「哲学考察」存在論と認識論(哲学初心者の男が考える)

 

こんにちはRAIMEIです。

哲学の記事を書きたいのですが、どうにも知能&時間不足なので、いつまでもかけないと言いう状況が続いています。しかし、記事としてアウトプットしないと、自分の勉強としてはかなり中途半端。

そこで、知識不足&見当違いな事を書くことを、覚悟のうえで、見切り発車で、記事を書いてしまおうと思います。

 

今回は哲学の基礎的な問題、「存在と認識」の問題の整理を行います。なお、事前に「存在論・認識論」のウキペディア記事を見たら、長文で外国人の名前が大量に出てきて混乱しました。

それは後で読むとして、僕の記事では、「哲学なにそれ美味しいの?」という人が、読める範囲の内容でお送りします。間違っていたら責任は僕にありますが、責任は取りません。

 

1.根本的な問い

1-1.人は世界の真実を見ることが出来るか?

 

たとえば、目の前に赤いリンゴがあるとして、それは本当に赤いリンゴでしょうか?

「当たり前」と感じますけれど、もし犬が同じリンゴを見たら、青く見えるはずです。犬は青色と黄色は認識できるけど、赤色を認識できないからです。

つまりモノは、見る側によって、見え方が違うということです。

「いやいや、それは人間の方が目の構造が進化しているだけで、赤いリンゴはそこに現実にあるじゃないか」と常識的にはそう思いますけど、顕微鏡でそのリンゴを覗いてみると、また違った形で見えるはずです。

 

我々は、五感により対象を察知して、心で認識しないと、その対象を把握できないということは事実であると思います(そこにあるものを見えない現象も脳の処理のせい)。

問題は、認識というフィルターを通さないと、その対象を把握できないこと、認識により、対象の見え方はことなることです。

これらを考えると、普段何気なく見ているものの本当の姿を見えているのかと言う疑問が湧いてきます。

世界の真理はどんなものか、我々はそれを認識しえるのか、であれば、それはどのような認識方法か? これらが哲学の根本的な問いだと思います。

 

1-2.プラトンのイデア論(洞窟の比喩)

ソクラテスの弟子、アリストテレスの師匠、高名なギリシャ哲学者プラトンは、実は神秘主義的傾向があります(オカルト的逆張りでなく、一般的に言われていることです)。

彼は大まじめに、ティマイオスの中で、輪廻転生を説いています(遊戯王の名もなき竜ティマイオスもここから)。

彼の代表的な主張は、イデア論です。

イデアとは、例えば、リンゴについて、地上のリンゴは、全て、天上(星辰とかいうと格好いい)の世界にある完全なリンゴ、の不完全な複製に過ぎないとい言っています。

この天上のリンゴこそが、イデアであり、この世の全ての物体は、天上の世界の不完全な写しでしかない、と言うのが彼の主張です。これは一見くだらなく思えますが、当時の世界観を知ることも出来ますし、個別の事物と普遍性の問題にもかかわってくるので、非常に意義深い説です。

彼は、実際にある地上的な物に対する知識は、本当の知識ではなく、不完全な物の見方「意見」でしかない、本当の知識とは、天上の世界に関することのみ当てはまる、と言っています。

 

この説は画期的ですが、この説が存在論や認識論のなかで、どこに位置するかと言うわれると、その関連は僕の中では未整理です。そもそもこの時代の哲学者自体が、今の目線から見ると神秘家で、宗教的な啓示や呪術を信じた人であったようで、はじめから哲学は、宗教同様、世界の真実を追い求めていて(宗教とは追い求め方が違うが)、近代に入る時に、形而上学の価値がやや色あせてしまったということでしょうか。

洞窟の比喩は有名ですが、我々人間は、実は洞窟にすんでいて、洞窟の壁に移る影をみてそれを本物だと思い込んでいるという話です。実は洞窟の外の世界が、本来の世界であり、人間は、ただ生きるだけでは、世界のありのままは、見えていないのだということを意味しています。いかにも霊界的な話です。

 

 

2.世界の真実の姿=「存在」と呼ぶ

2-1.デカルトのコギト

我々が世界(あるいはモノ)をそのまま見ていないと考えると(そういう前提にたつと)、とりあえず世界の真実を指し示す言葉が必要で、それを「存在」と呼びます。神でも空でもブラフマンでもいいですが。

「存在」とは、そのまま「ある」ということです。つまり何かあるんだけど、それが何かはわからないから、「存在」と呼ぼうということです。

哲学者のデカルトは、自分の認識を疑って、多くの目に見えるものを幻想かもしれないと考えました。五感はころころ印象が変わるし、第一悪魔に操られて、幻覚を見せられているかもしれないし、信じるに値しないと。そうして本当に信頼できるものを発見しようとしたのです。方法的懐疑。自分がよって立つ確固たる足場がほしかった。

