「怖い話」天ぷらーあるパチンカーの記録ー


 

これはある有能なケースワーカー(生活保護専門の相談員)から聞いた話を脚色したものである。はたして実話だろうか、ジョークだろうか。

 

ある一人のとても貧しい男がいた。まあ話の流れから言って、生活保護なのだから貧しいのは当たり前だが、しかしこの男、金をもらうと、すべてパチンコに使ってしまうのである。

月並みな話で、生活保護受給者というのはパチンコが大好きなのだ。彼らパチプーの受給者同士は独特の仲間意識を持っていて、パチンコにはまりながら、一方では人が恋しくて、ホールに通っているのではないかと、そう思うこともある。

あるというのは、筆者はケースワーカーではないが、実際に、パチンコにはまってなかなか抜け出せなくなった、若者をよく知っているからである、いやなに、ほんの知り合いというだけで、筆者とは何の関係もない赤の他人なのだが。

 

というわけで、男は金を手にすると、朝からパチンコ屋の前で座り込み、他の貧乏人や落ちこぼれ大学生ら・・・

まあとにかく、人生から脱落して、音と光によるつかの間の偽りの情熱と、ひりつくような絶望という快楽と、救いようのない怠惰と、むなしい人生の浪費、傷のなめ合い、そういった諸々の神秘的体験を求める殉教者同士の、強い絆をそれとなく確認しに行く。そんな生活を長らく送ってきたわけだ。まさに虫けらの人生とはこういう物である。

しかし良く考えていただきたい。こういう貧乏人は、なるほど、一見唾棄すべき虫けらだが、しかし彼らは今言ったように神聖な殉教者なのだ。

たしかに、彼らの中には、わずか数時間遊んで、そのあと数万円のかつ丼や缶コーヒーを飲み食いするような、贅沢者もいるし、パチンコ屋と契約して、毎日そこで提供される料理を心待ちにしているグルメもいる。これは分不相応だ。

いや別に食事の話をしたいわけではない、彼らの中には何十分もホールをうろうろして、たまにしゃがんで床などを点検をしては、そこに銀魂が転がっていると、まるでもう一人の自分を見つけたように、手のひらにそっとそれを大切に握りしめる芸術家もいるし、トイレの中で長い間人生の答えを探すために自問自答する勉強家もいるのだ(そしてその中には、意を決して天上の理を知るにいたった者さえ多数存在する)。

 

要するに、彼らをひとまとめにして、努力が出来ない虫けらだと考えるのは早計である。

彼らは、それぞれが、自分に独特の課題を持ち、枷をはめて生きていて、人々から後ろ指を指されて、絶えず苦悩しているが、その見返りは、御上からはした金をもらうだけで、

なに、甘デジだの、なんだのわけのわからないことを言って、リーチがかかると、演出に酔い、マリンちゃんだのルパンだの、逃げちゃダメだの、心の中で大興奮して、はずれでもあたりでもやはり大激昂して、数少ない友人がいれば、昨日は5万勝っただの、連チャン打法がどうのと、偽装報告で見栄をはり、まあそんな偽りの人生を楽しむ以外には、決して過度な主張はしないのである。

 

それはまるで、キリストの最後の審判の時には、真っ先に救われるためだと、俺達が社会の底辺を支えているのだと、そういわんばかりに、苦悩をみずから背負って生きているという意味で、やはり彼らは偉大な殉教者なのである。

 

しかし、そういった華やかな生活というのも、実は彼らの一面に過ぎない、実際には彼らの生活というのは、パチンコをしている時間よりも、それ以外の時間の方がずっと長いのである。何故ってそれは金がないからである、パチンコなんて5万あっても数時間も遊べればいい方なのだ。貧乏だから、パチプーで金がないのか、パチプーだから貧乏なのか、それは彼らだけでなく、人類全体に問いかけられ、いまだに解けない謎なのだ。

 

白鳥は水面下では、足を必死に動かす、川の魚は寒い季節にはじっとより固まって動かない・・・・・パチプー達は、金が無くなり、華やかな晴れ舞台が終わりを告げてると、家へ帰るしかない。でも金がないのに、パチンコがないのに、どうして過ごすのだろうか、何を食べて命と意識をこの世につなぎとめておくのだろうか? 実はそれが今回の主題なのである。

 

これから記す事件が起きた時、我らが主人公は完全な文無しであった。まだ次の受給日まで、30日もあるのに、彼には金というものがほとんど残されていなかったのだ。

彼には5万円もする399円のかつ丼を食べる金もなければ、毎日パチンコ屋に飯を提供されるパスポートも持っていなかった。

彼の財産はもう散らかしつくした狭い借家の床にうずたかく積まれた、ゴミ屑の山ぐらいしかなかった。彼曰く、パチンコの神様はしみったれなので、すべてを差し出さねば、なにも与えてはくれないのだ。

 

彼はさらに付け加える。

 

