「哲学考察」①超越論的とは何か②無意識は存在しない

 

 

こんにちはRAIMEIです。今回の内容は用語の正さ等もふくめ、正直かなり自信がないです。

あくまで以下の内容はIQがいたって標準(105前後)のただの30過ぎ弱者男性が、日曜日に、ハースストーンおじさんの配信を流しながら、現実逃避のために書いているものだとわりきって読んでください(また文中で断言、えらそうな書き方をしている部分は、面倒くさいからそうしているだけで、かならずしも盲信しているわけではありません)。

流れとしては以下のようになります。
①デカルトの「我思うゆえに我あり=コギト」について説明します。
②カントの「超越論的」「超越論的統覚」というワードにいて説明します。
③フロイトの無意識が「超越論的」であることを説明します。タイトルのとおり無意識やその他に私や世界が存在しないことの説明をします。
④結論をまとめ、考察もかきます。

1.この世界で、唯一確実なものはなにか?

1-1.デカルト「我思うゆえに我あり=コギト」

哲学を志す動機は人により様々だと思います。僕の場合は、どうもこの世界は嘘ではないか、今見ている世界は本物ではないのではないか?とそういう感じから出発しています。

 

例えば、目の前に赤いリンゴがあったとしましょう。たしかに目に見えて、手で触ることが出来ます。しかしこれが本当かどうかわからない。誰かに騙されているか、もしくは自分の能力不足で真実の見方ができていないのではないかとも考えられるのです。

 

このような考えが僕にひとりでに湧いてきたのか、それとも他の人に知らず知らずに影響されてのものなのかはわかりません。というのは、こうした考えを持つ人は昔からいて、そのような昔の人の思想が、現代の我々全体の思想、個人個人の思想に影響を与えていると考えられるからです。

この世界の全てを疑った代表的な哲学者として、デカルトがあげられます。彼は数学では、座標という概念を導入して、代数学と幾何学を融合させた人として有名です。

 

デカルトは全てのものを疑いこれはデカルト的懐疑として呼ばれています。端折りますが、彼はまず自分の感覚を疑い、目に見えているものは全部まちがっている可能性があるとします。つぎに数学など感覚よりは確実なことを疑いますが、これも悪魔が自分をだましているだけかもしれないと疑います。そして最後に疑いえないものとしてのこったのが「我」「私」です。

 

なぜなら、色々と疑っている私自身は存在するはずだからです。

デカルトは「我思うゆえに我あり」といって、これを自身の哲学の絶対的に確固たる基礎としてその後色々なことを考察していきました。哲学でも数学でも論理的に推論を行う場合、自明の前提として、確実なものが必要であり、哲学において、それは「私」の存在だということです。

 

1-2.認識する私と、認識される対象としての世界

ここまでを整理すると、哲学には、「私」という世界を認識する存在と、認識される客体としての「世界」という、二元論的な視点があると言えます。

2では、世界を認識する主体である「私」と客体である「世界」の関係について、カントの考えを見ていきます。

補足として、デカルトのコギトについては、数多くの反論があるようです。

コギトというのは、ある意味自分の体の中にいる意思をもった小人のようなもので、その子人=精神に絶対的な優位を与えてしまうと、いくつか難点がでてくるようです。

構造主義的な視点では、人間は環境の産物であり、そのような確固たる主体は存在しない、ある意味では私は情報の束のようなものに過ぎないと考えます。ようは個人といってもそれは一種のロボットであり、それに対してコギトはかっこたる自由意志をもった自分がいるようにとらえられるので、それは間違いだと考えます。

このような構造主義的視点ですと、個人の責任という物はなく、貧富の差等も努力の問題ではなく、端的に運の問題になるので、倫理的に、不平等を是認する理由が成り立たなくなるということも言えます。

またその他の意見として、文法的な指摘もあります。たとえば、デカルトは、「私は今考えている、だから私はいるのだ」と考えましたが、「考える」という行為にはたして「私が」必要なのかという問題があります。「考えがある」といっても良いわけです(とラッセルがいっていました)。

 

2.カントの「私」と「世界」に関する認識

2-1.超越論的とは何か?

