「哲学考察」①人権思想の盲点 ②世襲政治の弊害 

 

 

こんにちはRAIMEIです。今回は、凄く疲れているので、あまり考え込まないでノリで書きました。①人権思想の盲点と、②世襲政治の弊害を、連続して取り上げます。

以下人権思想等を批判しますが、決して善意で活動なされている方々を誹謗中傷する意図はありません。どんなに素晴らしい思想や意図にも、盲点や欠点はあるのだと言いたいだけです。あと僕は別に専門家でもない素人です。

 

1.権利とは何か

1-1.デジタル大辞泉の定義

 

デジタル大辞泉より以下引用、一部見やすさのために編集。

「「①ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力。「邪魔する権利は誰にもない」「当然の権利」「権利を主張する」⇔義務。
②一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力。私権と公権とに分かれる。「店の権利を譲る」⇔義務。
③ 権勢と利益。」」

1-2.要約と記事内における定義

要約すると、以下のような感じでしょうか。

①自分がしたいことを主張したり実行したりできる能力
②法律上または社会的に認められた資格や約束
③権力・勢力により、主張・享受できる成果

例としては、①にのみ焦点を当てると、普通の健常者は、実行はともかく、自分の夢について、語る能力があるので、これのみに着目すると、権利を有していると言えます。しかし重度知的障害者の一部の人は、言語を発することが不可能なので、当然この権利を持ちません。なぜなら①において権利は能力だからです。

これでは、恵まれない人は困るので、②により自己主張できない人にも、法的に権利があるのだとしています。

③は固定観念や思想、権力により、主張・受益できるものです。①にも当てはまりますが、ある意味では強いもの勝ちと言うことです。昔は女性が夢を語っても、「女のくせに」と言われて、夢を語る事すら許されませんでした。

エバが悪さをしたから、アダムに貢がなければならないというあれです。昔の西洋人はギリシャやエジプト人の遺産を捨てて、これに類する教えを1000年も信じていたんですから、まさに黒歴史です。

 

この記事では、権利の定義として、以下の3つの総体だとします。①自分の能力。②他者との約束。③自分の属している勢力によって決定される、個人や団体が主張したり、活動したりできる事柄の範囲(物理的・精神的に支配している領土)。

 

2.人権とは何か

2-1.世界人権宣言の定義

世界人権宣言から、一条と二条を引用します。

「「第一条

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

第二条

Ⅰすべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

Ⅱさらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。」」

 

2-2.要約と記事内における定義

以下は、この記事で用いる人権の定義です。

人権とは、自由に生きる権利が、みんなに平等にあるという、思想と約束です。

ここで重要なのは、まず、皆が結果として平等なのではなく、皆の自由が平等、つまりどちらかというと、機会の平等を目指しているということです。

そして、現在の世界では、個人が自由だと主張したり、実行したりすることは、必ずしもできていないという現実があります。

(①が阻害されている例 子供は、親に暴力を振るわれたら、自分の主張を曲げざる負えない。ようは権利を主張できる能力自体は、皆に平等ではない。)

つまり権利の要素①能力は満たしていないということです。人権思想が満たしているのは②の約束と③の思想・権力です。この約束や思想について、人権の根拠として次章に書きます。

 

3.人権の根拠

3-1.王権神授説と社会契約説

ルソー等が主張した説です。あとはロックやホッブスとか。それぞれ意図や内容は違うのですが、簡単に説明すると、「人間社会というものが、どうやって誕生したかの説明で、それはみんなの契約により誕生したという説」です。

 

歴史的経緯が重要ですが、その昔は、王権神授説という物があって、王様が神様から選ばれたので、なにをやってもいいんだ。という説を用いて、王様が人々を支配していました。あとはローマ法王とかです。中世は「神から許されたから、偉い人は何をやってもいい」というのが、理屈でした。みなこれに従っていたわけです(少し恣意的過ぎる説明ですが)。

ルネサンス等でこの流れが変わります。王族や貴族、主教的支配者が支配する封建社会から、生産性が向上したことで、商人等が力をもつ社会に代わって行った、その際には新たな思想が彼らを後押しした、という側面があります。

