「哲学考察」人生は運ゲーか、自由意志しだいか(脳科学と心理学によるアプローチ)

1.はじめに

こんにちはRAIMEIです。

今回は、自由意志は、あるのか、ないのか、それを考察する取り組みです。之には色々な方向からのアプローチがあると思うのですが、今回は脳科学と心理学から考えます。

自分なりにオカルトでないという意味で、唯物的アプローチと呼んでいます。共産主義とは関係ありません、全然知識ないにもかかわらず、脳や心の機能から、取り組むということです。基本見切り発車なのでまとまりません。完璧主義は捨てました。

しかし、脳や心を、「機能」としてとらえると、必然的に自由意志は存在しないように思えます。またかよ!って感じですが、しかし、この方向には希望もあります。

「脳や心を機能としてとらえた場合、我々の意思は、自由意志ではなく、監督意思である」

これが僕の結論です。

大まかな話の流れとして、以下のように進めます。

Ⅰ.「自由意志」の定義を前提としてあげる。
Ⅱ.「自分」が存在するか考察。
Ⅲ.Ⅰの定義にあてはまらない「監督意思」について。
Ⅳ.自由意志肯定派と否定派の争いの関する考察。

 

2.自由意思の定義

2-1.暫定的な自由意志の定義

まず、議論の前提ですが、僕が考える自由と自由意志の定義は以下の通りです。

・自由:ある(またはあらゆる)制約に、左右・束縛されないこと
・意思:意識、自我意識が、一定の方向性をもつこと
・自由意思1:上記の自由の上に行使される意思のあり方
・自由意思2:ふんわりしたもの、自分の行動や意思は、自分で決められるという人間の自由感覚

2-2.自由意思の種類

①(自分自身にも世界にも縛られない形而上学的)究極自由意思
②(自分の精神のみに縛られない)自分からの自由意志
③(自分の肉体のみに縛られない)自分からの自由意思

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ここに混乱がある場合、議論がかみ合わない

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④(精神的な抑圧がない)他者からの自由意思
⑤(物理的な抑圧がない)他者からの自由意思
⑥(一般的にそなわると感じている)自由感覚

 

①はもうすべてが自由な意思です。自分の考えがあらゆる法則にも縛られず、瞬時に自殺することも出来ます。いやそういうことを超越した、キリスト教の神をも超越した、形而上学的自由です。輪廻の輪すらぬけ出たという意味では、伝説上のお釈迦様像です。

②は、東洋的な自由で、いわゆる悟りとでもいう状況でしょうか。煩悩に支配されない状態だと思います。もはや自分と言うものはなく、精神において、すべては一体である「空」の感覚に辿り着いた人ですかね。少しは現実的なお釈迦様像です。

③はこれの肉体版。ようするに病気とかでも、悟れば全然きにならない。心は影響されない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」ってなわけです。凄い修行僧です。

④は西洋的な自由ですね。他者に差別されたり、宗教的迫害を受けたり、偏見を植え付けられたり、そういう、阻害要因がなくて、自分でなんでも考えられる自由だというわけです。民主主義の基礎ですかね。

⑤はこの肉体版、北朝鮮のように投獄とかされないという意味ですかね。肉体的な制約なので、意志かといわれると疑問ですが、肉体と精神は不可分だとおもうので(じゃあわけるな)、之も上げておきます。

⑥は、普段我々の中にある自由感です。

 

2-3.自由意志の考察の方法

①自由意志1及び2の定義について検証。
②自由意志1が現実に存在するか検証。
③自由意志2の「自我の自由感」の正体をさぐる。
④自由意志2が自由意志1のどれかに該当するか検証。
⑤自由意志以外の意思についての検証。
⑥自由意志2が、自由意志以外の意思に該当するかについての検証。

 

今回は⑤ですかね。実際の方法は、脳科学において、帰納的に確かめられたことや、心理学の知見を参照して、人の意思決定の仕組みを見ていきます。

僕は今回、あくまで脳とか心の構造から人間の意思のあり方として、監督意思(または意識)という物を、定義するのですが、実際のところ、自由意志1の①から⑤までの自由意志には完全には当てはまらないし、⑥がこれに基づいた幻想なのかも判然としません。

さらっと結論を言うと、今回の視点だけを正しいと考えた場合、人々は、たぶん固定的な自分と言うものがあると思い込んでいるだけで、固定的な自分も、自由意志も持たないです。

 

 

3.脳の構造

さらっと脳の構造と働きについて説明したいのですが、全然知識なかった。タイトル&サムネ詐欺・・・・・インターネッツで調べるわ。まちがったらごめんね。以下分類と機能について。

3-1.大脳、小脳、脳幹

 

人間の高度な機能を司るのは大脳です。ですから、この機能に注目する必要がありますが、脳には当然それ以外の機能もあります。そういう大まかな分け方をすると、3つの領域に分けられますが、ようは、小脳や脳幹は本能や、生命維持や運動に不可欠な機能を司っていると考えればいいと思います。

3-2.大脳の分類

大脳辺縁系
感情を司る部分です。脳の中心にあります。一般的には原始的な部類だと思われていますが、僕はここが一番新しい部分だという謎の持論を持っています。

 

大脳新皮質
人間特有の高度な情報処理をする能です。

①前頭葉=高次脳機能
独創的な思考をしたり、欲望を抑制したり、複雑な思考をしたり、判断したりする際に、働く部分だと言われています。新しいことをする時も、働きます。一説にはここに自我、自分の心があるとも言われています(皮肉です)。またプロ棋士は対局中この部分があまり活動していない様で、これは熟練した作業はもっと深い部分で行われているからだと考えられます。

②その他
恣意的だな。しかしとりあえず素人なので、脳の部位に関しては、専門家に言われたことを信じるしかないです。ほかの部分は聴覚とか視覚等なので、あくまで前頭葉が判断を下す部位だと、考えて、次に進みます。というよりも、今回大脳新皮質が理性的な判断をくだし、それ以外が感情とか体のバランス調整とか、わりと動物的な活動をささえるという、ある種の偏見をもてれば、細かい部位の分類はそこまで重要ではないと思います

 

 

4.脳科学的による自由意志の検証

脳の働きから自由意志を検証します。話題を徐々にずらしていき、自分の言いたいことになんとなく、正当性を持たせるという、ごまかしを用います。

4-1.意識後追い説

人間は、脳が先に決定したことを、「自分の自由意思」だと思い込んでいるだけだという説があります。人間が意思決定をする時の科学的観測方法として、信号を調べる方法があります。人間が動作を開始する0.2秒前に、意思決定のシグナルが出ていると言います。

しかし、0.35秒前に、意識には上らずに、脳がそれを決定しているという主張です。以下、権威付けとトリックのために、引用します。ドイツのベンジャミン博士の実験です。といってもネットの記事なのですが。

 

【これまで行われてきた数々の研究では、人間に「自由意志」など存在せず、脳が決定を下したのちにそれが「自分の意志」として意識にのぼるのだ、という衝撃的な結果が発表されてきた。

ならば、脳内のニューロン発火が、われわれの動作のほとんどを決めてしまうというのだろうか? すべての思考や記憶、夢や希望までも?~

~自由意志に関する論争を巻き起こした実験は、1983年にさかのぼる。アメリカの生理学者ベンジャミン・リベット(1916 – 2007)は、われわれがとある動作をしようとする「意識的な意思決定」以前に、「準備電位(Rediness Potential)」と呼ばれる無意識的な電気信号が立ち上がるのを、脳科学的実験により確認した。

脳波の「ノイズ」で、行動を数秒前に予測できる

平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかしわれわれの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れているのだ。つまり、われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。

皮肉なことに、リベットの実験は、決定論を支持する人々によって、「自由意志とは幻想である」という科学的な根拠とされた。

しかし、われわれの脳は、いかなる理由からか、自由意志をもつという揺るぎのない感覚を生じさせる。その感覚自体、脳により押し付けられた信念にほかならないのだろうか?(ここで「決定論」と「運命論」とを混同してはならない。決定論とは一般的に、ある出来事はその出来事の原因によってのみ条件付けられる、というのに対し、運命論は人間の意志とは無関係に出来事があらかじめ決められている、という点で異なっているのだ)。】

参考URL WIRED https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

 

