「哲学考察」認識を変えると人生が変わる

 

 

 

前回からの続きです。まず人類が認識により世界の在り方を変えてきたということを書いて、その後個人の人生にも役立つであろう視点を書きます。後者の方がメインですので、あえて記事を分けました。

なお、宗教やイデオロギーの部分は、自分で書いていて、かなり胡散臭いです。そして、一連の中でこの記事が一番まとまっていないです。でも責任をもって書いています。

というか、この記事、別に例の「引き寄せの法則」とはまったく関係ありません。認識を変えることで人は、地道に努力できるというのが、根幹です。

 

 

 

 

1.数学・科学による変革

自分は数学が、理系なのに、あまり得意ではないです。それはそれとして、人類が数学により、多大な進歩をとげたことに異論をはさむ人は少ないでしょう。

数学はまさに、人間の認識を変えました。それにより世界の在り方も大きく変わり、宗教は少なくとも表面的には廃れ、科学が発展し、科学万能主義の世の中になりました。

アリストテレスは、惑星は完全な円形運度を行う神だと信じていました。

今の人類は、数学、天文学、物理学等のおかげで、惑星が大体楕円状に運動することを知っていますし、僕含めて、神でもないであろうと考えています。

 

2.宗教・思想による変革

宗教は蒙昧、そう激しく強く感じます。あれは金儲けです。ですが、我々の哲学や科学のアイデアが、実はそこからでている部分があるかもしれないのです。ここではかなりあいまいな胡散臭い事を、変なテンション自己顕示欲の権化ハイパー化状態で、書きます。

 

科学の大元は錬金術です。これはエジプトやギリシャのもので、魔術的な要素と不可分でした。というよりも、哲学、宗教、錬金術、数学、音楽等、あらゆる知識が、このころの、人類には不思議な魔術であり、哲学であり、宗教であったようで、それらはお互いに混ざり合っていました。

代表的なのは、ピュタゴラスの定義で有名な、ピュタゴラスです(ピタゴラスよりも当時の発音に近いらしい)。彼が神秘主義者だったことは有名です。彼はピュタゴラス教団を作り、そこで弟子たちと共同生活をし、豆を食べてはいけない等、様々な戒律を守って生活していました。

彼は数が世界の神秘を解き明かすものだと、それどころか数こそ実態だと、信じていたそうです。彼は輪廻転生を信じていたそうです(この知識も西洋哲学史から)。

プラトンも、アリストテレスも、明らかに宗教的な要素があります。当然ソクラテスも。

 

もっと近い時代の哲学者もそうです。

微分積分を発見したデカルトも、明らかに、宗教的な所があります。

ニュートンが古典物理学を確立できたのは、同時に研究していた錬金術のおかげだとも言われます。弁証法で悪名高いヘーゲルの哲学は、かなり神秘主義の影響が強いです。

アインシュタインの相対性理論も数学や物理学の知識と言うよりは、彼の哲学的背景から生み出されたようです。他にも神の啓示によって数式を教えられた、天才数学者等もいます。

超いい加減な情報の羅列、文書ともいえないのですが、何がいいたいかと言うと、はたして、天才の成果というのは、論理的な思考の産物なのか、僕は疑っているわけです。もしかしたら、神秘的な感覚が、大切なのかもしれません。

ここでは、あえてこんな適当な感じにしておきます。また別の機会に、というか、今後の課題としても、この宗教や神秘主義と科学の発展の関係について、考察できたらと思います。

特に西洋の暗黒期ともいえる、キリスト教で、神の証明とかを、していた時代に興味があります。

 

というのは理由があって、別に自分が馬鹿だから神を信じれば、天才になれるとか、オカルトで楽をしたいとか、そんな事ではないんです。

一つには、東洋の思想が、過小評価されていると考えるからです。たとえばヘーゲルの弁証法と同じことは、江戸時代の哲学者、三浦梅園が反感合一として唱えています。

現代の文明は西洋がもたらしたものだと、アジア人はコンプレックスがあるのではないか、しかし、そもそも西洋の科学や哲学が、インドやエジプトの有色人種の哲学に由来するものならば(ギリシャ人はインドや、エジプトの影響を受けている)、科学だって大元の思想はアジアにあるのではないか。アジア人は、体系化は苦手でも、むしろ直観力で勝っているのではないか、そう思うのです。