日本も江戸時代には、同じような状況になりましたが、思想が儒教や仏教だったので、内側からの変革は起こりませんでした。

西洋では、教会至上主義のカトリックから、個人の信仰の自由を重視したプロテスタントの登場や、ギリシャ哲学や自然学、カバラ等の類比的または観念的な思想を学び、そこから、観察や実験を重視する科学に発展したという経緯があるようです。ようは長い間支配的だったキリスト教から、自由になりだしたということですかね。

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(書いていて、なんか嫌味な文章な気がしてならない。なんというか、形だけは、です・ます調なんですけれど、きちんとした記述もせずに、恣意的な流れをつくって、自分の主張のために、捻じ曲げるような文章になりかねない、そういうことを危惧しています。なんか、公平なふうを装って、嘘を書くような文章にはしたくないのですが、限られた体力・気力で、難しい内容を書こうとすると、どうしても、そういういい加減な所が、自分で気になってしまいます。そしてこの記述自体が、公平を装っているので、以下無限ループや。それにつかれているから、つい毒舌になってしまうきらいがあって、その修正が一番時間がかかるというね。ようするに、いい加減な人間だけど、偉そうに嘘をかくようなことはしたくないの。でも人生は運ゲーかの記事で、プラトンとアリストテレス間違ったところはいまだになおしてないけどね)

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3-2.社会契約説の概要と成立の経緯

 

こういう経緯があって、神様を根拠にしない、社会の統治の理論が必要になり、生まれたのが、社会契約説です。神様が王様に神託をして、王様が好き勝手支配するのは間違いだとし、社会が出来た経緯として、社会契約説では以下のように考えます。カッコ内は、主張した人の名前です。

①社会が出来る前の「自然状態」では、人間一人一人が自由な権利「自然権」をもっていた。
②自然状態では、お互いが権利を主張しまくって「万人の闘争状態」であった。だから、みんなが自分の権利を統治者に委託して、統治者はそれを行うようになった。(ホッブズ)
③いや自然状態はたしかに存在したが、それは闘争状態ではない。普通に平和だった。しかし、自然状態では、各人が自分のことを自分だけで行うので、大変である。そこで社会的な約束と社会が生まれた。(ロック)
④王族の支配では、民衆の苦しみは終わらない。みんなのことを考えられる賢い市民による政治が必要だ。その市民の意思を「一般意思」として、選ばれた統治者はそれを実行する、民主主義が望ましい。(ルソー)

 

この社会契約説自体は、実はあまり根拠はありません。あくまで王族に商人や庶民が対抗するための理論です。社会がどの様に出来たかなんて、炭素計測とかも無理な時代だし、この時代にわかりようがありません。

つまり、こうだろう、こうすべき、という願望ありきな説です。これらは権利の要素①個人の能力(商人の経済力)、②他者との約束(商人と庶民VS既存支配者の貴族、王族、宗教家)、③思想・政治的権力(商人達と庶民の勢力と思想家)により訴えられた権利です。イデオロギーです。

 

ついでに、ホッブズは、市民の暴動をみて、社会契約説を、むしろ王族の統治を正当化するために唱えました。個人は、権力を統治者にわたしたら、後は一切の抵抗をすべきでない。そうしないと、暴動や悲劇が起こるというのが、彼のショッキングな体験から導かれた説の様で、心情的にはあまり批判できません。

ルソーは、民主主義を、ギリシャのような小さな都市国家でのみ可能で、大きな国では独裁がふさわしいと考えていたようです。教科書で、ルソーに触れて、だから日本の民主主義は正しい、という教え方はただのごまかしだということですね(いいすぎか)。

この辺ラッセルの西洋哲学史Ⅱのみからの受け売り情報なので、浅学な自分が発信する情報の信憑性はいつも今一だという悲しみがありますが。

 

3-3.天賦人権説

人間は生まれながらに平等だというのは、キリスト教の神様が与えてくれた権利だという考え方です。王権神授説とちがって、全ての人がその対象だというわけです。当然人間以外には、これは含まれません。日本の法律では犬は物扱いです。

大体この二つを根拠に人権という思想は存在し、優しい人々は、これを実現するために運動しているという感じです。

 

 

