「考察」ニーチェ「神は死んだ」に対するよくある誤解

 

 

こんにちはRAIMEIです。今回はあやしい考察第二弾です。

1.コンセプト

今回は、一見無神論者の現代日本人が、実は神を信仰しているという話を書きます。いやいやあんたなんかに、他人の精神がわかるのかい?と言われそうですが。

流れとしては、キリスト教の神等の、いわゆる「神様」が現代人の心から、どのように死んでいったのかをニーチェと絡めて書いて、そのあとそれでも神は死んでいないということを書きます。

 

 

2.ニーチェの思想

ニーチェは有名人ですが、適当に解説すると、ドイツの文献学者・哲学者で、若くして大学教授になる等かなりの秀才でしたが、彼が存命の間は学術的な功績はあまり認められておらず、50歳ごろに、梅毒の影響で狂い死にした人です。

僕は彼の著作「ツァラトゥストラ」を一回読んで、わけわからん!と、挫折した人間ですので、正直に言えば、彼の経歴や思想について、間違っていたり、理解していなかったりするかもしれません(なぜ理解しているようなていで取り上げるのか、それは僕がアホだからよー)。

しかし、ニーチェの名言「神は死んだ」その言葉が誤解されていることが多いということを、彼の思想の中でも、わかりやすい「超人思想」から説明できると思います。

 

2-1.神は死んだ

近代において、科学認識・技術が発展することにより、それまで無垢に信仰されてきた宗教「神様」の権威は大きく揺らぎました。

昔はみな天動説を信じ、神の愛・奇跡・霊、そういう類の物を信じて生きてきたのですが、合理的な精神、科学による奇跡、蒸気機関等の便利な技術の前に、宗教の神秘的な修辞のベールに隠されたものが、単なる虚構だと、皆が感じるようになったためでしょう。

ニーチェの「神は死んだ」はその時代の精神を表すと共に、進むべき道を示した言葉でもあります。

2-2.超人思想

西洋では神が善の基準です。神と言う唯一絶対者が価値観を決めているので、それがなければ、全ての価値観は崩壊します。キリストが愛を説いているから、人々は愛を良きものだと認識していたわけです。

しかし神が死ぬと、

悪人やニヒリストや合理主義者は、

「神がいなければ、善も悪もなく、この世では何をしても良い」と考えます。

逆に神を信じて、依存して生きてきた人は

「どの様に生きるのが正しいことなのか!?」と途方に暮れてしまいます。

ニーチェは、神に頼らず、強い意志を持って、自分でなすべきことを決定して、物を作り出す、存在として、「超人」と言うものを規定しました。

神無しでは、考える事の出来ない人(神の羊)や、欲望に支配されて蒙昧に生きる人(見せかけだけの支配者)の先導者・支配者になるべき人種だとしています。

2-3.永劫回帰

実は西洋世界にも輪廻と言う考え方があります。宗教ではカタリ派の考え方です。哲学ではピュタゴラスやプラトン等がそうです。キリスト教で輪廻が否定されたのは、ローマ時代からです。

またニーチェは、仏教の輪廻転生と解脱の思想を、諦感であるとしながらも、その認識自体は正しいものと肯定していたようです。

 

彼がどの様に永劫回帰を考え出したか、その心理的経緯まではわかりませんが、

「ツァラトゥツトラ」というタイトルもゾロアスター教(善悪二元論等が特徴)のことであり、宗教や古代哲学の影響を強く受けていたと推測できます。

これら宗教、哲学と、当時の最先端の科学認識(エネルギー保存則等)等から、宇宙において万物が流転するのなら、もう一度今と同じ物質の状態が再現されるタイミングがいつかあるはずだ、つまり、自分の今の人生が、そっくりそのまま繰り返されることがあるはずだ、そう考えたのが、永劫回帰思想です(また単に時間と言うものが、概念でしかなく、実際には存在しないので、永遠に今なのだと、そう考えたのかもしれません)。

