「哲学メモ」フロイト・ラカン精神分析と宇宙が見ている夢

 

 

 

1.はじめに

 

「人間は宇宙が見ている夢であり、宇宙は人間の見ている夢である」

 

あけましておめでとうございます。最近すっかりこのブログも停滞しておりますが、ことしもよろしくお願いします。しつこいですが、遊戯王やデュエルリンクスへの愛がさめたわけではなく、自分が遊戯王から学んだことを、どうやって、他分野で活かしていけるかということを考えながら、このブログをたまに書いていきます。

 

今回は、主に精神分析について、考察ではなく、自分のメモとして残しておきます。精神分析とは、ジークムント・フロイトがその父とよばれるもので、精神疾患の治療のために用いられます。もっとも現代では、認知行動療法や薬物療法等が主流であり、精神分析そのものが、一種のオカルトや疑似科学だととらえられる傾向もあるようです。

 

それに哲学と題しているのに、なぜ精神分析なのか?これは心理学は哲学と切り離せないと思うからです。精神分析の思想は、「親殺し」という重要な要素をふくんでおり、これは遊戯王の海馬然り、数々の物語で語られてきた、重要なテーマであると考えます。心理学は哲学において非常に重要で、ニーチェの思想と深いつながりをもつようです(たぶんニーチェについては、あらためて、何かまとめる機会があると思います)。またウィトゲンシュタインも心理学の重要性に着目していました。

 

 

僕は人生とは、全て因果=決定されていることだし、すべては物質だし、人生は運ゲーだとか、本来そういう類の人間です。しかし心理学や哲学を学ぶうちに、どちらかというとそれとはやや異なる視点も持てるようになってきたと、感じています。

浅い知識からあえて率直にいうならば、「精神は脳がつくる幻」だとか、「全て物質だから薬さえ与えれば精神疾患も治療できるので精神分析は必要ない」というような意見は全くまとハズレだと思います。

なぜか?意識というものにたいして、脳がみせる幻やあくまで生命活動を行うための機能に過ぎないと考えるのなら、なぜその逆だとは考えないのかということです。

つまり「脳という物質」というこのとらえ方が、もう意識の産物でないと、何故言い切れるのかということです。卵が先か鶏が先かの話です。

 

初めに精神ありき、なんでも精神だというのが、観念論というもので、逆になんでも物質ありきだという考え方が、唯物論というようです。そして唯物論は、共産主義に関係します。日本人は共産主義が大嫌いな癖に、「私は脳」だと唯物論は信じているのだとしたら、これは矛盾かもしれません。

もっとも、輪廻だとか、自業自得だとか、魂のレベルだとか、そういうものを実は多くの日本人が信じているのではないかと、最近僕は勘ぐっていますが、そんなことは調査もできないし、当然僕一人の妄想なので確かめようもありません。

 

やや話がずれましたが、この流れの中にどの様な意図があるかというと、僕は、狭い意味での唯物論者「私=脳」でした。すべては物質であると。しかし哲学を少し学ぶと、今度は観念論的な部分が出てきました。そして精神分析を学ぶうちに、今まで知っていた唯物論とはことなる「唯物論」について、知ることが出来たということで、今回はそれを書きます。

僕は自由意志がないと嫌な人間なので、なんでも物質だという唯物論は嫌いです。資本論でおなじみマルクスは、人間の精神という上部構造は、経済という下部構造により決定されると言いました。この考え方では、結局経済が全てで、人間の自由意志はなくなります。つまり全てが因果で出来ていて、その原因が経済の法則性にあるということです。

 

極端に考えると、マルクスは随分偏狭な人に思えますし、フロイトも唯物論的な考え方ですし、もっといえば、因果関係を信じて、精神=脳だと考える人間すべてが、自由意志を否定していることになるとも思えます。

しかし、結論をいうと、マルクスやフロイトの唯物論は、目に見える形での物質を意味しません。それどころか、我々をしばるあの因果という物から自由になる可能性すら与えてくれる、もしくはまったくその逆だと思えます。

 

フロイトを再解釈したジャック・ラカンは、人は皆妄想するといいました。また言語は全て嘘だとも。そして古の哲人プラトンも、人間は洞窟に映る影を見ているだけで、真実の世界を見てはいないと言いました。

この記事の主張は、「人生は全て、宇宙が見ている夢であり、宇宙は人間の見ている夢」だというものです。

別に僕がそう信じていたり、人生に絶望するあまりそう思い込もうとしていたりするのではないですし、この考え方もかなり古めかしいものです。フロイトの他にユングやアドラーの心理学なんてのもあるわけですし。それに胡蝶の夢という有名な話がありますね。ただ、色々と考えられるなかでのインスピレーションの一つとして書いていきます。あまり厳密に書くつもりもないし、自分のための、哲学メモとして書きます。

 

 

 

2.心とは何か(意識と無意識)

 

 

人間の心、その形式は、氷山の比喩として表現されます。

これは水面に突き出た氷山は、水の中ではもっと大きな塊であり、その水面にみえる部分が意識であり、見えないが大きな存在が無意識であるというものです。

人間は例えば、水面に浮く木の葉のように、風が吹けばすぐに方向が変わるものではなく、どっしりと水の中にあり、その海流によって確固として方向性を定められた存在であり、それは無意識的な物だというのが、この意味です。一方、災害等で人が死んだり家が壊れたりした場合は、やっぱり人生は木の葉だと実感しますが。

 

つまり人間には、意識としての自分、自我のほかに、表には出てこない自分がいるということで、しかもそちらのほうが、より大きな存在だということです。たとえば、それは個人的なトラウマだったり、あるいは無意識的な肉体の制御だったり、古代から受け継がれてきた本能であったり、夢の中の住人であったり。しかし無意識の種類や類型についても当然諸説あります。