「俺はね、自分の境遇に、まあ怠惰で愚かな人生に、そしてそれを後ろ指さされてつまはじきにされる人生に、なんら抗議はしないね。そりゃあ別に、俺が事実怠惰で愚かだから、抗議しょうがない、とかそれだけじゃないんだな。

例えばさ、政治家とか、努力していい大学に入ったエリートサラリーマンとか、芸能人とかさあ、とにかく偉い人が、テレビの前とかで、怒っているのを目にする機会がある。俺はさあ、どうしてその人たちは、怒る事が出来るんだろうと、そう疑問に思うんだよ。

一体誰に怒っているのか、その力がどこから湧いてくるのか俺にはさっぱりわからないね。誰々の心が悪い、能力がないとか、そんな批判をしてもどうしようもないじゃないか。

人生なんて、自分の心さえもどうにもなりゃあしない。自分では、どうしようもないことばかりなんだから。

そういう怒る人というのは、なるほど人生を自分の心で切り開いてきたという人達なんだな。なるほど彼らは我々なんぞよりもはるかに優秀な心を持っていて、それは強く、優しいわけだ。なるほど、後ろめたさがないから、自分を信じているから堂々と「悪いやつ」に怒って、責めて破滅させる権利を有していると、疑わないわけだ、なるほどねえ。

しかし俺はだねえ、そんな権利は生まれてこの方持ち合わせていない。いや俺も若いころは怒ってばかりだったよ。不平不満ばかりでよく、女房子供に八つ当たりして大酒かっくらって、殴りつけたり、暴れたりしたもんだ。

でもねえ、色々あって今は、そん時は悪かったなあと、俺はあいつらに甘えていただけで、あいつらはいいやつらで、それでも堪忍袋の緒が切れて、見捨てられたわけさね。

皆それぞれ背負わされた、格好いいことを言えば、人生の十字架をね、背負わされて、懸命に生きているわけだから、たまたま不幸な運命の人がいたとしてもね、たまたま悪いやつになってしまった人がいたとしても、そりゃあしょうがないじゃないか。一体どんな権利があって、その人を責めるのか、怒るのか、少なくとも俺は、そういう贅沢な心は、改心して、もう捨てちまったのさ。いや資格がないと言うべきさね。

人間は、ただ自分に課せられた、人生を耐えるしかない。それに文句を言うなんて俺にはできないね。少なくとも俺らの様な人間はね、今の自分の人生を全うするしかない、踏みつけられることに慣れて、耐えることが俺の役割なんだよ。

こんな偉そうなこと、本当は言うつもりはなかったし、悪い頭のどこから出てきたのかもわかりゃしねえ、明日には日銭欲しさに強盗でもしてるかもしれねえ、そんな貧乏人がよお、でもそんぐらい人間の心ってもんは、いい加減なものなんだな。

 

でもな、パチンコをよ、パチンコをしている時だけは、俺は本当の自分、燃え上がる心ってもんを蘇らせる事が出来るんだよ、激アツの時のあの期待感、興奮ったらないな、もう大爆発だよ!、体が熱くなってよ、今までのイライラなんてすべて吹っ飛んじまうんだ!・・・・・たとえそれが見せかけだとしても、今の俺を燃え上がらせてくれるのは、パチンコしか、俺の人生には、もう腐れ縁の金食い箱しか、希望は残されていないんだものなあ、やめろと言われたってやめられねえべな。」

 

 

さて筆やら、なにやらが滑り、前置きが長くなってしまったが、ここからは起こった出来事のみを、いたって簡潔に記そうと思う。文無し男が何を食べて飢えをしのいだのだろうか?

 

彼の家は幸いにも、ガスは止められてはいなかった。そしてたまたま、本当にたまたまだが、彼は油を手に入れる事が出来たのだ。

彼にはまだ選択肢があった、油と具さへあれば、もうごちそうだ、天ぷらを作ろう、そう彼は決心をした。

そしてその天ぷらを作るようになってから、彼の食費は浮き、行動力もついて、性格さへ明るくなったようであった。一言で言えば、ナイスアイデアで彼は自分の窮地を脱し、よりパチンコに専念できるようになったのだ。これが成功体験というやつなのだろうか。

 

ある日、文無しで受給日までの残りの期間、どうして暮しているだろうか、何を食べているのだろうかと心配になった、ケースワーカーが主人公の家に自腹の食糧を持って訪問に行くと、男は腹を抱えてひどく、苦しんでいた。ワーカーは急いで救急車を呼んで、彼は即日入院、検査の結果、緊急で手術が行われた。

 

手術は無事成功したし、まあどちらにせよ命まで奪われるような大きな病気ではなかった。

彼の腹からは、大量のゴキブリが出てきたらしい。彼はビタミン補給のためにそこら辺の雑草を、後は蛋白源としてゴキブリを天ぷらにして食べていたのだった。

これが親愛なるケースワーカーが筆者に教えてくれた物語の全容である。

 

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