哲学において、「世界とは何か?」と考える時に、「時間」や「空間」とはどういうものかということが、長い間考えられてきました(ニュートンが絶対空間を想定した等)。

それにたいして、カントは、時間や空間がどういうものかというよりも、時間や空間こそが、人間が世界を認識するための先験的な直観であると考えました。

つまり空間と時間とは、実際に見る対象として世界の側にあるものではなく、見る我々の側の見方にすぎないと考えたのです。

哲学では我々が世界を把握する能力として、感性・悟性・理性というものを考えます。カントは、感性の形式が空間と時間であり、悟性がそれにより認識した世界をそれぞれの事物にそのカテゴリー化の能力で分類・構成していると考えました。

人間に認識される前の世界は、ばらばらの何かであり、感性の空間と時間という枠組み、悟性のカテゴリー能力をへて、目の前に個別の物(例えばリンゴでもバナナでも)が現れるのだというのです。

カントはこの考え方を、コペルニクス的転回と自称しました。コペルニクスは、天動説ではなく、地動説を唱えた人で、それに見立てたということです。もう一つ「超越的」という言葉もあるのですが、違いは以下の通りです。

 

超越論的:人間が世界を認識するそのあり方・形式を指し示す、あるいは考えること。
超越的:空間や時間という先験的な形式を是認したうえで、神について考えること。

例えば、「神には目的があり、それは全ての人間を神にするためであり、だから魂に下界の辛い人生をあたえて修行させているのだ」という考えがあります。人生修行論とでもいいましょうか。この考え方は、「目的」という時間的なものを含んでおり、神や魂という場合にも、それは天国や人魂等、我々の人生の延長線上のものを想定しがちです(臨死体験はまさにこれです)。ゆえにこのような議論は、人間の感性の形式を、唯一絶対的で当然な世界の見方であると、受け入れたうえでのものとなります。

 

2-2.超越論的統覚・夜道の懐中電灯の例

カントは感性と悟性をつかって、「世界」をみる存在が「私」であるとかんがえ、これを超越論的統覚とよびました。

これについて、非常にわかりやすい説明があったので、それを拝借します。参考文献URLは最後に載せておきます。

ある人が夜道で懐中電灯をかざしながら歩いていたとします。その際には、懐中電灯で照らされた部分しか明るく見えません。一方で懐中電灯自体も、照らされる夜道の中には含まれません。

この懐中電灯にあたるのが、感性と悟性で世界をとらえる超越的統覚=私であり、光りに照らされている部分が認識される世界であり、そしてその他の暗い部分が認識・構成されてはいない、残りの世界の部分です。ただし世界は超越論的統覚に認識されてはじめて、その形をとるので、光に照らされていた部分も暗い部分も、根本的には正体不明の不可知のモノ、モノ自体です。

 

 

2-3.超越論的についてまとめ

お気づきでしょうが、カントの意見では、我々は世界の真実の姿を見ることができません。

というよりも、我々は世界を一つの塊のように認識していますが、カントによればそれは世界の中には含まれない超越論的統覚によりその様に統合されて見えるだけで、実際にはばらばらかもしれない、何かよくわからないモノなのです。

 

超越的:人間の世界への見方・形式を絶対視した上での神等に関する議論。
超越論的:人間が世界をみる形式そのものに関する議論。
超越論的統覚:感性と悟性をもちいて、世界を認識・構成する、世界に含まれない「私」
不可知のモノ・物自体:超越論的統覚でとらえることができない世界の素材である何か。

 

(科学と宗教と哲学の違いの図。科学は偉大であり、それを貶める意図はないです)

 

3.フロイトの無意識は存在しない

3-1.フロイトの精神分析の概要・ボロメオの環

まず、フロイトの精神分析で描かれる心や肉体の仕組みの説明を、ラカンのボロメオの環とその解説からおこないます。次に3-2でラカンのディスクールをもとに、人間の心の作動の仕方を説明します。

下の図がボロメオの環です(適当に作ったので、厳密には線の重なりの部分が違いますが、説明には影響がないと思います、正確には、象徴界が想像界を支配し、想像界が現実界を支配し、現実界が象徴界を支配、つまり線が上にくるようになります)。