漫画の刃牙でもありました。無意識の時間。

画像は愚地独歩です。

之だと自由意志はないことになります。しかし、実は引用には飛ばした部分があります。このやり方は汚いですね。

 

【真実はもしかすると、自由論と決定論の狭間に位置するのかもしれない。ドイツのベルリン大学附属シャリテ病院による脳科学の最新研究は、長らく議論になっていた哲学的難題に、少しだけ希望を与えてくれる。もったいぶらずに研究結果を言ってしまうと、人類の自由意志は幻想ではなく、確かに存在する──ただし、ほんの0.2秒というわずかな間だけだが。】

 

あまり引用すると自分で考えていない手抜き記事だと思われるので、詳しくは引用サイトを見ていただくとして、簡潔に説明すると、脳が方針を決定してから、実際に行動する前に、人間の意識がそれを拒否できるタイミングが0.2秒間の間に存在するということです。そしてそれを自由意志の根拠だとしています。

この説からすると、脳が社員のように方針を立てて、意識が上司としてそれの可否を決定するということでしょうか。でもそれは結局社員が持ってくる案件次第なので、あまり自由ではない気がします。

もちろん、完全な自由がなくても、部分的に自由があるということは出来ます。明確な白黒ではなく、濃度で考える視点です。そういう意味ではこの意思決定の説は、②から⑤までの全ての定義を部分的に満たしているともいえます。しかし⑥の自分の行動や思考を、自分自身でなんでも決めているという自由感はこれでは否定されてしまいます。事業計画案を自分で考えているわけではなく、あくまで脳または無意識と言う社員まかせですから。我々の自我や意思が、1か0かの思考しかできないコンピューター的なものでいいのであれば、それはいいのですが。

どちらにせよ、今度は、その上司は、いったい何者なのか、ようするに、自分とはなにか、そして選択をどのような基準で決めるのかと言う問題は残ります。

 

4-2.因果論による決定論・脳機械論

F=MA 物理学の式ですね。力は、その質量と、加速度が決定されれば、自然に決定されます。物体の運動は一定の法則により規定されます。

古典的物理学の世界では、運動には法則があるので、はじめの運動だけが判明すれば、後の運動も決定されます。ピタゴラスイッチ的に。

世界は物質の運動なので、はじめの運動以外は、すべてが運命的に決定されています。アリストテレスの第一動因説です

 

脳は、刺激に対して、反応するだけの機械です。そしてその刺激は外部からやってくるものであり、自分では制御出来ません。そしてその刺激に対して、脳は特有の態度をかならずとります。たとえば、お腹がすいたら、ご飯を食べます。もし食べないとしたら、宗教的信条等を幼少期から埋め込まれて、脳と言う反応機械の性質がそのように固まってしまったからです。

脳は機械です。そとからの情報がソフトであり、脳がハードです。ハードごとの差は基本スペックと、OSできまります(しらんけど)。ハード性能や特性は過去の先祖の行動と幼少期の環境で決まります。または青年期以降でも、何かショックなことがあった時か。

ようは全てが、外部からの影響であり、脳を物質、世界を物質の運動だと規定して、それを突き詰めると、物質の第一運動、第一動因につきあたります。第一動因以外の人間は、動かされているだけで、決して自分の意思で、動くことは不可能です。他者に影響されて、はじめて、人間は物を考える、自分だけの自由意志はありません。

 

ここで重要なのは、書き方が悪いのですが、二つの問題点を混同しないことです。

①世界が物質であり、物質の運動(脳の働きも)自体が、第一動因と法則により、全て決定されており、自分で考えたように感じる事であっても、それは過去に決められていた。というのが決定論。

②ある脳の状態は、過去に由来する。そして意識が決定を下す際には、(結果的にその判断が正しいか、間違っているかにはかかわらず)自己保存等、自分のためになる合理的目的のために判断する。ゆえに私=脳の判断は、過去の蓄積の無意識と、周りの環境から、意識が合目的に判断した結果となる。それはあくまで機械的な働かいである。ゆえに人間は入力された情報を固有の反応で出力する機会である。脳機械論。

②は①の延長上にある気がします。①は完全に運命だとする説。②は人間の脳は機械でしかないという説(意識も自己保存目的の奴隷)。

意識も0.2秒の拒否権はあるのですが、問題は、この意識さえも、所詮自分の生存等、得になる、選択をしているだけだということです。無意識や肉体が色々と提案をするとしても、それの許可をさすのは上司である自我、意識の役割なのですが、その意識も所詮は目的、つまり利益を最大化するのが目的な、株主の奴隷だということです(笑悲)。

 

なぜこうなるかというと、ここでは目的と言うことを重要視しているからです。②の場合、目的にはかならず手段があり、そして意識や無意識は所詮生存のために手段でしかないという信条だからです。①の場合は結果にはかならず第一原因があるという信条です。

人間の目的が、自己保存や種の保存にあるのなら、または人生が単なる快楽追及のためにあるなら(それが将来の快楽であっても)個人はそのために、自分が良いと思う選択をかならず行うはずです(それがはたからみて非合理であっても)。そういう目的と法則に脳が支配されている以上、外部の刺激と、自分の脳の好みや判断力に応じて必然的に、ある決定を下すはず、つまり、0.2秒の意思さえも、法則と目的に支配されていて、それは自由でないということです。

 

ここでの議論の根幹は、脳その物より、分析する枠組みについてであると思います。 科学的思考法、仮説→観察、原因→結果、目的→手段。分析者自身が決まりきった認識方法しか持たない上に、それを混同していないでしょうか。もちろん、脳科学の発展は目覚ましく、そこではたらいているひとは僕よりもはるかに頭が良いし、知識の差も激しいし、日夜努力していると思います。

ですが、なにか対象を観察する場合、それを見る側の認識によって、まるで見え方が違うことは事実だと思います。たとえば、雨乞い踊り、昔の人は、神様が雨を降らすと雨を観察し多結果本気で思っていたわけです。でも今の人間からすると愚かに見えます。それは認識する枠組みがまるで違うから。

要するに、因果論と言うのは、原因論で、過去により全てが決まるという考え方です(嘘です)。「未来は自分の意思で作れる」という信条とは、一見おおきくかけ離れています。この因果論で見ているかぎり、脳や心が、ただの理屈に応じて働く機械に思えるのは当然ではないでしょうか。

もちろん、僕は自由意志があると信じているので、心をこのように見ること自体が反対です。そして実はこの自由意志の問題は、もう一つ根源的な問題を含んでいます。「それは自分と言うものが、そもそも存在するか」と言う問題です。

要するにここまでの部分ですと、脳はただの機械です。意思決定には判断基準があり、基準がある時点で自由ではないし、環境と言う外部にあるうちは決して、他者からすらも自由ではないからです。

 

5.自分は存在するか?

ここで、僕たちのルーツ、アジアに視点を移します。というのはアジアの宗教は伝統的に自己の心に重心を置いていて、その心理学を発達させてきたからです(西洋では無意識はフロイトが19世紀に発見したのに対し、東洋では紀元前から当然のものだった)。

宗教はいかにも怪しいと思う人はカルトに毒されています。古臭い、父権的・権威主義的だと思う人はその気持ちわかりますが、そう思わせて、学ばせないでカルト搾取することが、生臭坊主どもの罠です。学べばいくらでも反論できるから、心が弱っている時でも、宗教にはまらなくて済みます。

5-1.インド思想 アートマンとブラフマン

別に記事を書こうと思っているので簡単に説明します。インド思想は「ブラフマンという大宇宙」と「その分身であるアートマンという小宇宙、個人の魂」があるという風に考えます。

「上の如く下も然り」というのは、西洋の錬金術の思想ですが、これと同じで、大宇宙と小宇宙である自分の魂は、繋がっていて、根源的には同じものだと考えます。

そして、人生で苦労が多いのは、カルマ「業、罪」をもっているからで、その罪を修行により取り除かないと何回でも輪廻転生して、その修行を続けなければならない、いつまでたっても、罪を背負ったアートマンは、ブラフマンの元に帰れない。そう考えます。

「で、だから?」と言う感じですが、ここで重要なことは、「人にはそれぞれ、固定した自己の本質、魂がある」ということです。カーストは魂の清浄さで決まるというわけです。