4.人権思想の盲点

それは、権利と平等という、矛盾する要素を内部に抱えており、それが無自覚になった時に起きる欺瞞・詐欺の弊害が見落とされていることです。

4-1.福沢諭吉の落とし穴

以下「学問のすすめ」から引用します。長いので今回の話と関連する、部分を太字にしています。恣意的なのはいやなので前文を全て載せています。

 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をとり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲とどろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、しもじもの者より見れば及ぶべからざるようなれども、そのもとを尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。ことわざにいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となりげにんとなるなり。

学問とは、ただむずかしき字を知り、げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。ひっきょうその学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。たとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、そろばんの稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、つながれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの堺は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。たとえば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色にふけり放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。

また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり。わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、ことわざに言う「井の底の蛙」にて、その議論とるに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命をすてて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。

しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれをいやしめこれをきらい、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄にくるしめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。王制一度新たなりしより以来、わが日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、すでに平民へ苗字・乗馬を許せしがごときは開闢以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするのもといここに定まりたりと言うべきなり。

されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居所とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。

人の貴きにあらず、国法の貴きなり。旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古よりこれを嫌いながらまた自然にそのしきたりに慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り人をおどして人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りてはもはや全日本国内にかかる浅ましき制度、風俗は絶えてなきはずなれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上を怨むることなく、その路を求め、その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うことならば、一命をもなげうちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

前条に言えるとおり、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏もはばかるに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。
昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民のうちに人物あれば政府の上に採用せらるべき道すでに開けたることなれば、よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。およそ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまたにくむべきものはあらず。智恵なきの極みは恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍らの富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴に及ぶことあり。

恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度を頼みてその身の安全を保ち、その家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。あるいはたまたま身元たしかにして相応の身代ある者も、金銭を貯うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。ついには遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。

かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもっておどすのみ。西洋ことわざに「愚民の上にからき政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。仮りに人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風に赴くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法のからきとゆるやかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政をにくむ者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。

今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、ひろく事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はそのまつりごとを施すにやすく、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。」」

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なげえ。学問のすすめは、人はみな本来平等であるので、学問等、努力した順にえらくなるのが正義、公正な社会なのだと、そういっています。その当時の日本でははかなり革新的な意見だったと思われます。

ですが、これは嘘です。福沢諭吉先生を個人攻撃したいわけではありません、でもどんな偉い先生でも間違いはあります。

知的障害者と健常者は能力的に平等ではありません。個人にも差があります。人は生まれながらなに平等とは嘘です。ですので、必然的に、努力の結果だけが、人の地位を決めるわけではありません。福沢先生は、あくまで身分とかで差別はいかんとそう言いたかったのだと思います。

 

4-2.権利と平等は相いれない

人権思想は、人の生まれながらの自由を平等に求めるものです。結果の平等を求めるものではありません。そしてそれは本来あるのだけれど、人々が暴力等に訴えたり偏見があるから、上手くいかないのだと、そう考える節もあります。福沢先生も江戸時代じゃ無理だったけど、明治政府なら、自由や平等は約束されているからと書いています。

しかし、権利とは、①能力と②約束と③勢力(支配と幻想)です。能力の中には暴力も含まれます。容姿や色気も含まれます。当然先天的な知力も、はなから平等ではないのです。

ですから、人権という概念は矛盾を含んでいます。

勿論ここで短絡的に、矛盾しているから悪いなどとは考えません(カツカレーは、カツのサクサク感をなくすから、劣った料理だというのは、料簡の狭い人間の考え)。

しかし、この矛盾を無視したり、忘れたり、良い人すぎて気が付かなかったりすると、そこに弊害が生じます。人はみな平等なので、結果は努力のみにより得られる。社会的に地位が低いものは、努力しなかったのだから、自業自得であり、助ける必要などない。学問のすすめからは、こういう結論も導けるわけですが、これは前提がまちがっているからです。

人は自由において、みな平等だというのは、理想論であり、目指すべき目的の一つです(もちろん平等が悪だと考えることも出来ます)。しかし、現実ではそうはいかない。そうはいかないが、人権を擁護する良い人達、もしくは福沢先生のような方々は、それを忘れて(または必ずしも利己的ではない政治的な理由、)、混同してしまう。

そして、それが不注意に普段から使われることで、深層意識にまで混同されて貯蔵されてしまい、「人権」ときくと、はじめから自明だったり、良くわからないけれど、それがセットで用いられると、良いもので絶対に批判してはならないもののように考える。