 

3.宗教や精神分析が目指すこと

 

無意識が存在するという説は、一見すると自由意志の否定そのもののようにも思えます。ただし、この無意識に対してはたらきかける、または同化し真の自分に目覚める等、そういう試みが、宗教や、ある種の精神分析等で試みられてきたものです。つまりその真の自己と同化すれば、自由になれる、完全な自分になれるという発想があるわけです。

 

大体その類型は大きく2つにけられます。この無意識は宗教では、ドラゴンつまり強大で危険な生物として、扱われたりもして(坊さんが煩悩を敵視するようなことです、君が男なら股間にわかりやすくドラゴンがついているはずだ)、人間の意識とは相いれない面もあるので、それを打ち負かしてしまうか、それと融和するかを目指します。しかし、あきらめて、適度に距離を取るという3つ目の方法もあり、それがフロイトの意見です。

 

①仏教や古代エジプトやギリシャの宗教は仏や神の意識に目覚めることが目的。

(西洋では意識による無意識の統治、東洋では無意識への意識の同化、神は天上の神聖な竜であり、地上な邪悪な竜を支配する。あるいは同化する。路傍の石に仏をみいだす。)

②ユング心理学では、①を真の自己に目覚める個性化の働きとして学問化。

(錬金術や道教から、天国と地獄の結婚、二元性の融合こそが人間の成長のキーワード)

③フロイトは、無意識を性衝動ととらえて、その昇華をといた。

(天上に神はなく、地上の竜こそが真の神であり、それとは距離を取るべき)

 

 

4.フロイトの心理モデル

 

今回はあくまでフロイトがメインなので、フロイトの弟子ユングや宗教については、また違う時に書きたいと思います。別にそれらを否定したいわけではなくて、今回はあくまでということです。というのは、ようは、あまり偏見に凝り固まり、色々なものを吸収する機会を逃したくないから、これが正しい!みたいな主張はしたくないのです。

 

フロイトは、一つの心を、三つの機能や領域に分けました。自作した図も載せておきます。

 

①自我

②超自我

③エス(イド、性衝動)

通常の浅い理解だと、自我が意識としての自分で、しかしエスは衝動的な欲望を表明します。それにたいして、超自我というルールを守らせる、父親的な機能がそれを抑制して、社会生活を営むことができるようにします。

それより深い理解だと、この超自我というのが、実は母親的なものであり、またエスの動きは、欲望ではなく欲動であるということが重要なります。

 

 

5.フロイトの治療方針

 

フロイトは、幼少期に抑圧されたトラウマが、意識に同化できずに、抑圧(=追放)されたために、固着が生じ、そのけっか、例えば強迫性障害のようななにかを行わないと気が済まない病気等が発生すると考えました。たとえば、それは幼少期に性的なものに興味を持ったときにひどく叱られたというような経験として。

 

であるから、それを意識に統合すれば、その病気はなおるというわけです。しかし、フロイトは治る病気と治らない病気を分けています。フロイトによれば、元抑圧という、幼少期の根源的抑圧はだれにもあるもので、これが普遍の個性をその人に与えるのであって、これは治療不可能だと考えました。つまり誰もがトラウマをもっていると。そしてここで重要なのは、このトラウマが広い意味でつかわれていることで、喜ばしいことでもよく、ようは幼少期の肉体的な刻印=母との関係あるいは家族等にあるということです。

 

そして、精神疾患の人が訴える悩みやその原因というのは、二次的な物なのだと。実はその前にもっと大きなきっかけがあったのだとこういうのです。この二次的ななやみというのは、症状とよばれ、むしろ回復の試みでさえあると言います。なぜなら人は皆トラウマを抱えているから。そしてそれを糊塗するために、全ての人が症状を抱えているから。

 

あるトラウマへの固着を、欲動、リビドーといい、欲望はそれを転換したもにすぎず、それは可変的な物だと言います。可変的なその症状を、良い方向にずらすこと。トラウマ自体から距離を取ることが銃で要であると考え、その一つが昇華というものです。これは性衝動を、芸術等に転換するということです。直接地下のドラゴン、シャクティに長時間ふれることは誰にも出来ないということです。

「病的な不幸を当たり前の不幸に」とはそういう意味なのでしょう。だれもが、当たり前の刻印をもっており、それが症状をつくる。

 

6.エディプスコンプレックスの浅い理解と深い理解

 

なんか浅いだの深いだののかくと、それだけで自分の浅さがにじみ出てくる気がしてきます。べつに「浅い理解に比べて、僕の理解の方が優れているんだー、僕スゲー」、みたいなことを書きたいわけでもないし、だいだい今回書く内容だって、基本ただの受けうりにすぎないのに。

 

しかし、書いてしまわねばならない。エディプスコンプレックスとは、ギリシャのオイディプスの伝説を精神分析の思想を表すために、フロイトが用いたものです。

 

その伝説は、父王の悪行により、呪われた運命を背負い生まれたオイディプス(以下精神分析的にエディプスとよぶ)が赤子の時父に捨てられる。そして成長してスフィンクスのなぞを解くまでになったエディプスは、そうとしらずに、父王をころして、しかも母と結婚して、その王国を統治することになる。

しかし、王国には徐々に不吉な影がせまる。盲目の預言者だけがその呪われた秘密をしり、エディプスにそれを伝える。

エディプスは、しらずに母と結婚していたことを嘆き、自分の両目をつらぬいて、みずから森へとさっていく。

 

 