 

たとえば、先端の物理学の宇宙観が、驚くほど、仏教やネイティブアメリカンの宇宙観に酷似していることを、考えると、アジアの感性も捨てたものではないかと思うのです。

さらに言うと、インドヨーロッパ語族とか、コーカソイドとか、ユダヤ人は白人だとか、現代西洋人が、ギリシャ人の後継者だとか、かなり胡散臭いものだと思います。ユダヤ人は聖書に有色人種だと書いてあります。インドとヨーロッパが同じとか、わずかな言葉の類似だけで、そう判断しているだけです。日ユ同祖論程度の信憑性しかありません。

 

もう一つは、女性の哲学者が過小評価されていると思うからです。歴史は男性が作ると一般的に思われるでしょうが、ぼくはここで、その逆を言います。つまり歴史の発端は女性だと。女性の直観力を、体系化するのが、男性の力なのだと。

さらにここから、怪しいことを書きます(特に統一教会の件で神経質になってしまう、故人を悪く言う意図はありませんが、あの売国組織と一緒にされたらたまらん)。

 

聖書の記述をみると、アダムが誘惑に負け智慧の実を食べたのはエバのせいです。そして地上に追放された。

(聖書なんか信じていないけれど、ある記述や事象を解釈する見方について、以下逆転の発想で送りします、アメリカ大嫌い)。

「はじめ言葉は神であった。神は自分に似せてアダムを作った。アダムの肋骨からエバは生まれた。」

 

以下解釈

肉体においては女性が器で、男性が力。精神においては、男性が器で、女性が力。論理は、心の器。

ここで言う性別は、実際の性別を刺していません。反感合一、男の中に女あり、女の中に男あり、ユング心理学では、男の中の女性性をアニマ、女の中の男性性をアニムスと言います。

意思こそが未来を創る、思考はそれを回想したり、形作ったりすることが出来る。肉体においては、男性が能動者で、女性が受動者ですが、精神においては女性が能動者で、男性が受動者です。そしてここが重要ですが、この能動者と言うのは、じつは後から生まれた存在の事です。

男の心臓こそ女である。

無意識が初めにあったのではない、意識(男)が先にあった。そこから深い無意識(女)が生まれた。新しきものは受動者にあらず、進化した能動者である。

 

 

3.イデオロギーによる変革

あえて思想と分けました。ここで言うイデオロギーは、例えば民主主義、資本主義、共産主義。

現代の世の中は脱イデオロギーの時代と言われます。資本主義×民主主義が最善の様式だと(たとえ、最低の中で、まだまし程度だとしても)、大体の人が考えていると思います。

 

共産主義を掲げるソ連が崩壊したことにより、アメリカと、資本主義×民主主義が、普遍的な思想・制度として永続的に勝利を収め、イデオロギー対立が終わった、もっといえば、それが普遍化したことにより、イデオロギー自体、語ることが無意味になったと。フランシス福山等、そのような楽観論を表明したり、受け入れたりした人は、意識的にも、無意識的にも多いと感じます。

 

しかし、今中国の台頭の問題があります。そこではアジア的資本主義という、新たな体制が確立されています。

これは、シンガポールの元首相リー・クアンユーが、提唱したもので、最初の実践主体としては、日本、シンガポール、ついで中国等です。

アジア的な資本主義とは、民主主義×資本主義という西洋人には当然と思われるくみあわせではなく、独裁主義×資本主義、という組み合わせです。

 

日本はよく、一番成功した社会主義だと皮肉られますが、これは的を得ていると思います。

今は小泉政権の改革から崩れてしまいましたが、昭和の日本の経済は、官僚による強い統制をうけた生産体制でした。これは戦前の挙国一致体制が、戦後も残存したからです。

戦争時代、資源の乏しい日本では、企業に効率的に物資を生産させる必要があり、そのために、株主の権限を縮小し、逆に経営者と従業員の役割を大きくしました。そして、生産状況を管理するために、各企業に銀行がどれだけ投資するかは、官僚の窓口指導によりきめる仕組みにしたのです。

