こんにちはRAIMEIです。今回は「英雄の旅」という人間の心の成長をユング心理学の観点から概説した本の読書感想を書きます。
著者はキャロル・S・ピアソン(メリーランド大学カレッジパーク元教授)。訳者は鈴木彩織、監訳は鏡リュウジ(全て敬称略)です。
Contents
1.概要
今回は概要の時点で4つにわけます。ユング心理学についての知識があった方が、本書は活用しやすいからです。しかし本書の文体は非常に穏やかな物で、知識なしで読んでも大いに勉強になると思います。
①本書の目的や意義(英雄=全ての人生)
この本は、人生において、どのように生きるとよいかという道案内をする意図を持って書かれています。
本書はタイトルだけを見ますと英雄的に成功するための自己啓発本のように思えますが、ここでいう英雄とは、なにもアレキサンダー大王のような英雄を意味しているわけではありません。イチローでも大谷でもないです。
この本では全ての人が英雄だと考えます。たとえば普通のサラリーマンや主婦、フリーターそういう普通の人達も英雄であることには変わりないのです。その英雄像はどのようなものかと言うと、わかりやすいのは、比喩としての神話のイエスキリストです。
キリストは、神の子として生まれ→信者を増やし→弟子に裏切られてはりつけにされて神を恨んで死に→その後に復活します。ここでは、誕生→冒険・死→復活というながれが存在します。
ユング心理学では、神話とは人の成長を寓意としてあらわしたものだと考えます。つまり人生において、成長するには、そのたびに心の死と再生を経なければならないという思想が本書の根底にあり、それを経験するだれもがそのような神話的な英雄の性質を備えているということです。
英雄とはいく度も心の生と死を繰り返す一人の人間のことであり、旅とはその成長の過程を表します。繰り返しにはなりますが、心の旅において、その道案内をするというのが、ある種の特定のパターンを見つけてそれに対する心構えをもっていこうというのが、本書の意図です。
②人生とは真の自己を知ること。
ユング心理学では個性化というものを最終的な目標におきます。ユング心理学では、人間の心を意識と無意識に分けその統合を訴えます。
ユングの義父であり精神分析の創始者であるフロイトは西洋において無意識という概念を普及させました。これは定かではありませんし、今では考えられないことですが、昔の人は無意識、つまり自分の意識に上ってこない、もう一つの心といいものの存在を認めてはいなかったということです。図1が簡単な意識と無意識の関係のイメージ図です。図では潜在意識となっていますが呼び方が違うだけで=無意識です。
フロイトは、精神的な悩みを抱える人のその原因として、幼少期のトラウマや性的衝動が意識・自我から排除され、無意識におしつけられることで、その抑圧された記憶が回帰して人の悩みを作り出すと考え、そのために、無意識に抑圧されたトラウマを意識に統合することが大切だと考えました。凄く適当に書くと、フロイトにとって無意識のトラウマ=性欲です。
ユングは、この考え方に疑問を持ち、無意識はもっと広大な物であると考え、意識と無意識の統合は、もっと全体的なものだと、その統合をとおして治療だけではなく、人間的に成長を行えるのだと考えました。そしてそれを個性化と名付けました。
なぜ無意識と意識を統合すると個性的になるのか(この言い方は誤解をまねくけれど)。それは、人は外界に合わせて、つまり環境に合わせて、自分に仮面をつくる。つまり社会の要請にあわせて、サラリーマンをやったり、主婦をやったりするわけですが、しかし実際の生まれながらの個性ある性質は、そこでは削り取られるか、忘れ有られてしまっています。ユングはこのような、仮面の下にある本質、それが無意識であり、それと意識を統合するべきだとしたのです。
本書もそのような、視点に立っています。本当の自分をみつけることが旅であると。ただしこの考え方は、考察でふれますがフロイトからは後退している部分があるようにも思えます。
③ユング心理学の心理モデル(個性化と元型)
ユング心理学では、人の心を上の図2のような仕組みで考えます。人が普段自分だとおもっている自我は、社会的に作られもの=ペルソナ(仮面)であり、その奥に無意識化された本当の自分の個性があると考えます。この意識(自我)と無意識を統合することで、真の自己になれる。つまり狭い自我というものを、強化するというよりは、自分の内面に解き放つという感じです。心には、(意識)自我、無意識、その統合であり中心としての真の自己が存在すると考えてください。
