こんにちはRAIMEIです。以下、何か知っているかのように書いていますが、インターネットを少し見ただけなので、正しいかどうかはわかりません(自分が理解しているかどうか、学校の授業ほとんどねてたからね、自身がないということです。)。ただ今回はである調ではかきたくないので、そうしています。
1.集合の基礎知識?
(1)基本的な構造または書き方
動物の種類の集合
動物={カラス、サイ、シマウマ・・・・・}
1~4までの自然数の集合
A={1.2.3.4}
上の動物やAが集合であり、カッコ内のものそれぞれは、その要素または元(メンバー)、要素全体で集合は構成されています。わかりにくいですが、動物やA自体は、右辺の要素たちの集合を表す名前としてだけ存在しているのではなく、それ自体が右辺の要素の集合体であるということです。
しかし同時に、それならば
{カラス、サイ、シマウマ・・・・}={カラス、サイ、シマウマ・・・}
これが集合であるといってもよさそうですが。わざわざ動物という別名称が登場するのはなぜなのでしょうか。いや、それは、名前がないと呼べないではないか、とそれはわかりますが、どうも違和感があります。
数学に詳しくないので、よくわからないが、とりあえずここでは動物やAは、要素の集合(集合体)でありどうじに、それを表す名前(集合の名)なのだとして、納得しておきます。
(2)ある集合に、要素として、含まれる、含まれない
鳥は動物という集合の要素であるから、動物という集合に含まれます。2は1~4までの自然数の集合であるAの要素であるからこの集合に含まれます。
このときは以下のように書きます。
鳥∈動物
2∈A
一方で、ケーキは動物という集合には含まれないし、6もAには含まれません。このとき以下のように書きます。
ケーキ∉動物
6∉A
2.種と類
(1)種類-種と類の関係-
鳥を例にとると、鳥という概念は、様々な種類の鳥を、全体で表す概念です(わかりにくいですが)。それにたいして、カラスとか、雀とか、オウムとかは、鳥という類の内部の種です。
鳥(類)={カラス、雀、オウム・・・・・}(種)
種類という時に、判然としない面がりましたが、種と類を分けた時に、類のほうがより大きな概念であり、種はその中に入る概念、種の集合が類と言えそうです。
(2)一般的属性と特殊属性の階層性?
上の集合の説明と異なるところは(ことなるのかわからないけど)、類というのは、それよりは具体的で特殊なそれぞれの種にたいして、あくまで、一般的な性質であるとうことです。
鳥ではなくても、動物={カラス、サイ、シマウマ・・・}という集合において、動物という集合、概念は、要素よりも、より一般的な性質、内部の要素をひとまとめで表現できる性質を持っているはずです。
また、さらにこの種を分解してみると、これも集合であると考えられます。オウムという種を想定すると、これは個別のオウムらしき鳥の集合体であると考えられます。
オウム(種)={オウム1近所の家のオウム、野生のオウム2・・・・・}(個別)
そして、この時にはオウムという種概念は、個別のオウムという特殊存在にたいして、相対的に一般的な属性概念であると考えられるように思えます。
類(一般)→種(前者に対して特殊、後者に対して一般)→具体存在(特殊)
(3)具体存在が先なのか、一般的な存在が先なのか
これは人間の認識の順番とうことですが
例えば、ある種なり、類が概念として把握される場合、まずその概念が出来上がるより先に、具体的な存在の或る特徴、それが類似することから、その集合として種や類が出来るということが想定されます。
ライオン(種概念)={タテガミのある動物1、タテガミのある動物2・}(アフリカや富士サファリパークで観察できるそれぞれの個体)
人間がそれぞれ、似ている個体を、ライオンだとして名づけたという順番です。
それぞれ似ているものの、特徴だけを抽出して、その細かい違いは捨象して、同じ概念として把握しているということです。
しかし、逆もまたあり得る可能性があります。これはうまく言えませんが、ライオンとか動物という概念、または概念把握のための能力があるから、それら個別存在を把握できるという側面です(ただ、この概念把握のための能力というのと、その概念(類、種、のような一般的属性)が先にあるから、それが可能なのだというのは、当然違う話です)。
動物という概念、またはライオンという概念があるから、タテガミの猛獣達をライオンや動物として把握できるのか、それともただ個別の経験だけからその帰結としてライオンという概念が生じるのか、という話です。
(4)概念整理、類・種・種差・個別
上では類と種という風に大きく二つにわけました。
ただこれだと、動物も鳥も類になってしまい、これはややこしいです。
というかややこしいまま書いていて、後で見返して、この部分だけ、新しく書いています。
ここでアリストテレスの分類法で整理します。
類(動物)、種(例えば鳥)、種差(例えばオウムという概念)
このわけかたなら、もっとわかりやすいですし、見逃していたこともわかります。