・現実界(エス肉体そのもの):死の欲動を持つ。言葉を使う人間が直接みることはできない。
・想像界(イメージの世界):善悪二元論に陥りがちなイデオロギーの世界。
・象徴界(言語の世界):言語やルールに基づいて、世界を把握する世界。
・理想自我(自我):普段思描いている理想的な自分。
・自我理想(父なる超自我):父親や社会の秩序から自分がどうみられているかという自我。
・超自我(エスの境界表層・母なる超自我):幼少期の母の命令、依存的な状態の記憶、人間が作動するための駆動力。
・対象a:超自我の穴埋めされるべき部分、または穴埋めそのものをさす。

 

以下フロイトが考える人間の心の形式について簡略に、上のボロメオの環と、人間の発達段階にそって書きます。くわしくは、一番下の参考URLか、または僕の以前の間違い誤字脱字だらけの記事を見て、自己判断してください(違う考え方があることは僕も知っているし別に絶対視していません)。

 

①出産と母体回帰願望(死の欲動)
赤子には母体回帰の本能があるといいます。これは自分を独立して生きる生命体として保持するよりも、もといた母体にかえりたいという本能です。これを死の欲動といいます。

②生理的早産・母なる超自我と自我
人間は他の動物に比べて、かなり未熟な状態で生まれてきます。ある意味で生後1~2年程度は母体内の生活の延長線上にあり、これが人間の外界への適応能力のたかさにつながると考えられます。そしてそのような長い未熟状態と、養育者のしつけにより、超自我が植え付けられ、自我が発達するといわれます。

母親に植え付けられる超自我は、一種の命令として機能します。特に注目すべきはその依存性で、寄る辺ない子供は、母親に支配されて、それをよろこびとも、脅威とも感じます。虐待死の半数が母親からなのをみても母は優しいだけの存在ではないと考えられます。

母親あるいは養育者との依存的な関係を取り戻そうとする欲動、死の欲動=マゾヒズムがここでも刻み付けられます。

 

③自我と抑圧(追放)
想像界の自我は、依存的な原初の肉体的状態とちがい、母親との一体関係(愛着)を形成する喜ばしき世界です。つまり肉体的な状況では、いつ母に見捨てられて死ぬかわからないのです。ここで重要なのは、人間には死の欲動がありますが、それと一体の形で、自己保存の欲動もあるということです。危機的状態からのある意味逃避として、自我が生まれます。母親や養育者に見捨てられる不安から、逆に母と子の強いきずなの世界を作り出すわけです。

このさい、母親や養育者とのかかわりのなかで、あっとうされるような刺激や記憶(それがよろこばしきものでも、忌むべきものでも)は未発達な自我が、許容しきれずに、そこから追放されて、現実界、肉体(母なる超自我)に止まります。これを幼少期の抑圧と呼びます。

 

 

④想像界・自我にたいする象徴界・言語の仲裁
自我の世界は、無条件で愛される喜ばしき世界ですが、残念ながら、欠点も存在します。それは結局母親がいつも一緒にいてくれるわけではないということです。また母親と自分が一体というのは、ある意味では主導権争いの場ともなります。

赤子は、自分こそが母親を満足させられる存在(ファルス)であると考えます。しかし母親も自分こそが赤子を満足させる存在(ファルス)であると考えます。

このような、愛憎の状態を仲裁するのが、言語と父親であると言われます。

たとえば、母親がいない時に、糸巻をなげてはダーといい、それを取り戻してはオーという赤子の観察が有名な話です。これは母親においてかれたのではなく、自分が母親をすてたのだという、受動的状態を、能動的状態に置き換えるさいに、言葉をもちいておこなっているということです。子供は母親に支配される関係から、言葉をもちいて、能動性を得ようとするということです。