そして有名な「我思う、ゆえに我あり」に辿り着きました。

これは、今全てを疑っている自分自身の心は、思考は存在しているはずだ。なぜなら、疑う心がなければ、疑うことは出来ないからだ。ということです。彼は自分の心をよりどころにしました。

これは、心があるから=心があるのだ。とそういっているわけで要はトートロジー(同義反復)です。トートロジーは一件意味がないように思えますが、「存在」に関してはそうではないのかもしれません。デカルトの考えからは、「存在するものは存在する」、ということが導けると思います。

 

2-2.友達の懐疑への返答

僕の大学の友人で、当時、世界は誰かの実験室のフラスコの中の液体に過ぎないのではないかと真剣に考えている人がいました。彼はとても聡明な人です。

当時は哲学に興味を持ったばかりで、ニーチェを読み始めたばかりで、いまいち、きちんとした答えを出せなかったのですが、その後考えた結果としては、例えフラスコの中の液体だとしても、存在してはいる。ということでした。

友達は、自分の存在を幻想ではないかと疑っていたわけで、それに対して、今なら、幻想自体も存在すると返答できるということです。

たとえば、我々は、多くの物語を読みます。その物語自体は、気に入らなければ、本を破ったり、言いがかりのアンチ活動をしたり、その他、いくらでも汚すことが出来ます。僕はそういう心を許しません、だってそれは自分自身の心を汚しているからです。

その物語から、自分たちが影響を受けているのは事実です。物語にも心があるからです。物語は鏡です。我々が物語の中の存在でも、神々を感動させたり、畏怖させたり、そして物語の方から、その神を変えることが、出来ると思うのです。もしわれわれが他人や物語をきちんと扱わないのなら、それは自分に返ってくるでしょう。

少し話がそれましたが、ここでも、「存在するものは存在する」という結論となりました。ただし幻想ではあるかもしれないが。しかし、幻想は現実より後に出来る物なので、より進化したものだとも言えます。

 

2-3.カバラの教え

「存在するものは存在する」「I am that I am 」

この信念は、カバラの教えでもあります。カバラはユダヤ教とされていますが、実はギリシャやエジプトやインドなどの東洋と西洋の思想が、ローマ時代に混ざって色々な宗教に受け継がれた流れの一つです。

それらの宗教は当然、結構似ている要素が多いのですが、

カバラでは、一神教的の性質を持ち、最高神から段階をへて、その力が流出して世界が作られたと考えると同時に、人の輪廻転生を信じています。

 

(ここから補足、カバラには、伝統的なユダヤカバラと、近代に発達したクリスチャンカバラがあります。

ユダヤカバラは、正当ユダヤ教の神秘主義的側面です。ユダヤ教は、とても現世利益的な東洋的な宗教です。そしてカバラはユダヤ教の、神秘的な面を補足しています。

よくユダヤ陰謀説がささやかれますが、正当ユダヤ教にしても、カバラにしても、神を崇めるかなり父権主義的保守的宗教で、且つ彼らも一枚岩ではないので、とても彼らが陰謀を張り巡らせているとは思えません(ユダヤ人の起源は聖書によると有色人種だが、主流ユダヤ人はなぜか自称白色人種)。

カバラと言うと「魔法」というイメージも、一部のオカルトフリークにはあると思いますが、それはクリスチャンカバラのことで、ユダヤカバラは、魔法を否定し、神を崇める儀式なども形式のみで、ようするに、伝統や宗教的支配者の地位を守るというような、支配の固定装置的な側面の方が強いようです。

伝統的ユダヤ教やカバラでは、女性の地位がとても低いです。ぶっちゃけ、まじめに研究している方を覗けば、日本の金儲け仏教や、迷信と大差ない部類の感じも受けます。彼らの多くは固定的な教条主義者です。

 

逆に、クリスチャンカバラは、西洋の中産階級が、魔法を使うことや唯物論的な世界観に対して対抗すること等を目的に、東洋と西洋の宗教を混合させて、作り上げた物で、精神の可変性こそを重視します。そのため、インドを研究した、神智学のブラバッキ―夫人、黄金の夜明け団首領ダイアン・フォーチュン等、女性が活躍しています。 補足終わり)

 

まあ最後、悪口を書きましたが、世界を個別に認識する仕方を、完全に正しいと受け入れずに、真実の姿は別にあるのではないか、それを漠然と「存在」とよぶ、と言う考え方は、宗教や哲学に、受け継がれてきた物だと僕は認識しています。それが存在論です(本当かいな)。

 

 

3.人間の認識に関する視点

存在論についてはまとめました。次にここでは認識論、人間の認識についての議論を、僕が知っている乏しい知識から、解説します。

3-1・我々の5感を検証する方法はない。

我々は、自分自身の五感を頼りに、モノを判断して、通常それを当然としています。しかし、この5感がそもそも正しいのでしょうか?