5-2.「自分」を否定した仏教思想

インドのカースト制度はやばいです。どれくらいやばいか、もうやばいです。だからこんなやばい差別をなくさなければならないと考える人がいるのは当然です。お釈迦様もその一人でした(ほんまかいな)。

仏教では、輪廻転生と差別の思想に対して、「いや固定した自分、アートマンなんて存在しませんよ、だから誰の魂にも罪はないし、生まれながらの身分の差、差別は何の正当性もないです。」と言ったのです。

仏教は、歴史的に色々な宗派があるのですが、今回は原始的な物について、説明します。何故自分と言うものがないのか? それはこの世の物全てが「縁起」でつながっているからです。

たとえば、自分が生まれたのは、両親のおかげであり、その両親はまたその両親のおかげであり、また自分が生きていけるのも、他の生き物のおかげである。

自分が、今考えていることも、例えば宗教にかんしても、過去の人々の積み重ねがなければ、まったく違う物になっていた。そして自分の性格だって、過去から受け継いできたものだ。人との出会いで、自分という物はいい意味でも、悪い意味でも変わる。その時の置かれた状況でも変わる。

人はなぜ自分に固執して苦しむのか? それは、自分と自分の地位等の持ち物を混同しているからだ。職業は自分ではない、カネも自分ではない。振り返れば、自分も、大きな歴史の流れの中で、存在する流動的な物に過ぎない。全ての出来事が、因果でつながっている、固定した自分というものはまやかしである。

世界は個別の事物に分かれてはおらず、本質的に一つである。皆から独立した自分があると言うこのまやかしの認識を抜ける事こそが、心の迷いという、輪廻転生の輪から抜け出る唯一の方法である。

 

わかりにくい場合は、こちらの記事を見てください。また「唯識論」という、仏教の心理学についてもこのあとで取り上げます。そこでもう少し深く触れますが、ここで大切なことは、仏教には、結構世界を物質的にとらえる見方があるということです。

仏教で言う「空」とは、世界は全てが一つであり、物がバラバラに分かれている、自分と言う存在がいるというのは、まやかしだということです。自分がないなんて、気に入らないと考える人もいると思いますが、仏教が差別と抑圧に抵抗する運動の一環だったことを忘れないでください。

空は空虚ではなく、世界は一つの実態でああるという意味。

 

そして今回は、原始仏教の唯物的な解釈によりに、自分というものの正体を考えていきたいと思います。あくまで僕はアートマンたる自分というものがあると主張しますが、それは今回では無視、というよりもそのグレーゾーンを見つけていくという感じですかね。今のところ、自分がないという方に傾きました。

 

6.大脳=自分と言う視点

逆に、自分という物があるのなら、それはどこにあるのか?それについて考察します。

6-1.前頭葉の自己コントロールと言う視点

これは、人は無意識や脳の提案を拒否することが出来るという視点です。その際には、前頭葉がそれを司り、ある意味では、一部の人達がいっているだけだと思いますが。この前頭葉こそが自我、意思なのだという視点でもあります。

6-2.精神病者の盲点

これは補足的な話ですが、よくある話で、精神病で悩んでいる人が、お薬を飲んだり、脳に電極を埋め込むと、気分とか性格が変わってしまい。良い気分な反面、以下のようなことを考えるといいます。

「散々悩み苦しんだ症状が、物理的な処置で簡単に消えてしまった、俺の意思ではどうしてもかえられなかったのに、俺には自由な意思はないのか、人間の意思は所詮脳内物質できまるのか、自由意志は幻想なのだ。心はただの電気信号でしかないのだ」

これで自分の意思がないというのは、完全な盲点ですね。気が付かないのも無理はないですが、実は僕は大学時代、一時期鬱になって、心療内科にかよって同じ経験をしたので、その時わかりましたが、それはある意味偶然ですね。もう薬を飲むとすごくハッピーな気分になります。どれくらいかと言うと、嫌いで殺してやりたいくらいの人が、好きになってしまったんです。

「そう考えている自分の意思はある」という点を見過ごしています。自分が薬で変わってしまった、ということを冷静に判断している自分がいるわけです。

人生の目的は快楽だという人は、ぜひ精神科のお薬を飲んでみてください。とても良い気持ちになります。いえお酒でいいですね。でもお酒で気持ちよくなっている人みんな幸せですか?

6-3.自我のメタ認知

メタ認知とは、より高い位置からの認知だということです。

空腹とダイエットを例にとります。

①お腹がすいたという、肉体的状況と感情や無意識があります。
②それにたいして、ダイエットをしないといけないと思い、我慢して、感情や肉体を、叱咤激励したり、ああ今カレーのCMやっていたから、無意識がそれに反応したんだなというような、冷静な分析をしたりします。

冷静と情熱の間的な話ですね。そしてこの上がメタ認知です。

③メタ認知では、自分の今の感情的ムードそのもの、判断の背景となる知識そのものを疑います。たとえば、自分が今ダイエットしたいのは、友人のBにデブって言われたからとか、しかしBMIで考えたら別にデブではない、いやBMIってただしいのか、そもそも今色々な物事を判断する基準が、ある種の気分、ムードに左右されていないか、そうか今は冷静に考えている気がしているが、じつは特有のマイナス思考に囚われている、そのムードを立木ならなくてはいけないのだ。そういう風に、自分の無意識&意識をさらに外から観察するのがメタ認知です。つまり自分の分析の枠組みそのものを疑うわけです。

精神病の例えですと、「自分の心が、薬で変わってしまった、自由意志なんて幻想ではないか」そう考えている自分、それに疑問を持つ自分が、がメタ認知の自分だということです。

そこで、このメタ認知能力に優れるひとは、自分の感情や無意識に、①や②だけの場合より、より依存しないで、自己コントロールが出来ます。そのように無意識や肉体を統制されるべき客体と見た場合、それを統制する主体としての自分として、このようなメタ認知能力を備えた自我を想定できるとい思います。

もちろん、甘やかされていない大人にはこんなことは、当たり前です(僕はクソ甘えて生きていますが、)。そしてこういう判断をするのが大脳(主に前頭葉)だと言われています。

よって、自分=自我意識=脳だという想定も出来なくはありません。しかしこの場合、あくまで自分は判断する主体でしかなく、その判断そのものは、基準や目的(社会的であろうと、自分自身の無意識や本能の欲望であろうと)に依存しているため、自由意思とは呼べない気がします。少なくとも初めの定義では、⑤の肉体的に拘束されない程度にしか当てはまる気がしません。

はたして、人間には、他の基準に惑わされないで、個人として、真に自由な意思を行使するということはできないものでしょうか?

はい、之にはトリックがあります。自分=自我意識=脳であり、その他は全て外部の物だと考えれば、必然的に、自由意志はなくなります。なぜなら、自分の体や無意識も自分自身だという点を見逃しているからです。

無意識も自分の一部だということで、次は心理学の観点から自分という物を考えていきたいと思います。

ていうか、「個人の自由意思」から、前提となる「自分」についての話に内容がシフトしている(笑)

 

 

7.心理学的考察

ここでは脳ではなく、心理学に移りますが、こちらも後でフロイトから順を追って、記事を書く予定なので、さらりと流します。自分とは、自分の心とはなにかという問題です。

7-1.意識と無意識の関係

人間の心を分析する方法として、精神分析、心理学があります。西洋では精神病者の治療のために、フロイト等から始まったものです。心は顕在意識と無意識に大別でき、顕在意識は我々が普段感じている意識、無意識は自分では中々自覚出来ないけれど、心の中に隠されているもの。

たとえば、それまでの人生で心の内部にたまった情報、精神的な葛藤、かなりわがまま自分勝手な欲望等です。

フロイトは、精神病は、無意識の願望(性的なもの等)やトラウマ(虐待等)が、意識に抑圧されている結果(意図的に封印している)だとして、無意識と意識の葛藤を解消するためには、無意識の願望を、意識がきちんと認めることが大切だと考えました。

そのための方法としては、催眠導入により意識の閾域をさげて、無意識の本音を聞く催眠法。催眠を用いなくても、自由に人に思いつくことを連想してもらって、それにより本心を見極める自由連想法。夢が無意識の願望充足の表れだとして、夢を分析する夢診断等があります。

フロイトの心理モデル。イドが本能的欲望、超自我は幼少期に叩き込まれた社会的なルール等。無意識には幼少の願望等、意識に現れては不都合な物が眠っている。そのため顕在意識(自我と超自我)が無意識(自我とイド)を抑圧する。

7-2.無意識は連想により働く

フロイトは、無意識が言語や観念連想的に働くと考えました。この連想というものについて、やはり僕はここであえて深くは触れません。これは悪用することもできるからです。

しかし全く触れないと、話にならないので簡単に触れます。観念連想についてです。もしメタ認知で、前頭葉で、自我で、人間が肉体や無意識の提案を判断できるとして、その無意識や肉体欲求はどこからくるでしょうか?どういう仕組みでしょうか?