言葉ではなく父親の例では、母親が愛する存在として、父が立ちはだかることで、子供が母と結びつくのを、断念させるということです。この際には、絶対であった母親が、自身では完全な満足を満たせない不完全な存在だという確信を、母に愛される父が登場することにより、子供に抱かせます(子は母一つなので、子がいるだけでは母の否定にはなり得ないのです)。母親は完璧でなくなり、よって、母と一体である赤子も完璧な状態ではなくなります。ただし、このような父と子の話は、ほとんど神話のようなものであり、異なる家族形態も多く存在します。

⑤ここまでのまとめ
このように、人は肉体的な刺激(自動的な蠢動・性欲・死の欲動・生の欲動)、から発して、そこから自我という理想の世界の自分を産み出し、言葉をもちいて世界を合理化することで、生きていくのだというのがフロイトの考えです。

まず原初に、純然たる肉体として母親との一体関係があり、次に母親からの養育があり、しかしそれら状態は二度ともどらない失われたものです。しかもそれは一方では、依存的状態として、非常に恐ろしいものであり、一方ではそのような状態こそ原初の喜ばしいものでもあるといえます。

この失われて二度と取り戻せないアンビバレントな状態、その際に特に刺激がつよかったものは、自我から追放(抑圧)されたゆえに、その受動性への渇望(死の欲動)が、何度も自我に入り込もうとしてくるのであり、これを言葉やイメージで防衛することが活きる事であるとフロイトは考えます。

ここで重要な事は、人間は自信の肉体をそのまま見ているわけではない。言語とイメージ。感性と悟性をとおして、肉体をみているということです。

 

3-2.心の作動する仕組み・ディスクール

上を振り返ると二つの内容に分けられます。

①人間は死の欲動(母親に依存する状態=受動性を回復しようとする)を内部の根源的動力源として持つ。同時に生の欲動、個体の保持の本能も持つ。そして、死の欲動の防衛として、イメージや言葉(能動性)をもちいて、生活を行う(最終的な死を目指して)。

②人間は、イメージと言葉、感性と悟性で世界をとらえるため、ありのままのそれらはみることができない。

 

次に人間の心の仕組み図式化した、ラカンのディスクール(言説)を示します。精神分析はコミュニケーションを介して治療をおこなうものですが、本質的に人間の活動を一種のコミュニケーションとして考えて、それを図式化したものです。今回は(それがただしいのか不安だが)これをボロメオの環の各部分に当てはめて考えます。まずは用語説明から。

・斜線を引かれたS:エス・モノであり死の欲動
・S1:死の欲動に惹起され翻訳(隠喩)された言説、想像界の理想自我(愛)。
・S2:二人間のコミュニケーションでは言説を受け取る側(他者)、一人の人間で見た場合は、象徴界の言語・秩序からみた自我理想(欲動の換喩の欲望)。
・対象a:S2引くS1の差分のより生じる、欲動の穴と穴埋めとしての享楽。
・◇:モノとaは関係できない。

 

人間同士のコミュニケーションで例えると、まず田中さんが本能に突き動かされて、何か木村さんに声を書けます。これがS1です。木村さんは田中さんからS1をうけとりますが、それをそのまま田中さんの意図通りに解釈できるわけではありません。田中さんには田中さんなりの言葉の受け取り方があるからです。この解釈をとおしてS2が生まれます。

そしての差か対象aがうまれ、aはモノの方ではなく、またS1の方にプラスされます。つまり田中さんと木村さんの解釈のずれが、また二人の会話をつづけさせることにつながるのです。

今回は、この木村さんの部分を、実際の他人ではなくて、田中さんが打描いている自我理想、自分が社会から受けている評価をあてはめて、田中さん自身の理想自我と自我理想をくらべるような、ようは自分の価値と、世間の評価をくらべるような感じの、田中さんの脳内だけで考えているわけです。

 

 

次に、資本主義を当てはめるとすると、欲動が貨幣Gであり、S1が資本により購入した商品W、S2がS1をうってえた代金G´、対象aがS1からS2においても受けた利益差分ΔGとなります。

これを式にすると貨幣G-商品W-貨幣G´(G+ΔG)となります。

 

500円で中国にてお茶を買って、その後にそれをイギリスにて5000円で売ると儲けは4500円だという話で、それを元手に、また儲けられるということです。

 