もしくは、超人は、永遠に人生を繰り返しても後悔しないほどに人生を愛せるのだという、釈迦の手のひらで何度回っていても、孫悟空とは違い悟らずに、嬉々として回り続けるのだという、自分の人生を肯定する、生きる指標的な思想です。

 

そして、ニーチェは報われない晩年、狂い死にする間際に「これが人生だったのだ、さらばもう一度!」といって、辛い人生でも自分はそれを愛して、何度でも繰り返す勇気があるのだと、言ってのけたのです

(さらば、は別れるという意味ではなく、ならば、のことです)。

 

2-4.神から超人へ

今回の核心です。ニーチェが超人になれたのかはわかりません。

第一僕は哲学をろくに知りません。これから勉強するので、触りやすいニーチェから書いているだけで、本質的な議論はまだ出来ません。しかし彼の「神は死んだ」という言葉は、ある種の人には、誤解されているのだと、僕はいいたいのです。

 

彼が死んだと言った神は、キリスト教の神様のような、弱者の拠り所になる神様のことです。彼はルサンチンマン(弱者の憎しみ)とも言っています(キリスト教では幼子のような人間が尊く、金持ちは天国に行くのは難しいとされる)。

依存させてくれる神様に頼る事しかできない弱者や、欲望に流されるだけの卑怯者等ではなく、自分の中に神の様な意思をもって決断することが出来る人間が、彼の言う超人であると思います。

彼は「神はいない」とは言っていません。救済の神が死んだだけです。だから「神は死んだ」を神その物の否定に使うならば、それは理解が足りないということです。神が死んだというのは、別の神を復活させたのであり、神という者の存在を肯定したということなのです。

 

これだけ聞くと格好良く聞こえますが、別の言い方をしましょう。

キリストの神が死んでも、「超人思想という主義」が新たなる崇拝の対象、神になっただけとも、とらえることが可能なのです。

人は何か崇拝の対象がないと、生きていけません。特に西洋人は一神教が大好きなのでしょう。我々はある価値観や世界観に基づいて、善悪等を決めているのです。

 

これは価値観の問題です。こう書くと、「なんだ、ただの好き嫌いの話か」と思うかもしれませんが、実はこの善い、悪い、好き、嫌い等の感情や倫理観・道徳観が僕たちの思考や行動の基準になっているわけです。

例えば、奴隷制度と言う、嫌な話で説明します。

僕は小学生の頃、奴隷制度の話を聴いて、「昔の人間はどんだけゴミ屑冷酷人間だったんだよ、現代に生まれて良かったわー」と考えました。

でも、実は現代でも奴隷制度は外国にはあるんですね

(ブラックや研修生制度は、一応任意だから汗)。

昔の悪い人間(アメリカ人等)や今人を奴隷にしている悪人は、どんな気持ちで、そんなことをしているのか、はっきり言って、罪悪感なんてないでしょうね。だってあの当時白人ですと、キリスト教を理解しないやつらは、みんな蛮族で、奴隷にしてもいいと、教えられていたからです。

愛の神様が奴隷にしてもいいと言っていたので、人を奴隷にして罪悪感もなかったというわけです。

 

「現代人は、そんな蒙昧な神様を信じていないから、もう迷信に操られたりしない、よかったなー」 とはなりません。だって僕たちも、子供のころから、大人に、散々、「正しいこと」を、吹き込まれてきたのですから。

現代は神の時代ではなく、資本主義の競争社会です。そして僕たちは、その子供のころからしみ込んできた主義を、金科玉条のように内面化して、行動の規範にしているわけです。

例えば、僕は共産主義について間違っていると思っていますが、しかし日本人の共産主義アレルギーは異常です。それも教え込まれた価値観のせいです。もし何も偏見がなければ、否定はしても、触れてはならない物の様に、「アカ」などと親の仇のようには扱わないでしょう。

「唯物史観は間違っていると思います、それはこういう理由でして、でもお互いに良い世の中を求める姿勢は同じなので、一緒に正しいことについて考えていきましょう」これでいいと僕は思うのですが。