 

肉体は、食欲とか簡単に説明出来ます(たぶんそんな簡単じゃないきがする)。無意識は、どうかというと、これは、過去に自分や先祖が得た情報の集合です。個人的な無意識は、例えば幼少期の体験、過去のトラウマ、昨日のニュース、様々な事で構成されます。

一方、先祖の無意識とは、ユング倫理学でいう元型という、ある種の無意識の表現の型や、自分に遺伝した性格的特徴が当てはまると思います。たとえば、人間がゴキブリを怖がるのは、はるか昔ゴキブリが巨大で、人間の先祖の哺乳類はねずみで、その時に捕食されていた名残ではないでしょうか。それは本当かはしりませんが、そういう本能も含んでいるということです。

そして、この無意識と言うのも、構造的に把握することが可能です。意識よりはふわふわしたものだと思いますが。というよりも、ここが構造的でないと、たぶん会話すらままならないでしょう。

 

たとえばBさんは、昼にカレーが無性に食べたくなりました。Bさんは普段特別にカレーが好きというわけではないのですが。Bさんはどうしてかと、理由を探ります。すると最近テレビでよくカレーのCMをやっていたり、たまたまカレーに関する情報を多くえていたことを思いだします。

しかし、それだけで、カレーを食べたくなるかな? ああそうか、さっきの取引先の人インド人だ。そういえば、隣のデスクの彼女と昨日飲んだ時、彼氏にふられて、彼、彼と、いって泣いていたな。ちょうど昼時で腹が減って、そうか、その一連の連想で、カレーが焼き付いてしまったのか。

カレーの旨そうな情報×インド人との会話×彼、彼(カレー)と嘆き女性×昼時の空腹=カレーが食べたいという無意識

無意識は、情報の貯蔵庫で、しかも構造的です。ニューロンのシナプス結合を取り上げると、ここの情報が、結合して思考となっていることがわかります。そしてその結合には、関連していそうなものを結びつけるという、パターンがあるのです。

精神分析では、無意識も自分だと考えるので、この点では、顕在意識だけを自分だと言いきるよりは、考え方が広いです。

 

7-3.仏教の唯識論の自分

唯識論は、3世紀ごろに造られた仏教の心理学です。フロイトが19世紀の人なのを考えると、人の心の内面に対する探究心は、東洋の方が先んじていたことがわかります。

仏教では、「空」、つまり個人の私というものは、ないのだという認識に到達することを目的としていて、人間の認識を3つに分けています。

 

 

上が、空の思想で全てが一体であるという認識で、これを完全に会得した上で、かつ、その他の認識も持ち合わせた人が悟った人です。つまり全体を見る視点を持ちながら、一人一人も大切にできる人だということです。

右は、すべてがつながり存在するという、縁起の認識。これを持つ人は、自分の成果をおごることもなく、全ての人に感謝するし、逆に悪を憎んでも、人自体は許す精神性をもちます。ただし、慈悲に偏りすぎて、ときに骨抜きになってしまう可能性があります。

左は、一人一人が独立して存在するという認識です。個人主義で、自己責任論者だったり、好き嫌いで判断したり、競争心が強かったり、一見すると厳しさを取り越して、自分勝手で、良い部分がないようにも思えます。しかし、一人一人を大切にする、自分の責任を自覚する等、色々なものの個別の美しさを認識する等、非常に大切な認識でもあります。自分を自分だと認識できるのもこの認識のためです。

 

凡夫は、左の個別の認識しか持たないのに対し、悟った者は、1者、空の視点から、この3つの見方をすべて出来る。つまり、自分が全体でもあり、個別であもあり、繋がっているものであもある。そういう見方を出来るのです。この考え方は、西洋の物より合理的です。

このうち、今回はあくまで、個別の自分、その自由意志について考えてたいのですが、唯識ではどのようなとらえ方をするのか見てみます。

 

唯識における、個人の心理モデル。

 

アーラヤ識

過去から集積された無意識の貯蔵庫です。例えば、個人レベルだと、思い出、トラウマ、学習したこと。先祖レベルでは、DNA,性格等。人類レベルでは本能や、空間・時間等ものの認識の仕方等。

唯識では、これらを土であり種だと考えます。この土や種を育てたり、選別したり、入れ替えることで、人は悟ることが出来るという思想です。

たとえば怒りっぽいDNAを受け継いだ人も、それを発芽させなかったり、入変化させたり、育て方を工夫すればいいのであり、DNAで人生の全てはきまらないということも、もうこの時代から言われてきたことなのです。DNAはあくまで種に過ぎない。

マナ識

自分と言う独立したものが、存在する。外界の物も全て独立して存在するという見方、これがマナ識の機能です。ようするに、自分という物があると思うのは、人間の認識の方法がそうあるだけで、世界はそのようにはない、そう考えます。

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ここから余談。飛ばしてOK

このうち、論理的・縁起的な見方が男性的で優れており、個別を分別するマナ識の動きは、自己中心的で女性的で、これは劣ったものだという認識をする場合があります。このマナ識、個別の認識を低いものだと断じてしまうところが、仏教が論理的ゆえに陥った欠落でもあります。

「上の如く下も然り」本来は自分が自分であるという感覚が、全体性の悟りにつながるのではないかと僕は思います。だから僕は複雑な無意識が、意識より新しい、合理性よりも感情の方が新しい、結合と言う認識より、個別と言う認識の方が新しい、男より、女の方が実は新しいのだ、とそういうわけです。人を個別に見ることがなければ、深い愛もないわけだ。まあ逆は憎しみだけどね。

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7ー4.心理学は科学に非ず、人生をテーマのした学問

フロイトやラカン(パリフロイト学派の重鎮)の心理学の根底には、エディプスコンプレックスという物があり、このながれの心理学では、性別や家族の関係、肉体的な要素も重要視します。エディプスこのプレックスについては、また今度詳しく触れますが、これはいわゆる父殺しの神話です。フロイトの流れの心理学は、本質的には、心の治療のためにあるのではなく、人生を生きるために、そして社会を改良していくためにあります。

「病的な不幸を、当たり前の不幸に」

「私はやってきたところに戻らなければならい」

前者はフロイトの後者はラカンの信条です。自分の意識や無意識、つまり器としての自分だけを自分だというのではなく、その器に入ったものも含めて、自分の人生=自分だと受けとめて、その上で、それを変えていく。そしてその先には、社会改良などの取り組みがある。

これは、仏教の唯識も同じです。唯識も知識を得るだけでは、悟りにはつながらず、座禅や他者への施し等の実践により、無意識に良い種を植えていく。そういう実践的な取り組みです。

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ここはえぐい話なので、とばすこと奨励

父王がかけられた呪いにより、将来父を殺すと予言された子供、呪われしエディプスは、捨てられる。

成長したエディプスは、スフィンクスの謎を解くほどの知恵と勇気を持つ青年になる(はじめは4本、次は2本、最後は3本 これは何? 答えは人間)

しかし、エディプスはそうと知らず、父を殺してしまう。そして知らずに母親と結婚して、父の王国を統治することになる。

そのうちに、国が原因不明のまま荒廃していく。盲目の預言者にその理由を尋ねる。

預言者は、言い渋るが、エディプスの父殺しのせいだと白状する。エディプスは両目をくりぬいて、森の中に消えていく。

 

心理学の分野では、人の精神を神話や物語から読み取る取り組みあがあります。得意ユングや日本だと河合隼雄先生とか。その始祖であるフロイトは子供と両親の関係をこのエディプスの神話に見出し、そして例えました。

子供は、はじめ母親と自分を重ねます。赤ん坊が泣きわめくのをやめて、笑うのは母親のため。しかし自分が母親の唯一の欲望の対象でないと悟る時が来ます。父親と言う競合相手を見出からです。