今度は愛と欲望についてですが、上の用語で書いた欲動と愛と欲望の関係ですが、人間は死の欲動が本質にあり、しかしそれはこわいので、愛という生ぬるいものを想像します。これは死の欲動を隠喩することにより、行われます。また欲動を換喩したのが欲望です。

隠喩はおからを卯の花というように、なにか違うもの(大概綺麗な物)で置き換えるということです、換喩はライオンをタテガミということばだけで表すなど、特徴を抽出することで、より少ない部分で全体を表すものです。どちらも直接は扱えないモノの置き換えです。

この愛と欲望をそれぞれ想像界・理想自我、象徴界・言語・自我理想に当てはめれば、愛は、他者と自分の親密な関係、またはその裏返しの憎悪としてとらえられます。欲望は死の欲動をよりすくなく達成するための言語による飼いならし、たとえば性欲を仕事に転嫁する昇華等に当てはめられます。これは社会のルールにしたがって、性欲を他者に評価される行為に置き換えているわけです。その他、一番わかりやすいのは、美です。美は性欲の置き換えです。

 

ただし、昇華にも大きな物語を想定するものと、そうでないものがあります。たとえば、神を崇拝して神の国を作ろうとした昔のキリスト教徒は性欲を毛嫌いしました。しかし神様を信じられない時代になると、神の権威は崩壊し、こんどはどうして生きていけばいいのかわからなくなります。神の存在は大きな物語で、これは理想主義(共産主義とか)にもあてはまります。

神がいない世界で、人々はアイドルとか色々な神に依存しています。神の存在ははしごで例えられます。これは上りきればそこに天国があるというものです。しかし裏切られたけっか、ニーチェのいう末人が生まれてしまいます。

そこで、フロイトやラカンは、神の梯子ではなく、脚立を作るべきだと考えます。これは大きな物語ではなく、自分なりに満足できる仕事をするということです。ただし、ただ性欲からはなれているのではなく、性欲、自己評価、他者評価、そういうものを、バランスよく、ある程度かなえられる物でなければならないということです。

こうかくと当たり前ですが、これは個人だけではなく、社会の仕組みそのものにも当てはまります。つまり競争や金儲けという本能むき出しの社会を是正して、多くの人がそれなりに、自己実現できる仕組みが必要だということです。この仕組みは建前だということです。ラカンによれば言語はミセカケです。

神の理想=はしごとは、父権主義社会のことです。欲動とは消滅と結合を繰り返す不死者のことです。

ラカンが唱えるのは、はしごはもうふさわしくないが、脚立を立てることでそれから防衛しないと、カオスがやってきて、社会はめちゃくちゃになるということです。いわばラカンの考えは、世界の本質=神を下部構造である女性とした上で女性をリスペクトし、その上で、やんわりとした父権主義(見せかけの上部構造)をつくろうという物です。

 

女性がきかざるのは、母への依存的な状態をいつまでももっていたいからで、ようは赤子の変形が美だとも言えます。これがファルスです。母から父へ対象をかえて、父の秩序の中で評価されたい、欲望されたいというのが、自らをファルスにする女性の特徴です。「彼は欲する」彼(本心は彼女)に欲望されることが幸せということです。女性をみれば彼女達が、いかに欲望深く、他人の評価をきにする存在であるかがわかるでしょう。またラブソングで、あなたとか彼という部分を母に置き換えて聞いてみてください。

一方、社会的な評価よりも、自分の好きなことをする、「我は欲する」というのは、男性的な性質です。しかしこれは精神的母親に見守られるという条件付きなのは留意する必要があります。欲する対象は母親の変形です。ただ依存的でなにもできないのではなく、おそらく愛着がある状態ということでしょうが。男性は女性を母親代わりにしているだけだし、女性も男性を母親がわりの父親代わりにしているだけ。ゆえに性的関係はない。

(僕は愛と美が、性欲の置き換えのミセカケだけの物なんて、絶対に認めませんし、自己実現自分を貫くということが、ミセカケなどとはやはり認めません。これは本心です。僕はあらゆるものをうたがっても、この点だけは信じます。)

 