世の中の人々に幸せになってほしい、そう願い共産主義を支持する人もいるのです。たとえその実現のためのロジックが間違っていたり、不完全でも、その志はなにより尊いものだと思いますし、それは別に資本主義者の人間でも全く変わりがないと思うのです。保守でも革新でも変わらないのです(僕は右にしろ、左にしろ、素晴らしい人達を知っています、みな不完全を承知でそれでも理想のために戦っていました)。

資本主義だって、グローバル資本主義は、あきらかに、格差を固定する思想ですが、なぜか、表だって文句言える人はいないでしょう。それは、御上に逆らうことは悪いことだ、みんなと反対のことを言うのは悪いことだ、どうせ変わらない、自己責任、等、教え込まれた主義・思想が貴方の思考や行動を縛って、支配しているからです。

多くの現代日本人は、神を信じていないつもりで、実は「主義・思想」という神を信仰して、それに依存して生きているのです。

 

しかし、私たちには「正しいと思える世界観」が必要なのは事実です。その際にニーチェが、宗教の神や権力ではなく「自分という神」に殉じることが正しいと言った点は、僕は同感です。ただ彼が、その思想も「ある種の崇拝の対象としての主義」でありうる、またはそのように堕しうるものである、点に気が付いていたかどうかまでは、僕は知りません。

 

3.「神は生きている」―現代日本人の偶像崇拝―

弱者が依存する宗教の神は死んだが、精神(知的な精神をヌースと言うそうです)と言う神は蘇った。というニーチェの主張を前章では書きました。そしてその主義もまた、ある種の崇拝の対象でしかないか、それに堕してしまう危険性があると僕の意見を述べました。

完全否定しないでそう書いた意図は、僕は形而上学的な議論を全て、崇拝の対象の主義でしかないとは切り捨てられないからです。

「自分の認識=神または宇宙の自問である」という思想や論理は、古代から現代の哲学者・科学者が真剣に探求している大変深いテーマでして、おそらく低レベルとはいえニーチェもその範疇に入るので、僕には扱えません。

この章では、多くの日本人が依存・崇拝しているであろう、主義や概念について書いていきます。前章の最後でも触れましたが、ニーチェが死んだと言った救済と依存の神が、現代日本では実はまだまだ現役だというのがテーマです。

3-1.お金教、皆の和教、努力教、自己責任教、弱肉強食教等

 

別に反体制的勢力ではありません、ただの底辺です。あと僕は仏教含め宗教がきらいです。

個々の例を全て取り上げるのは大変なので、それは今後に譲ります。ですが一つ例をあげます。この世は弱肉強食だから、と言うあれです。

月並みな話です。

ある土地において、狼がハンターに駆除されて、カリブーが増えました。これでカリブーにとっては天国、増え放題なはずでしたが、以外にもカリブーの数はどんどん減っていきました。

実は狼が、病気で弱ったカリブーを食べていたので、狼がいなくなると病気が蔓延して、逆にカリブーの数は減ってしまったのです。

自然界では、弱肉強食ではなく、循環・共生こそが掟です。

強い者だけが勝つのなら、サバンナにはライオンとゾウしか、いなくなるはずです。

また個体においては、生き残れるかは運の要素が強いです。

例えば、木に擬態する昆虫がいますが、適者生存の論理によれば、あれは昆虫が自分の意思で擬態しようとして進化したのではなく、ただ木に近い色の個体がたまたま生き残った結果、そのような模様の個体が種として残っただけです。

キリンの首が長いのは、キリンが首を長くしようと努力した結果ではなく、首の長めなキリンとその子孫たちが、その特徴を継承していっただけです。そこにキリンの意思や努力や優劣は関係ない。

自然界では、弱肉強食だから強いやつが生き残る、のではなく、精妙なバランスの中で結果的に生き残ったやつがいる、そしてどの個体も最後には死に土に帰り、種もいつかは滅び形を変える、だけなのです。

 

「世の中は、弱肉強食だから、勝った人間が強くて偉い、負けた弱者は滅びるべき劣等者なので犠牲になって当然。」

ここに、論理や命名の魔力があると思います。

本当は結果に関して、それを説明できる正しい論理があるはずなのですが、自分に都合のいい偽の論理をつくり名前を与え広めるだけで、簡単に人を洗脳でき、のぞむ社会をつくれるのです。これはもはや魔法です。