しかしこの見方には、もう一つ上の図3のような考え方もあります。これは自我というものを、心の中心にしたもので、その周りに無意識(集合的無意識)があり、そしてこの統合により、作られる全体性を自己と呼ぶのだという考え方です。本書では、心をおそらく図3のように定義して、自我を、無意識を受け入れる器だと考えて、それを広げていこうと訴えます。
個人的無意識は幼少期のトラウマ、集合的無意識は、民族や人類共通の記憶や、イメージや感情の型の集まりです。ユングは世界中の神話が似ていることから、この神話という物は、まだ意識的生活と無意識的生活の区別があいまいだったころの人類の白昼夢であり、人間の心の中には、そういった無意識的なイメージや感情や思考の型があり、それが背後で人に影響を与えるのだと考えました。これを元型=アーキタイプと呼び、擬人化した姿で分類しています
たとえば、夢の中で大きな人に抱かれていた場合、それはお父さんのような存在であり、なんらかの理由で父性を求めているということです。男性が夢でみしらぬ女性にあったのなら、それは自分のなかの女性性アニマであり、自分のもう片方の面をみるように即されているということです。
日常生活でこの元型がどう働くかというと、頑張ろうと意思した時に、戦士というか戦闘的な人々を思い浮かべたり、実際に企業戦士として、理性的・合理的に仕事をしたり、そういう時にまさに戦士的な元型が無意識に作用していると言います。人の心の在り方を根底から支える認識や思考のパターンが元型だと言えます。
元型は色々な物がありますが、本書では12ステッププログラムというものを扱い、12この元型が人生の主要な時期やある局面ではらたくのであり、それへの理解を行い、元型自体を成長させることでより自分の課題に取り組んでいくことができるとしています(それぞれの元型は、自我の領域を広げることで、成長=自己理解できます)。
たとえば、幼少期は、「幼子」や「孤児」といった元型が働きやすく、「幼子」は人を信じる気持ちや楽天性としてはたらき、「孤児」は逆に現実を直視し、人を疑い、また見捨てられたような気持を抱くなどの形で現れます。
④12ステッププログラムにおける人生の旅の過程
本書では、上の図4のように、心の成長を、準備→旅→帰還とかんがえ、それが螺旋階段のように循環していくことで、だんだんと自分自身の理解がふかまると考えます。この時、準備段階を自我(自我が成長する旅の準備段階という意味)とよび、これは幼少期に発達させておくと望ましいとされます。
ただし、別に少年期に人を信頼するすべがなく「幼子」が発達していないとしても、その後の過程でそれを成長させることができるのであり、あくまでこれは目安です。
実際に心を成長させるのに、決まった期限などなく、人は何歳からでも成長できるといいます。しかしその際に、旅に出るためには、あらかじめ自我とそれに相当する元型をある程度のレベルにしておくことが望ましいということです。
自我において必要な元型は、「幼子」「孤児」「戦士」「援助者」であり、前二つは楽天と現実感を後の二つは、人を助けようという優しさと、自立心を表します。このような性質が欠落していれば、実生活では困難を抱えるという極めて当たり前なはなしですね。
旅の過程を「魂」と本書では呼びます。魂と聞くとオカルトですが、これは旅の過程で自我が広がり、無意識の元型を理解する過程や元型自体をこのように呼ぶということです。
魂における元型は、「探究者」「求愛者」「破壊者」、「創造者」です。前の二つは、年代ですと思春期から青年期に良く働きやすいもので、自分のアイデンティティをさがしたり、恋愛をするときに活動する元型です。後者二つは、まさに死と再生の元型であり、今まで築いてきたものを一度壊し、新しいものをつくるというもので、青年や成人、中年の時に活動しやすいものです。
しかししつこいですが、これら元型は、別に年齢に応じて発現するものではなく、たとえば、仕事において困難を乗り越える場合等でも、自然にきのうしていくものです。つまり年齢はあくまで、人間の成長に合わせた場合のことで、いつでもこれらの元型は人間の行動にあわせて、働いているということです。
「自己」とは本書では、心の中心にあるというよりも、自我が広がることで、元型を発達させ、それを取り込む、その全体化の過程により、ひろがった自分の心の統一性のことです。
英雄が旅をして、ドラゴン=もう一人の自分と戦い一度死を経験し、宝物を手にいれて、そして帰還する。その時手に入れた宝は、よりひろがった自分自身の器だということです。
2.元型の解説