父と言う第三者の登場により、母と子だけの楽園は消失します。そして子供は母親を不完全なものとみなし、また逆に父親からの罰、去勢を恐れて、今度は父親のほうに自分を同化させようとします。

「いやこんな、神話で心理を語られても何の正当性もないじゃん」「さすがにえぐすぎて引くわ」「お母さんと言う神聖な存在をそういう欲望の世界に巻き込むなよ、最低、人間失格!」そう思うのがふつう。僕だってこんな内容は書きたくない。実際に最低な話だと思う。しかしこのエディプスコンプレックスにはいくつかの意味が重なっています。

①人間の欲望と抑圧のモデルの例え。

②人が成長していく中での両親との関係。

③神話や昔話を人の精神を表す物語だと解釈する視点。

④人は、言葉により語るが、その真実は語れないことであるという信条、人生を生きる上での思想

 

①と②について解説すると、フロイトは。男の子は母親から独立して、父親を目標に目指すために、成長する。それにたいし、女の子は、母と言う目標をなくし、父親を目標にもできないので、あまり成長しないという風に、考えていて、まあ差別的だと言われています。

ラカンはこの点、男の子は、不可避的に母と別れて、父親と自分を同一視する運命しかないのに対し、女の子は、逆に縛られる目標がないから、自由に自分を表現していけるのだと、そう逆転して考えています。③については省略。

④については、エディプスは、スフィンクスの謎を形だけは解けたが、自身の謎を解くことは出来なかった。意識や無意識は言語構造をもつが、その先には言葉で表せない領域が存在する。言葉でなんでもわかるというのは思い上がりで、真実を見失う。だから盲目の預言者にだけが真実を知ることができたのだ。

エディプスも真実を見るために、自らの目を貫いた(比喩ですよ)。精神分析は、その見えない心や人生に到達するための生きた取組みだということです。

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7-5.自分=器=人生であり。それを変えられる。

ここまでの西洋心理学と東洋心理学に共通することとして、心という物を、構造的に考えて、とくに無意識を構造を持った貯蔵庫と考えて、意識から働きかけること、又は肉体から働きかける事で、それを変革できるのだということがあります。

心理学では、心は変わらないものではなく、一種の器だと考えるわけです。その際に西洋では、心=自分という一点が中心にとらえられがちで、唯識論では、その他に縁起や空についてみる分、深いようにも思えますが、これは唯識が先んじていたということです。

西洋の心理学も、自分の人生を受け入れそして変えていく、という視点では十分考えています。アメリカ式の自我を強化する心理学ではその点は、あまり考慮されないようです。西洋心理学は、性差の問題等、特に社会運度の面では、より積極的な物だと言えると思います。

まとめると、東西の心理学では、

自分=肉体×意識×無意識=器(器の構造と内部)=人生だと考えます。

自我が自分なのではなく、脳が自分なのでもない。理性的に心や社会の構造を理解したうえで、不幸な人生でも、それ自身を=自分だと思って、切実に且つ広い心で生きることが大切だということです。

自分と自分の持ち物を分けて考える、分離的・論理的な思考、自分で自分の人生を引き受ける自己同一的・直感的な思考、どちらにも価値がある。どちらも実践できなければ悟りではない。

 

8.結論 自由意志ではなく監督意思

8ー1.「自分」とはなにか

ここまで、「自分」について考察していました。

①はじめに、脳の前頭葉、あるいは判断能力だけを主体として、他の無意識や肉体を客体とする立場を見ました。

②つぎに仏教の、「自分などない」と言う立場を見ましたが、この内部には、個別の自分という認識があることがわかりました。

③最後に、個別の自分の認識について、東西の心理学を参照しました。

自分=肉体×顕在意識×無意識=器(体験した出来事)=人生だという結論になりました。そしてそれは意識的に変革することが出来る。

以上をふまえ、今回は自分=人生としたうえで、その人生を変革する主体としては、無意識もそうですが、その無意識を監督する役割として、主に自我意識、前頭葉の判断能力、メタ認知能力が当てはまると考えます。

そして人生を充実させる。一つの方向に努力するためには、意識と無意識と肉体を分離して考えるより、一つの統一体として、協力する視点が必要です。心技体の統一という日本の教えはこれを意味します。

自分に起きたことは、ずべて自分なんだとそう受け入れて、かつ能動的に、自分の人生を作り上げていく姿勢です。それでこそ、自分の目標をやり遂げたときの充実感があると思います。

 

8ー2.自由意志ではなく「監督意思」

脳科学や心理学からみた自分についての定義をしたので、自由意志について考えます。この自分が他者の影響をうける自由でないものだとすると、必然的にその意思決定も自由ではなくなります。つまり脳科学や心理学の視点では、自由意思は存在しない。

僕は、人間が意思決定する際に働く判断力、その意思を、監督意思と名付けたいと思います。なぜなら、自我という上司は、は無意識や肉体が求めることを、検閲して、それにより決断するだけでなく、その部下である無意識や肉体を、意図的に鍛えることもできるからです。しかし、その目的や基準を考えると、それは外界の環境、しいて言えば株主の要望に依存せざる負えない。自由ではない。

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書いたので消さずに取っておく枠、飛ばしてOK

しつこいですが、抽象的だとわかりにくいので、少しくわしく書きます。

実際の人生は、肉体、心、生きる技術の3つの三位一体で成り立っていると思います。意識だけを重視してそれを「確固たる自分本体」だと思い込み、他の部分を悪者にするならば、禁欲的を通り越して、自分で自分に恩知らずだと言えます。唯識も論理だけでは、どこまでも意識が主体で他の部分は客体です。それを避けるために座禅があるのです。

手足が自分の本体ではないので、理不尽に酷使して、けがをしても、それは低次元のしもべが怪我をしただけで、自分が怪我をしたわけではないと考える人もいるわけですね。ここまで見てきたように、人間は一人では生きていけません。無意識には、かならず外からきた情報がはいっています。そしてそれは心技体についても、おなじです。

心は、他者とのかかわりで育ち、技だって人から習います。体は、毎日ごはんを食べていれば、わかるはずです。実は意識・自我は、知識や論理と言う意味では技です(どちらかと言うと)。無意識がイチゼロで割り切れない心です(どちらかというと)。肉体はそのまま体です(どちらかというと)。

ここで一番重要なのは、意識を過信しないことです。無意識が原始的で、意識が先進的なのではない。むしろ生きている中で、最も新しいのが、無意識なのです。無意識をどう作るのか、どう指導するのかも、意識の役割です。

何がいいたいかと言うと、確固たる自分と言うのを、求めるのは、ある意味では不可能。、自由意志も存在しない。自分と自分の意思は、他人がかわって、常に変化しているから。自分は常に周りに影響を受けます。たとえ意識が監督であっても、社会や時代というオーナーには逆らえません。

しかしそれでも、自分という物を持ちたいならば、その監督は意識にもとめ、無意識や体と共同して、一つの統一体として、目的に進むことが大切だということです。たとえば、明晰な頭脳を持っていても、心がまずしかったり、体が衰えたりして、大したことができない、と言うことはあります。統一性を重視しなければ、良い自分は出来てきません。

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ここは、野球チーム、海物語マリンズのベンチ。得点は8回裏で相手チームが3点、こちらが1点。本来なら勝てない相手ではないのだが、最近、選手たちの連携が今ひとつであり、苦戦していました。

「きさまら、きちんと監督である俺様の命令をきけ! そうすればかてるんだ。きさまらの失敗が俺様の選手時代の輝かしい栄光に泥を塗るんだ」

「しかし、こいつが勝手な判断でサイン無視するからこうなったんですよ。あそこはリーチ確定だったのに。」

「なにいってんだ。俺の連荘打法に不可能はない。それよりお前のへたれプレイがムードを壊したんじゃないのか?」

選手と監督の統率はまるでとれておれず、観客からもヤジが飛びます。そしてとうとうオーナーから連絡が・・・・・圧力だ。

「監督、最近負けが混んでいるねえ。 この最強チームマリンズの名を地に落とすなんてねえ、いやいや気にしてないよ。僕やファンたちは、何度負けてもトライするチャレンジ精神があるからね。でもあんまり負けると、全国一千万人のマリンちゃんファンを敵に回すことになるから、やっぱり、次はないかもねえ。彼女の涙は銀魂色で、それを流させたやつは、万死に値する、せいぜい、は夜道に気を付けたまえ。それじゃあ ガチャ、ツー、ツー、ツー」

 

ふざけろ、銀魂の涙だと、そりゃそうさ、マリンちゃんの涙は俺だってみたくない。しかしな、その銀魂は俺の涙でもあるんだ。それをわかってくれよ畜生。 もうこんなふがいない選手には任せてはおけない、使えない手足どもめ。こうなったら、この伝説的プレイヤーの俺がみずからマウンドに立ってやる!

