれは無意識的な産物です・・・・・というようなことではないと思います。
アダムスミスたちも、労働価値説を説いているときは、もちろん意識的にそれを説いているわけですから。
これは歴史的な認識の話です。
アダムスミスやリカードは、労働価値説を持って、またはそれと併存させて、資本制を自然の体系だと自明視した人達であって、そして当時の主流の大経済学者だということです。だからブルジョワがその精神的主柱とするブルジョワ経済学というわけです。
当時実際にどうだったのかは詳しくはわからないのですが、ようは、マルクスはこの労働価値説や、あるいは所有とは自己労働に基づくものである、自己が所有するものは全部自己労働の結果である、等価交換である、というその精神を、資本の無意識であり、アダムスミスたちが隠された原理として分析する意識であり、啓発されたブルジョワの意識であると、そう想定して、それを批判していのだと思います。
一方で、現代人は、そのような自己労働による所有とか、等価交換とか、そのようないわば露骨な嘘にはだまされないというか、もっと単純に、剰余労働というものがあるかもしれないが、それは当然だと、等価交換などはないし、必要もないと、むしろそれは悪だと、そう考えているのだと思います。
繰り返しになりましたが、だから、マルクスが何を批判しているのか、その対象がそもそもわからないということだと思います。
批判の対象がずれているということを考えるだけではなく、現代人の意識(現代経済学)と資本論にはなにか関係があるのか、現代経済学とマルクス経済学の関係等。それをこの意識のずれから、読み解く必要があるように思えます。
②労働価値説を証明しようとしているのか、それとも搾取を証明しようとしているのか。
ここの労働価値説や剰余価値説を証明しようとしているというよりも、それらを含む一つの運動を記述しようとしているというのが僕の理解です。
それはもう書いたんですけど、ここで書きたいのは、剰余価値というものが、これがマルクスの暴く資本の裏側とかそういうことではなく、労働価値、等価交換、と同じく、この剰余価値も、資本制の体系の一部であるということです。
③資本論における歴史認識も循環論(あるいは拡張論)?
歴史的には、過去から現在という時系列で良いが、論理的には循環論であるというようなことを書きましたが、おそらく歴史的にも循環、あるいは拡張するものとして、資本論では扱われていると考えます。
まずよくわからないのですが、マルクスの歴史感というか
マルクスの歴史観に対する理解として、社会体制が段階的に発展していくようなものだと想定します。
そして、その上で、第二の特徴として、差異のある二つの考え方に分類します。
それは資本生産様式だけが資本制的な価値の運動が行われる社会なのか、それとも他の社会でもそのような資本制的な価値の運動が行われているのか、という差異です。
あとはこの二つの理解に基づいた批判意見についても少し書きます。
マルクスにたいする理解その1
・歴史が段階的に発展する。
・なおかつ、資本制だけが、資本制的な価値の運動が行われる社会である。
(他の社会とはまったくことなり、断絶している)
有史以来(資本制的な価値の運動なし、またはそれはまた別)
→封建制(資本制的な価値の運動なし、またはそれはまた別)
――――――――――――――――――――――――――――
→資本制(経済活動の全面化、資本制固有の価値の運動、まったく違う社会)
――――――――――――――――――――――――――――
→社会主義(経済活動の停止)
このマルクス理解におけるマルクスへの批判
経済活動は有史以来行われており、これからも行われる、資本主義こそが普遍的な完成形であり、封建主義等ではそれは妨害されていただけ。資本主義を特殊な一段階だとするマルクスは間違っている。
(僕はこの考え方自体はマルクス理解として否定しますが、一意見としてここで提示しているだけであって、特定の誰かを罵倒する意図はありません。ある考え方を持っていれば=それでその人の思想的な意見に価値がないという書き方は、露骨に反倫理的な場合を除いて、ただの差別だと思います。
例えば僕が左翼だと仮定すると、僕が仮定しるわけではないんですけど、あえてマルクス関連を書いているのでそう仮定しておくのですが、僕は右翼的な本も読めますし、そこから学ぶことが出来ます。逆に僕が右翼だと仮定しても、左翼の本を読むことができそこから学ぶことが出来ます。
ただどちらから学ぶにしても、僕は権威主義というものがきらいなので、それには反対します。それは嫌いだからです。
もう一つ差別ということの一例を考えます。