本書では、大まかにわけて、自我・魂・自己についての解説がなされた後に、元型ごとの課題とそれを成長させた時の宝物=ギフト、課題への対処の仕方等が説明されています。そして最後にジェンダー問題と自分の成長度を測れるテストがついています。本書は500ページにわたりますが、あくまでその読書感想&まとめなので、ここでは書く元型の特徴やその成長パターンだけをかるく記します。
ある感情が働いている時、ある自分なりの人生の脚本をもって動いている時、これら元型が働いていると言います(脚本とは交流分析というものの用語で、人は7歳までにきめた人生の脚本、たとえば自分はどうなるべきか等を歩むとされます)。
各元型について本書では、「目指すもの」、逆に「恐れるもの」、「ドラゴン/問題への対処方法」、過程で「果たすべき課題」、それを乗り越えた時に手に入る「ギフト」をまとめています。
「ドラゴン/問題への対処方法」の部分は、現状維持やネガティブな面でのものも含まれます。たとえば戦士の元型ならば、ドラゴンという敵を打ち倒すことで現状打破をめざしますが、じつはこれが一種の頑なな姿勢であり、実はそのような在り方自身がドラゴンとして、自分の目の前に現れていたということです。
「自我-準備-幼子-孤児-戦士-援助者」
①幼子
目指すもの 安全であり続ける事
恐れるもの 見捨てられる事
ドラゴン/問題への対処 助けを求める、不幸を見ないようにする
課題 忠誠心、洞察力を学ぶ
ギフト 信じる気持ち
幼子は信頼と楽天主義の元型です。これが働いている時人は世界への信頼を強く持ちます。たとえば子供のころは世界が平和だなんて、おとなは立派だなんて本気で信じていたりするように。しかし、そのうちにこういう信頼は裏切られます。そして幼子の旅が始まり、その過程で、もう一度、人生への信頼を取り戻すというのが、幼子の成長となります。
すごくしつこいですが、この幼子は、実際の幼少期だけでなく、人生のあらゆる時に活動しています。いつもニコニコして優しい感じの人は、この幼子が働いているとか、この幼子のように人を信頼できると思って生きているとか、そんな風に考えるとわかりやすいかもしれません(実際はどうだかしらないけどね)。
②孤児
目指すもの 安全の回復
恐れるもの 搾取、迫害
ドラゴン/問題への対処 救出願望 シニカルな追従
課題 痛みと幻滅の検証を行い、心を開いて他者の助けを受け入れる。
ギフト 自立心、共感、現実主義
孤児は見捨てられた幼子、またはそう思い込んでいる幼子です。迫害され、失望し、そのため、無気力で冷笑的です。孤児にも影の部分が存在するのですが、孤児自体が幼子の影の部分です。
孤児は、成長する中で、人の痛みを知り、誰かと共に助け合うことを学べれば、そこから現実的な視点、世界が完璧ではなくとも、生きていけるすべを身に着けることができると言います。
③戦士
目指すもの 勝利、自分の道を見つける
恐れるもの 弱さ、無力感
ドラゴン/問題への対処 倒す、打ち負かす
課題 高次の自己主張、本当に大切なもののために戦う
ギフト 勇気、自制心、スキル
戦士は、我々が社会で競争していくうえで発揮される元型です。理想的な戦士は、ただ成功するのではなく、他者の利益を重んじ、何を本当に大切にして勝ち取るべきかを心がけると言います。それにひきかえて、ただステータスがほしいからとか、人に言われたから等の理由で行動する戦士はレベルがひくくまだ成長の初期段階だと言えます。また真に成長した戦士は、他者破壊的、利己的な面をおさえて、社会に貢献できると言います。
④援助者
目指すもの 人助け、愛と犠牲を通じて影響を及ぼす
恐れるもの 恩知らず、自己中心的な相手の態度
ドラゴン/問題への対処 ドラゴン自身やドラゴンが傷つけた者の世話をする
課題 だれも傷つけずに与える
ギフト 憐みの心、寛容な心
援助者は本書では女性的な元型だとされています(戦士は男性的な元型だと言います)。援助者の成長は、ややネガティブな面から始まることがあります。それは相手を依存させるために援助するとうの依存心だったり、独善的な気持ちだったり、そして色々な人を援助しようとして、自分の意見を持てずに右往左往してしまうことも考えられます。成長する過程で、相手と自分の立場をかんがえて、建設的な援助、助け合いをしていくことができるようになり、最終的には、家庭をもったり、福祉活動を主導したり、なんらかの責任をもてるようになることが理想だと言います。
「魂-旅-探究者-求愛者-破壊者-創造者」
⑤探究者
目指すもの より良い生き方
恐れるもの 順応、惰性、罠にかかること
ドラゴン/問題への対処 心の声の放置や回避、意識の外に追いやる
課題 より深淵で重大な真実に忠実に生きる
ギフト 自立心、野望