「世襲議員の人権をまもるために、選挙における規制はしない」と言われたら、大概反論できない。政治の世襲という課題を、人権と言う大正義とセットにすることで、反論できなくさせてしまう。黒い物を、白いものと組み合わせて、と灰色ではなく、白くみせかけるのが、嘘つきの論法です。そしてそれは深層心理レベルに訴えかけてくるので気が付きにくいのです。

善意により人が信じているものを、詭弁の前提にするのは詐欺師です。障害者や色々と不幸な目にあった人等を、結果が出ていないから、努力しなかったのだからお前の自己責任だと、そういう輩が跋扈しても、人の良心と思い込みゆえに気が付かないというわけです。

理想論は素晴らしいが、それを利用して私腹を肥やす悪人や、自分を賢い努力家だと、思い込んでいるだけの勘違い野郎がいます。それに気が付きにくいということが人権思想の盲点です。

(勿論、福沢諭吉先生の意図や真意までは、僕には読み取れていない可能性があります。つまりもっと色々な視点から述べられている可能性もあるわけです。学問のすすめの現代的ではない部分も、その当時の認識の限界や、政治的な都合、つまり政府に認められるには、ある程度それよりのことも書く必要があった等、一つの文章にもいろいろな背景があると思うので、むげに反論してこれない、偉人を批判したいわけではないです。

なんか腰砕けな感じですが、自分の狭い考えに固執して、人に敬意を表せないことが怖いので。それでも批判する時はしますが。)

 

5.政治について(世襲の問題)

ここから、政治についてです。繋がり方が曖昧な感じもしますが、最近の例のカルトの事件に影響されているので。あと僕は右翼でも左翼でもありません。ただの弱者男性です。

5-1.政治(システム)はみんなのためにある

政治と言うのは、取りあえず、社会契約論的にも、現在の常識としても、みんなのためにあるものです。ですから、どういう仕組みがみんなのためになるか、を考えることが重要です。

5-2.世襲政治の弊害-自己正当化と独裁-

ここから、世襲政治の内容になります。個人的に誰かのアンチとかではなく、全体の仕組みの話です。二世議員の割合が、40%は多すぎます。しかも総理大臣は大概二世三世議員です。王様の世襲となにが違うのか、これは独裁につながるのではないか、そういう話です。

これは個人の問題ではありません。権力の世襲、固定化が進むと、支配者の意向と、民意の乖離が懸念されます。

弾劾される危険のない支配者は、「支配があるから秩序がある」と言う自負により、あらゆる行為を正当化するようになる危険があります。統一教会の件で、「結果として、自民党が勝利して日本を安定させるためには、仕方ない」という擁護があるかと思います。

しかし、自民党の議員一人一人が、どの程度、自分の考えと、国益を分離して、上手く行動に結びつけているかは今一判然としません。

つまり、統一教会と組むことが、自分が議員になるためだけにあるのか、自民党が勝つ=日本を安定させるためであるのか、それを外部から検証することはできませんし、内部からでも不可能です。だれも、自分が当選するためにカルトと組んだとは言えないでしょう。

また自民党が勝つ=国の安定、という発想も自民党の議員なのだから、当たり前で、ここにも当然、自分自身の主観が入り込んでいます。変な言い方にも思えますが、自分が正しいと思う主義はあって当たり前ですが、しかし、それを盲信するだけで、他者の考えから学ばないのなら、それは狭量です。自分たちの勢力が勝つ=ベターな結果になる、そういう発想自体に、どうしても自分中心の考え方が含まれているということです(他の野党も自分たちが与党になれば、国が良くなると思っているのではないでしょうか? 現実の情勢ではなくて政治家としての姿勢の話をしています)。

何がいいたいかと言うと、支配する側、力を持った側が、俺達が正しい、俺達のおかげ、そうとだけ思って、批判する人間や、反対勢力を顧みないのであれば、もうそれが落ち度だということです。

 

