「考察」個人の自由意志は存在しないのか、人生は運ゲーなのか

 

 

遊戯王でネタ切れなので、最近ラーメンを食べまくっている、どうもRAIMEIです。

注意!!
これは自分の趣味の思考癖を羅列したものです。たまにはこんなのもいいかと。
IQ100前後、学歴も大したことのない若者の知能中学生レベルの戯言なので、タイトルは気にしないでください
(まさかとは思いますが、この無意味、低レベルな記事を本気にして虚無に陥る人などがいたら困るので、初めに断っておきます。これはあくまで戯言です、RAIMEI自身が本気で書いていませんし、かく知識もありません。RAIMEIは人生は自分で切り開く、自由意思は存在すると確信しています)。

 

本題

1、個人の自由(意思)はあるのか

人生のことをよく運ゲーという人がいますよね。自分ではどうしようもないことに対する慰めのような意味合いがあるのかな。まあ僕もそう思います。
いやいや人間には自由意思があって人生を切り開けるではないか、という方がいると思いますが、その自由意思こそまさに存在しないと考えます。

ここでいう「自由意思」とは自分の心(脳あるいは魂?の働き)や行動をある程度、制御・選択できる脳の能力とでも適当に定義しておきましょうか(この時点で一般でいう自由意思とは乖離している気がしますが)。
たとえば人はハンバーグが食べたいと思って、ハンバーグを食べるわけですから、ここでいう自由意思はあるように思えます。

しかし実際にはハンバーグを食べたくなった原因があります、空腹です。この空腹という原因は自分の意志で制御できるものでしょうか。もちろんある程度は制御できます。しかしここで言いたいのは、人間の行動には常に原因があり、最終的にその原因は他人に依存しているということを言いたいのです。

例えば、あなたは、Aさんに誹謗中傷されたとしましょう、あなたは当然むかつきます、いやムカつかないかもしれません、しかしどちらにしても、あなたの反応はAさんの行動と、あなたの心理的特性、心理状態に依存しています。つまりあなたは怒るにしろ、怒らないにしろ、その時の心理や行動は、制御しようのない、Aさんの行動と、そしてあなたの置かれている状況、あなたの才能と取り巻く環境により積み重なれた性格に依存しています。

はたしてこれで我々は自由にものを決定しているといえるでしょうか。ようは他人の行動と、もって生まれた性質と、育った環境がその人の心理や行動を決定しているということです。

先ほどの空腹の話にもどると、空腹にも原因があります。それは生きていることです(はい暴論です、あくまでネタなので)。この生きているということが僕たち個人の行動の一番の原因となります。

しかし僕たちは僕たちの意思で生まれたのでしょうか?ちがいます。両親に産んでもらったのです。そして両親はそのまた両親に産んでもらっています。

生まれるという、能動性をもたず、生んでもらうという受動性を生の根本的な原因としてもつわれわれ人類が、個人の自由意思など持ちうるでしょうか。どんな行動の前にも、その前提の原因、理由として、他人の行動・意思が介在するのに、自分で決めたといえるのでしょうか。

その人の性格や能力は才能と、環境で決まりますが、才能と幼少期の環境を自分で選択することは可能でしょうか。ぼくは自由意思は存在しないと思っています。

先ほどの定義を改変してい言えば、自分の心や行動を他人に選択させられているだけなのではないでしょうか。

(まるで中学生の日記ですね、僕は最近努力するということを覚えたばかりの20代後半のダメ人間なので、しつこいけど本気にしないでね。ぼくは自由意思はあると思ってますよ。25を超えたぐらいから確信めいたものが芽生えました。)

われわれは誰かに動かされてはじめて動くことができるものなのです。もし神がいるとしたら、誰にも動かされずに、自ら動くものなのかもしれません。

 

2、人生は運ゲーなのか

しかし、我々の人生がだからと言って受動的で、運ゲーだなどと考えるのは間違いだと思います。僕もこんなことを考えているときは、(あくまで自由意思がないと仮定しているときは)、一瞬ですが虚無に陥ってしまいました。だって自分の意思がないのなら、人生こんな虚しいことはないですからね。

ただそのうち、個人の自由というものに縛られているあまり、もっと大きな存在を忘れていることに気が付きました(はい宗教臭いですね、僕は頭が悪いだけで、薬もやってないし、変な宗教にもはまっていません)。

ぼくは自分が、個人である前に、人類の営み、命ある宇宙の営みの一部そのものだということに気が付いたのです(あたりまえだろ!)。僕の前にいた祖先も、僕の後にいるであろう人も、まったく関係ない人も、他の動植物も、全ては一体だと思うようになったのです。

そうおもうと、宇宙と一体だと思うと、はじめて自分が自由であるという実感が芽生えました。ちっぽけな自由意思ではなくて、もっと大きな意志をもった存在なのだと、思うようになったのです。

これは運ゲーであるということとは違うと思います。運などというちっぽけな言葉では表せない大いなる時の流れです。人生は大いなる流れなのです。

(はい、もう自分でも何言っているかわからない)

(ただいえることとして、これは我々の宇宙が実在しないものだったとしても通用する考え方です。我々の存在がコンピューターのプログラムだったとしても、プログラムとして、大いなる営みの一部には存在するからです)

 

3、まとめ

自分自身で、個人のことをなんでもきめられるという意味での、自由意思は存在しない。

人生は運ゲーでなくて大いなる流れである。

RAIMEI氏はヤバイ信仰宗教にははまっていないが、浅知恵で頭のほうは永遠の厨二病である(なのでもっと勉強しよう)。

 

以上で今回の良くわからない記事を終わります。まさに下手な考え休むに似たりです。なんといったって自分の考えや、判断というのは、その浅い知識に基づいて行われるものですから。

 

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