種差であるオウムも概念であり、実際のオウムらしきものそのものではなく、これを上に付け加えると以下のようになります。
類(動物)、種(鳥)、種差(オウム)、個別存在(オウムらしき特徴の何か)
4つ目の個別というのは、これはアリストテレスにあるのかはわかりませんが、種差としてオウムという概念があり、それにたいしてそのオウムらしき個体ということを、意味しています。
この整理をすることで、問題意識にあやふやな所があることがわかりました。
(3)の話だと、ライオンのような何かを沢山見ることでライオンという概念ができあがるのか、それとも、ライオンという概念や動物という類概念がるから、それらをライオンとして認識することが可能なのか、ということを書きました。
ただこの時、上の3つ、類、種、種差というセットの範囲でこれを考えるのと、4つ目の個別も含めて考えるのでは、大分意味合いが異なる気がします。
上の話をもう一度これにあてはめると、ライオンは一応種だとします。そして個別のライオンらしきものは種差ではなく、個別の存在です。種差は、アフリカライオンや大西ライオンとします。
(類)動物→(種)ライオン→(種差)アフリカや大西ライオン→タテガミの何か(何かの群れ)
大西ライオンが種差なのか、個別存在なのかは意見の分かれるところです。
類、種、種差というもの、この関係を考えることと、さらに個別の存在まで考えることはおそらく微妙に違うのだと思います(鳥という種が、カラスとかオウムとかの種差と、どういう関係にあるかということと、それぞれのカラスがカラスとして認識されるという関係はおそらく違う者だと考えます)。
どう違うのか、その根拠もないんですけど 、正直に言えば、アリストテレスが3つにわけているから、あとヘーゲルは、普遍、特殊、個別という風にこれも三つに分けていて、たぶん関連があると考えるからです。思いっきり権威主義だな。なんか面白くないぜ。
この記事では、あくまで、類、種、種差という3つのセットで考えていきます。
個別存在からより上位の概念が生じるのではないかというときに、その最小のものは種差であり、個別存在ではないということです。
具体的には、カラスという種差、オウムという種差、それぞれの類時関係から、鳥という種概念がうまれるのでは? しかしそうではなく、鳥という概念があるから、それらは認識できるのでは? とそういう風に考えます。
(5)具体例、犬種について考える
しば犬とか秋田県とかいますよね。実は日本の犬の犬種というのは、明治時代に作られたものだという話を、以前読んだことがあります。
日本には元々、自然の存在を、そのように色分けして考える視点がなく犬種と言う概念もなかったと言います。西洋に対抗するために、それまでなかった犬種という概念と、それに対応する存在を作りだしたという話です。
その方法は、ある地方の犬を集めて、そこから特徴を抽出していくというやり方だったと言います。
ここで、これをまず事実であると仮定して、さらにこの事実に、類と種のような上の議論が適用できるという仮定をします。だってそんな根拠ないですから、仮定です。
すると、これは類(動物)、種(犬)、種差(犬種)、個別存在の群れ、どれが先ということになるのでしょうか。個別存在は考えないと言っておきながら、ここでは考えます。
上の話では、個別の犬をひたすらあつめているので、時系列的には、以下のようになります。→はここでのみ時系列です。
類(動物)→種(犬)→個別の犬らしき何かの群れ→種差(柴犬や秋田犬)
こうしてみれば、類や種がさきにあるから、個別の存在を、犬種という(種差)として分類できたと言えます。
しかし、もう少し歴史をさかのぼったときに、日本人はどうやって犬を犬として把握したのでしょうか。その時には、個別存在から帰納的に種概念をつくったとしてもおかしくありません。
個別存在の群れ→種(犬)
アリストテレスとか西洋的な話をしているときに、わかりやすい例として、日本人を例にとるのはわかりにくいですね。ことわっておくて、別にどちらの人間が良いとか悪いとか、そういうことは言っていません。
後最後に、よく考えたらある一地方、という条件が上には入っていませんでした。それはこの一連の記事では完全スルーします。
(6)主語と述語の関係(より大きな集合が述語になる)
動物(類)→鳥(種)→カラス(種差)
鳥は動物だ、とは言います。
しかし、動物は鳥だ、とは言いません。
カラスは鳥だ、とは言います。
しかし、鳥はカラスだ、とは言いません。
鳥は動物だ、という時に、主語は鳥であり、述語は動物だと思います。
より大きな集合が(動物は類、鳥は種)、述語になります。
3.自身を要素として含まない集合、またそれを要素として含む集合(ラッセルのパラドックス)
(1)自身を要素として含まない集合
動物={カラス、サイ、シマウマ・・・・}
これは、動物という集合自体は、その要素としては含みません。
動物={カラス、サイ、シマウマ、動物・・・}とはならないということです。
