「哲学考察」①自由=神?②カバラ類比の原理③第一原因の性別④埴谷雄高「死霊」

 

 

 

こんにちはRAIMEIです。かなりやばめなタイトルですが、宗教の勧誘ではありません。僕は宗教が大嫌いです。カバラとか火水風地の四大元素云々言っていますが、本気では一ミリも信じていません。

既存の知識を疑い、真理を追究するのが哲学であるのならば、宗教やオカルト=嘘、科学=正しい、という常識も疑ってかかるべきだと考えて、宗教についても取り上げます(経験則としては、宗教は嘘で、科学は役に立つと言うのが僕の実感ですが)。

これには利点もあります。それは哲学を学ぶきっかけとしてオカルトはちょうどいいということです。といったところで「1.はじめに」から以下続きを書いていきます。

 

1.はじめに

普通に哲学を学ぼうとすると、たぶんほとんどの人は挫折します。人生とか人間とか宇宙とか、一体この世はどうなっているのか、真理とは何かと、哲学書を開くと、アウフへーベンだとか、超越的だとか、そういった哲学用語が満載で、わけがわからないよ。自称簡単な哲学入門書もありますが、正直それすらよくわからないし、入門書から専門書へ移行するための、中間的な本もあまりないようです。

僕はまだ入門書すら満足に読めていないので、かなりしったかでこれを書いていますが、ですが、オカルトから入る場合は、その目的が神とか幽霊とか魔法を使えるようになりたいとか、そういうかなりあいまいな理由なので気軽に学べて、それでいてプラトンとかピュタゴラスとかの古代思想も学べるし、そういう興味のあり方で持続していけば、その後に繋がりやすいのではと思うのです。ていうか僕がオカルト好きなだけです。

ということで、気軽に哲学を学ぶという不純な態度もあって、今回はカバラを取り上げます。といっても宗教やオカルトについてまじめに学んでいる人達を軽んじているわけではないです。そうではなくて、あくまで現代的感性(つまり科学すごいオカルトとかワロスみたいな)素人の在り方として、はじめのとっかかりとして気軽な気持ちを持とうということです。オカルトだけでなく、ある分野についてまじめに研究している人は尊敬します。

あと僕は、本当に哲学については右も左もわからないし知識も学歴もない自称若者です。ですから、書く内容が間違いだらけかもしれないのですが、それでもよければ、まじめに考察しているので読んでください。あと人名が出てくる場合敬称は省略しています。

 

今回は僕が求める自由(意志)について書こうと思います。

その際にカバラの枠組み、というよりも、我々庶民があまり配慮しないで何となく使用している類比という枠組みについて考察していきたいと思います。何度も言うけど、あらゆる宗教が大嫌いなので、勧誘じゃありません。カバラもユダヤ教やキリスト教なので大嫌いです、もし仮に神がいたら僕がなぐり殺します。

この記事は一連のもので、3つの記事にまたがる予定なのですが、これはあくまで予定ですので、この記事単体として完成させます。流れは大きく分けて4つです。

①自由=神であるか?

一般に言われる自由と比較することで、僕(あるいは人生=運派の人、ただし僕の考えとイコールではない)がいう自由を浮き彫りにします。そして僕の言う自由と言うのが=神かもしれないということを、アリストテレスを交えて書きます。以前とくらべてもかなり焼き直し臭いですが、そうではない僕が成長している部分もあると信じます。

②カバラから見る類比と言う枠組み

カバラの根本的思想枠組みの一つである類比について簡単な生命の樹の説明と共に書きます。宗教から人間の思考パターンを解読しようという姿勢で書きます。たとえば因果関係というものを人間は重視しますが、その他に類比関係というものがあるということです。

③第一原因の性別

カバラと関連して、第一原因(神)の性別について考察します。ここでは東洋と西洋を比較します。

④埴谷雄高「死霊」

最近読んでいた小説「死霊」の宇宙観が、カバラと似ていたので、かってに類比関係を連想して取り上げたいと思います。この死霊自体は、別な時に感想をあげようと思いますが、結構長い小説なので練習として、少し取り上げます。

 

流れをまとめると、まず自由と神について考えて、その後にそれに関する事、神とはなにか考えるというような感じです。あんまりまとまっていません。

 

 

2.自由=神?

2-1.人生=運派の自由、人生=自由意志派の自由

まず前提として、今回僕が求めている自由と言うのは、なにも特別な物ではないです。僕の求める自由とは、「人生=運派」の人々が、求めている自由にかなり近いものです。僕が人生=運派と勝手に名づけた人々の主張は

「人生は全て才能と生まれた環境で決まる。努力できるかも遺伝子にきざまれた才能」

と言うようなもので、例えば、マイケル・サンデル教授の「実力も運のうち」と言う本に同意する人達の主張です(なんというお人形遊び)。

ここで重要なのは、これを無意識の話と混同しないでほしいことです。たとえば人をコントロールしているのは、意識や自我でなくて、無意識だから、人生は自分では何も決められないから自由意志はないとか、異次元にいるレプティリアンにカバラ魔法でマインドコントロールされているんだとか、そういう次元の話ではないです。どちらかと言うと、人は自分で選ぶのだが、決められた選択肢からしか必然的に選びようがないという話です。

一方で「一般的な自由」「自由意志派の自由」「精神論的自由」と呼ぶものは、

「人生は自分の自由な意思で切り開けるのであり、その結果がどうであろうと、それは自業自得である」

という、非常にすっぱりとしたりっぱ且つものすごく真っ当な考えを想定しています。僕はこちらの方が好きです。

2-2.僕が求める自由について

以下例を挙げて、この二つの考え方の違いを見て、僕の主張をわかりやすくします。

〈Q1〉

ある日の夕食レストランにて、メインディッシュにはパスタかハンバーグどちらかから選ぶとします。この時には当然味が好きな方やカロリーの低い方など、色々と考えたうえで、自分の意思で、より自分に好ましい方を選ぶと考えます。この時天邪鬼で自分に好ましくないものを選んだとしても、それを含めて自分自身の意思であると考えます。そしてこの「意思による選択の自由」が、本当に自由であるかという問いです。

〈A1人生=自由意志派〉

自分の意思で決定したのだからこれこそまごうことなき自由そのものです。そして、その結果、食事に満足しようと、しまいと、太って体重計が一周しようと、それは全く自分の「責任」または「せい」です。これが「人生=自由意志派のいう自由」だと思います。

〈A2人生=運派〉

しかし残念なことに、僕や、人生=運派はこのようには考えません(あくまで僕が勝手に考えたお人形ですが、実際の人生=運派の人達もそう考えるのではないかと想定します)。なぜ自由ではないのか、それは以下のような理由です。

「自分が自分の意思にそって、与えられた中から選択したから」

は?というか感じですが、二つの要素に分解して説明します。

 