「政治は白ではなく、黒い部分がある」「大の虫を活かすには、小の虫を殺すこともある」

それはわかります。しかし黒の部分は間違いなく黒であり、その点を、しっかり批判する人間、追求する機関は必要だということです。

それがなければ、権力者は無反省になります。人情を持ち出すのはやめてください、人情は人から期待するものではなく、自分で育てるものです。ですから、政府を批判する人間を捕まえて、対局が見えていない感情論者とか、売国奴たとかそういう風に、言う人間こそ、実は一番対局が見えていないということです。

支配があってこそ、秩序がある。しかし、その支配に抵抗する側の人間がいないと、支配者側は自身の自負と、行動を結びつけて、利己的な行動も支配のために必要だと肯定し始める。

そして、世襲政治では、政治家に、庶民の感覚が身に付きにくく、自身が生まれながらの権力者という認識を助長しやすく、国民に選ばれているという意識も低くなるため、必然的に、この傾向は高まります。

5-3.世襲政治の弊害-国民の選択肢を奪う-

民主主義では、国民が、政治家を選んでそれに政治的な権利を託すわけですが、これが40%も世襲で決まり、かつ総理大臣も世襲で決まるのならば、これはもう国民が選んでいるというよりは、選ばされているだけのように感じます。

そもそも、例のトートロジー好きな構文の人とか、組織票が強すぎて、誰も勝てないし、どうせ勝てないからと、他の有力ないとが立候補しにくいから絶対に当選するわけです。

そういう目先のなれあいによって、支持する層は、ルソーの想定した啓蒙された市民ではありませんし、それにより、他の市民は選択権が無くなっています。

(いやいや、きちんと政党とか政治家のことを調べて、投票すればいいし、投票率だって低いのは国民のせいじゃん。」そう思うのは当然ですが、ぶっちゃけ忙しすぎます。

ふつうに社会で労働しているだけで、政治の活動なんてほぼ無理ですし、そうしないと、ダメ人間扱いされるのが今の社会です。ぼくもダメ人間扱いされないためだけに、安い給料で働いています。

「国民がもっとしっかりしないと」「3年後に覚えていて、自民党が統一と組んだままなら票をいれなければいい」

はい無理です。忙しいし、人間は忘れます。大事なのは「どうしたいか」ですが、同時に「それはどうやったら、確実に可能か」この観点が毎回抜け落ちて、根性論で語るだけだと、これは不可能です。

こういうのを、プリコミットメントと言うそうです。人間の意思は弱いので、強制的に自身がやらざる負えない状況をつくる方法です。たとえば、ダイエットしたいときに、食べるのをやめようと根性だけで頑張っても、大概人の意思は弱いです。

しかし、お金がなければ、買い物ができないわけですから、財布やカードを必要な時以外、口うるさい家族に預けて管理してもらう、等です。日本の給料を妻に管理してもらうのが、之と同じことです。口うるさい人がいないと、ダメなのです。政治にも個人にも。世襲政治ではそれは、機能しにくいのです。

 

しかし、ここまで考えると、結局は我々大人の、勇気のなさ、臆病さが根本的にあるように思います。やっぱり福沢先生のおっしゃるとおり、国民の責任でした。「感情論」だと「怒りの感情」を揶揄する「自称合理的な人達」ばかりだから、結局なにも変わらないのでしょう。

なわけないでしょ! 日本人はみな超人か!

人間が可能な範囲で、システムを作り運用する必要があり、それがうまくいかなかったから、共産主義は、絵に描いた餅だと批判されているのにね。力を持った人間が自己責任といって政治家としての権利は行使する癖に、責任は取らなければ、そりゃあこうなるわ。

ようはみんな悪いともいえるし、みんなに罪はないともいえる。だがあえて罪を追求すれば、明らかに権力者のほうに問題がある。むしろ普通に日本人が必死に税金おさめて、日本を支えているのに、世襲議院はそれによりかかって、「僕は日本を支えているアトラス様だあ」なんて考えている。まあ人の心のなんて知らないから、暴言だし、そもそも世襲議員その人を批判したら、論点がずれてしまうけれど。立派な人もいると思います。

でも、結局は国民がしっかりしていないとダメなのはかわらない。福沢先生の言う通り。以下無限ループ。

 

5-4.世襲政治規制案

世襲政治家は、得票率の0.6倍にするぐらいが、妥当だと思います。誰でも思いつきますね。こういう案を出すと、世襲政治家の人権に話が行くと思います。

 