こういう陰湿且つ破廉恥且つ侮辱的な話です。フロイトはこの物語を人の精神の成長の過程を示すのに用いました。人間は赤ん坊として生まれ、そこでは母と子の一体関係が生まれます。子どもは自分を母親の一部かのようにおもっています。それは母親の欲望の唯一の対象、それを満たす唯一の対象が自分であるという満足感の世界です。そして子供と母は一体ですから、子供は母親にたいしても、同様の地位を得ます。つまり母こそが、自分に満足を与えてくれる唯一完全なものだと思うわけです。自分だけがあの人に、あの人だけが自分に。

 

しかし母親は、常に自分のそばにいてくれるわけではありません。こどもからすれば、それは喪失、痛み、不安、去勢です。それどころか、子供にとっては目の前にいる母親というのは、ある意味でかつていた場所の代わりに来るものです。かつては、母親の中に子供は住んでいて、出産と同時に子供の身体は、分裂し、その一部は捨てられてしまいます。それはたとえばへその緒。かつていた場所への郷愁、うしなわれたものへの悲しみ。それを補う母なるものの不在。寄る辺なき赤子の不安。

 

フロイトはこの母の不在に対処する方法として、子供の遊びを取り上げています。ある子供は、母親が不在の時に、糸巻をなげてはダーと言い、それをとりもどしてはオーという遊びを行っていました。これは言語の芽生えであり、どうじに、母の不在という受動的感覚を、自分で捨てたのだという能動性に置き換えるものです。

子供は、母の不在という不安な状況にたいして、その理由を考え、そしてその原因として、母親には、自分以外に満足を与えてくれる存在がいるのだと考えます。それが父親です。母と子供の間には、ファルスというものがあります。これは、ここから、どうか下品な話だとはおもわないでほしいのですが(すごくいまさらです)、これはおっぱいと、ちんちんです。そして子供がかつて自分として持ち、もう失ってしまった対象とは、へその緒とか、それと、ある種の部屋です。

 

この二つをとおして、母子は二人の世界を結ぶのです。子どもはおっぱいをたえられることで、母の物になり、逆に子供は、自分こそがその満足を与える機関、ファルスだとしんじることで、その関係は完璧な物となります。私が貴方で、貴方が私で。つまり子供はそのとき、おっぱいそのものに同化します。そして母親を満たす存在としての自分という物を想像します。この他者の欲望を満たすのがファルスです。そしてこれは、のちにちんちんとして認識されます。

 

しかしこの2者の関係は、非常に近く、そのため、つねに敵か味方か、お前か俺かの関係を呼び起こします。子供はこの時完璧な世界、ただし想像の上で、に身を置いています。

聖アウグスティヌスは告白という有名な本の中で、弟が母に抱かれている光景を悪夢として、語っています。それは母を取られたという嫉妬心だけではなく、自身の根源的な完全性を否定される悪夢です。母個の一体的関係は、自我が生まれる点でもあり、しかし同時に、カエサルか死か(英雄になれなければ価値がないから死ぬよりない)、100か零かの世界です。

 

そこに割って入ってくるのが、父親という存在です。母と子がファルスをめぐって争う時、この間に父が割ってはいることで、仲裁が行われるのです。父親は、子供に母親との結婚を諦めさせます。子どもは父にはかなわず、引き下がらずお得ません。そして男の子の場合は、そこから父親への同一化がはじまり、女の子の場合は、母親と、父親の間に、それより中間的な関係をつくります。

 

父親は、子供に、母親と結婚するようなわるい子は、去勢してしまう、ちんちんをきっしまうと、別にいうわけではないのですが、実際にはそのような立ち位置にいます。しかしこれもまちがいで、実査に父親が去勢するのは、母親のほうです。子どもにとって、母は全能の存在ですが、父が母親の地位を落としてしまうのです。

 

これがエディプスコンプレックスのいみです。しかしこれはまだ浅い理解です。そもそもエディプス王は、しらずに母と結婚してしまいます。そのつじつまが合いません。しかしこれには秘密があります。それは、父親の仲裁者・妨害者としての立ち位置、それが結局は、その先に理想の母を想定させるということです。

 

男の子は、父に同化して男らしくなろうとして、その実その父という障害物の後ろに、失われた理想の母をみているのです。父さえいなければ僕は理想のお母さんと結婚できるのに、というわけです。禁止というものは、もしそれがなければ、望みをかなえることが可能だという、希望を抱かせます。そして男は、成長してからも、恋人をあいしているようにみえて、その実ただ母だけをあいしているのだということになります。しかしこれはあらゆる中で最大の侮辱の一つです。

 

女もそうです。女は母の立場の喪失をみて、父の娘になりたいと考えます。しかし結局母親の代わりにすぎません。そしてそれが、現実の男にもスライドされます。女は自分の彼氏のことを、母親代わりにしているのです。ラカンに言わせれば、性的関係は存在しない。

 

男は、母に対して受動てきであった反動から、こんどは、母のおっぱいのかわりに、自分のちんちんを、女性に与えようとするのです。女は、母の子供の立ち位置におり、それを受け取ります。

 

(しかし、もしこれが真実であるなら、やはり僕は神を呪わざるをえない。自分が自由でなくても、自由意志は必要だし、自分に美しい恋人がいなくても、美しいこと、本当の愛は必要だと思うからです。)

 

 

エディプスは、このことをしってしまったからこそ、罰としてではなく、真実を見るために両目を抉り出したのです。真実をしっていたのは、肉眼ではなく、心の目でみることができた預言者ただひとりであったからです。

 

エディプスは、スフィンクスの謎(はじめは4本、次は2本、最後に3本これなんだ?)の答え「人間」をしっていたのに、その真の意味はしらなかったのです。

はじめ人間は4本足ではいはいをして、次に2足歩行でたち、最後に老人になり杖をもち、3本となります。老人の杖、弱い自分を支える杖、理想、共同体のぬくもり、美しき愛、父なる神の3位一体。しかしもう父の幻想は取り去られました。少なくとも一度杖は取り去られました。そしてエディプスは本当の意味で、人間の道をいくことになったのです。