①「自分が自分の意思にそう」

繰り返しになるのですが、僕がハンバーグを選ぶとして、それには僕は肉好きだからとか、パスタよりラーメン派だからとか、色々な理由があるはずですが、とにかく、選択の結果は、僕が意思した結果により決まります。

この時僕は、僕の意思に沿って必然的な選択肢を取らざるをえず、これは自由ではないと考えます。僕がハンバーグを食べたいと思って、でも天邪鬼にパスタを選んだとしても、結局それは僕の意思です。それ以外の意思をその瞬間の自分は意思しようがないのです。

ようは、自分が自分であり、必然的に自分なりのある種の意思を持たざるをえないということが、もう自由ではなく、不快だと僕は考えます。別に自分になりたくて、自分をやっているわけではないかもしれないし(たまに望んで人生設計をもって生まれてきたという意見の人もいるのですが、これについては純粋にわかりません)。

もし僕がまったくの別人なら、まったく違う意思を持ったはずですが、僕は僕に縛り付けられて、その意思を持たされているだけのような気がするのです。

少し整理すると、自分が自分に縛り付けられているから自由ではないということで、もう少し煮詰めると、ある時点において、自分は自分に必然的な意思しか持てない、それ以外の意思を意思することはある瞬間には不可能だということです。これは時間という制約に自分が縛られているということでもあります。

 

くりかえしになりますが、たとえばハンバーグを選ぼうという意思を持ったとして、同時にその時点(瞬間)において、ハンバーグを選ばないという意思を持つことは不可能です。「その時点での自分の意思」をさらに「同時点の自分が意思すること」が出来ない。これはその時点の自分がその時点の自分にぴったり重なっているから(のように思えます)。

ハンバーグを選ぼうと意思する瞬間に、ハンバーグを選ぼうと意思することをさらに意思することが出来ない。さらにハンバーグを選ぼうと意思することを意思することを意思しようとは意思出来ない。

過去の時点で僕はハンバーグを選ぶ男になろうと決めることはできますが、ある瞬間の選択については、その時の意思は自分に必然的なもので、他の意思を意思することはできません。つまり過去において意思を意思することは可能かもしれません。

しかし過去もその過去に規定されており、つまり過去の意思もそのまた過去の意思に規定されているとしたら、以下無限後退が始まり、今の自分の意思が過去の自分のせいだとしたら、さらに過去に世界を創造した神だか原初の単細胞生物のせいということにならないでしょうか。

このように因果論で考えると、一つの出来事は、過去や同時現在の、誰のせいでもあるし、誰のせいでもないと言えると思います。

悲しいときでも、瞬時にたのしくなれる等のメンタルトレーニングの話をしているのではありません。メンタルトレーニングで、瞬時に切り替えられる人間も、その際には、自分に固有の意思をもって、行動を選択しているのですから。

少し話が散らかりましたし、別に自分自身の責任転嫁しようという意図ではありません。

自分が自分とまったく重なって実在(あるいは存在?)せざるをえないというそのあり方が、もう自由ではないのではないかと思っているのです。そして時間に縛られ、過去の縛られている時点で、自分はないも同然ではないかと、それが悲しいのです。

 

②「与えられた中からの選択」(外力や内力に縛られる)

正直同じような感じですし、上で既に選択という言葉を使ってしまっているのですが、ここでのニュアンスとしては、自分と言う存在が重力等の外力や内力にしばられて、必然的にある選択肢からしか選びようがないということへの不満です。①については時間的な不満だと思いますが、②はどちらかと言うと空間的な不満かもしれません。

このレストランでは、メインにハンバーグかパスタかしか選択できないのです。かなりの庶民派というか手抜きです。ここで言いたいのは、選択肢の中でしか選べないんだったら、全然自由じゃないじゃんと言うことです。そして選択肢という外部からの取り決めは、法則という物を想起させます。

たとえば、ある日僕が駄菓子屋に行こうとします。車か徒歩で行きます。車を走らせていると、僕はふとこう思います。

「今車が走れているのは、重力のおかげだ。しかし逆に言えば、重力があるから、自分は飛んで駄菓子屋に行けないのだ」(これ自体は色々とおかしいけど比喩なので)。

ということは、自分がこうして今車を走らせているあり方が、自分自身のみではなく、重力と言うまったくの外力に依存しているということです。もしそうならとても悲しいと僕は考えます。自分は自分だけで完結していたいからです。自分は重力に支配されていると。

ここでも結局過去の話になるのですが、そもそも車を発明した人間がいなかったら、自分は車を運転などしていない。車を運転するかしないかの選択もはなからできなかった。自分はあらゆる外部の力、法則、過去の人間に縛られ規定されているのであって、選択したとしてもそれも外部の人間にお膳立てされたもので、ちっとも自由ではありません。僕は一切誰にも影響を受けない状態がほしいのです。

いやいや、車を運転仕様がしまいが自分であることに変わりないじゃないかと、そうも思いますが、しかし、同時刻に同様の行動をして、同様の精神の働きを行い、この体に宿るたった一つの意思以外の物を自分だと言えるでしょうか。

この運転で僕が事故って、手足を失ったとしましょう。そうすると、僕は自暴自棄になって嘆き悲しみます。一方車を運転しない時系列の異次元の僕だか似ている他人だかは怪我をしないので、家でケーキでも食べてにこやかでしょう。この時の二人の僕は同じ人間と言えるでしょうか。

この差には必然的に他者のという自分では自由にできない要素が入り込んでおり、自分の存在は自由ではないと思います。

あくまで僕の考えなので、当然間違っていたり、とっくに人が通った考えかもしれませんが、僕は人間個人と言うのが、周りの現象との関連であらわれるものでしかないと考えている節があります。

人間は、原子とか最少物質だかなにかで出来ていて、それの運動で今の自分がいる。それは自分と言う個体にみえる塊だけでなく、まわりの環境もそうなわけで、そういう総体として、組み合わせの結果、個人が存在し、それが勝手に自分で独立して自由意志なるものをもっていると錯覚しているだけではないか、そう思ってしまう時があるのです。あるのですといわれても・・・馬鹿なのか?とも思いますが。

そしてこれに反論するには、輪廻転生を繰り返す、それこそ生まれる前から人生を設計しているような魂を考えるしかないようにも思えます。ただこの考え方は嫌いですが。

別に自由意思がないとか、「だから僕は法律をやぶっても何も悪くないもんねー、人生なんて全部運だから!」、とかそういうことが言いたわけでなく、自分とはなにかということを知りたい。そして自由があってほしいと思っているだけです。うまくえないけど、自分に自分の自由な意思がないと思うと、とても気持ち悪く虚しいのです。