やや脇道にそれてしまって、本題に戻るのですが、この構造では、根源的原因である主体エスの渇望(穴みたされるべき)が自我と言葉をつくり、そしてその差からその主体エスを埋めるべくaが生み出されるのですが、そのaは完全に主体エスを満たすことがないということです。満たした場合それは死を成就する時だからです。

もう一度例を挙げると、田中さんが、飴細工職人を目指したとします。彼の生きがいです。しかしいまどき飴細工職人は社会的にたいして評価を得られません。だから彼の自我の頑張りと、社会での評価はものすごいギャップが生じます。そのギャップが対象aとなり、その大きな差が彼に火をつけて、彼はもっと腕を磨くことになります。そして彼は腕が上がるたびに喜びを覚えますが、しかし所詮社会的評価なので、いつまでも彼の憤りや理想はきえず、彼の活動をやめさせないわけです。対象aとはこういう事後的に作用する原因となります。

この時、真の原因が、下部構造(モノ、肉体)にあり、上部の構造(これは言語的な構造)はその防衛のためのミセカケだというのが、フロイトを解釈したラカンの考えであり、それはエスをはじめに提唱したニーチェ等から引き継がれたもののようです。

 

以下飛躍して、怠惰な類比的思考で、図にまとめてみます。上の説明と比較してあまり信憑性がないものも含まれます。

 

 

3-3.言語やイメージを一部すり抜けて物を見る例

我々が言語やイメージを通して物をみていると言っても、釈然としないと思いますが、それが部分的にはずれてしまった例を紹介します。

僕が初期に紹介した読書感想、「老子と暮らす」では、田舎の山で自然にふれあうなかで、あるとき、草花の見え方がまるでちがうようになったということが書かれています。

感想はたぶんそのこと書いてないけど。あの本は、道(タオ)というそう今日の本で、道は言葉が生まれる前の女性的性質を表すとされます。その言葉が部分的に外れた状態が、草花のまったくちがう見え方として、書かれているのです。

もっと身近なところだと、あばたもえくぼというやつで、好きな女性はすごく輝いて見えますが、ふとしたときに落ち着いてみると、それほど可愛くないというパターンもあります(くそみたいな例えですが、それは心の輝きという物だと思います。)

具体的な例があまりあげられないのですが、そういう状態を味わったことがあるひとは結構いるようです。

 

3-4.フロイトの精神分析=超越論的心理学

ここで一つの結論です。しかしその前に通常言われている無意識について、フロイトとの違いを見るために、おさらいします。

無意識というと、よく下の図を僕は思い浮かべます。そして、人間の思考の外にあるものは、なんでも無意識とひとからげに考えてしまいます。たとえば、心臓の鼓動や発汗は自分で制御できないので、これも無意識の運動だと考えます(広義にはそういうとらえ方があるともいます)。また、無意識の抑圧された記憶というと、それが脳内のどこかにあるものだと考えるのです。

 

 

しかし、フロイトのいった無意識はそのようなものではなく、ここに誤解があります。フロイトの無意識とは、カントの不可知のモノと超越論的統覚に相当するものであり、言葉とイメージでとらえられる何者かではないのです。動悸だとか発汗だとか脳とか、そういうものは、人間が目で見て判断している、ようは言葉の世界に属する見方でしかないので、フロイトの無意識そのものではないのです。

フロイトやラカンは、言語構造を一種のミセカケだと考え(無意識の上の前意識が言語的構想を持つ)、その背後に、下部構造として、自動的な運動をする不気味なモノを見出したのです。これはニーチェが言う毒蜘蛛です。不死身なる永劫回帰者です。

フロイトの無意識は、想像界と象徴界を通さなければ認識できない、実体のわからないモノなのです。これはカントの感性と悟性をとおさねば、把握できない世界、その背後にある不可知のモノという認識とおなじように、超越論的な形式についての議論なのです。