これが、朝鮮戦争等の影響で、アメリカに見過ごされ、結果戦後も、御上が統制して、下々が金ではなく、品質や生産量で競争する、という、ある意味で社会主義的な制度を残存させたのです。

理系の大学を出ているので、わかるのですが、車で例えると、マツダは、トヨタに勝とうとなんて、はじめから思っていない。あくまで、自分のシェアの中でいい製品を作ろうとしているだけだということです。企業が技術を開発するには、安定した資金供給はありがたい仕組みです。

 

一方、リー・クアンユーは、幼いころ、日本兵の統率のとれた姿を見て、強く影響を受けたそうです(アジア人でも西洋人に勝てると感動した反面、日本人も西洋人並みに横暴であったと、批判もしていたようです)。

リー・クアンユーは、日本兵の統率を参考に、アジア人の精神には、民主主義はなじまず、独裁主義こそが、ふさわしいとして、独裁主義×資本主義のアジア的な資本主義を唱えました。

そして、シンガポールは発展しました。日本も、働きすぎだの、エコノミックアニマルだとのと言われた、90年代序盤までの間は、というかプラザ合意とか、消費税導入とか、小泉構造改革とかで、こける前までは、好景気を維持しました。

中国も表面上社会主義ですが。結局資本主義を取り入れています。

ここまで、べた褒めしましたが。僕は独裁主義なんて嫌いです。それに、アジア人には、独裁政権が限界だというのも、なめた意見です。あと、大体同じような価値観ということで、まとめていますが、用語や背景となる思想、適用範囲については、厳密ではありません。

ここで言いたいのは、イデオロギー対立は終わってはいない。むしろこれからも、それは続いていくということです。そのための記述としてあまりふさわしくない内容だったのですが、消すのも勿体ないので、もう少し、追加で書きます。

 

たとえば福祉国家。これは今の日本のように、資本主義でありながら、政府が福祉サービスを充実させる国家です。

いやそんなのは当たり前だと思いますが、産業革命当時のイギリスでは、子供でも一日13時間とか平然と働かされていて、ろくな福祉サービスもうけられなかったという過去があるようです(あくまで、教科書でよんだだけなので、本当かどうかは知りません)。

資本主義×民主主義社会では、自己責任が重視されるので、特にアメリカでは、そういうサービスを保障する事さえも社会主義的だと怒り出す人もいるらしいです。

(ところで、あんまり悲劇的な事を書いて、お涙ちょうだいして、自分の論理を正しい風にみせるのは好きではありません。 言いたかないけれど某新聞とかがよくやる手)

今のような福祉サービスが充実したのは、実は社会主義に対抗するためだったのです。ようするに、資本主義の方が、経済が発展するから、福祉サービスも良くなると、個人が好き勝手やるほど、世の中はよくなると、そういう証明をしなければ、ならなかったのであり、それは、社会主義と言う敵がいたからです。

(特定の記録や、因果関係が正しいかは、ご自分で判断ください。いくらでも正論めかした嘘と言うのはつけます。)

敵がいなければ、危機がなければ、安寧をむさぼり、人も社会もかえって瓦解します。

ソ連が崩壊していこう、対抗勢力がいなくなり、資本家の天下となり、福祉サービスの質量ともに低下しています。そしてそれが行き過ぎると、社会は機能不全に陥ります。

残念ながら、皆目先の欲を重視するので、全体のことを考える事のできる人が、政治の中枢に入り込んで、流れを変えられる保証はありません。

そこで、結局古い亡霊、マルクスの階級闘争が頭をもたげてくるのです(そうでないといいですが)。

歩行には、右足と左足が必要なように、イデオロギーも人類の営みのために、これからも対立を繰り返すでしょう(ここでそんな争いばかりの世界を作った神に出来る限りの罵声を浴びせておきます)。それがアジア的資本主義なのか、それとも、他の物なのか、それは僕たちに託されているのですが。

 

 

4.人間の成長について

ここが本題です。人間をみる視点、特に僕が問題にしている、自由意志について考える視点にはいくつかの方向があります。

僕は以前の記事では、自由意志について、あると書いていますが、一回目の、あのプラトンとアリストテレスを間違え、そして用語も間違っている記事では、第一動因説を取り上げて、F=MAのように、はじめの運動に全て左右されるので、自由意志は無いように書いています。