 

エディプスコンプレックスには、ラカン的な解釈があります。これは、人間の欲動、親子の想像的同一関係、言語に着目した物です。ここでは、子供がオー、ダー、と発した言語が、母と子の、仲裁役となっています。つまりエディプス神話でかたられる父親という存在は、言語であり、言語が人々の欲動の爆発や、親子関係の愛憎を、防いでくれるのだと、そのために存在するのだとこう考えます。言語や自我はあからさまな欲動からの防衛のために存在するとラカンは考えます。

 

7.フロイト心理モデル再考=死の欲動

 

しかし、ここまで欲動という単語をつかってきて、その正体についてははっきりと書いていませんでした。フロイトは、この欲動という物を、死の衝動、マゾヒズム、だと考えます。彼はじめは、人間の衝動とはサディズムに根があると考えました。アインシュタインとの戦争に関する対話が有名らしいです。しかし、その背景にどうもマゾヒズム、つまり痛めつけられ、自分が滅される衝動のほうが先にあることを見出しました。

 

再び心理モデルの図です。フロイトは、自我から抑圧(追放)された衝動が固着し、反復することを人間の活動の原点だと考えました。下の丸が身体、上の丸が自我を表します。そしてその間には、母に与えられた超自我が来ます。

 

人ははじめ身体としての存在で、赤ん坊が泣くのも、別にミルクがほしいからではありません。こどもは失われた対象を求めてこそ泣きます。それは母体です。ハスの花につつまれた仏陀は天上天下唯我独尊といいました。

 

そしてその位置に生きている母親がやってきます。母親は、子供に長いこと付添育てます。そしてこの時に自我が生まれます。母親と子供の一体的関係。フロイトはどんな動物でも、未熟であり、親に依存する期間の長いものは、自我が生まれると考えます。母と子の関係により、自我は生まれるのです。とくに人間のように、生理的早産、つまりより未熟な状態でうまれる存在ならなおのことです。

 

しかしこの母親が、子供に穴をうがちます。はじめは、母体の喪失。つぎには、母の不在による母なる我の喪失。図のS(A)こそが、その母なる我。主体はSですが、斜線を引かれたSともあらわされ、この超自我を含みます。かつて自分だったが、自分の起源だったが、今はもういない者。いない者をもとめる物。自分の中心にある異物。埋めるべきアナ。これが超自我の起源です。失ったものを取り戻すために、反復が始まります。

 

この超自我は常にうったえます。享楽しろと。享楽と名何か。それは、マゾヒズム、死の欲動です。母親に対しての依存的な状態を回復しよというのが、死の欲動です。人は自分の生命を維持するために、この死の欲動を、自我の彼方へと追放します。

 

自我が快楽原則としてうごくのは、死の欲動の反動としてです。人の生は、本来はあったところにかえろうというものだとフロイトは考えます。しかしそれでは生きられないから防衛として、自我は生まれます。

 

ここで重要なのは、身体というものが、我々の考える身体とは別のなにかだということです。また失われたものへの郷愁とかきましたが、逆に生身の母親は過保護で、しつこいという可能背もあり、母の不在だけでなく、母の圧制、過剰な接触も、人間の個性に影響を与えます。もちろん言うまでもなく、遺伝的なものもあります。

 

8.夢の機能

 

フロイトは夢から、無意識を考察しました。フロイトは夢には願望充足の効果があると言いました、それは昼間にかなえられなかった願望を、夢の中でかなえるのだと。

またフロイトは、こうもいっています。夢には歪曲がある、夢には検閲官がいて、あからさまな欲望の表出をふせいでしまうのだとも。

夢とはあくまで、人がねるためにみるものであり、そのために、そのような心地よい夢が必要であり、ゆえに、人の本質をえぐるような願望はうまいこと言語的構造によりごまかされるということです。

たとえば、夢はころころと情景を変えます。今スーパーにいたら、つぎは、スパゲティをたべて、その後お茶(ティー)をのんで・・・とにかく、面白おかしく、連想ゲーム的に、快適に、滑稽になるように演出します。しかしこれは実はまったく違う願望が隠されているかもしれないのです。しかしそれが自我に気がつかれてはまずい。

 

夢の目的はあくまで自我に寝ていてもらうためだからです。残酷な欲動など直視したら、自我は目覚めてしまうでしょう。自らの死の欲動は、自分を守るために、容易に他者への攻撃性に転嫁されます。

夢が人間のリアルな願望や欲動を曲げた形で表します。そして、自我が活動しているときには、それは表に出ない。夢の中の登場人物こそ、むしろ本当の自分なのかもしれないのです。そして自我は彼らが見ている夢だとしたら。

 

9.無意識と前意識

 

実はフロイトの無意識は、おおきく2つに分けられます、それは個人的なトラウマ等がしまわれた個人的無意識と、それよりは意識に近い層の言語構造をもった前意識です。

この前意識が夢を歪曲します。それどころか、自分の欲望さえも。自分の症状さえも。自分の幻想さえも。しつこいですが、本質は欲動にあるからです。

①意識(自我)

②前意識(言語構造をもつ)

③無意識(個人特有のトラウマ)

④集合的無無意識(これだけユングの物、本能的記憶や感性の形式や民族的意識)

ラカンの初期の意見、「無意識は言語的な構造をもつ」はあくまで前意識についての意見だとみるのが妥当の様です。といっても、僕は専門家ではないのですが。

全意識の問題で、言い間違えの例があります。これは、本当は言おうとはしてないのに、なぜか言い間違って、本心をいってしまうパターンです。これは隠蔽の失敗を意味します。