探究者は、自分なりの野望、特に大きな野望や生きたかを求める時の元型です。思春期や青年期以降に活動しやすい傾向にあります。成長の流れとしては、はじめに大きな野望をいだいて、それを成就するために努力や放浪をします。そして実際にそれに取り組む中で、成果をあげるか、何らかの学びを行います。そして最後には、その学びの中に、本当に大切なものを見つけるということが、自立心につながります。昔の剣豪宮本武蔵が最終的に無刀に目覚めたことを、このような過程にあてはめられるかもしれません(たぶん嘘卑怯者だったらしいから)。
⑥求愛者
目指すもの 至福、ワンネス
恐れるもの 愛の喪失
ドラゴン/ 問題への対処 愛を与える上、ただし愛にもいろいろある
課題 好きな事や人に献身的にとりくむ
ギフト 献身、情熱、陶酔
求愛者それはエロス、探究者が男性的ならこちらは女性的、また死の欲動のもう一つの側面であり破壊者とペアを組み、生の欲動、快楽を司ります。しかし単なる快楽だけでなく、それが至福へとつながるというのが、本書の主張です。
求愛者とは、俗な意味での肉体的快楽を追いもとめるものではなく、情熱的な一体感を求めるものです。それを求める中で、誰かを愛し、愛し合い、理解し合い、そして自分たちだけではなく、世界すらも一体化できるような、ようはある意味ではキリスト教的隣人愛のような、そんな精神をもつことが理想だとされます。
⑦破壊者
目指すもの 成長、変身
恐れるもの 停滞
ドラゴン/問題への対処 自己破戒、他者破壊
課題 死を受け入れる(変化を受け入れる)、都合の悪い面を見る
ギフト 受容、謙虚さ
破壊者は、精神分析の父フロイトのいう死の欲動です。フロイトの説ではこれこそが、生と死の根源ですが、ユング心理学では、重要ながら一元型に止まります。人は変化するために、何度も精神的な死を遂げなければならず、しかしその先に宝物があるというのが、本書の主張です。そのため、一見ネガティブに見えるこの破壊者がとても重要です。
破壊者は、常に働いており、それは自己破壊の欲動をもちますが、他の外界からの出来事から影響を受けて、それが活発化することもあります。たとえば、すべてが順調だったとき家族の死を経験し、そのあとで急にすべてが変わってしまうなどのような具合です。
例えば上の例ですと、破壊者は突然の不幸に突き落とされて、自暴自棄になります。今まで努力してきたのはなんだったのかと。家族のために設計の仕事を頑張ってきたのに、しかし家族が重病の時に、自分は医者任せでなにもできないのだと。そして、そういう時には自暴自棄になるもので。そしてそれを乗り越えて、例えば家族の死をのりこえて、それを受け入れて、自分の人生も見直していく。それは別に市でなくても、受験の失敗でも何でもいいのですが、今まで何をやってきたんだという感覚が重要なのだと思います。って結構独自の視点で書いてしまった。ここは解説部分なのにね。自暴自棄から脱して、死を受け入れて、そして自分に必要な変化やいらないものを見分けられるようになるのが、重要とのことです。
⑧創造者
目指すもの 新たな人生や作品の創造
恐れるもの 失敗作、想像力の欠如
ドラゴン/問題への対処 自由な想像力、伝統など自分のルーツを受容
課題 自己受容、自己創造
ギフト アイデンティティ、使命感
創造者は、想像力をはたらかせて、時分自身を作り上げる段階です。しかし、同時に注意することは、人間は完全に零から創造をするわけではないということです。文化伝統をはじめ、人間は様々なものに影響を受けて囚われてもいるし、それを受け継いでもいます。別にこれらに囚われる必要があるということではなくて、創造者の段階はアイデンティティを確立することが重要なので、自由に想像力を広げることと、それを自分のルーツにある意味では還元するという視点が必要になります。本書は、ニューエイジ運動に連なるものなので、ワンネスとかスピリチュアルとかの用語がでてきて、そういうものに繋がる重要性を訴えています(ここまで書いてきてなんですが、僕はオカルト否定派なので、これに関しては4章で感想を書きます)。
「自己-帰還-統治者-魔術師-賢者-道化」
⑨統治者
目指すもの 調和のとれた豊かな人生
恐れるもの 無秩序
ドラゴン/問題への対処 建設的な利用方法を見つける
課題 自分の人生に全面的な責任を持つ覚悟
ギフト 責任感、統治力、言語化力、
統治者は、心という王国の王様です。この元型は自分の人生に責任を持ち、そして他者にも気を配れるようになる、人を守る側になるという意味で、戦士と類似点があります。
自分の人生に責任を持つとは、自分という人間、人生を受け入れるということです。それはユートピアを夢見るのではなく、自分自身の現状や能力等も勘案して、現実的な自分の統治を行うということです。