例えば現代経済学に精通している人、例えば大学の先生等がいるとします、というか当然いるはずです。そして僕は資本論を少し読みました。その経験から、この記事で書いているような内容を理解できない、ブルジョワ経済学の大学の先生なんか、僕に比べれば低レベルだと、そう考えるとします。
この一連の記事が多少なりとも意味のある内容であり、実際にそれをある経済学の先生が知らないと仮定して、そして僕がそれを根拠に、その先生を馬鹿にするということをすると、僕のほうがその先生より凄いなどと思うとすると、それはとんでもない勘違いだと思います。差別というのは、僕の場合、差別するような権力者ではないので、おかしく思えるかもしれませんが、このことをさしています。
逆に、社会的には底辺の人間や、例えば統一教会の信者の人とかを、無条件に愚か者として見る、そういう考え方も同じことであると思います。ただ統一教会の場合、上で書いていることと多少矛盾するとは思いますけど。
人には色々な経験や知識があり、世界には色々な知識があります。その一側面だけから見て、他者を否定する、他の知識を否定するというのは、意味がないことだし、僕自身のためにならないと思います。)
マルクスにたいする理解その2(僕の理解)
・歴史が段階的に発展する。
・資本制以外でも、資本制的な価値の運動がある。価値の運動の全面化の歴史である。
有史以来(資本制的に価値の運動の芽生え、と古代社会が併存)
→封建性(資本制的な価値の運動の進展、と封建制が併存)
→資本制(経済活動の全面化、資本制的な価値の運動の完成、ただしそこに含まれないものもあるかもしれない)
(ようは全部価値の運動の発展であり、資本制でそれが完成する、ここまでの歴史認識全部価値の運動、資本制を前提としている)
―――――――――――――――――――――――――――
→社会主義(・・・・・・・?)
【古代→封建制→資本制】資本制のような入れ子構造(価値の発展)
このマルクス理解におけるマルクスへの批判
ごめんわからん。批判できるほど理解がない。というか僕はこのマルクス理解がマルクス理解として正しいと考えるから。
でももやもやする。こういうのは、いいやりかたじゃないよね。
この二つをみて何が言いたいのか、それは、資本論における歴史的記述は、最初から資本主義(というかそれを最終目標として)を前提にしており、その内部の運動であるということです。
その価値の運動において、一つは過去から現在というような縦の時系列として把握できるけど、もう一つは、同じような形で、循環しながら発展拡張していくというような関係としても把握できるのではないかということです。
別の言い方でいえば、資本主義はある種の道理であるからこれを否定することはできない(歴史的に発展してきた最終形態性であり次はない、そしてその前の封建制等を、資本制とは何かまったくことなるものとしては把握できない)というマルクス批判にたいして、むしろそれを、いやそれ以上に、人間の歴史すべては価値の運度、その発展運動だということを推し進めているのが、マルクスなのではないかと。
そしてそれは、人間の社会的な関係が生み出すものであり、その関係性を自然と混同していることが、アダムスミスや、または脳から精神を説明できると考えるような考え方等の問題なのだと、しかし逆に言えば、精神といって、それを自明視していることも実は問題だと、そのようにマルクスは言っているのかもしれません。
④記事を書くさいのスタンスと、上の内容との差異について
上ではアダムスミスをまるで愚か者のように扱ってしまっている文章になっています。また前回の記事内にも部分的にそのような所があります。しかしこれは僕が記事を書くさいのスタンスとは異なります。
日経の資本論では、翻訳者の中山元(いいわすれていましたが、記事では全部敬称略です)が、マルクスはいたるところでアダムスミスを罵倒しているが、それでもマルクスの批判自体が、アダムスミスの偉業、その成果が存在するからこそ、それが行えるのであると書いています。
上の書き方は、なんというか、僕自身が、マルクスのスタンスを理解するために、わかりやすく把握しようというときに、舌足らずというか、そういう感じです。実際のところ、マルクスの観点から、アダムスミスを見下す等のことはしていません(あとしつこいが僕の理解が正しい保証はどこにもないし)。
また別の見方をすれば、マルクスは表向きとしては、アダムスミスやリカードを罵倒しているのですが、しかし実際にはアダムスミスやリカードを参考にしまくっている、しかしそれをある意味では隠しているのだと、その様に考えることも出来ます。
というのは、この記事をあげる一日前に、インターネットのある記事をよんだところ、マルクスとジョンスチュアートミルとの関係について少し書いてあり、それを参考にしたからです。からですといわれても伝わらないので、詳細を書きます。