たとえば、あるヤクザの幹部が、組長のお祝いの席で、「お祝いをもうしあげる」ところを、「おくびをもうしあげます」と言ってしまった例があります。これは言い間違いに、本心が出ているのであって、これは、前意識の言語構造の過失によるものだと考えられます。

10.ラカンと言語構造

 

フロイトを再解釈したラカンについて書きます。かれは初期のころは、無意識と言語の関係について考えていました。

 

・シニフィアンとシニフィエ

記号学の大家ソシュールは、記号(シーニュという)を=聴覚心像(シニフィアンという)/概念(シニフィエという)として考えました。

 

駐車禁止の標識で例えると、聴覚心像(シニフィアン)は駐車禁止という言葉の音であり、概念(シ二フィエ)は駐車をしてはダメだという概念のことです。その二つが合わさって、我々はあの駐車禁止の記号をそう認識することができます。

 

ここでは、駐車禁止という響きと、駐車をしてはいけないという概念が、ぴったり結びついています。しかしラカンはこのシニフィアンつまり特定の言葉、音、具体的には、リンゴでも、みかんでもいいのですが、その発音自体と、その概念はじつはばらばらの物だというのです。

 

たとえば、あめ(雨)とあめ(飴)で考えてみます。

あめが冷たい。こう書けばこれは雨のことです。

あめが甘い。こう書けばこれは、飴のことです。

 

つまり、音(シニフィアン)と、概念(シニフィエ)は必ずしも固定された結びつきは持たない。

あめは、飴でも、雨でも、天でも、その前後の文脈によって決定されるのです。このことは「あめ」というシニフィアンの意味が、次のシニフィアンである冷たいとか甘いによって、決定される、その関係により意味が定まるということです。

また、リンゴは日本では実際にリンゴと言う概念に結びついていますが、英語だとアップルです。音自体は意味とは独立しています。

 

・隠喩と換喩

 

文章をつくるということは、共時的・隠喩的方法と、通事的・換喩的方法、の組み合わせにより行われます。

(ワードをコピーしただけだから、小さい矢印は直に意味ないです)

 

「空が青い」というとき、この二つの単語をつなげるのが通事的なやりかたです。空→青。
共時的なやりかたでは、この空に相当する部分が、そもそも、山とか、川とか、そういった一軍から選ばれます。
この時、共時的な選択は隠喩として、通事的な連想は換喩として行われます。

隠喩というのは、ある言葉を、をまったく違う言葉に置き換えるものです。
おからを卯の花というのが、隠喩です。

換喩というのは、全体から部分を、表現するものです。
たとえば、ライオンが咆哮を上げたという文を、雄々しきタテガミが咆哮を上げたとしても意味が通じるはずです。

マジカルバナナという、俺がかなりガキの頃に流行った遊びがあります。これは、マジカルバナナ、バナナと言ったら、黄色、黄色といったら、レモン、という風に、換喩的連想法により、言葉をつなげるゲームです。

このような言語自体は、本来の無意識とは=ではなく、前意識に関係しますが、しかしラカンは、このような言語とそれ以前の無意識の関係をおうことで、フロイトの考えを整理しています。

 

11.主体と交換関係

ラカンの後期の理論として、4つのディスクールというものがあります。これは4パターン+資本主義のディスクールをプラスして実際には5パターンありますが、今回はまだ僕が勉強途中なのもあり、主人のディスクールのみを取り上げます。

ディスクールとは言説という意味で、人がコミュケーションを行うさいの、関係をまとめたのが下の図です。何故コミュ二ケーションかというと、精神分析では、患者と分析家のコミュニケーションによって、治療が行われるためであり、さらにいうと、これは言語と、それ以前の無意識との関係も表すことができるからです。

言語はシニフィアン/シニフィエであるので、図も下の段がシニフィエ=意味で、上の段がシニフィアン=発言となっています。

各記号の意味は以下の通りです。

・斜線をひかれたS=主体
(これは人間の身体の中でも、穴が開いたもの。享楽をもとめる欲動そのものです。自我に取り入れられない死の欲動の事です。つまり、エスSの中に、取りさられた母をもとめる、穴=超自我=死の欲動=受動性があるということです。)
・S1=主体が自分の衝動から発信する言説や行為
・S2=それを受ける相手
・a=対象a、S1とS2のコミュニケーションからうまれた、剰余享楽
・◇=関係が不可能であるということ、この場合aと斜線を引かれたSは関係できない。

これは何を意味するかというと、主体は、死の欲動に突き動かされて、コミュニケーションを行います。S1として発言して(斜線S→S1)、それをS2が受け取ります(S1→S2)。
ここで重要なのは、斜線SはS1として発言をしますが、真の意図としては斜線Sですので、(斜線S→S2)となります。
そしてS2はS1の発現の意図そのものを、直接受け取るのではなく、独自の解釈を行い、その差により、aという物が産出されます。
そしてこのaが、死の欲動を埋めてくれれば、主体は満足して死んで行けますが、実際にはそうはなりません。この対象aは、穴の開いた主体の(しつこいですが、これは、母親が欠けた身体)穴埋めとして存在するのですが、どうじに、ある種の歪曲によるものでもあります。つまり、人間は母の元に帰る訳にはいかないのだから、そういう欲動を完全にみたすよりは、より少ないもので我慢しようということで、それが例えばフェチズム等になるわけです。対象aは決して、真に主体に届くことはできず、むしろS1の方にくわわります。フェチズムにおいて、その対象、例えば足フェチの人なら足は、その欲望の対象ではなくて、欲望を引き起こす原因なのです。この対象aが生み出されるしくみなしには、そのひとは足にそこまでこだわりを見なせないでしょう。