 

気が付けば9回裏。満塁サヨナラのチャンス

「選手交代のお知らせです、これは、バッターまさかの監督です」

監督自らがマウンドに降り立つ。選手時代打率5割という異次元の強打者、彼は奇跡をこせるのか!いざ勝負の時。

三振、圧倒的三振!

「なぜだあ、この俺様が・・・・・こんなはずがない、そうだこれは夢なんだ、朝起きたら、きっと俺はまだ現役選手で、年俸は3億円で・・・・」

 

「ひっこめーおやじー、三段バラで打てるわけがないだろう―。」「金返せー」

ヤジは辛らつだ。監督は選手を引退してから、鍛えてなどいない、つまりすっかり中年太りしてからがなまっていたのだ。それではいくら天才でも限界がある。しかし彼の認識は選手時代でとまっていたのだ。

「もう絶望だ、失態は新聞にもかかれ、テレビでも叩かれ、俺は球界を永久追放されるんだ。いやこれはやはり夢だ。そうだ起きると、僕は布団に入っていて・・・・・」

 

その時、相手チームの菊池投手が近づいてきた。

「野球とは、監督だけでは勝てない。選手と監督とファンとマウンド、一つになって、はじめて、意味をなすんだ。監督は確かにリーダーだ。でも実際の野球の主役は選手自身なんだ。ファンがいなければ俺達は誰に見てもらえばいい。それにマウンドやグローブ等の野球道具がなければ、野球をプレイする事すら出来ない。監督だけが偉いと思こんだことがあんたの敗因だ。顔を洗って出直してくるんだな」

「もう遅い。所詮監督なんて、オーナーには勝てないんだよ。おれは首だ。俺は勝たなきゃらなかったんだ。監督がなんでも自由に決められるなんて嘘だ、だって、勝たなきゃならないんだから。オーナーと言う、巨大な存在のまえでは、俺は大海に乗り出す、アヒルボート程度の存在でしかない。しかしみんなその苦労はわかってはくれないだろう」

「だったら、そのオーナーに挑めばいい。いやオーナーだって、マリンズの仲間のはずだ。俺はあんたのこともマウンドの仲間だと思っている。いつまでも待っているぜ」

 

数日後、監督は脱退した。しかし、彼はあきらめてはいなかった。彼は球界に復帰するだろう、より大きな存在になって。そして新しくマリンズの監督になった、サムと熱戦を繰り広げるのは、また別の話である

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ななんだこれ・・・・・・・・・・

ここでは、オーナーが、世界そのもの、環境、社会や時代の影響、監督が自我意識、選手たちが無意識、グランンドや観客が体として例えています。自我がいくら優秀でも、それだけで存在するわけではなく、ようは一体感が大切、それが自分であり、それらは変わりうる。そして、その変わりうるから、自分がないのではなく、自分と言うのもが、世界により規定され、完全に自由でなくても、心技体の統一体として、それを統御し、自分から世界に働きかけて、世界を変える、なにか目標を達成するその達成感を味わえるのだと言うことです。

 

 

9.自由意志肯定派VS否定派

パペットマペット! お人形遊びがはじまるよー

9-1.論点整理

【自由意思肯定派】

①理屈はわからないけれど、自由意志がある(自由意志2⑥)。
②自由意志≒監督意思(判断力)がある。

【自由意志否定派】

③第一動因で全てが決まる。(運命論)。
④人間は、目的と法則に支配される機械(機械論)。
⑤人間は無意識で物事を決定するため、意識は幻想(意識後追い説)。
⑥人生は生まれた環境や才能で決まる運ゲー(自分からの自由はない論)。
⑦判断力や努力も能力なので、それが得られるかは、才能や環境により決まるので、それは運しだい(⑥の続き、広義の運命論)

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⑥と⑦の例(以下次の太字まで飛ばしてもOK)

「自分が馬鹿なのは、DNAと環境のせい。勉強はすれば伸びるかもしれないが、元の能力が低いのでたかが知れている。顔も不細工で異性にもてない。運動もからきしで、特に握力は低いし、球技に適応するほどのコントロールもない。それだと勝ち組ではないから、ハーレムも無理だし、人にマウントとることも不可能、負け組か、普通では、勝ち組に虐げられる人生しかない。いや俺の能力では普通も無理なんだ。絶望だ。

環境は、両親は中卒で、しかも暴力家庭だ。理由もないのに、いや顔がキモイと言う理由があったかも、いじめられた(欠点があればいじめても当然らしい)。

このような環境で育ったせいで、自分の心はネガティブで、それを克服するのに、また一定の判断力をみにつけるにも多大な時間を要した。いまはもう40台だ。これから、何かを頑張ろうと思っても、伸びしろもないし、世間も認めてくれない。

そもそも、自分は何で生きているのだろう。ただ運により生まれてきただけで、望んで生まれたわけでもないし、どうせ死ぬだけだ。目的は金稼ぎくらいか。ああ、こういうネガティブな考え方がだめなんだ。でもこれに注意しないと、すぐに陥ってしまうのだ。幼少期から、ずっとそういう風に、植え付けられてきたのだから。もしくは性格かもしれない。」

長いよ、気持ち悪いよ、すごいネガティブ!

なんか、お人形遊びごめんなさい。これは僕の10代の時の思考とあとはその他の思考、色々設定を混ぜてます。ようするに僕はあまり才能がないのに、英雄思想の持ち主なんです。思考のアレさはそれなりに当てはまるけど、僕はイケメンだし、まだ30代前半の若者だし、大学教授の息子なので、虐待もされていませんし、気に障ったら、本当に申し訳ない。

この章自体、きちんと書くと、かなりの量になるので、今回は縮小版でお送りします。

上で言いたいことは、ネガティブな人って、ある種のムードで生きていて、広い視野がモテないんですよね。しかもそれが自分の判断の故かと言われると、ぶっちゃけ、性格と育ちのせいだと思います。もちろん上の思考には、感謝と言う心がすり抜けていますし、愛もありません、ハーレムとか異性をステータスとしてしか見ていない感じが、ガチでキモイです。まじで、勝ち組、負け組とか、そんな観念でしか、世界を見れていない。

こういう英雄思想と言うのは、ニーチェとか、ドストエフスキーのラスコーリ二コフとか、結構いつの時代もありふれているようです。もちろん、情報化社会の影響は大きいでしょうが、どうにも元々の性格か、育った環境か、そういう思想がしみついてしまっている人間が、特に男にはいるようです(僕の場合は、色々な人に愛や信頼や勇気を教えてもらったので、完全に染まらずにはすんだんですけれど、でも言い訳はできない)

本当は、もっと論理的に書こうかと思いましたけど、否定派はネガティブなので、もし書けば悪口になる。だったら自分の心から迫らないと不公平だと思った次第で、まあそのかわり、自分の恥をさらすというのは、自分が尊敬している人達の評価にも関わりそうで、後ろめたいんですけれど(どれだけ自意識過剰)。

 

結局のところ、否定派のいう、自由意思がないというのは、以下のようなものだと思います。

Ⅰ.どういう能力や性格が割り振られるかの問題。そもそも、⑤自分からの自由がないから。つまり、チーターみたいな能力じゃなくて、普通でも無くて、ガチャで負け組のステータスを引かされて、その低い能力、残念な性格を持たされているから。つまり性格も能力。だから自由なんてない。

Ⅱ.全て能力の問題。判断力でより良い行動が出来るとしても、その判断力の取得過程自体が、運により左右されるから。つまり運ゲー

 

9-2.自己独立性と自己結合性

上の話は、ようするに、自分の人生を自分の物だとして受け入れられない人にとっては、なにも自由ではないということです。自由意志肯定派の人は、自分の人生をきちんと受け入れたうえで、前に進んでいるからこそ、自由意志否定派の人にイラつくのかもしれません。