しかし、自分が自分として、生まれたいわけでもないのに、それで責任なんか持てるかいとも思います。というか、本来は感想で書く部分ですが、あえて私見を書きます。本書で語られている責任を持つというのは、おそらくですが、別に誰かに強制されたものでもなく、自分でそれをかってでる姿勢のような物です。
たとえば政治家が責任を取るなんて場合は誰かが貧乏くじを引いて、いやいや辞任するというようなことでしょうが、個人が自分の人生に責任をもつというのは、それとは違います。
たとえば自分が軍隊にいたとして、上官の命令で、敵国の住民を殺したとします。その場合上官の命令で敵国の人間をころしたのであり、罪に問われることはありません。べつないいかたをすると、この不幸の原因は自分ではなく上官や戦争自体にあり、自分は悪くないのです(としておきます)。
しかし、実際に人を殺せば、後悔し苦しむ人はいます。そしてその人は自分が人殺しだと罪の呵責に苦しみます。そして自分の良心から殺してしまった人々に対して許しを請うでしょう。原因はかれにあるわけではなく、ここで大切なのは、感情だということです。責任を引き受けるというのは、こうした感情に基づくことだと思います。
責任は取らなければならないものではなく、政治家の言う自己責任論のようななにか人生に自動的に付随するものではなく、自分で進んで取ろうとする覚悟に本質があるのだと思います。それを引き受けるのが統治者だということです。だから僕のように自分の人生なんてイヤダーみたいな人は、なかなかこの性質が育たないかもしれません。
⑩魔術師
目指すもの 期待以下の現実を期待以上に変容させる
恐れるもの マイナス方向への変容
ドラゴン/問題への対処 自身や他者を癒す
課題 自己と宇宙との連携
ギフト 自分だけのパワー
はっきりって、この魔術師の元型の説明はかなりオカルトです。本書はアメリカの本なので、ニューエイジ運動の影響をまともに受けています。魔術師は、宇宙的なつながり、つまり人間も自然も全てはつながっているということを意識して、その上で自分を癒し、変容させる元型だとされています。ただ現実的な例としては命名の重要性が取り上げられています。たとえば、RAIMEI氏に落ちこぼれというレッテルを張れば、それはまあ事実なのですが、とりあえずモテません。しかしジャニーズ所属という肩書を与えると、実際に僕はイケメンなのでモテ始めるでしょう。
ってそういうことではなく、例えば精神病の人に、貴方は頭語失調症患者ですといえば、それはその人を病気の頭がおかしい存在としてしかみていないことになります。そうではなくて、相手を一人の人間として見ることが大切なのです。ようは名前というのは、人の認識を固定する威力があるということです。実際に身の丈に合わない格好良すぎる名前に関しては、その精神的影響から、苦労している方は結構いると思います。
あとはシンクロニティという、漫画の刃牙とかでもでてくる意味のある偶然について書いてあったり結構オカルトです。しかし見えない因果関係を探ることが大切だということでしょうか。
⑪賢者
目指すもの 真実
恐れるもの 幻想
ドラゴン/問題への対処 研究する
課題 知識や叡智の取得と悟りへの到達
ギフト 懐疑主義、叡智
賢者は人が真実や知識を探求するさいのにはたらく元型です。成長のながれとしては、はじめは、自分が育った家庭や文化からうけとった真実を内面化しているところから始まります。例えばイスラム教はアラーが真実ですし、現代日本人もそれ独特の文化があり、たとえば悪いことをするとおてんとうさまが見ているなどというわけです。良い大学に入って良い会社に入って、良い暮らしをするのが、好い人生だという価値観だって、固定された一つに真実です。それにこの本に書かれている意識や無意識だって、フロイトやユングの意見だって、だれかにとっての真実です。
成長していくにつれ、大人の言う真実、神がいて世界を作ってでも、和を以て尊しでも、それらがどうも嘘くさく思えてきます。大人はなにも知らないのではないかと。そして真実を知っている人や教えを探します。例えばカバラ、人生はなぜにこんなに苦しいのか、仏教の輪廻転生のせいなのか。煩悩をすてて悟ればいいのか。それとも哲学をまなんで、プラトン等を読めばいいのか。
こうして、教えを探すうちに、哲学を学ぶうちに、人は救われた気になります。そうか自分の人生が悪いのは、前世の悪行の生だ。そうかどうせこの世はホログラムの世界なんだ。夢の世界なんだ。お釈迦様がいったとおり、この世界には価値がないんだ。
そうやってすがりたくなる。しかしだんだんとある違和感が出てきます。それは色々な考え方があり、どれが真実なのか、それを保障するものを誰も持っていない、どんな聖人や哲人でもそれを持たないことに気が付きます。つまり神を保障する神を人間はもっていない。