欲動と欲望の差はここにあります。欲動は、穴の開いた主体=穴そのものの渇望が満たそうとするものです。それは母から声代々伝えられた不死の性質のような物です。大地の声です。おふくろさん、おふくろさん、山を見上げりゃ山にある、です。いるのではなくあるのです。見た目の美よりも声、声よりも音です。フロイトはそれを畏怖してモノとよびます。

その欲動を最小限に満たすのが、対象aです。これは穴埋めとしての機能と、穴そのものの機能を持ちます。これはあとで図でしまします。対象aと言語関係は、これを、欲動から欲望に変換します。言語構造をとおしてです。

それにより、母の元に帰りたいという欲動は、隠喩され、具体的な趣味等に代わります。人が欲望を満たすのは、これは言語を信じるからであり、本質的には、幻想だというのがラカンの考え方の様です。言語は、原初の第他者、絶対者である母のかわりとして機能します。それが父なる第他者、そして父なる大他者は言語構造そのものです。

ドストエフスキーの小説で、ありがちな登場人物として、一見貧乏だけど、金をためこんでいて、それを夜な夜な数えあげる人が出てきます。こういうお金をためる人というのは、金をためるだけで使わないのですから、実はそうとう損をしています。彼らが金をためるのは、それがフェチズムの対象だからです。これが対象a、穴埋めのために、狭められた欲動であり、言語構造の中の欲望です。彼らは自分が金をもって、それでいざと言う時や、世界の中で、ともかく、良い位置にいる、そういうことが嬉しいのです。そして金というフェチの対象があるから、また金をためる。金は対象と言いましたが、実際には、原因です。欲動という穴(斜線を引かれたS、欲動の穴対象a)、それを埋めるための穴埋めの対象a、この埋まらないサイクルが人間を動かすと言います。

12.マルクスの資本論

資本論は、僕は一度も読んだことがないですが(ないのかい)、漠然と以前はこう考えていました。マルクスは、商品の価値=それを創るために費やされた労働により決まると考えて、つまり商品の価値には、一定の決まった価値があるのだと考えているが、僕からすれば、価値とは人それぞれに違うのだから、そもそも価値についての考え方が間違っているのだと。

資本家は、労働者から労働力を買うが、それをちょろまかして、少ない給料しかあげない。つまり商品は労働価値のままうるのに、それより低い給料しかあげない、だから搾取なのだと。これが資本論だと思っていました。もちろんなんとなくで、とても、言語化なんてできませんでしたが。

しかし、どうも、そんな安易な物ではないです。独善的に批判していたのは僕のほうだったようです。もちろんいまだにきちんと読めるような分量の本ではないのですが(もちろんおおいな)。

代表的な部分を抜き出してみると、以下のような資本増殖の式があります。

貨幣G-商品W-貨幣G’(G+ΔG)

これはどういうことかというと、例えば、貿易がわかりやすいです。A国では、お茶がたくさん取れるので、安く売られています。しかしB国ではお茶が全然取れないので、非常に高価です。商人は、A国では500円でお茶を買い、それをB国では5000円で売れば、その差額4500円が手に入るわけです。これが商売の基本だと思います。

貨幣500-お茶-貨幣5000(500+4500)

この4500の部分が剰余価値というもので、商人が交換によって設けることができる価値、交換により増殖する価値です。

資本論では、はじめから価値という物の主観性は考慮に入れているようです。主観性というよりも、時間や距離、需要と供給により、商品の価値はことなると。そしてその差分から、価値を増殖できるのだと。

ですから、はっきりとはわかりませんが、価値=主観なので、資本論はそく間違いだという、考えは、少し浅はかな気がします。

なぜ共産主義嫌いな僕が資本論かというと、フロイトを研究したラカンが、精神分析は、マルクスの理論と適合するといっているからです。ラカンのディスクールの図にマルクスの資本論は当てはめられます。というよりも、ラカンと言う人が、ヘーゲルやマルクスから影響をうけています。以下は資本のディスクールと呼ばれるものではなく、代表的な主人のディスクールにおいて、資本増殖の仕組みを見ていきます。

 

まず主体=斜線を引かれたSにあたるのが資本です。資本とは資源と言ってもいいかもしれません。会社の資本金とかいいますよね、元手です。その資本は、自分の資本を増殖するために、それを一旦、貨幣S1にします。そして商品S2を生産し、それをうります。

そうすると、その差分から、剰余価値aが生まれます。そしてこの剰余価値は、資本に直接行けばいいのですが、実際は、それが不可能なため、貨幣のほうに行き、そのため貨幣の価値が増殖します。資本主義はこのサイクルだというのがラカンの考え方です。このとき、対象aこそ、あるいは資本の欲動こそが、その資本主義を支える仕組みの原動力だと言います。

この資本論については、本当によくわからないので、これ以上は書けませんが、なかなか面白い観点だと思います。ラカンに言わせれば、マルクスは、経済という下部構造が、精神という上部構造をけっていするというよりも、人々の経済=コミュニケーションの形式が、人々を規定しているとそういうことになるのだと思います。結局は自由意志に否定なきがするけどね。シニフィエ=欲動という下部構造が、シニフィアン=欲望という、上部構造を決定しているということでしょうか。

13.大他者の大他者はない

ここでいう第他者とは、言語もことです。父なる第他者です。人は欲望しますが、これは言語的な構造をもちます。欲動とは身体的なものであり、欲望はそれが言語構想により隠喩されたものだと言います。