ミルという人は有名な経済学者で、現代社会的な評価ももちろんですが、マルクスも彼を評価しています。あとはラッセルも西洋哲学史の最後のほうで、彼を取り上げています。
ミルは、良く知らないのですが、社会主義的な考え方も持っている人間で(だからラッセルも評価しているのだと思う。ラッセルは社会主義者ではないし、西洋哲学史でマルクスの理論自体を否定しているのだけど、しかしスタンスとしては、どことなくシンパシーを感じている節があります)、一見マルクスは認めそうなのですが、マルクスはミルを、俗流経済学として、資本論では露骨に罵倒しています。
これに対して、記事内では、マルクスの思い描く社会主義とミルの思い描く社会主義は似ているのであって(ただしマルクス自身は、自分はそのような社会を明確に提示したことはないと発言している文章もある)マルクスがミルを罵倒するのは、ただライバル関係として、そのように言っているのであり、実際マルクスの理論も、そのような学者同士の対立関係の中で、作られたものだという内容が触れられていました
(触れられていたというのは、その記事自体はある本の紹介で、経済学を全体的な視点から把握しようという内容の一部分として、上のような内容が紹介されていました)。
だから、マルクスが誰かを罵倒しているからとって、それを参考にしていないとか、それが否定されるとか、マルクス自身歯牙にもかけていないとか、そういうことは、言えないというか、そういうふうに思うんです。
学者同士の関係で、色々な説が出来上がり存在するという視点も、内容から見るだけではなく、必要であると思います。
何が言いたいのかというと、自分でもよくわからなくなってきましたが、つまりマルクスをあげて、誰かを落とす、しかもそれを理解できる僕は偉大だとか、そういうスタンスではかいてないし、そうならないように気を付けている、ということを度々書いているわけです。)
4.その他考察
(1)論理的時間とは、一人の人間の意思決定の時系列か?
そのようにも思えるのですが、正直はっきりしとした確信というか、精神分析の知識がにわかなもので、今後もっと理解を深めるまでは、保留にしておきます。
参考文献では、3人が同じ結論に達するということは、自我理想が生成されるということであるというようなことが言われています。この自我理想のもとに、自我が束ねられている、この自我理想が経済とのアナロジーでは、貨幣であるというような話ですが、うーん最後にここは曖昧なままです。
また別の観点から見ると、人間が考える時間とは別の時間が流れているということでしょうか。カント的には時間は人間の側にあるということで、マルクスもその系列だとは思うのですが、ここも未整理です。
というか、これに類する話は、一部は、もう上で書いているので、それがここでの結論のようにも思えるのですが、あいかわらず、これは実際に掲載している時系列と各順番がことなることからきています。しかしスタンスとしては、僕はにわか知識しかないというか、そう言いう感じなので、まあなにがいいたいかというと、まだ何かを判断できる段階には達していないし、そこが僕のいいところかな、なんて思ったりします。まあある面に限定した場合です。
(2)自由意志と因果(実践と論理)
自由意志と因果ということの理解として、これらは相いれないものであり、実際のところ、世の中は因果関係で全て決まるので、自由意志は錯覚だという見方があります。
最初の第一原因さえきまればあとは物理法則というか過去から現在の因果関係で、全てが決定されるというかんがえかたがあり(未来は決定されている)、そこまで未来まで決定されているという見方をしないものでも、因果関係がある以上は、人間は誰かに動かされるものだという考え方です。
この考え方をリアルであるとすると、自由意志は錯覚であることになります。
因果関係を考えるあり方を論理的な視点、自由意志があるとするあり方を実践的な視点とすると、あくまで論理的な視点がリアルなのだけど、法的なフィクションとして、自由意志が存在するとして扱わなければならないと、そのような考え方も出来ます。
(ついでにいうと、凄く前に書いたアリストテレスの第一動因説について、第一動因は動かされずに動くものとかいたけど、動かずに動かす者の間違いでした。あと僕が以前自由意志は存在しないという記事でかいたのは、この因果関係がメインではなく、意識の対象が存在するからということで、これはまたどちらかといと違う視点でした。なにがいいたいかというと、僕は他人の考え方に、しばられたくない、ということです。いまからマルクス先生に正解を教えてもらおうとか、そういうやり方が一番嫌いということです。でもかつてアリストテレスの名前を出していたときには、これは意識しなかったことだけど。権威主義なのか? あとは、思想的に進化途上の人間だということです。)