もし人間が、自分で生きてると思い込んでいる人形に過ぎないのだとしたら、僕は神を恨みます。いるかわからんけど。もし僕のかんがえたようなとおりなら、あらゆる法則や他の力を僕は憎みます。(なんという恩知らずだろうか、これが神を恨む男の悲しき思想です。神様だって苦しんでその結果、まだましな世界を作っているとは考えないのか、他人のお影もあって今まで生きてこれただろうに)。

ここまでをまとめると、自分が自分に易縛り付けられていることが自由ではない。それは自分が選択したことではないので自由ではない。選択肢を与えられている時点で自由ではない。自分が何か外部の力に制約されている時点で自由ではない。

本当に何もかも自由な何物にも縛られない存在でありたいということです。そしてこれは結局、すべてを超越した存在と言う意味での神様になりたいというのと同じではないかとそう思うのです。

ここまでの話は「人生=運派の主張」とはやや違ったニュアンスをもって書いていると自分では思うのですが、結局これは僕の人生の不満から辿り着いた考えなので、かなり関連しています。ただそういう愚痴はいつか書くかもわからないけどもし書くのなら、いつか書く予定です。不満や綺麗でない感情から見えてくる真理もあると信じます。

(ここまで後日振り返って感じたことは、人間を縛っているのは、時間と空間であり、それを克服したいというのが、上での趣旨なようです。それをあいまいに書いているのだと思います。そしてそれは哲学者たちが考えてきたことと本質的には同じではないか、というよりも僕がこの問題をかなり浅く見当違いにかんがえているのではないか。)

 

2-3.アリストテレスの不動の動者(第一動因)

何回も間違いを訂正して、そして本文は変えないアリストテレスの第一動因説と、僕の言う神との関係を考察します。

第一動因とは、この世の物質は、全て因果関係の元に運動を行っており、例えばAさんという人間は、Aさんを産んだ両親がいなければ存在せず、そしてその両親も祖父母がいなければ・・・と言うふうに、ある結果は、それより先行する原因により生起されており、そしてその原因も、さらにその前の原因の結果なのであって、それを無限にさかのぼって行けば、はじめの根本的な原因である一者に突き当たるはずだという説です。

アリストテレスは、これを不動の動者と名付け、この第一者は神聖なものであり(神そのものではない様です)、自らは動かず、他者を動かすものだとしています。その他の我々のような人間は、誰かに動かされてはじめて動くことが出来る存在でしかないとしています。

以前の記事で僕は、動かずに動かす者を、動かされずに動くもの、しかもアリストテレスではなくてプラトンの主張だと書いていて、見事に間違っています。あとデカルトが微分積分を作ったとかアホなことも書いているかも。微分積分はニュートンとライプニッツなはず。でも記事はなおさないけどね。間違え探しして読んでね。

正直に言うと、この第一動因説にそってものを考えるのなら、人間のやることは、もう過去の結果でしかなく、未来の運命は初期の運動とその後に働く法則により決定されてしまいます。つまり物質に初動が与えられたら、ニュートンの運動法則にそって自動的に動くと。

(決定論にたいして、そんな馬鹿なと、思いますが、昔の西洋では偉い人の中にも結構決定論者は存在して、全然異端ではなかったみたいです。たとえばリヴァイアサンで有名なホッブスとか。ホッブスは、自由とは運動が外部的要因に阻害されないことだと考えます。そしてこれは決定論とは何も矛盾しません。ある人間がある意思を持ち行動するのは、その人がその人であり、これが妨げられないのが自由だが、しかしその人がそう意思し行動する原因は、その人がその人として存在する究極的な原因は、この世界を想像した神により因果的に決定されていると考えます。

と言っても量子力学では、ランダム性を認めているので、完全には決定されないみたいですが、しかし後の運動が先の運動により生起されるという点は変わらないし、所詮ランダムならば自由意志ではないはずです。この辺は僕の理解で今一はわかっていません。あとさらにいうと、運動が外部に阻害されないというのは、物理的に不可能だと思います)。

この第一動者に関しては、第二項以下に縛られないということで、かなり僕の求める自由に近いかと思いますが、しかし左右はされないとはいえ、第二項とつながりがあるという点で、やや自由感がないです。それに上には神がいますし。

 

3.類比の原理

ここから胡散臭いカバラについてです。いかまじめに書くので世俗に迎合的なポーズはやめてオカルトリスペクトモードで書きます。でも盲信はしてないしユダヤ教やキリスト教や仏教や全ての宗教を嘘のゴミカスだとおもっているけどね。この章では類比という見方を明確にすることを目的として、そのために、生命の樹と言われる図をもちいて説明します。

3-1.カバラとは何か?

これはユダヤ教の裏の顔というか、形而上学部分を担当する教えです。そして現代において魔法使いを名乗る人達がその手段として用いているおしえでもあり、こちらはクリスチャンカバラと言います。

宗教には独自の自己完結的な世界観があり、カバラは世界を創造した至高の神を崇める体系ですが、その内容は生命の樹という図に集約されています。クリスチャンカバラはあくまでこの体系をもちいて魔法的な力を得ようとする試みであり、どっちにしろオカルトなのだけど、宗教指導者や現体制の支配を固めるための装置である前者にくらべて、反体制的なものとなっています(ユダヤ教の問題点は、ネットでもたくさん出てきます)。

3-2.カバラを参考にするわけ

はじめに軽く書いたのですが、これはオカルトの歴史をさかのぼっていくと、古代の哲学と深い関係があることがわかるからです。カバラというものは、なにも2000年も前からユダヤ人に受け継がれた確固とした体系というわけではりません。多くの思想を後付しています。そのなかにはプラトンやピュタゴラスの知識も取り入れられていますし、逆に宗教的なことがらから、哲学が展開されているという歴史もあります。

たとえば、もっと偉大な哲学者の一人プラトンは輪廻転生を信じていました。またピュタゴラス(の定理の人、もっとも偉大な数学者の一人)は、動物をいじめている人間に「それはきみの死んだ家族だ」といったと言います。そしてピュタゴラスがその教えを受けたのはエジプトです。

(上記の動物の話は仏陀の伝説と同じです。そもそも、キリスト教とかユダヤ教とか仏教とか、ここら辺は色々な宗教が混ざっていて、完全にオリジナルな体系なんてたぶんありません。キリストの伝説を見ると先行する宗教の伝説と瓜二つの部分が多数出てきます。)

古代においては、哲学と宗教と魔術の境界は、きわめてあいまいで、そのためオカルト方面から、古代の哲学を学ぶことは有益だと考えます。

3-3.生命の樹の大まかな説明

 

生命の樹について、詳しく書くとながくなるので、今回書きたいことと関係する部分のみ説明します。

よく言われるのは、これは思想のロゼッタ石だというものです。ロゼッタ石とは、古代エジプト語、ギリシャ語、ラテン語で同じ内容の文章が書かれた石版で、これにより、古代エジプト語が解明されたという歴史があるようです。