ここでいう、自己独立性とは、心理学のところでとりあげたように、自己を遠くから眺める視点や論理的に解釈する視点です。

自己結合性とは、自分の人生=自分だと思って、それに取り組む覚悟、そして自分が自分と重なるまさに生きているリアルな感覚です。

 

9-3.人生=障害物レースの比喩

Aさんのコースには、はじめに跳び箱5段がありました。Aさんは飛び箱がやや苦手で、これをクリアしたら、特別にご褒美としてテレビゲームを買ってもらえる約束になっています。

ゴールでは、仲睦まじい両親が手を振り待っています。まわりの声援も聞こえます。Aさんははつらつと、跳び箱を何回か失敗した後で、クリアしました。

Aさんは、両親から努力することが大切だと教えられていたので、1位にはこだわっていません。仲間と仲良く生活すること、努力することが人生の価値だと考えているので、順位にはそれほどにはこだわっていませんでした。しかし、それでももちろん、負けず嫌いなので、上意を目指します。

 

Bさんのレーンの前には、跳び箱15段が聳え立っていました。いきなりこれかよ。そしてBさんも飛び箱が苦手ですが、別にご褒美はもらえません。ゴールにはだれも待っていません。両親は貧乏で仲が悪く、家では虐待されています。

Aさんは、幼いころから、いじめられていたので、なんとしても、1位にならないと、いじめられると思い込んでいます。ですが、目の前の跳び箱が無理ゲーすぎて、何度もチャレンジした挙句結局試合放棄して、その場に座り込んでしまいました。

前を見るとAさんたち初めに楽な課題を成し遂げ自信をつけた人たちが、その流れにのり、どんどん難しい課題をクリアしています。まわりのヤジが聞こえます。試合放棄した卑怯者を詰る声ですが、どこか楽しげです。

コースの長さと位置:人生の時系列
跳び箱:人生の序盤で与えられる課題。段数はその難易度。
ゴールの順位:個人が抱く目標の大きさ
両親:性格をつくるDNAや環境
ご褒美:目先の報酬
声援やヤジ:周りの友達や先生の評価

これはあくまでたとえ話です。しかしこう見ると、皆同じ状況等ないことがわかります。たとえば、恵まれていないとふてくされる人に対して、「貧乏な国の人はもっと苦しんでいる」というアドバイスをする人がいますが、これは目の前の人を見ないで、一般化しているだけです。一人のリアルな人間が生きるということは様々な要素に支えられてのことです。

極論言えばAさんが、Bさんを怠け者とか、自分の人生を受け入れない弱虫だとののしったら、(しかもアフリカの子どもとかを引き合いに出して)それはもう傲慢そのものです。

自己の人生を受け入れている、自己同一性が高い人は、同時に恵まれているかもしれない、受け入れられて当たり前、という話でした。

 

9-4.能力や性格は運で決まるか?

結論運です。

監督意思の中核は、前頭葉の判断力ですが、この意識の機能としてメタ認知が正常に出来ればと言う話なので、それを当然持っているひとからすれば、判断力≒自由意志はあるのが当然だということだと、思います(自由じゃないけどね)。

しかし、何らかのトラブルでこれが十分に育たない人と言うのは、存在します。たとえば、いじめを受けた子供は、将来にわたっても、前頭葉が委縮してしまい、その能力は低下してしまいます。いじめを受けた子供は衝動が抑えられず、ふとりやすいそうです。また虐待等もこれにあてはまります。発達障害でいじめを受けたらダブルパンチか。

その他には、十分な教育が受けられない例、そもそも本能や感情の面が強くて、遺伝的に理性的ではない人等も考えられます。

ようするに、判断力は、能力のひとつなので、環境や遺伝子によって、優劣が生じるのであり、それは時に致命的に毀損されてしまうということです。

そして、いわゆる普通の人の間でも、この判断力は、能力ですから、当然差があります。ですから、監督意思は、ある・ないのほかに、度合の問題でもあります。つまりなんかごちゃごちゃ書いてきましたが、判断力は経験と遺伝により決まるので、理性的じゃない人は、今の社会では、その分自由意思がないとみなされるわけです。偏見ですね。そしてそれを支えているのが、自分が存在するという意識だということです。そして他人の心は見えないので、自分を当てはめて、自分より能力のない人を、批判する時に、個人の努力の問題にしてしまうということです。

 

「いやいや、現代日本で、普通に育てばそれなりの能力はあるでしょ。虐待とかは特例で、多くの日本人は、それなりの生活をしているのだから。こういう文句言っているやつは虐待とかの被害者ではなくて、ただ甘えて育ったカスだろうな。普通にのうのうと怠惰な生活をして、負け組になったからって、嫉妬して自明の感覚である、自由意志すら否定するとか、自分のみじめさの巻き添えのためだけに、人間をロボット扱いしやがって、しかも虐待の被害者までも利用して、まじで腐ってる。甘えんなカス!死んでください。」

上は本当に正論ですねえ。以下のやり口が卑怯なのを承知でグラフをのせます。

 

報告されている虐待だけで20万、いじめや、過重労働、機能不全家庭、突然の不幸、その他等も合わせると、一体どれくらいの人が傷ついているのか、みんな弱い存在ではないんですかね。

人を責める人は、「みんな同じ」だと本当に思っているわけだ。さすが頭よくて、根性もあって、ちがうなー。

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以下、太字まで飛ばしてOK

まるで、災害にあってもトラウマになる人と、ならない人がいるから、トラウマはやりたくないことから逃げるための言い訳、みんな同じ目に合っているのだから、トラウマになるのはおかしと喧伝している、どこぞのインチキ流アドラー心理学みたいですね。

アドラー心理学では、ライフスタイル論というものがあります。

①自分はどういう人間か
②世界・他者はどういう存在か(敵か味方か)
③自分はどういう風にきるべきか

これがライフスタイルで、これは少年期に一度決めて、以降その枠組みをとおして世界を見るため、体験が変わっても、同じような認識をしてしまうという物です。アドラーは、①自分は有能である。②他者は味方である。③他者に貢献することが私の生きがいである。というライフスタイルを正しいものだと主張しており、自己中心的にふるまったり、他者を敵視したりするライフスタイルを、親身な勇気付けにより、変革すること、それにより世の中を浴する事を、心理学の役割だと規定しました。

アドラーは、正義感にあふれる、すごく立派な人だったようです。僕も影響を受けていますし、ライフスタイル論は大いに参考になります。しかし、日本だと出版社がうらんがために、一面的な理解をひろめているようです。

一面的に読むと、アドラーの理論は、優等生が劣等性を勇気付ける際の理論です。彼は性格なんてものはなく、認識が間違っているだけ、それを変えればいいのだ、とそう考えます。

逆に、ライフスタイルを個人が決定する際には、環境要因もあるが、自己責任だとしていて、日本人には人気があります。たとえば、虐待されて、いじめられて、そういう幼少期をへて、②他者は敵であるという認識を身に着けたとして、これは本人のせいらしいです。立派ですね。

今例の統一教会の問題が話題になっていますが、その統一の洗脳により、判断力をうしなった人が、自分の意思で献金しているから本人の勝手だとか、本気で言っている人がいるらしいです。あと統一に選挙の支援をしてもらっていたのに、統一がやばい組織だとは知らなかったとか、賢くて世間について海千山千の知識を持っているはずの政治家先生がのたまっているとか。

結局、中学生のスクールカーストみたいやね。優等生は知らんぷりで自分だけ綺麗な世界にいて理想論をはく。わるいやつらは、自分より弱そうな奴をカモにしてイキる。普通のランクの人間は、自分がいじめの対象にならないように、みて見ぬふりをしたり、優等生や、悪いやつらの太鼓持ちをする。カースト底辺の弱者は、いじめられたりする。日本人精神年齢13歳説も真実味を帯びてきたな。

みんな宗教が政治とずぶずぶなんでしってるし、権力者が正義せないこともしってるんじゃないの本当は。創価学会と公明の関係とか、共産の不破豪邸と貧乏一般党員の関係とか。ただ見て見ぬふりしているだけ。