これはお笑いです。人権は矛盾しているのですから。権利は平等ではありません。だれが権利を行使するかが政治では問題です。そしてその選択の機会はできるだけ、平等でなければならないです。それが社会契約です。

世襲政治家は地盤等のいわゆる3バンにより、庶民よりも(不平等に)大きな権利をもっているのですから、これを規制することにより、はじめて(機会の)平等にちかい選挙となります。

人権は、あくまで「人々の思想や活動を、平等に保障する」ためにあります。もし世襲議員の人権を持ち出すのなら、世襲制自体が、人権に基づいていない、ようは他の庶民の自由な政治活動を阻んでいる、という点を見逃してはなりません。これが3つ目にして根本的な弊害ですね。

世襲議員の、活動自体を認めないならば、これは人権の侵害でしょうが、その得票率を是正するだけなら、むしろ「機会の平等と言いう意味で」人権の尊重に寄与するはずです(まちがえると悪平等にもなるかもしれないが)。

人権は矛盾した概念です。権利はかならず、強いものがまず多く持ちます。人権(全ての人に平等に与えられる主張や活動の権利)を成立させるためには、機会の平等を重視すべきです。

世襲議員も、親の遺伝子やコネを引き継いでいるので、有能な場合がある等の擁護もあるとは思いますが、個人の優秀さは論点が違います。政治のシステムとして、世襲・固定化は避けなければ、もうそれは民主主義ではなく、ただの独裁主義だという話です。日本の民主主義とは言葉だけの幻想ですかね。

 

 

以上です。かなりひどい、人間は、他人のおかげで生きていける面が大きいという点を忘れた、恩知らずな事を書いています。もちろん、僕の狭い経験で書いていることなので、いわば観念だけの文章なので、指摘くだされば、いくらでも、もっと的確な認識にはなると思います。

あらゆる意味で、謙虚さがない文章だと思い反省しています。しかし、あえてこのままにしておきます。散々言い訳してるが、結局はこれが本心に近いからです。それをまげるのは、責任ある主体とは言えない。たとえ顔の見えないブログでもこの僕がたしかに、かいているのです。

今回はこれで以上です。ここまで読んでいただいてありがとうございました。

 

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今回の記事を通して、本当は自分がなにを書きたかったのか、改めて考えたところ、それは詭弁論だと思います。中盤の良い印象の言葉(人権)と、他の言葉(世襲議員)を組み合わせると、反論しにくいという部分です。

僕も含めて、みんな、幼少期から人権とか、教え込まれているのですが、その内容はなんか抽象的で、わかりにくい物です。日本人は善人が多いと思うので、人権自体には、違和感なくすぐ受け入れてしまうと思います。僕も皆が自由だという考え方が好きです(僕は自分を善人とは言わないが)。

でも、その細かい内容まで考えると、意外な盲点があるというか、悪い方向に利用されやすい部分があると思います。善意から騙される人を僕は愚かだと思いません。むしろ善意のある、時に人を疑うことを知らない人を尊敬します。

ですが、社会には陰謀論ではなく、生活の中で嘘があふれているので(例、ジャンプ裏側の広告を見よ、あれやってもモテるようにはならないよ、これは冗談)、それを見抜くための知識は、必要かなと思い、これから少し書いていこうと思います。

ただ、こういう点を突き詰めると、マインドコントロールとかに行きついてしまうのです、少し陰謀論めいてしまい、自分的には嫌なのですが。ついでに、次の読書感想は、カバラ魔法について書きますが、別に権力者がカバラ魔法で、人々を洗脳しているとか、信じていません(いやまじで)。

結局のところ何がいいたいかというとね、権力志向の癖に弱者の男性がさ、詭弁論とかオカルトについて書くと、いかにも僻みっぽいじゃん。でもそういう部分だけでなく、純粋に哲学的な興味とか好奇心で研究している部分もあるんですよ、とそう言いたいわけよ。大学の同期で出世している友人等に、コンプレックスはありますよ。だから変なオカルトにはまるんです。それはわかっていますが、それだけではないということです。いやめちゃくちゃコンプレックスあるけどね。

あらためて、ここまで読んでいただいてありがとうございます。見苦しい文章失礼しました。

 

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