生命の樹は、仏教の世界観を表す曼荼羅に相当し、クリスチャンカバラの人達は、この生命の樹の中に、世界を流れる力の根本的な関係が表されており、古今東西全ての思想や哲学をこの図ひとつで表すことができ、この図をもとに瞑想することで、魔法が使えるようになると考えます。

別の見方をすれば、あらゆる神秘主義を折衷する型として、生命の樹を選んで一種のファイリングシステムとして用いることで、誰でも魔法を使えるようにしたというのが、彼らの工夫の中心だということでしょう。それゆえにカバラを名乗るだけで、体系的にはむしろエジプトとインドの宗教に近いようです(別にクリスチャンカバラを贔屓するわけではないけれど、以下はそれに関する知識を書きます。というのは元ネタとして読んだのが、魔法入門という本だから)。

以下二つの生命の樹の図を示します。一つ目は適当にネットから拾ってきたもので、2つ目はわかりやすいように説明用に自作したものです。

 

 

 

この図は、世界に流れる力の関係を表します。図には見方として、大宇宙としての見方と小宇宙としての見方がありますが、詳しい説明はここでは省略します。

図には縦に三本の直線が通っており、両端の縦部分は、向かって右側が力の柱または慈愛の柱、左側が形の柱または峻厳の柱といいます。中央は均衡の柱と呼ばれます。

図の丸い部分はセフィラ(複数形がセフィロト)とよばれます。それぞれに属性があります。

0アイン(無)
00アイン・ソフ(無限)
000アイン・ソフ・オウル(無限光)

①ケテル(王冠 第一動因?)
②コクマー(叡智)
③ビナー(理解)
ダアト知識(隠された者)
④ケセッド(慈愛)
⑤ゲプラ―(峻厳)
⑥ティファレント(美、真我)
⑦ネッツァ(勝利、性欲)
⑧ホド(栄光、知識)
⑨イエソド(基礎、自我、幻想)
⑩マルクト(肉体、物質)

一体これは何を意味しているのか。いったい俺は何をしているのか、われながらこんな仕事にも関係ないことを延々とかいていて、基地外かなとも思いますが、しかしもう少しだけ自分の常識をだましながら続けます。

3-4.流出の原理

類比を説明するために、カバラのもう一つの原理である流出説について説明します。カバラでは、世界は無0から無限00が生じ、そこから無限の光000が生じ、そしてその光が現象化した、実在化したものとして、ケテル以下の世界があると考えます。人間の住む物質世界マルクト(正確には4つの世界とか7つの次元とかあるのだけどそれは自分でも上手く消化できていないので割愛)は最低次元の世界であり、それより上のセフィラから、神の光が流出してできた世界だとされていて、逆に言うと、人間界よりも高次元の世界があるとしています。世界の第一原因として神が先にあったのか無がさきなのか、いまいち判然としないのですが。しかしこの点は、3章で考察します。

3-5.類比(照応)の原理

ここからが本題です。類比とは何か、ブリタニカ国際大百科事典より引用

「・2つ以上の関係や機能が互いに類類似していること,およびこの類似に基づいて未未知のことを推しはかることをいう。たとえば2の4に対する関係と4の8に対する関係は類比であり,太陽の月に対する働きは,ローマ教皇の皇帝に対する働きに類比するとされる。また2:4=4:xから x=8を推測するのも類比である。スコラ学では類似性が客観的に存在する場合のみを類比とし,主観的にのみ存在する場合は比比喩と称して前者から厳密に区別する。
・類比はトマス・アクィナスによって存在の類比 (→アナロギア・エンティス) として詳細に理論化され,神認識に適用された。
・近世以後の科学でもたとえば原子構造が太陽系の構構造から類比されている。類比は他の方法で検証されないかぎり論証としての妥当性をもつことはない。」

 

類比とは、ある二つ以上のものを、一定の関係に当てはめて考えることです。

そしてカバラでは、生命の樹が世界を表し、全てのものに、生命の樹の形が内在しており、そして同時に、それぞれを特性に合わせて、生命の樹のセフィラまたは径におくことが出来るとしています。

例えると、あるところにとても怒ってばかりの部長、いやモンスター上司がいたとしましょう。この部長も一応人間なので、彼の人体構造を生命の樹で例えることが出来ます。この場合は、一番上のケテルを頭として、マルクトを足元として、コクマーとビナーを両肩として、それぞれ人体に当てはめることが出来ます。

また人格的な面で見ますと、彼は企業戦士であり、峻厳のゲプラ―の面が強い人格であると言えます。イメージカラーは闘争の赤。

カバラにおける類比の原理とは、世界が生命の樹の構造をもっていて、その構造を人間自体がもっているし、その中にも当てはめられる。ようはこの生命の樹の構造が、全ての人に、ものに、貫通して内在しているのだというものです。それが神の力の流出の証だということです。上のブリタニア大百科事典の定義で、原子構造と太陽系の構造が似ているという部分と同じ発想です。

 

わかりやすい例えで言うと、ロシアのあの人形です。世界はこのような入れ子構造になっている、その中で、みんながある関係に応じた一定の位置をもっているというのが、類比の考え方です。

 

 

他の例として、たとえば、本の執筆の流れを生命の樹に当てはめてみます。その時の制作過程は、流出の原理に当てはめることが出来ます。

①ケテル、まず本を書こうとか、内容とか、そういったインスピレーションがわきます。
②コクマー、次にそれが意識的に湧き上がってきます。
③ビナー、コンセプトがきまり、例えば小説にしようとか、そういった形が決まります。
④ヘセッド、内容、登場人物とか筋書きを思いつきます。しかしヘセッドはなんでも受け入れてしまう性質があり、ここではまだ色々アイデアはとっちらかっています。
⑤ゲプラ―、④で思い描いた内容を、批判的にみて、修正したり形になるようにします。
⑥ティファット、これは今までの内容の集約と言うことで、図でもテファレットだけが、多くのセフィラとつながっているのがわかるはずです。カバラでは美は均衡であるとしています。ここまででその総合的な内容自体はここで完全に決まります。
⑦ネッツア、具体的に執筆をしなければなりません。手を動かす実際な作業です。
⑧ホッド、しかし実際の執筆には、手直しをしたり、周りの評判や世相をよんだり情報収集と修正が必要であり、知識が必要です。
⑨イエソド、ここで完成して、あとは出版するだけです。
⑩出版して世に出ることになります。そして世間的評価も決まるでしょう。

 