何かを検証する時には、第三者がそれを行います。たとえば裁判等も原告と被告の他に、裁判官がいます。

今の物質的な科学では、仮説を立てて、それについて実験をして、帰納的にたしかめるという手順を取ります。仮説が第三者にも繰り返し確かめられれば、それは真だと認められるわけです。

そしてその第三者が確かめる方法は、常に自分の五感を通してです。しかし、人間の五感を第三者として、検証することはできません。高度な文明をもった宇宙人が将来、リンゴがモイスチャー色な事を証明するかもしれません。

 

つまり現代の科学的真実も、我々の五感を通した場合の真実としか、今のところ言いようがないのです。最も後述する量子力学の発展によりそれも変わるのかもしれません。

 

 

3-2.時間と空間は我々の直観である

高名な哲学者カントは、純粋理性批判の中で、時間と空間と言うものが、人間に先天的にそなわっている認識のしかただと論じました。

時間も空間も、人間の側の世界の見方で、世界が本当にそのような形で存在するかは、人間には、わからないというのが、カントの独創的な所らしいです。

たとえば、時間は一見存在するように見えますが、時計は時間の存在を保障しません。時計は人間の感じる時間を外部化したものにすぎません。時間は人間が内部で感じているのです。

また、アインシュタインが相対性の説明で言っていたように、可愛い女性と話す時間と、退屈な時間では、明らかに時間の進み方が違います。この例えは冗談めかしてとらえる人もいるようですが、実は大真面目な物です。

カントの見方ですと、人間は未来永劫、世界の真実の姿、形而上学、宗教が追い求める真実を、把握することは出来ないということです。神秘主義者のプラトンと比較して、大分オカルト色が払しょくされてきました。

 

3-3.物体は概念でしかない。

量子力学の発達により、大分昔に、我々が当然の前提としている「物質」というものがこの世の中の真実だという考えは、否定されているようです。

物質(例えば教室の机、それを構成している原子)、これが世界の正体だと考える思想を、唯物思想と言います。人間を構築する原子も物質ですので、この思想では人間の正体も物質です。脳が生み出す思考も、電気信号でしかないので物質です。

日本人やアメリカ人が毛嫌いする共産主義の唯物史観もこれに基づいています。しかし、心も脳という物質だ。宇宙の発展は、物質の発展だ。こういう見方は今ありふれていて、多くの日本人が無意識に受け入れていると思います。どこか自己矛盾を感じます(別に僕は共産党員ではないです、唯物史観は嫌いです)。

 

僕は、唯物史観は一つの認識の方法であって、ある側面からは正しいが、人間や世界はそれに止まるものではないと思います。人類を新たな認識に導くのは、一つには思想だと思うし、もう一つには、最先端の科学、量子力学があげられると思います。

光は、観測者により、波にも、粒子にもなる。世界は物質というよりも、出来事だと理解すべきだと、僕の愛読書、戦前に刊行されたラッセル先生の西洋哲学史に書かれています。アインシュタインの相対性理論とかが関係しているようです。波動方程式とか。

ぶっちゃけ、説明できるほど、理解していません。僕はこれから、数学や物理も再度学んでいくつもりです。あと日本の哲学者、池田晶子先生の残酷人生論にも同じことが書いてありました。

僕が多少知っている領域で多少なりとも引き寄せると、例えばこれも西洋哲学史で読んだのですが、ギリシャのヘラクレイトスは「同じ川には二度と入れない」といったそうです。

それは常に移り変わるものだから。これは仏教でも同じような言い方をしますね。やべえ、やっぱり全然自分のなかで固まってない。ということで、これで終わりにします。人間の認識について考えるのが認識論です(なんか何も言ってない気がする)。

 

4.おわりに

存在論と、認識論について、僕の知識をまとめてみました。もし詳しい方がいれば、色々とご教授、ご指摘願いたいので、コメントまっています。

とりあえず、今回はこれで終わります。ただ本当はこの記事に含めようとした内容があるのですが、それが僕的にはとくに重要な事だと思うので、あえて次の記事に分けようかと思います。もしよかったら、その記事も見てみてください。ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。

 

あと、参考文献として、「バートランドラッセル著作 西洋哲学史」をあげておきます。

僕は今、西洋の哲学の流れをこの本で復讐しています(大学の図書館にあったこの本を思い出して、アリストテレスの第一動因の記事を書いたのですが、プラトンと勘違いしていたということを、10年後自分で買って読んでから気が付いたというね。そしていまだに訂正していないという。だって一回読んだだけで、理解できるわけがないじゃないですか、ヤダー)。

 

 

 

 

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