また、当てはめれば、肉体エス・モノが、カントの不可知のモノ(物自体)に相当し、一方で対象aが、超越論的統覚にあたると考えることも出来ます。

4.結論

(わりとだだしそうな部分)
①超越論的とは、人間が世界を見る際の形式をとうことである。
②我々が見ている世界は、カントによれば感性と悟性により、はじめて姿を現す。
③その二つを通さない場合、世界は存在せず、不可知のモノが存在するだけである。
④また世界をみる私=超越論的統覚Xも者を見る際の目のように世界には表れない。
⑤フロイトやラカンは、人間は想像界・イメージと象徴界・言語をとおして、はじめて世界を構築すると考える。
⑥それらの基盤になるのは、下部構造であり、世界には表れない不可知のモノである。
⑦また想像界と象徴界の交換関係から生じる対象aも差として存在するだけであり、世界に直接は表れない。
⑧フロイトの無意識は超越論的なものであり、言語とイメージでとらえられる現実の世界には存在しない。よって、生理的現象等を含む通俗的な無意識ではありえない。

(ここから極論か)
⑩ラカンによれば、下部構造、モノこそが本質であり、上部構造は幻想である。よって、みえる世界はミセカケであり存在しない。実は世界は存在しない。また見える世界には逆にモノ自体=無意識は現れない。そういう意味で無意識は存在しない。
⑪超越論的統覚=対象a=私と考えた場合、私も見える世界には存在しない。

 

5.おまけ

5-1.時間は存在しない

時計を例にとり、時計が作動するための装置をモノ、表二本の針を(過去、未来)、対象aを現在として、ディスクールに当てはめてみます。本気でかなりこじつけです。

時計のぜんまいとう背後装置が作動すると、短針と長針が作動します。この時短針からでも、長針からでも、それ単体では現在はわかりません。デジタルだとそもそも別ですが。

現在は、短針に対して、長針がどれだけ進んでいるかで、判断できます。つまり短針と長針の差分が現在を表します。以上それだけです。時計から読み取れる今は心の中にしか存在しません。見える形で今は存在しません。逆に言えば今しか存在しないのかもしれません。

5-2.原因は事後的に生まれるのか

「我思うゆえに我あり」という時に、ラッセル流に言えば、「考えがある、ゆえに我あり」ともいえるということを、またディスクールに当てはめてみます。つまりS1とS2の関係から、対象aが生まれるということですね。

対象aはある種の原因でもあります。というのは、これはフェチズムとも関係し、たとえば、お金をためまくる守銭奴は、この対象aという利益を求めているのですが、しかし守銭奴の実際の目的は、お金を集め続けるという行為そのものにあるのです。この時、対象aは目的ではなく、原因です。フェチズムの対象は、目的ではなく、原因だということです。

しかし原因が後から作られるというのは妙です。原因があって、結果があるはずです。因果関係という物を、もう一度とらえ直す必要があるのかもしれません。

 

今回は以上になります。長々と読んでいただいてありがとうございます。かなり思いつきで時間の制約のなかでかいていますので、かなり齟齬があったり、根本的にまちがいだらけかもしれないですが、いま僕が考えていることです。ではまたー

 

 

6.参考文献

①蚊居肢http://kaie14.blogspot.com/
ラカン・フロイト・マルクス・ニーチェ等について詳しいブログ。18禁画像等があるので注意。
②ラカン入門 向井雅明著 筑摩書房
ラカン精神分析について特に日本で高名な専門家の著書。換喩や隠喩の違いなどわかりやすい。ただし古い本なので、後期ラカンについてはあまりのっていない。
③スラヴォイ・ジジェク・シリーズ現代思想ガイドブック トニーマイヤーズ著
哲学者・急進的共産主義者であるジジェクの思想の解説本。対象aが私であるというのはここからとっている。ただしジジェクにおけるラカンは、ジジェク流にゆがめられたものだと蚊居肢ではかかれている。
④たぶん世界一簡単な『純粋理性批判』からの学び方 岡敦 日経ビジネス
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/080100138/?P=2
非情にわかりやすい。これを読んではじめて理解できました。
⑤純粋理性批判 中山元 光文社
実は読んだことないです。一番わかりやすいらしいです。時間ないですけど、2年以内には読もうと思います。
⑥老子と暮らす-知恵と自由のシンプルライフ- 加島祥造
老荘思想と著者の田舎での生活について書かれた本。

 

 

 

 

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