また人間の成長を当てはめてみるとこれは番号を逆から考えるのですが、人は初め

⑩肉体を持った存在として生まれ(7歳までは神のうち)
⑨他人との関係の中で自我を持ち(⑧と⑦とで仮の自我となる、まだ若い精神)
⑧両親や仲間から色々な知識を収集し
⑦思春期には性的な衝動をもち(正確には意識化、フロイトでは性欲を人生の根幹におく)
⑥青年期に若さを謳歌する(精神的にはここは真の自己が相当します。このセフィラは、マルクト意外全てのセフィラとつながっており、全てのセフィラの要素とまんべんなくつながることが出来れば、素晴らしき真の自己を得る、ようは人間的に成長した証だとされます。これはユングの個性化の理論)
⑤青年期、壮年期に厳しい社会で戦い
④壮年期、中年期に家庭や組織でリーダーシップを発揮する等慈愛の精神を持ち
③老年期、人生の楽しみや多くの物を味わいつくす。
②生きている間には到達不可能
①生きている人間には到達不可能

なんかこじつけ臭いですね。しかしこのようにあらゆる生成の仕方や属性タイプ等をなんでも生命の樹の中でとらえるのが、カバラの類比の原理です。

 

説得力がいまいちなので、省略した部分からすこしだけ生命の樹の原理について補足すると、この世界は作用反作用とその均衡でなりたっているという均衡の原理があり、たとえば、これは実際の物理現象だけでなく、人間の心理にも当てはまり、このような長年積み上げられた経験則を基盤としています

(たとえば、人間は何か変化を起こそうとすると、やる気がなくなる。また恋をする時は、同じ性質を持つ人ではなくて、自分と正反対の人にひきつけられます。同じ性質の人に恋をすることもあるが、その時は反発する心が芽生えるものです)。

3-6.類比の原理において大切だと思うこと

類比とは上でやったように、ある特定の枠内になんでも当てはめて、「これにてるよね」みたいな感じで物事をとらえるやり方です。

たとえば、中世西洋ではキリスト教的な世界観から、多くのことがらを類推していました。惑星は無数にありますが、中世時代には7つしかなく、しかも月より上の世界は永遠のものだと信じられていました。

アラビアの錬金術では、男がかわいたものであり太陽や硫黄、女がしめったものであり月や水銀だとして、その両者の結合を金や精神の生成と関連付けてとらえていました。上のカバラの生命の樹にも、それぞれ7つの惑星が当てはめられています。

要するに、なんでも神が作った世界の形に添って配置されてその特性をもつのだと考えたわけです。

もちろん、神を基準にした中世の知性は、その後の世界では否定されています。たとえば、有名なドンキホーテは、自分を騎士だと重い、なんでも中世的世界観でとらえるあまり、なんでもないものを、幽霊とか悪魔だとおもっている男の話で、ようはそういう思考を揶揄する話です。

類比的に考えるやり方は、詩や小説等の世界では優れますが、現実に会社等で、なんでもある型にあてはまるやり方をしたら、たぶんやっていけないです。我々はむしろPDCAとか因果関係で考えること基本で、なんでも当てはめるやりかたは、理性的ではないととらえられてしまうと思いますし、たぶん実際に社内にそういうひとがいたら、そう思います。

(7と言うのは、オカルトの世界では、聖書の記述を抜きにしても、なぜかとても大切な数字だとされています。ドラゴンボールも7つだし、千年アイテムも7つだし。ラッキーセブンと言いますが、昔の日本では不吉な数字と言われていたとか。こういった数字が世界の真理を解き明かすカギになると考えるのは、現代人も古代人も同じです。こういう神秘的なことがらが僕は大好きです)

ところで、我々もこの類比的な分類を、日常で意識しない内に使っていると思います。人間には、思考の型があり、例えばなんでも2つに分けて考える二元論。物事の順序と連環を考える因果論。二元論を統合しようとする弁証法。そういった特定の思考パターンの内に類比という物も当然含まれるのだと思います。というか、生命の樹の中にここで上げた思考パターンは組み込まれています。

ただここまで書いてきてしつこいですが、僕は「生命の樹スゲー」みたいなノリではこの文章を書いてないです。色々な思想を吸収したユダヤ人が作った図であり、別にユダヤの知識がすごいとかではないです。

そしてここからが今回この章で書きたいことなのですが、それは類比の原理の、「なんでもある関係の中で関連して配置されている、なんか似ている」ということではなくて、もう先にかいているし、流出説とも関係あるので、カバラ的類比としてなのですが、

「そのある関係が、全ての事物に貫かれているという」と言う点です。つまりさっき図をだした入れ子構造の部分です。

これはどういうことかと言うと、類比というのは、ある型に全てのものをあてはめて、考える方法ですが、その性質から、全てのものを貫く普遍的性質を全ての物がもっているということになります。

 

生命の樹では、例えばマルクトという最下層の地上のなかにも、神の力が段階を経て流出しているので、マルクトは最下層だが、実はあらゆる可能性と神の普遍的性質をそなえていると考えます。

図的な考え方では、セフィラは何でもいいのですが、たとえば勝利ネッツアをみると、その中にまた生命の樹があるということです。そして各セフィラには全て生命の樹がはいっており、さらにその中の生命の樹の中にはさらに生命の樹が・・・・と言うようにどんどん生命の樹が続いていくという形になります。

 

カバラでは、一粒の種の中には、森の全てが詰まっていると考えます。

クリスチャンカバラの思想は、世界を超越した神がいるが、しかし一方で世界の全ての物の中に、その神の性質が貫通してもいいて、それを我々はもっているから神のようになれる(魔法がつかえる)のだというものです。

つまり、世界に外在する「私」と世界に内在する「私」が存在するという意味かもしれません。

ここまでをまとめると、今回考察した類比の意味とは、ある普遍的だと思われる世界観に、あらゆる物事を当てはめる思考法であり、つまりは「似ている」という印象から物事を分類する方法であり、そしてその思考をもう少し掘り下げてみると、世界を貫通して全ての物事に内在している根本原理やある種の型が存在し、しかもそれは外在しているかもしれない、いや外密しているかも、しれないということです。と考える一種の思想です。

 

4.第一原因の性別・東西の比較

ここまで振り返ると、

1章では自由とは何にもしばられないことだと定義し、そして自分を縛っているものを上げました(振り返ってみると、それは空間と時間のようです)。そして何物にも縛られない存在それは神のようなものではいかと考えました。

2章では第一原因たる神か、またはなんらかの元型、あるいは空間と時間が、全ての物を貫通し内在するという、類比の原理と言う考え方を見ました。

3章では、神、第一動因に関して東西の文化の比較をしていきます。2章で省略した部分であり、神と空間と時間、あるいはその他の何か、どれが本当の第一原因なのか、ということを考えます。

(あくまで、第一原因があって、それから世界が作られているという仮定のもとに、考えるだけで、けっして、それを盲信しているわけではないですそうではなくて、どっぷりつかって考えることが勉強では重要だと思うのです)。