そうして、誰も真理などは持っていないのだけれど、それぞれの価値観を尊重できるようになっていく。つまり真理とは見る方向によりあるいみで異なることを学ぶ。そういう真理といわれるものの土台を考えていく。つまり真理といって、何を自分は想定しているのか。真理を求めると言う時に自分はどういう土台にたっているのか。そういう自らの問いを発する時の地平を問ようになっていく。
⑫道化
目指すもの 享楽、喜び、活力
恐れるもの 意気消沈
ドラゴン/問題への対処 一緒に遊ぶかいたずらを仕掛ける
課題 旅そのものを楽しむこと
ギフト 喜び、自由、解放
道化は愚か者や理解不可能な怪しい存在。このマイナスなイメージの元型が最後にくるのは、これが単なる愚か者ではなくて、自由で楽しむことを第一にしている存在だからです。目指すものが、享楽や活力というのは、フロイトやラカンを思わせます。
道化は環境保護だとか世直しのための立身出世だとか何か高邁な目的を持って行動するわけではありません。目的は過程自体を楽しむことです。子どもが遊ぶように、犬が走るように、ただ楽しむのです。
ゲームなんてやっても時間の無駄。金を稼いだ方がいい。みたいな思考に大人はなりがちです。しかし子どもはそんなことを考えません(考える子もいるでしょう)。ただ今を楽しむことが、道化の目的であり、人生において子供の時の楽しい時代から、色々な困難な大人の世界に身を置き、そして最後にやってくるのが、再開するのが、この道化、人生を純粋に楽しむことだというのです。
遊戯王GXの主人公、遊城十代は、勝ち負けをこえて純粋にカードゲームを楽しめる少年でした。しかし物語が進むにつれて、色々な辛い出来にであい、ある意味で子供から大人に成長して、その結果終盤ではもうカードゲームが楽しめなくなってしまいます。
しかし最後にはまた純粋にカードゲームを楽しむワクワクを取り戻します。これは単なる振出ではなく、苦難と成長があったからこそ、得ることができた宝物なのです。
人が年を取ることで目指す姿、何かに取り組んだ先にある姿として、本書では、賢い愚者というものを提示しています。賢いが純粋に人生を楽しみ、ユーモアを忘れない人間です。むしろ悲しいことも悲劇も笑い飛ばしてしまうような存在です。ドラゴンボールの亀仙人が思い浮かびます。
ただし道化はネガティブな面がはたらくと、カラマーゾフの兄弟の父親フョードルのような、ただふざけているばかりの軽薄な人間になってしまう危険性ももっています。(彼は僧侶を侮辱するためだけに、別に本心ではどうでもいいことで激昂してみせて、神を否定する演説をしたりします)。
もっとも実の息子に殺されてしまうこのフョードルは、ただの軽薄な道化ではなく、女のために熱くなれる人間であり、全ての女にはそれが美人でもブスでも、それぞれ良い所があるという持論の持ち主として描かれており、ただの好色漢ではないのですがこれは余談です。
⑬本文引用
500ページ以上ある本なのですが、どんな感じでかかれているのかを書くために、少しだけ引用してみます。アーキタイプ孤児について冒頭の1ページと最後のほうの1ページです。
「「孤児も幼子と同様の転落を体験するが、その後の行動には違いがある。幼子はつらい体験を踏み台にしてそれまで以上の努力を重ね、「もっと強い信念をもとう」「もっと完璧で人から愛される人間になろう」「もっと価値ある人間になろう」と考える。孤児の場合は「人は自力で生きていくものだ」という本質的な真実が立証されたものと考える。
孤児という呼び名にぴったりなのは、自分の面倒を見るスキルも備わっていないうちに、親の庇護や生きる糧を取り上げられてしまった幼い子供だ。親に死なれた子供や、文字通り遺棄された子供もいれば、親がいても育児放棄、差別、虐待と言った被害にあっている子供もいるだろう。はた目にはほころびのない過程で暮らしているのに、大切にされることも、養ってもらうこともなく、精神的にも肉体的にも安全だとは感じていない孤児は大勢いる。
孤児のアーキタイプが活性し始めるのは、私たちの内なる子供が、見捨てられ、ひどい扱いを受け、無視され、幻滅させられたと感じるような体験をした時だ。他には次のようなきっかけが考えられる。教師が不公平だった。遊び仲間にからかわれた。友達が陰口を言っている。ずっと一緒だといっていた恋人がさっていった。雇い主が自分を共謀者にして職業倫理に反する業務をさせようとしている。」」p136から引用
