大学生の頃の話。
その日俺は、夜遅く研究室で一人作業していた。本当は院生(大学院生)もいないと、いけないんだけど、鍵は預かっていた。
白だか灰色だかの壁紙を張った長方形の研究室内には、入り口から入って右側に、洗面台や食器置き、冷蔵庫、電子レンジなどが配置され、少し離れて左側にはパソコンや顕微鏡等の道具を置いている棚と横に小さなブラウン管テレビ、それらを避けて横壁両端に設置されたホワイトボードにはアニメのマグネットやマーカーや掲示物が乱雑に貼り付けれ、中央にある学部生用の長机の上には、漫画だの、宴会後のコップだの、ボトルキャップだのが乱雑に放置、奥に並列して配置されている院生用の個人机とパソコンの上も、それなりに整頓されている以外は大差ない、というよりも、個人の机と言うことで、各人の趣味が開陳され、あるものは仮面ライダーのフィギュアを飾り、あるものはアイドルのポスターを貼り付け、そんな知的に一流とは言えない環境が、俺にはたまらなくしっくりきていた。
深夜の寂幕の中で、学生の学費で立てられた建物の一室を独占し、電気代を無駄使いし、お菓子を食べる楽しみを満喫しながら、黙々と作業していると、突然ノックがして、俺がのけぞっていた上体を起こす反動で、一瞬でお菓子を脇に下げ、机に掛けていた足を降ろす動作からワンテンポ置いて「どうぞ」と言うと、すぐに男が入ってきた。知らない人間だったが、大学っていうのは、結構ゆるいものだと俺は勝手に思っていて、多少の警戒心はありつつも、危機感はなかった。
俺の学科の建物は、徹夜で論文をかいたり、ゲームとかして盛り上がったり、そういう学生がだれかしら居残っていて、24時間電気がついていたから、どうせ遊びか飲み会に混ざっている他学部か他の大学の生徒だと高をくくっていたんだ。深夜でも大学前の商店街は、ゲームセンターに入り浸る学生やら、飲みや兼ラーメン屋やら、とにかくにぎやかな所だったからな。
服装とかは、この時はあまり印象にのこらなかった。ていうかそもそも服装とかあまり気にするタイプでもないし、そういうの女子受けは悪いんだけどね。その人は背が高い男で、何かを黒い服を着ていたような気がする。手には何か荷物を持っていて、少し陰気な雰囲気だった。
その男がさ「あのNさんはいらっしゃいますか?」って聞いてきたんだ。
Nさんっていうのは、俺に鍵を渡した院生で、その日はもう帰っていた。おれはそのことを告げると、男は帰って行った。当時も携帯はあったけど、大した用事ではないか、それほど親しくないか、そんなところだろうと思っただけだった。
後日、Nさんにその話をして一応の特徴すると、なぜだか、Nさんは、少し気分が悪くなったようで、彼は教授の部屋に行き、何やら話し込んだ後で、その日は早く帰っていった。
その時はそれだけで、後日Nさんも体調は良かったし、男が再び訪ねてくることもなかった。もう少し、おかしなことが起こったのは俺が大学を卒業した後だった。
卒業後、大学とは特に接点がなかったんだけど、ある日Nさんからメールが来て、大学の研究室で会わないかと誘われたんだ。Nさんは大学に残ってポスドクをしていたんだ。一流の大学ではないのだけど、それでも生物とかバイオとかそっち系の研究を俺達はしていて、社会に出た後も、大学で学んだ経験は生きていると思う。
俺はNさんとは仲が良かったので、OKして仕事がオフの日に、大学に向かうことにした。よく深夜に二人で論文を書いたり(俺は手伝いだけどね)、ゲームをしたりしたもんだよ。
で当日なんだけど、Nさんに指定された時間が妙に遅くてさ。なんでも研究室のサプライズでなにか相談があるから、俺に相談に乗ってほしいとかでさ。俺は教授に会って、そして学部生に酒をおごったりとか、会社の話をしたりとか、したかったんだけど、それは次の機会と言うことで、その日は、ビールとかを片手に、Nさんにだけあいに行くことにした。悩みとかあったのかもしれないし、ポスドクって良くわからないけど、給料とかやばくて大変らしいからね。本当はNさんだけの部屋があるんだけど、いつもの研究室で待ってるって。
懐かしい大学について、もう警備の人とかも帰っていて、と言うよりも裏門は警備の人なんていないし、表門付近のにぎやかさとは対照的に寂しい感じだし、玄関しまっていても、乗り越えて入れるし。もちろん社会人だからそんなことはしないけどね。
少しだけ曇った普通の夜だった。学棟を見上げると、何カ所か、研究室の電気がついている。風で木々がざわざわと揺れ動いていて、少し不気味でもあるのだが、それが逆になんだか懐かしくて、こういう時に室内で酒を飲むのは悪くない。
俺がいた時にはなかった、入り口にある良くわからないオブジェクトを通り過ぎ、エレベーターにのったはいいが、少しだけドキドキした。懐かしくても基本部外者だし、誰かに不審者扱いされたらと、警戒しているのか、妙に胸騒ぎを感じる。
研究室の扉の前まで来て、俺は扉をノックする。
「どうぞ」
扉を開けた時、その違和感の正体が分かったよ。いやわかったわけではない。そこには、俺がいた。学生時代の俺、お菓子を脇にどけて、体裁を整えている俺。
「え、なんで?」そう言おうとして、かすれてどもった。自分の格好をみて、それが数年前にあった男の格好に似ている気がしたからだ。
「Nさんはいらっしゃりますか?」俺はNさんの所在だけ聞いて、不在であるとの相手の俺の返事を聞き、そして研究室を後にした。
後日俺は恐る恐るNさんにメールをしてみたが返事はなく。電話も同じだった。結局それ以来大学とは疎遠になり、仕事も忙しかったので、詳しいことはわからなかった。というより、本能的に関わりを避けたと言うべきだろうな。
その後、久しぶりに連絡をとった大学の友人から、Nさんが失踪しているという噂をきいた。それがいつの事なのか、俺に連絡があった時はもう失踪していたのか、それは確認していない。