この式の下部分が、身体=欲動を表し、上部分が言語=欲望を表すと言います。

人々が欲望するのは、言語や法への愛だとラカンは考えたようです。愛や欲望は、欲動の隠喩や換喩だと。

ラカンは、愛という物を、3種類に分けています。
象徴的愛=言語への愛=第他者(父なる神)への愛
想像的愛=ナルシズム的自己愛
身体的愛=欲動=原大他者(母なる神)への愛

象徴愛とは、ようは社会的な立場に呼出してあるいみ信仰するような感じでしょうか。社長になれなきゃ意味がないみたいな。ナルシズムは、女性が着飾る行為に現れています。
身体愛とは、欲動そのものです。

ただ、なんかラカンの言うことだと、男女の愛も見せかけであるようなきがして、さすがにやり切れません。しかしラカンは「愛とは持っていないものを与えることである」といっているので、なんかやたらと格好いい気もします

で何がいいたいかというと、ここでは言語の不誠実な性質を取り上げたいのです。僕は今でも真理が知りたいとおもい、こんなことを書いていますが、この言葉であらわした、「真理」というもの、たとえばそれはプラトンの洞窟の比喩でも、フロイト・ラカンの精神分析でも、キリスト教でも、カバラでも何でもいいのですが、言葉で表せる真理というものを、証明してくれるものはなにもない、真理を保障する真理は無いということです。

「はじめに神様がいて、世界を創って云々」
みたいなことを言われても、じゃあそれ証明できるの?って話です。そしてこれは科学すらそうだと思うのです。もちろんオカルトと科学は違います。ここで言いたいことは言葉で表す真理を確定してくれる真理が存在しないということです。

原初の神様がいて・・・でもその原初の神様にも父親がいて・・・・でも原原初の神様にもその父親がいて・・・・・みたいに、言葉の正しさや、起源を証明してくれる言葉はない、メタ言語は無いということです。

これは科学でも、物を観察して、帰納的に法則をみつけたとしても、我々が見ることができる世界の正さそのものは、証明できないのと同じです。科学は我々が見ることができる現象の関係を教えてくれるので、間違いなく宗教と同列視するべきものではありませんが、たとえ、光速を超えて、遥か遠くの星まで行けたとしても、我々はそのような形では、真理を発見できないということです。ただ科学により、世界の形式を解き明かすなかで、なにか重要なヒントが見つかるかもしれないとは思いますが。まあどちらにせよ、理系落ちこぼれの愚痴的観点があるのですが。

ここにU=(A、B、C)という集合があるとして、その集合にとうのU事態を含めることはできません。(A、B、C)を表す文字がUなのです。つまりA=Aというのは、なにもAを定義したことにはなりません。リンゴって何?ときかれてリンゴだよと答えても意味はありません。リンゴというのは、赤くてまるくて、みたいに答える必要があります。

あらゆる言葉の集合は、それだけでは不完全で、それを支える根拠がなければならないということですが、しかし言葉が無限にある以上、それを包摂する言葉も無限に続くことになります。

ラカンは、この根拠を空集合に見出します。空習合は何も含まない集合です。そしてあらゆる集合の部分集合でもあります。この空集合をラカンはS(A)=母なる超自我=ララング(前期的言葉、しつけをふくむ身体的接触等)、だとしました。これはある意味で、白い画用紙です。書かれる場所がなければ、書くことも不可能です。そしてこの超自我=身体=欲動であり、それは穴だというのがラカンの理論の様です。

極端な言い方をすると、穴こそが人間であり、ちんちんは、それを盛り上げてさも立派な棒のように見せているが、しかしそれも結局は穴なのだと。であるから、それは身体の上に作られた見せかけにすぎないのだと。

 

14.想像界は言語により構造化されている

ラカンは、人間の住む世界を、現実界、想像界、象徴界に分けています。以下はそれを表すボロメオの環という物です。

象徴界:言語の世界
想像界:自我とイメージの世界。
現実界:リアル身体

結論から先に言うと、我々が普段見ている身体はイメージの産物だというのが、ラカンの唱えることです。我々が物を見るときには、網膜から入った光を脳内で処理して、映像化します。そしてその際には、例えば机の上に筆箱があれば、机と筆箱という風に、ものをそれぞれ区別して把握できます。

ここで重要なのは、物を分けて考える識別する機能が、言語と関係していることです。ラカンに言わせれば、想像界=イメージの世界は、象徴界=言語により構造化されてはじめて、物を区別して認識することが出来ます。

我々が見ているものは、本物の身体ではなく、あくまで人間が勝手に区別しているイメージだということです。オカルト系では、イメージを大切にしますが、フロイト・ラカンの精神分析ではそれは、象徴界、想像界ともに、みせかけだと考えます。

つまり、フロイトやラカンの唯物論は、たしかに、世界はモノなのだが、そのものの真の正体を、人間は決して知ることができないという類の物です。これは、目の前に見える物質を無条件に受け入れる唯物論的現実主義と大きく異なり、プラトンの描く真理の世界、宗教のえがく悟りの世界、そういうものとある意味では同じです。しかし精神分析では、父なる神や、天国ユートピアを信じず、そのイメージと言語を通して幻としてしか見えないが、常にここに存在する世界だと考えます。プラトンも、哲学者は真理の幻をおうものだと定義しています。要するに天国はない、あるのはいまここ、それは地獄だけ。偉大なる地獄。