「傷をいやす-孤児の活性化は、行き過ぎれば機能不全をもたらすが、成長と発達には欠かせないものだ。他人とは比べ物にならないほどの痛みを体験して孤児になった人間でさえ、健康と信念を取り戻す仮定で手にするギフトの威力に驚き、痛みに耐えただけのことはあったかもしれないと気が付くことがある。人間であれば傷を負うのは当然であり、その傷が旅立ちを決意するきっかけとなる。傷を負うことがなければ、いつまでたっても幼子のままで、成熟や、成長や、学びの機械は訪れないだろう。
私たちは、完璧な親を-元型的な父親と母親を-求めながら、欠点のある、いかにも人間臭い親を手に入れる。宇宙の中心になりたいという憧れを抱き、自分はその他大勢の一人に過ぎないことを思い知る。こういう人間になりたい、こんなことを成し遂げたいという壮大な夢を描いたあげくに、たいていはありきたりな人生に甘んじなければならないと気づくのだ。
何よりも耐え難いのは、自分の希望や価値観や夢に背を向けて、自分どころか他人まで失望させてしまったと気どくことかもしれないジェイムズ・ヒルマンは『裏切り』の中で、人生におけるさまざまな裏切りを、魂の誕生を誘発するものだと述べている。綿sに言わせれば、そうした裏切りは、はじめの内は自我の誕生とも結びついている。信頼の気持ちを持ち続けることができれば、母と子の共生に始まる、世界との幸福な共生関係に安心して身を置くことが出来るだろう。そういう場合には、自分の欲求が満たされないという思いが旅立ちの切っ掛けとなり、旅にでることで、ほしいものは自分の責任で手に入れなくてはならないことに気が付くのだ。待っていても誰かが与えてくれるわけではない。
ジーン・ヒューストンは著書『最愛の人を捜し求めて』の中で、傷の性質を見れば、その人がどういう人間であり、どういう人間になることを選んだのかが、かなりの部分まで明らかになると述べている。その姿が、傷跡から枝を伸ばして独特の姿を形作っていく樹木のようなものだというのだ。」」p149より引用
3.本書を支える論理
ここでは、ユング心理学の解説をしてもいいのですが、それは一応やってしまったので、本書を根底から支える視点のようなものについて書きます。
①人生の困難を受け入れることの大切さ
人生は、真の自己になる物語であり、そのためには、準備、冒険(死と再生)、王国への帰還を果たさなければならないという本書の意見は、一方では多くの諦めと受容を要求します。それは自分でどうにかできたかもしれないことから、逆に自分にはどうすることもできないことまで。自身の挑戦の結果の敗北も、突然の肉親の死等も、真の自分になるとめに、受け入れるべきだということです。その死という過程をへてこそ、自身の本当の内面が見えて来るのだと。例え自分に致命的な困難が待ち構えていても、例えばため息が出るほど不細工でも、それを受け入れていくことで、幸せはみつかると言います。
もっといってしまえば、その起こった出来事も含めて、自分=人生だと考えるということです。そしてこれはワンネスの世界観に繋がります。
②ワンネス(全て繋がる一つの完全な世界)
上のように考えるのは、この本が世界について、蜘蛛の巣が張り巡らされたようなお互いの関係で成りたつ一つの世界というものをイメージしているからです。または、ばらばらのピースが上手くはまると、完全な球体やパズルができるような世界です。
この世界観では、全ての物がつながりの中で一つですので、お互いに協力し合えばよい世界を創ることができます。そしてその際には、自分の挫折を受け入れたり、成功した人を素直に称賛したり、自分の特性を受け入れて、それにより社会に貢献したりと、そういうことが必要になり、最終的にはスピリチュアルに目覚めると、それこそが人の成長だと考えます。
③我が我であること=自由
真の自己に目覚める事が出来れば、すべてが自由だと言います。たとえば自分が昼食にラーメンかカレーのどちらかを食べようと考えるときに、カレーを選ぶのは、自分の好みだからです。ほかにもう少しスケールの大きい感じで書くと、社会的成功を度外視してボランティア活動を行うのも、それは自分がやりたいからです。
このように、なんでも真の自分の好みを知ることが出来れば、社会通念界や他者の意見に惑わされずに、自分にそくした自由な好意を行えると言います。自分が絶対的に自分であることが自由だという意味です。
またワンネスから連想できる自由がもう一つあります。それは世界全体が自分や他人の輪で出来ていると考えると、自分も大きなパズルのピースの一つであり、より大きな視点でとらえれば、自分=我=全体ということで、結局は自分も大きな一者(全体者)の一部であり、生の営みの中での連続性の一表現であり、ゆえに自分が何をしようと、他人が何をしようと、結局はすべてが同じ一つの物であり、その一者(全体者)としての意識をもてば、何が起ころうと自由であるということです。大宇宙の意思ブラフマンを悟ればいいわけです。