ここで言うのは、アリストテレスの第一動因ではありません。第一動因は、第一原因よりもあとにくるもので、世界の第一原因=神またはその他の何かです。

第一原因として想定できるものとしては、大きく分けて、3つか4つぐらいはあると思いますが、今回は2つに分けて取り扱います。1つはキリスト教やカバラの神、そしてもう1つは中国の道教の道(タオ)です。

4-1.三浦梅園の反感合一

まず導入として、日本の江戸時代の哲学者三浦梅園について書きます。この意図はこの人の考えが、道教をベースとしており、その考えが有名な西洋の哲学者であり神秘主義とも結びついているヘーゲルと関連しているからです。

江戸時代の哲学者三浦梅園、たぶん依然取り上げた気もしますが、彼は道教のしそうから、反感合一を唱えた人です。

これは、ある一つのものには、そのなかに相反する二つの性質が内在しているという物です。たとえば、男の中に女の性質があり、女の中に男の性質があるというものです。

 

 

 

 

そしてこれはある一者から無数に枝分かれした、つまり一つの物が二つに分裂する過程により、この世の中は出来ていると考えることから、逆に世の中の事物や思想の相反する性質を統合してさかのぼって行けば、ある一者、真理に辿り着けるのではないかという思想です。

この思想のベースは中国の道教の老子のものです。老師は、万物は道(タオ)という言葉ではけっして表せないものから生み出されており、それはどちらかと言うと女性的なものだと考えました。正確には道には、男性と女性の両方の要素があるのだが、その道により近いのは女性のほうというか、根源的に道自体が女性的と言うか、そういう風にとらえた人です。丁度孔子亡き後の儒教が男性中心主義なので、この二つの要素が中国の伝統をつくっているともいえるかもしれません。

 

4-2.ヘーゲルの弁証法

三浦梅園が唱えたのは、まさにこの道についてでしたが、実はこの思想は、有名な哲学者、ヘーゲルの弁証法とほとんど同じものです。と書こうとしたら、じつは似て非なる物らしいです。

ヘーゲルの弁証法にも三浦梅園の反感合一にも、いろいろな解釈があるようですが、かなり関連していることは確かだと思います。

僕の理解では、ヘーゲルはまさに一者から分裂したもの、たとえばお互いに相反する性質をもつ二者を、止揚していけば、真理やある種の統一体に辿り着くと考えた人で、三浦梅園と同じなのですが何が違うのでしょうか。

ヘーゲルの思想は、かなり神秘主義的な物で観念論です。

その後マルクスがこの弁証法を取り上げて、それが今の日本の共産党の精神的主柱になっているので、あまり良いイメージはなく、おそらく世代によってはヘーゲル=アカとかいって、毛嫌いしそうですが、これは日本だけの愚かな現象だと思います。ヘーゲルもマルクスも三浦梅園も深く探求するかいがありそうです(統一体ではなく、お互いに矛盾をもっているというあり方に、なにかカギがあるのかもしれません)。

4-3.第一原因は男か女か?

 

ここまでの流れとして意図していることは、第一原因について、西洋では男性の神が世界を創造したとしているのに対して、東洋では女性的な道がそれを生み出していると考えることを比較することです。この道につては、無と言われることもあります。

ただここら辺非常にあいまいで、カバラでは、無と神のどちらが先かは僕の知識では判別できません。

しかし、キリスト教では、神が世界を想像したと言いますので、暫定的に、西洋は男性の神を頂点とする一神教の世界であり、神が空間等を超越して、はじめに存在したとかんがえることにします。(神が7日間で世界を創りそして男をつくり、男から女が生まれた)。

東洋は、神であっても、はじめに場所や世界がなければ存在できないから、はじめにあったのは空間や時間、またはもっと原初の何かが生まれる前の道や無だと、考えるとして、対比させようというのが狙いです。

いやだったら、もうこの章終わりじゃん!と思いますが、しかしこれは複雑です。というのは、反感合一でして、二つの相反する性質につて、それを止揚する、その矛盾の底に流れる同一性や差異を考えることが大切だからです(なにいってんだあんた?)

西洋の伝統的な思想では男性を精神や神性、女性を物質や自然と考えます。西洋では自然は神から人間に与えられた物なので、男性が女性を支配することが正当化されます。一方東洋では、自然と共に生きることが良いことだとされ自然は信仰されます。

ここからは、この西洋-男性原理、東洋-女性原理と言う枠組みを意識しながら、ユダヤカバラ、クリスチャンカバラ、精神分析、道教等、僕が知っている限りの形而上学において、どのようにかんがえるのか、西と東どちらよりなのか、を見ていきたいと思います。

ただ、僕はまだエジプトとかシュメールとか、古代の文明のことをあまり知らないし、西洋哲学に関しても、スピノザとか色々勉強しなくてはならないものも多いので、ようは本当に表面的に知っている限られた分野しか取り上げません。

 

・ユダヤカバラ

カバラではマルクトという肉体を女性的な物、その花嫁と、天上の神が結婚するという思想を持っています。あくまで天上の神がえらくて、それを目指すべきだというのです。

ユダヤカバラでは、男性が上で女性は下だと考え、男性支配が行われます。女性はユダヤ教やカバラを学ぶことは出来ず、自らマルクトと同一化し神を降ろす儀式も男性しか行えません。また女性が峻厳で、男性が慈愛、女性の峻厳なゲプラ―こそが全ての悪の源泉だとします。離婚をした時は女性が全て悪いと考えます。男性的な物を力、女性的な物を形として、神に近いのは力の方だと考えます。

・キリスト教

神が自分に似せて作ったのが男性なので神は男性かそれに近いと思われます。しかしこれも輪廻転生を信じるカタリ派等色々な宗派があり、かなり複雑です。ゾロアスター教等複数の先行宗教の影響を受けているためだと思われます。

 

・クリスチャンカバラ

ユダヤカバラと、キリスト教、エジプトやシュメールの宗教、インドの宗教等を混ぜ合わせ魔法を使おうという体系です。

カバラで言う、イエソドと言う月の性質、ユング心理学でいう自我の部分こそが、夢の世界、魔法的人格とつながっており、それゆえユダヤカバラを下敷きに、直接神を見ることがきるのは女性だけだとしています。それにより到達できる真の自己としての性格はキリスト的な物(男性的なもの?)としています。

 

・インド宗教

複雑ですべて把握することは僕には困難ですが、インドでは女性的な物を力としてあつかっているようです。しかし最高神は男性です。インドは西洋と東洋がまじりあう点なのかもしれません。

特に、カバラが堕落した体系だと批判する仏教やヒンドゥー教の一派であるタントリズムは、女性が天国の入り口だとして、性的エネルギーを重視します。

仏教では女性は成仏できない等の教えがあり、釈迦も女性の入信を強く拒んだという歴史というか言い伝えがあります。一方で如来ということばがあり、仏像が女性的な顔をしている等、歴史的に複雑な面があります。