我々は偉い人の言うことをすぐに、良くわからないのに信じます、宗教の盲信者です。

そもそも、確かに人間も自然の一部だけど、他の動物よりも優秀な知能がご自慢なのだから、他に合わせて考える必要ないよね。しかしこれは人間の思い上がりですね。

 

3-2.偶像崇拝、アイドル、VTuber、アニメキャラ、声優

 

もうタイトルだけで解ると思います。あったこともないVに何万円もスパチャする人なんて、完全に偶像崇拝者です。そして僕もそれに近い類の人間です。

アイドルファンとかも一緒です。

でも、アイドルとか、キャラクターとか、そういう存在に依存したり、崇拝したり、癒されたり、そういう人生があっても、なんとかやっていけるのなら、いいじゃない、そう思うのです。だってただ見た目が好きだから、とかではなくて、本当の意味でのめりこむ人は、間違いなくその人や物に、なんらかの「心」に価値を感じているから、その価値が少しだけでもわかるから、応援しているのだと思うからです。

 

そうでない人もいるでしょうが、それもいいでしょう。それに見た目が好きだからも大いに理由に含まれますし。

ただ、僕個人としては、尊敬する人や、好きな物に対して、ただ依存して求めるだけの人生をおくるのではなくて、自分なりのやり方で、自分を高めていきたい、人に何か、優しさとか、分けていける人生にしたい。

それが好きを通して、学んだことだし、良き思い出を作ってくれた人達への、返礼だと思っています、まあダメ人間なので、いまだ口だけですが。

まとめとして、現代日本人は、宗教の神は信じていないが、思想や、アイドル等の神を信じているというお話でした。

 

4.ニーチェに対するRAIMEIのスタンス-心の神を信じる-

 

もうこれで終わりでもいいのですが、ここではニーチェ批判をします。そしてある意味では同じような事を描いているのにその対岸にいる存在として、ドフトエフスキーを取り上げて、適当に綺麗な事をいって結論とします。

ニーチェの思想には、共感できるところもありますが、致命的な弱点もあります。それは彼の言う超人がはたして、尊敬できるか?と言うことです。

4-1.ニーチェ批判 超人はただのお坊ちゃん選民思想

①超人とは神に選ばれた人?

もし、人生を愛している、ある超人が、同じ人生をループしているとして、その超人に漏れた人々はどうなのでしょうか。ニーチェによると女は超人になれない様です。弱者も無理です。それは彼らが力への意思を持っていないからだと言います。ですがその人たちも同じ人生を来り返すのならば、永遠に超人にはなれないので、結局超人とは神に選ばれた人でしかないので、そんな運だけの人は尊敬できないのではないでしょうか?

 

②ニーチェの人生は辛いか・皆が人生を愛せるか?

比較はできませんが、以下のような意見もあります。

「20代までは秀才でとおってきたのだから、何度繰り返しても、別に苦じゃないでしょ。もっと恵まれていない人、インドのカーストの下の方の人等が『人生を愛す、何度でも繰り返す』とそういったら、それは勇気があるけれど。」

幸不幸はある意味では比較できません。しかしあえて言えば、寒いのと餓えるのが一番つらく、いじめられるのが次に辛い等、傾向はあると思うのです。

いじめられているお金持ちは、いじめられていないそこそこの貧乏人よりも辛い可能性は大いにありますが、いじめられていて食べるものも住む場所もなく凍えている上に盗みや、人殺し等をさせられる貧乏人よりは、ましではないでしょか?

ようは幸せとは、内面の自己の感情によるものと、外から見たものと二通りあるのであり、個人がどの様なことで苦痛を感じるかはあくまで主観なのだが(金持ちでも不幸な気分の人はいる)、しかしそれら苦痛と不幸の傾向、内面と外面の相関はあるのではないかと言うことです(寒いと大概不幸)。

人生を愛せとは、本当に餓えている方々からしたら、どうもお幸せなお坊ちゃんの戯言にしか聞こえないのではないでしょうか。幸せな人生を愛している人を尊敬できますかね?