(2)自身を要素として含む集合
タコスでないもの={ケーキ、サンドイッチ、石、・・・・タコスでないもの・・・}
集合が(集合体とその名前が、その分類方法が)タコスでないものなので、その要素にも、タコスでないものという集合自体が入ります。
ここで、注意点は、要素として入っているタコスでないものは、集合であるタコスでないものとは別の存在ではなく、この要素じたいが、集合である「タコスでないもの」と、同じ集合であるということです。集合である自身が、内部に同じ集合を内包しているということです。
集合であるタコスでないものは、右辺の要素の群れの名前だけをあらわしているのではなく、あくまで要素の集合体であるということです。
この集合がなんなのか正直良くわかりません。ただこのような集合は、僕が見たページでは、異常な集合だと呼ばれていました(定義できない?)。たしかに集合の中に、同じ集合が要素として入っているというのは、イメージとしてもよくわかりません。
(3)自信を要素として含まない集合の集合
A={B、C、D}
このような集合をまず想定します。これは自身を要素として含みません(集合Aは要素としてAをふくみません)。このような自身を含まない集合を全てあつめた無限の集合を想定するとこれはどうなるでしょうか(アルファベッドでわかりにくいなら、上の動物の例で構いません)
Xとしておきます。
Xは、自信を含まない全ての集合、の集合です。
【自信を要素として含まない全ての集合】の集合=X
集合の集合を、それじたいを一つの集合としてまとめてとらえる視点です、一種の入れ子構造的なイメージです、ロシアのマトリョーシカのような。
表記方法について、最初の集合の書き方とはちがいますがが、意味は伝わると思います。
(4)自身を要素として含まない集合、の集合における矛盾
ところで、このX=集合の集合自体は、自身を要素として含まない集合なのでしょうか、それとも自信を要素として含む集合(集合として定義できない)のでしょうか。それが主題です(後者ならこの集合は集合として成立しません)。
今、X自体が、自身を要素としてふくまない集合だと、つまりXの要素の中に、X自身は入らないと仮定します。
【自信を要素として含まない全ての集合】の集合=X(X自身を要素として含まない)
すると、X内部の要素は自身を要素として含まない全ての集合なので、当然仮定したXも要素として含むことになります。するとその結果により、最初の仮定とは逆にXは自分自身を要素として含む集合になってしまいます。これは矛盾です。
こんどは、X自体が自身を要素として含むと仮定してみます。
【自信を要素として含まない全ての集合】の集合X(X自身を要素として含む)
すると、X内部の集合は自身を要素として含まない集合なので、その要素としてXが入るということは、X自体が自身を要素として持たない集合であるという結論が出てきてしまいます。だからこれも最初の仮定を、集合の内部にあてはめると最初の仮定とは、矛盾した結論が出てきてしまいます。
これをラッセルのパラドックスというそうです。
(5)クレタ人のパラックス
エピメニデスは、「全てのクレタ人は嘘つきである」だという。
エピメニデスもクレタ人であり、これがクレタ人のパラドックスです。
エピメニデスの発言行為が本当だとすると(エピメニデスが嘘をつこうとしていないとすると)、全てのクレタ人は嘘つきということになり、最初の仮定と矛盾します。
(多少わかりにくいですが、このパラドックスでは、全てのクレタ人は嘘つきという時、それは全員が全ての場合で、嘘つきだということをいっています。
逆に全てのクレタ人が嘘つきではないという風に、これが否定される場合、今度は全てのクレタ人は正直者になります。
全てのクレタ人は嘘つき、ではないという否定の時に、これは全ての部分を否定しているのであって、部分的には正直もいるとかそういうことは、今回は排除して考えています)。
これはエピメニデスが、嘘つきの集合に含まれないと考えた場合、逆にその集合に含まれてしまうということなのかももしれません。
エピメニデスの発言行為が偽だと仮定した場合、全てのクレタ人は正直になります。するとエピメニデスが嘘つきという最初の仮定と矛盾してしまいます。
これはエピメニデスが最初の集合に含まれると仮定すると、逆にその集合に含まれなくなってしまうということかもしれません。
発言する者が、その発言の対象(集合)に入ってしまう時、このようなパラドックスが生じるようです。自己言及のパラドックスとか、再帰性のパラドックス等の名前でも、呼ばれるようです。
上の二つがどう関係があるかというと、似ているということしか言えません。
クレタ人のパラドックスの簡単な回避方法は、エピメニデスは、クレタ人の中に入っていないとすれば、これは矛盾とはなりません。
この記事は、ここで終わります。もう少し書いたこともあるし、書きたかったこともあるのですが、どうも理解が足りないので、またいつかこの部分は深めたいと思います。見ていただいてありがとうございます。