 

・老子の道教

全ての物が分かれる前の、名前を付けることができないものとして、女性的な道(タオ)を提唱します。他の体系では炎を重視しますが、道教では水の性質を重視します。

 

・精神分析

その他として、僕が個人的に興味あり、宗教を学問的に解釈している精神分析も取り上げます。これは西洋の物ですが、ユングの曼荼羅や唯識論等、東洋の智慧も含みます。

フロイトやそれを再解釈したラカンの精神分析では、神とは女性のことだとしています。唯物論的な解釈で、人間は元々生まれるまえは女性と一体であって、そこから排除されることで、一人の人間としてうまれることで、そこへの回帰への欲動と、トラウマをおい、これが人生の苦痛や欲望の原因だと解釈します。

そして、自分と言うのは、自我が思っているような完璧な独立した存在ではなく、はじめからかけたものなのだと。

人が神としてあがめ理想化するのは、実は女性なのだと。精神分析では、男性的な力は、ある種のミセカケだと考えます。「欲動」という原初の願望がありこれは穴であり言葉には属さないものだと。

「欲望」はそれを形にしようとしたもので、これは言語のような性質を持つが、これは決して完全な物にはならないと。数学において内部の定義だけで完全な体系を創ることは不可能なように。なんのことかは、察してください。

フロイトやラカンの画期的な部分は、無意識を言語構造で考えたことです。これはユング等が考える人間の原始的な無意識とは違うものです。そのため、以前唯識という仏教の心理学と同列にあつかったのですが、実際にはもっと構造的な体系であり、僕が無理解だったことがわかりました。やはり精神分析は新しいものと言うか、フロイトやその継承者はやはり偉大なのだと思いました。というか、率直に言って、唯識にかんしては、仏教のくそ坊主どもが、金儲けにかまけて、さぼりすぎだと思います。

一方で、原始的な無意識について考えたのがユングでした。ユングはいつわりの自我から、無意識を探求し、真の自己を追求する個性化という物を提唱しました。男性の中の女性をアニマ、女性の中の男性をアニムスとよび、それらの統合を重視しました。人間の中に潜む集合的無意識、ある種の感情や思考の型である元型にアクセスし活性化することの重要性を説きました。こちらは構造としては弱そうですが、深みが半端ないと思います。

 

僕がしっているのはこれぐらいです。なんか女性をひいきしてないかいといわれたら、そうだとしか、僕が女好きだからとしか言えないです。しかし別にジェンダーがどうだとかいって、一方的に男を悪者にしたいわけではないです。

あくまで第一原因という物があるのなら、それは男性的なものなのか、女性てきなものなのか、それか中性的なものなのか、それとも全く関係ないそのたなのか、そういったことに興味があり取り上げました。そして上の中で僕がしっくりくるのはないですね。フロイトやユングの考えが近いとは思いますが。

 

次の章では埴谷雄高という人の思想をのぞいて、なんかこれまで見てきた形而上学や宗教の考え方に似ているね的な事を書きます。おさらいと言うか、しかしはじめに埴谷雄高の小説をよんでこのような内容を書こうと思った面もあるので、ある意味では予定調和と言うか。というよりも自分がほしい自由と言うのが、色々本を読むと、昔の人がもっと整理して書いていたりして、僕としては、それは参考にするけど、しかし自分の考えを重視したいという面もあり、その境界は非常にあいまいだと思います。

 

5.埴谷雄高の「死霊」

 

埴谷雄高は、もう亡くなられましたが、戦後の日本でそれなりに影響力を持っていた哲学者・共産主義者です。

彼は裕福な家の出で、共産主義とは一見無縁なのですが、幼少期に台湾での日本人の横暴な態度を経験し、恵まれない人に同情を寄せるようになったようです(台湾は比較的良い統治だったと聞くけどねえ)。

青年期は、ドストエフスキーをはじめ、様々な文学や映画に没頭し、その流れで共産主義者になり、社会革命を目指しましたが、厳しい獄中体験のさなかに、根本的な問題として、存在の革命こそが必要だと考えるようになり、以後は哲学に専念するようになりました。

ここで、共産主義かよーゲロゲロ、とかいう人は知性がないと思います。埴谷雄高は三島由紀夫と文学や革命について対談していますが、その際に三島由紀夫はチェ・ゲバラを評価しています。三島由紀夫といえば、どちらかと言うと、愛国保守と言われる人に人気がありそうで、共産主義者のチェ・ゲバラとは相いれないようなイメージもありますが、ようは社会を良くしようとする志に、右も左もないということでしょう。

共産主義は、努力する気概のない弱者が金持ちへの僻み根性だけで生み出した宗教に過ぎないとか、ユダヤ金融資本がマルクスに依頼して作らせた人を洗脳するための装置だとか、いう人もいますね。まあ、その是非は置いておきます。別にぼくは共産主義者ではありません。しかし理論を理解して、判断するのでなければ、それらは結局不確かな情報からレッテルはりしているにすぎないと思います。

埴谷雄高の代表作は「死霊」です。これは存在の革命を目指す大物政治家の息子4兄弟の話で、モチーフはカラマーゾフの兄弟でしょう。主人公の三輪与志は、とても寡黙な青年で、かつてこの世界には存在しなかった、「虚体」というものをつくりだすことを、「自分自身のみにより自己を作り上げること」を目的としています。

この虚体をめぐって、それぞれ立場の違う4兄弟が、色々と議論をする作品なのですが、ついに完結することなく作者が亡くなってしまいました。といよりも、かつてこの世界に存在しない虚体、自分自身だけで行う自己創造、存在の革命などは、生身の人間には、たどり着けない概念だと、そう初めからわかりきって、それでもそれに挑戦しているというのがこの作者の作風です。

この存在の革命を求めるのはなぜなのか、物語の中後半、三輪の兄弟で、父親に捨てられた私生児の2人の視点から語られます。というよりも1200ページくらいある小説で主人公の三輪与志は作中ほとんど話しません。

失踪して数年来一度も口を開くことがなく、精神病院で黙狂の覚者としてあがめられていた矢場哲悟が、共産主義革命のために爆弾テロを起こそうとしている首猛夫に語り聞かせたある世界の物語です。

 

そこはもう死んでしまって肉体ももたず重力等にもしばられない、ようは内外の何物からもから制約を受けない、亡者だけが住む宇宙、亡霊宇宙、影の影の影の国です。その亡者たちは、かつて自分を殺して食らった他者を探しては、「みつけたぞ」といって、他者を弾劾することを、その連鎖を繰り返していました。

たとえば、猫に食べられた金魚は、猫を弾劾しましたが、こんどはその金魚が、ミジンコに弾劾されるというようなものでした。この宇宙ではみな形もなく、内部外部の何の力にも縛られないのですが、かつての生者たちは、自分が自分であることには縛られていました。