このような考え方に対して、ここでは、違う見方をします。というかこれも理解しないままのパクリです。
因果関係があるから誰も自己原因にはなれずに、自由意志はないと考えられます(自由意志≒自己原因性)。そしてすべてが因果関係である以上、決まった個と言うのも幻想だと。
しかし因果関係が成立するためには、何が必要かというと、個別存在が必要です。個別存在がないと因果関係は生じません。そして因果関係があるからこそ、自分が自己原因=自由意志があると言えます。
両者は対立するだけではなく、相互依存している可能性があります。
全ては因果関係だから、個は存在しないし、自由意志はないというのは、あくまで、因果関係VS自由意志という対立を考えた時に、自由意志を否定しているだけにすぎないのであり、そこには盲点がある、とも考えられます。
5.おわりに&参考文献
今回は、資本論の論証形式について、その形を見ていこうというものでした。
しかし、価値形態の内容など、全然理解していないので、本当に障りだけです。しかし少しは、自分なりの課題をクリアできたと思います(しつこいけどマルクス先生だとフロイト先生だのの正しい知識を学ぶとかそういうことは、考えていません)。
結論を以下にまとめます。少し整理の過程を飛ばしている部分もあります。
(1)今回注目した問題
①商品(使用価値と交換価値)→価値→商品(使用価値と交換価値)という意味の分からない時系列についての理解
②資本論では、価値が交換価値よりも先だという記述があり、それへのマルクス理解
③マルクスの記述や論証の様式
④価値が先か商品が先か、種が先か類が先か、これに関する理解
(2)その解決法
①商品→価値→商品というとき、最初の商品という前提から、導かれた間の価値が根拠となって(人々が価値を行動として生み出すことから)、結論としての商品が得られる。しかし人々はあらかじめそれが商品であると想定している。想定しているからこそ行動が生まれ価値が生まれる。そして価値が固定か知れて、交換価値も固定化される。
②上の流れにおいて、商品の交換価値の根拠は人々の行動にある。だからマルクスは商品の交換価値は、実際には価値が根拠であると書いている。この価値は人々が生産物あるいは商品を交換しながら、おこなう社会的な等置行為により生じる。
③論証形式にはとりあえず二つの意味があると考える。一つは貨幣やあるいは商品が自己を自己足らしめる関係を記述するということ。これも貨幣やあるいは商品においては一種の自己証明のようなものであると考える。
もう一つは、上のように、商品がそれ事態になるためには、その根拠として行動が必要であるということを、論証するために、その運動の在り方をなぞるような書き方をしていると思われる。しかし僕には、これによりそれが論証できるのか、論理的な部分はわからない。
④歴史的には、世界的な価値体系の完成を目指して、経済活動の広がりがあったとすると、この場合、それぞれの生産物というか使用価値は、まず不完全ながらも、価値存在として、または種差として、自己を扱い(実際には人間がそう扱い)それが類を、世界的な価値や世界的な貨幣を完成させたと考えられる。
しかし、これは種差から種&類へと一度きりのものではなく、一時的に完成した類をまた前提にして、さらにそれが拡大していくというような運動であると考える。
だからまったくの個別存在は、別に類がなくても存在できるが(もちろん人間にはそれは基本的には不可能)、種差(例えばカラス)は類(動物)という概念が存在することで、二重の意味で、はじめて存在することが出来ると言える(種差は、類を前提としている。類が完成しない限り、種差も完全には他の種差と比較できるものにはならない)。
十分な答えとはいえませんが、このようなことを今回は考えました。
最後に、参考文献ですが、僕が参照している一連のまとまった論文は、まだ上げないですが、他の論文、これもかなり知識のある方のものをあげておきます(こちらは良く調べてないので、メインではないので、あげます)。全部インターネットから読むことが出来ます。
参考文献
1『『資本論』における資本の諸概念と会計-『資本論』第3巻第一篇~第三篇を中心に-』
新祖降志朗
2『述語づけと実体-アリストテレス『範疇論』-1-5章研究-』
田畑博敏
3『なぜ彼は二度立ち止まったのか-ラカンの論理的時間の読解の試み-』
伊藤正博
この記事はここで終わりです。見ていただいてありがとうございます。