そして自業自得に関する記事でも、すべては因果関係ですので、自分なんて、幻想です、しいて言えば自分とは、全体の事だと書いています。

しかし、僕は自由意志があると書いた方が、受けがいいので、日和見を決め込みます。

というのは半分冗談で、これは認識の視点によるのです。僕は人間の成長と言うのは、この人間に対する視点を広げることだと思います(なんか偉そうなことばかり書いているけど、僕まだ若者で、おっさんではないはず、30代前半はおっさんじゃない! よね・・・・)。

 

たとえば、犯罪者の悪行を、全て個人の責任だとして、嫌悪していた人が、その背後にある、歪んだ社会の在り方や、恵まれない人の人生の苦渋にたいして、共感して、犯罪者をただ、否定するのではないあり方を身に着ける。

また、逆に、たとえ、社会のせいであっても、犯してしまったのは自分だと。そう人生の責任、不条理を背負う覚悟を決める。

たとえば歩行者がルール違反をして、飛び出してきたのであって、運転している人に全く過失がない場合にも、そのひき殺した人は、自分は人を殺したと思い、罪悪感を抱くと思います。それを受け入れるかです。

ようするに、前者は人生や人類に対する構造的な認識と、共感的認識を通して、世界や他者を見るわけですが、

後者の場合は、たとえ論理的には自分のせいではなくても、自分で責任を負うという、自己責任的な視点だということです。これは矛盾するようで、両立します。

 

もし、不幸な人を自己責任論で裁くなら、それは峻厳をとおりこして傲慢です。しかし、論理を頼みとして、自分の人生に挑まない姿勢は、理性的ではなく、軟弱です。

もちろんこれは例でして、違う視点もあると思います。このように、人は認識を広げていくことで、器を大きくしていけるというあくまで例です。

もっとも、後者の不幸当番にあってしまった人からしたら、それはなかなか受け入れられなくて、当然だと思います。知恵袋で、不幸な人の相談を「みんな苦労している、泣き言をいうな」みたいに、足蹴にする人を見かけますが、正直に言うと、明らかに格差は、限りなくあります。

はじめの一歩の鴨川会長の名言は基本本当ですが、でも嘘です。例外というものはあります。明らかに努力してないのに、成功している人間はいます。そして努力する者も、人により努力の量が違いうので、使うタイミングでは、ごまかしにしかなりません。

 

ですので、不幸な自分の人生が、受け入れられない人は悪くないです。むしろ恵まれて綺麗語をはいて、人を見下している人間の方が、不幸な犯罪者よりも、よほど極悪人だと言ってもいいくらいです

(あくまで僕に言わせればね。でもジョーカーはダメですよ、人を傷つけて傷つくのは自分ですし、第一恵まれているように見える人がいても、その人の心は赤の他人には解りませんから。どんな悲しみを背負っているとも限りませんからね。第一恵まれているから、殺されるのも、その逆と同じぐらい理不尽に感じます、というかみんな人生と言う旅を、宇宙の中で目的もわからないままに、必死に足掻いている、仲間なのだし)。

やたらと理不尽に厳しく自己責任論で攻めてくる人がいたら、その人は、人の苦労も知らないで、無神経な甘やかされたクズです、たとえそのクズが表面上苦労しているように見えても、それは意味がありません、人により与えられた物が違うのに、それが想像できない時点で傲慢で不幸を知らず、誠意もないのです(これも例外があって、本当に親身な故に厳しい人もいます)。

 

5.おわりに

次は、自由意志に対する認識のアプローチについて、書いています。

ここまで書いてきてなんですが、ぶっちゃけ、自分は特に知識もない、ただの庶民なので、なんかアドレナリンに任せてかいた文章を読みなおしている今、結構恥ずかしいです。まったくまとまりがない内容だということは自覚しています。

しかし消さずに、嫌後悔じゃなかった、公開することにします。至らない点等、ぜひコメントしていただけると、嬉しいです。

今回はこれで終了です。伝えたいこと、いやただ見てもらいたいことは、人間は、認識を変えることで、より良く生きられるということです。そして、それは時に屁理屈や、ルサンチンマンでもいい。嘘から出た真と言います。認識を創るということが大切だと思います。読んでいただいてありがとうございました。ではまたー

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です