そしてどこからともなく聞こえてきた峻厳な声にみちびかれて、最終的な犯人をみつけるための裁判が行われることになりました。

そして、食物連鎖の頂点である人間、中でも二人の亡者が代表として選ばれ、裁かれることになりました。一人目はイエス・キリストです。

キリストの罪状は、神の名において、人間だけの愛しか唱えなかったことです。ガラリヤ湖でキリストに食われた魚が、そのくわれた悲哀を訴えました。

キリストは、食う物と食われるものの無限連鎖という悲しみに、理性では立ち向かわずに、ただ神の愛だけをとき、そしてその神の愛からは、人間以外を永久追放してしまった。その考えのいたらなさと傲慢さを、食われるものは弾劾しました。

そして二人目は仏陀(釈迦)です。仏陀は理性的に世界を解釈しようとした点ではキリストよりはましだとされましたが、しかし彼が悟った思い込んだ悟りがいかに浅はかなものかを追求されました。

仏教は「自分と言うものが、実は思い込みにすぎず、はじめからそんなものは無いのだと、だから欲望への執着は無意味であり、輪廻もない」そう説きましたが、しかしそう説いた仏陀自身は、自己を維持するために、生臭物は避けても、結局穀物を食べて、寿命まで生きながらえ、「私」を保持したのです。

仏陀は自ら殺生を避ける方法として、悟ることで人々を導く僧侶と、作物等を生産しそれを僧侶に寄進するする人々を区別しました。自らの悟りを広めることで坊主の階級を固定させることで、結局は個人が、個人として悟る道を閉ざしてしまったのだと、仏陀に食われたチーナカ豆等は訴えました。

しかし、いくら人間を裁こうとも、それだけでは食物連鎖の悲哀は、根本的に解決しない問題でした。これらの議論に異議を唱え、新しい観点をもちだす存在として、生まれることが出来なかった赤子や、自分自身のなかの自分を探すために独自の装置を開発して、自殺することになった人間等が現れました。

前者は、殺すことだけが罪なのではなく、いたずらに生み出すことも罪なのだといい。後者は、自分の中の自分と語る中で、むしろ自分の方が、もっと大きな自分、根本的な生命のありかた、その連続性の一断面に他ならないと、気が付いたと言いました。

亡者たちがいた存在宇宙では、食べることと、生むことの罪悪が繰り返されてきたこと。その連続により生があり、その形こそ弾劾しなければならなくなりました。

しかし、こんどは、原初の単細胞生物が異議を唱えました。このただ原初の状態に固執する単細胞生物には、食うことも、生むことも縁がなかったからです。原初に止まる単細胞生物は、この殺害と生産の連鎖のない形などは、とっくのとうに実現しており、まるで的はずれだと言いました。

しかし、それらの議論を嘆くものが現れます。それはあらゆる宇宙を創った張本人である「無出現の思索者」でした。

無出現の思索者は、今まで亡者の宇宙、我々が暮らす実在宇宙、その他にさまざまな宇宙を作ってきた存在だと言います。

無出現の思索者は、これらの宇宙を作ってきた理由として、満たされぬ魂からだと言います。「自己ならざる自己のまったくの自己自身による創造」こそが、彼の願いだったのです。

つまり、誰かに動かされて初めて動くものではなくて、自分だけが自分として、自己超克を行うあり方こそをもとめて、宇宙を創り、とくに形ももたず、重力等の外界の力の影響もうけない亡者たちには、ことさらの期待を抱いていたというのです。

あまり書くとネタバレになるし、第一僕自身完全に理解しているわけではないので、ここら辺でやめますが、重要なことは、べつに食物連鎖や産むことが悪いとかそういう話ではなく、自分を規定している根本的な「存在」それを革命することが、埴谷雄高は大切だといっているのです。

この死霊という本は、べつに難解な哲学用語が出てくるわけでもなく、内容も冷静に読むと、僕が大学生の時に作ったRPGのようです。埴谷雄高の晩年の話し合いであった、哲学者池田晶子も、この本は絵本だと言っていたそうですし、埴谷雄高自身が、思想的に、なにも進歩したものではないと言っていたそうです。そして文章はカントリスペクトなのか、とても読み辛いです。

それに内容も、まさにアジア的否定の極致のようなものです。しかし、であるからこそ、理論よりもその雰囲気や感性が独特であり、もしこの悪文を我慢できれば、何回も味読する価値のある本だと言えると思います。たいがい人を馬鹿にした感じの池田晶子が埴谷雄高のことは、並の天才ではないと言っているのも興味深いです。

 

しかし書きたいこと的にもう少し内容を書く必要があります。無出現の思索者は、「虚」こそが自分の伴侶だと言います。そしてそれはいまだ「未出現」なのだと。その未出現者こそが、実は我々の内部に貫通している性質なのだと。

無出現の思索者が目指しているのは、時間と空間を弾劾することでした。彼はこの時空こそ、我々すべてを貫通しているあり方こそを、根本的に変革したいと考えました。そのためにあらゆる宇宙を創造してきたのです。彼はみずから作り出した宇宙の歴史を、過誤の物であったと言います。彼は虚から宇宙を創りましたが、時間と空間に縛られた宇宙には我慢が出来なかった。それを変革した先に「虚体」という物を作ろうと、彼は新たな宇宙である、自在宇宙の創造を開始します。

この「虚」は道教の道と同じものだと考えられます。道は絶対に名前を付けられないものであり、そこから全てが分かれたのであり、その性質は虚や空、女性的な物です。カバラで言えば0アイン(無)でしょう。一方無出現の思索者は神でしょうか。

 

6.おわりに

今回の話をまとめると

①僕の求める自由とは、「自分が状況の中で、つまり時間と空間の中で自分である自由」ではなく、あらゆる外部や内部のあるいは過去未来の力に縛られない絶対的な自由であり、それは「自分が自分だけで自分だということ」=神?
②類比とは、ある型の中に似ているものを分類して考える方法であり、その際には、それを特徴付ける、すべてに内在し、そして外在するある普遍的な性質がある。
③第一原因には男性的な神と女性的な道が想定できる。
④埴谷雄高の「死霊」では、空間や時間、何物にもとらわれない存在として「虚体」というものをあげ、これはいまだ未出現なのだとする。
⑤「自分だけで完結した自分」を求める自分がいて、それ以外に、「自分が自分であることを嫌悪」する自分がいることを今回自覚できた。

 

なんか最後の結論唐突ですが、空間と時間に規定されない自分というものがほしいということであり、どうじになんというか、今の自分から、もっと進歩したいという自分がいたりとそういう意図です。

今回の記事はこれで終わりです。読んでいただいてありがとうございます。ではまたー

 

 

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