保守的な、父権主義者の中には、権力者が秩序を維持してくれるおかげで、庶民が生活できるという人もいるが、それ自体は一定の正さはあるように思いえる。

しかし、父権主義に抵抗する勢力がいないと、つまり権力が暴走すると、良い方向に働かないということを無視しているのではないか。今の新自由主義の配分のまずさも、自民党の統一とのつながりも。3権分立なんて機能してない。

NPO等で人の役に立とうという人がいても、その費用の多くは持ち出しになり、政治活動も禁止されている。NPOは、父権主義に対抗する第三セクターとしての取り組みなのに、政府は経費節のために利用する事しか考えていない。

しかし、この僕の文章自体、宗教じみているし、特定の視点からしかかたれていない、ようは僕の観念でしかないのよね(しかも非常に偏見や断定に満ちた)。自分でそれをわかったうえで書いているけど、どうしても一人では狭い見解になりがちなのを自覚しないとね。

みんな自分の見識が狭いということを自覚していないし、優等生とか勝ち組の人、あとは性格の悪い人にそれが多いんじゃないかな。というと思いやりが足りないと怒られそうだ。

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ていうのは、言い過ぎかも。だって、本当に相手のことを思って、厳しいことをいう人だっているからね。むしろこう批判することも、相手の気持ちがわからないのを無視しているし。自分に厳しくすることも大切だし。

つまり、たぶん、色々な考え方がって、そのすべてに意味があるのだと思う。しかし、一つの考えたかに固執して、他を尊重できない姿勢が、時に不幸を生むし、逆に表面的な理解も解決に結びつかないということかもしれない。

自分を自分だと思う心を、僕は愚かだとか、悟っていないとか思わない。むしろそれは大切なことだと思う。自分と相手を重ねる心こそ共感性で、以下に理詰で物を考えても理論を作ってもそれは形だけにすぎないもの。でもそれだけにとらわれすぎて、人を馬鹿にするのは悲しい。もしかしたら、人を責める人は頑張って入るのでだけど、実は自分を大切に出来ていないのかもしれない。他人は自分の鏡だと思うから。

 

9-5.自分や自由意志はある意味では物語

あると思えばあるし、ないと思言えばない。自由意志があるともう人は、それを当然視しているし、ないと思う人には(どうやって正気を保っているのかわからないけれど)ない。そうなっているであはりませんか。現実があるとして、認識の仕方がいかに大切かと言うことですかね。

自由意志があると思っている人の方がポジティブな気はします。少なくとその人達は自分の状況を変えていけるのですから。

 

9-6.肯定派と否定派は和解できる

なんか否定派よりに書いていますが、僕は、自分の人生を自分で引き受けることは大切だと思います。

もし恵まれて、チーターみたいな能力をもっている人が、否定派を見下すのなら、それはクズだと思いますが、

それだって、じつはそのチーターも、色々な悩みがあって、それを理解しないで浅いことを言う人を、憎んでのことかもしれません。外見上恵まれていても、内面はすさんでいる人もいると思います。

もちろん、あきらかに、恵まれていない人生と言うのがあって、たとえば、運転中に、歩行者が信号無視をして飛び出して、引いてしまい、けっか人殺しになってしまった、単純に冤罪により長い間投獄されていた。というようなこともあるわけです。

どちらにせよ、これを自分の人生=自分だと受け入れろと言われても、正直無理です。その必要もないと思います。特に後者は検察側の犯罪です。

「神がいるとしたら、くそ野郎だ、贔屓しやがって」と思うのも当然です。

そしてこういう不幸をもし癒すことが出来るとしたら、それは完全には無理かもですけれど、「自分の人生を受け入れる勇気を持った、それでいて人の痛みをわかる人の心」のみだと思います。

これまで、自分の人生を受け入れられるのは、恵まれただけで人を見下すクズ、みたいな書き方をしましたが、実際に人を救えるのは、自分の人生を引き受けたうえで、人の痛みもわかる人、その心だと思います。恵まれない部分があっても、自分の人生を受け入れる覚悟、そして運命に負けない覚悟をもっている人を僕は尊敬します。それは愛と勇気があるからです。

自由意思肯定派の人に、お願いしたいのは、どうか、否定派の人を、馬鹿にしたり、見下すだけでなく、親身になってほしいということです。否定派は、苦しんでいます。否定派も戦っています。ただ否定派も肯定派が楽をしているのではないということから、目をそらさないほうがいい、想像力を持った方が良い。つまりともに、あいてを思いやることが大切で、それには知識と暖かい心、が必要で、そういう心が抜け落ちた社会では、争いはなくならないという、当たり前のことです。

 

10.おわりに

結論をまとめます。

①脳科学や心理学から検討した意思は自由意志ではなく「監督意思」
②「固定した自分がある」思うのは、一種の認識。
③自分=肉体×意識×無意識=器(内部の情報と構造)=人生
④無意識は情報の貯蔵庫。情報が外界からくる以上自由ではない。
⑤判断は意識で行うが、目的や無意識の情報、つまり外界の環境にさゆされるので自由ではない。
⑥自由意志の存在が否定されたわけではない(例アートマン)。

⑦肯定派と否定派の論点は、自分からの自由について
⑧肯定派は、自由意志を自明の前提にしているか、もしくは判断力=監督意思≒自由意志だと考えている(可能性がある)。またそれを基に、自分の人生=自分だと受け入れている人が多い(ように思いえる)。
⑨否定派は、自分の与えられたステータスがしょぼいので、それを自分だと受け入れていない。また、判断力についても、能力なので、それを取得するには運だと考えている。
⑩、そもそも、親も環境も能力も生まれる国も時代も、生まれる事すらも自分では選べないという主張は、⑨の意見を含んでいる。
⑪RAIMEIも、能力や環境は運だと考える。
⑫しかし、自分の人生を受け入れることは大切である。それは恵まれていなくとも愛と勇気を持つと言いうことである。
⑬特別すごい人を引き合いに出して、不幸な人を諭すのは合理的でない。
⑭人生には、様々な状況がある、肯定派も否定派も、自分の立場でしか考えていない点は同じ。
⑮自分と相手を重ねて考える共感能力、独立的な論理性、それを共に持つことが、人生を生きる上でも、人と分かりあう上でも大切。

⑯RAIMEIは自由意志の実在を信じており、今後も探していく。尊敬する人に誓って、言い訳ばかりしたくない。

 

以上です。今後も自由意思については探求していきます。かなり偉そうな文章で、独断的で、書き足りないところもあるし、恥ずかしいのですが、どこかで区切りをつけなければならないので、ここで終わります。

下に参考文献をのせておきます。ここまで長々と読んでいただいて、ありがとうございました。ではまたー

 

参考文献
・「フロイト著作集1精神分析入門」ジークムント・フロイト
懸田克躬  高橋義孝 訳
・「フロイト著作集2夢判断」ジークムント・フロイト
懸田克躬  高橋義孝 訳
・「ラカン入門」向井 雅明
・「ラカン、すべてに抗って」エリザベート・ルディネスコ
信友 建志 訳
・「現代思想の冒険者たち ラカン鏡像段階」福原泰平
・「自我と無意識の関係」カール・グスタフ・ユング
野田卓 訳
・「思想家河合隼雄」中沢新一 河合俊雄
・「アドラー人生を生き抜く心理学」岸見一郎
・「インド的思考」 前田専学
・「唯識のすすめ 仏教の深層心理学入門」 岡野守也
・「なぜ意思の力はあてにならないのか 自己コントロールの文化史」
ダニエル・アクスト 吉田利子 訳
・「神秘のカバラー」ダイアン・フォーチュン 大沼忠弘 訳

参考URL
・「WIRED 自由意志は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)」https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
・「日経ビジネス 心や意識の謎脳科学はここまで近づいた(川人光男インタビュー)」https://business.nikkei.com/atcl/interview/15/230078/092700104/?P=2
・「交通事故サポートセンター 高次脳機能障害の全て」https://secure01.red.shared-server.net/www.toshi-office.com/jiko-13-01nounoshikumi.htm
・「認定NPO法人3Keys」 https://3keys.jp/issue/a02/
・「医療法人悠悠会リハビリテーションセンターいそ」https://iso-clinic.jp/rehab/archives/529
・「日経gooday」 https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/16/070700034/071400003/?P=2

うん、脳科学の本全然読んでなかった。知ったかや。タイトル詐欺や。なんか専門家の人に怒られそうだけど、まあいいか。

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