15.ボロメオの環解説

もう一度図を出して、図内の用語を解説します。

・「自我(想像界)」
唯一にして完全な自分があるというこの私の意識、想像的な身体イメージ。極論今見ている自分の身体イメージは全て幻想。

・「エス・モノ(現実界)」
身体そのもの。自我が認識できる現実ではなく、実際に現実的な物。

・「言語(象徴界)」
人間は世界を言語でとらえており、その世界。想像界も言語に支配されているため、ラカンは、言葉はミセカケだという。

・「母なる超自我」
身体の一部であり、自我の一部でもある。しかし普段自我からは追放されている母なる超自我。もっと享楽しろ=依存的で受動的であれ、欲動に忠実になれと命令をしてくる。出産や養育の過程に、母のしつけや声、さらには母親の心音等をとおして、身体的な出来ごととして形成される自己の中の異者。この異者は固着であり、常に特有のトラウマに回帰するように反復する。失われたものを、楽園を求めて。トラウマは個人の個性を決定する不変の刻印となる。いつか存在した神の起源であり、突然訪れては、人を不安にさせる神であり、理不尽で暴虐なモーセであり、現実にいまここにいる、未来永劫不死の神。不死の生。

・「去勢・対象a」
母体・母・究極の享楽が失われた穴であり、穴埋めしなければならないもの。しかし完全に穴埋めされることはない。完全に穴埋めされるとき、人は母体へかえる代わりに大地に帰る。つまり死ぬ。享楽=死の欲動。人が快楽を求めるのは生きるための反作用であり大地へと帰るのが真の目的、生まれては死をめざすのが、人間の運命。

・「理想自我」
自分がなりたい人に自分を同一化させた理想的な自分のイメージ。ファルスとしての自我。
私はこういう人間だ。私は私だ。

・「自我理想=父なる超自我」
自分が見られたい場所に同一化すること。自我理想は、母なる超自我の代替物。それを覆い隠すヤコブの梯子(はしご)となる。エディプス王は、この天国へのはしごがミセカケであることにきがついた。母なる超自我に直面するのは人間には辛く、長時間は不可能なこと。はしごはいわば、一つの正義、イデオロギー、理想、神話。父なる神に奉仕することによって、人は母なる神を忘れる。死の欲動を、宗教の信仰や社会的な欲望、栄達に転換して人は生きる。しかし父なる神、一つの理想、そういうものが砕け散り、はしごが外された時、人は絶望する。神が死んだ現代世界においては、特に社会的栄達が不可能な弱者は、かわりに椅子を置くことで、つまり欲動を、特定の対象に変換し、昇華することが重要であると精神分析では説く。

昇華とは性的衝動を何か別の対象と欲求に転換することであり、人生は現実において、なにか依存的ではない目標をもち、意識的な努力をして、その過程を大切にすることが重要だということ。命=誇り。
しかし欲動は完全に昇華されないというのが、精神分析であり、フロイトのいう、「当たり前の不幸」、「終わらない分析」というのは、この人間、個人に特有の、トラウマ(良きにつけ悪きにつけ)が解消されないことを、しめしている。無意識は治療されない、ただだれもがもっている特有のトラウマとそこから作られる症状を、分析や昇華等により、ずらすのが精神分析。

または原初のトラウマ体験に影響される、二次的なトラウマ体験があり、例えばそれは戦争や災害の後遺症等が考えられる。人間がトラウマや病気の原因として覚えている記憶よりも前の、何か根本的なトラウマ体験があると、全ての人間に、トラウマ体験があると精神分析では考える。
その原初のトラウマが、あまり良くないものだと、症状として問題にされる。原初のトラウマとは身体的なできごとである=母とのかかわりやしつけ。ここでいうトラウマは不変の刻印のことであり、いいものもあることは注意。

これまでは、親子関係だけでとらえてきたが、場合によっては幼少期の友人関係等も含めるべきかもしれない。7歳までは神のうち。災害体験等の二次的トラウマの治療をとおして、原初的なトラウマの傷をいやすことが可能かもしれない。

16.世界は物質ではなく出来事である

相対性理論以降、世界には物質の他に波動、エネルギーが存在すると認識されるようになった。つまり世界は全て物質でできているというのは否定されている。物質というのは、人間がある対象を、主観的に見る、形式に過ぎない。永続的な物質は存在せず、世界は物質ではなく、出来事である。

フロイトやマルクスのいう物質は、上の意味での物質ではない。不可知のモノである。

17.人生は宇宙の見ている夢、宇宙は人生の見ている夢

自我は欲望する、欲動を避けるために欲望する。夢は欲動を歪曲しつつも本心を語る。夢をみるのは自我であり、その登場人物は、リアル身体の欲動を表す。
夢の住人が、リアル身体であれば、それは欲動=リアル身体=大地=宇宙となる。

物を区別するのは、言語である。歪曲するのも言語である。もし区別がないのなら、わが身体は、宇宙と同一、その一部である。

自我が見る夢の住人は、宇宙の欲動=宇宙である。そしてこの今見ている現実も自我の見るイリュージョン=夢である。この宇宙そのものが、人生が見ている夢である。

自我という夢は、宇宙の欲動の防衛のために作られる。宇宙は眠りの中で、その住人に出会う。その住人こそ自我である。人生とは宇宙の見ている夢である。そして宇宙が大あくびでもして目覚めたら、その時は自我も人生も少なくとも今の形では、なくなるのである。

「はじめ言葉(ロゴス=理性)は神であった」新約聖書。
「神は死んだ」ニーチェ。
「有ると無い、物事が言葉で分かれる前に、全てを生み出す道(タオ)があった」老子。
「精神分析が発見したこと、それは神とは=超自我=原初の言葉=失われた身体=単に女だということだ。」「女達たちはいる、しかし女なるものはこの世界にはいない。神々はいても唯一の神はない」ラカン。

18.おわりに

今回はかなりはっちゃけた文章になりました。べつにこういうことを、盲信しているわけではなく、一つの考えとして、胸の中においておこうと思います。この長い文章を読んでいただいてありがとうございます。ではまたー。

 

 

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