(言うまでもなく、僕は恵まれています。)

 

4-2.内なる認識・理性・良心としての神

 

かなり怪しいタイトルです。ニーチェは口実で、実はこのことを書きたいだけなのでした。僕にも神はいるのです(別に「宗教」は信じていません)。

お空の上の神様は、正直人間には解りようがないので、より正しいと思われる知識を学び、感性を磨き、自分の中の愛だとか、高いレベルの理性だとかを目覚めさせて、時に憎しみ合うことがあっても、お互いに愛しあって、許しあって、生きましょうと、そう僕は思うのです。

ニーチェの超人思想は、男性的な支配の思想で、あくまでも限られた人のみがなれるものでした。特に女性差別がひどく、「女は表層なのだ」とか、色々書いています。

文学者ドストエフスキーは、女性的を崇拝し、神を内在することは、全ての人に可能だと考えていたと「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」等から読みとれると僕は思います。

「罪と罰」なんて、英雄思想(超人思想と同じ)に取りつかれて、みずからの弱い心を殺すために人殺しをした主人公が、家族のために売春をする貧しい女性にであい、その人に同情されて、改心する話です。

「女、女こそは男を完成させる唯一の存在である」

何がいいたいかと言うと、ニーチェの思想は、ある面で正しいが、面白くないし、西洋的で未熟な考え方だというのが、僕の言いたいことなのです。

「女は表層なのだ」(だから低能だ)というニーチェの言葉に、ドストエフスキーなら、それは素晴らしい(だから女は素晴らしい)とそう返すかましれません。

4-3.言葉を超えた感覚

僕は、この考察を通して、言葉について考えていきたいと、ようは哲学を学びたいと思っています。しかし、どんなに言葉について表面的に理解をしても、上に上げたドストエフスキーの様な文学作品を作れるとは思えないのです。

たぶん彼には、言葉を超えた何かが見えていたのだと思います。今はあまり詳しくないのですが、有名な哲学者、ヴィトゲンシュタインは、「示されうるものは、語られえぬものである。」と書いているそうです。

 

語らえぬものは、示されうる。僕はこの語れないものとは、愛などの感情や叡智、高いレベルの物なにかだと考えています。正しい知識があっても、結局それをどう使うか決めるのは、高次の感情と叡智以外にはないと思うのです。

例え名もなき人間で終わっても、その知恵を手に入れたい、そう思って僕は哲学を学びます。30過ぎて、10代、20代の様な事を言います。

 

僕は社会的弱者ですし、美しい女性が大好きですし、過去に優しい女性に助けられた思い出から女性的な優しさがなにより大好きです。もちろん女性の邪悪な面も経験しているので、単に理想化しているわけではありませんが。

僕はニーチェが好きではないのです、彼は恵まれた境遇にありながら、それを自覚せず、恵まれない人を過小評価している、そして僕自身もそうだ。

強さを過大評価し、弱さを過小評価している。僕や多くの人がもっと強くも、弱くもなれるはずです。強さを持った超人も、自らのうちに弱さがなければ、決して自らの強さを自覚できないのだと、それがわからなかったわけではないでしょうに。

彼の二元論は男ならだれでも通る道かもしれませんが、単純で純粋で、ひどく汚れてもいるし、美しすぎもする。それを嫌いになれないのもわかる。むしろ女性差別的な所さえなければ。

僕は、彼の優れたところはルサンチンマンではなく、素直な気持ちで学びたいと思います。

5.まとめ

①弱者の依存先の宗教の神は死んだが、心の中の神(自身の精神OR他者から与えられた偶像や思想)は生きている。

②現代日本では、偶像の神、思想の神が、弱者の依存する宗教の神とかしている。

③ニーチェ選民思想をRAIMEIは好かない。ドストエフスキーの方が好き。でもニーチェも完全には嫌いになれない。

 

今回はこれで終わります。見ていただいてありがとうございます。ではまたー

 

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