このような考え方に基づいて、本書ではジェンダー問題やエコロジー問題にふれており、人間の成長は利己的なものを乗り越えて、利他的な精神を取得する過程でもあると考えます。
④弁証法的発展
弁証法とは、正(初めの意見)→反(反対意見)→合(二つの共通する視点をさぐり最適な答えを導く=止揚・揚棄)の過程をへて、より高次の段階(または原初の段階)に近づくことができるというヘーゲルに代表される思想です。
例えばユング心理学や錬金術ですと、男性性(硫黄)と女性性(水銀)を塩を媒体にして組み合わせることで、真の自己(賢者の石)が得られると考えます。ここでは男性性と女性性が反発するものです。
本書の元型で言えば、幼子と孤児、戦士と援助者、探究者と求愛者、破壊者と創造者、統治者と魔術師、賢者と道化、これらが相反するペアになっており、それぞれの均衡をとるというか、両面を高めていくことで(あるいはどちらかを先に高めることで、ある種自動的にもう一方を高める必要性がでてくる)、その相反する性質を統合して、よりよい状態になれると考えます。死と再生ということ自体が相反するが、しかし離れる事の出来ないペアであるということです。
弁証法は、大概の漫画や小説でよくストーリーに自然に組み込まれています。主人公が誰かライバル等と敵対してそれを倒し改心させる。次の敵が出てきて、その時は改心したライバルと主人公が協力して次の敵に挑む。この形は、まさにこの弁証法的は流れです。ここでは相反する性質の統一=世界の統一=平和というような観点が、働いているように思えます。
4.感想
①受容とワンネスはイデオロギー
まず今とてもネガティブな気分なのではっきり言いますが、本書の前提になっているワンネスとか人生は受容が大切だとか、そういう考え方は、まさに考え方であるので、イデオロギーにすぎません(それ自体を否定しているわけではないですが)。
人生の困難を、自分=人生だと考えて、そこから学ぼうという姿勢は共感しますが、しかし全てを受容したり納得したりできるかというと、少なくとも僕にはできません。
世界はワンネスでつながっているから、真の自己に目覚めて利他的に生活すれば、世界が平和になるなんていうのは、ユートピア主義にしか思えません。宇宙は親しみに満ちていると考える人がいれば、その逆で僕みたいに、宇宙は残酷で神をなぐり殺したいと思う人もいます。
たしかに、正→反→合の弁証法では、その先に完全な全体や原初の原因が想定されていますが、逆の見方もできます。それは物が無限に分かれていく視点であり、たとえば正義が存在するのは悪が存在するからであり、ようはある事物でも観念でもそれが存在するためには、正反対の存在がなければならないとそういう意味合いのものとも取れるわけです。
そうであれば、この現実世界では少なくとも弁証法的統一によるワンネスの平和などはありえないことになります。
ここまで書いておいてなんですが、実は僕は前者のほうの、弁証法的統一というロマンが大好きな人間です。ピースが全てはまると完璧なパズルが完成するというのは、僕の好きな遊戯王の教えであると思います。ただし、弁証法にしろ、その統一にしろ、ワンネスにしろ、あくまでイデオロギーに過ぎないという視点、つまりその他の考え方があるのだという視点をかいてしまうと、突然独善的な物になってしまうと思います。
たとえばですが、自分がある日歩いていたら、ヤンキーに絡まれて殴られたとします。そしてそこに意味を見出すわけです。ワンネスだからこれにも意味があるんだ。それはご先祖の祟りで、前世の悪行の報いで・・・・という風になってしまうとこれはもう病気ではないでしょうか。実際はただアホな人間の近くに運悪くたまたま近寄ったからとかそんな理由だと思います(これだって一つの見方に過ぎないけれど)。
ようは自分の考えを絶対視するのは危険だということです。本書は非常に勉強になる本だと思います。しかし、そうであるからと言って、この本の意見に盲従する姿勢をもてば、もうそれは自分で考えない宗教信者のできあがりで、この本の通りの成長をしていないから自分や他人は未熟者だとか、そういう態度にもつながりかねません。
僕が言いたいのは、あくまで、一つの視点に基づいてこの本は書かれており、本の素晴らしさを認めるからこそ、それを絶対視しない方がいいということです。内容そのものを批判したいわけではありません。
ただ一言いうのなら、人生の全てを受容しないでも、いいと思うのです。どうしても受け入れられないことは沢山あるのだと僕は思います。
②癒し、そして回心の大切さ
本書の特にいいところは、成長のパターン等を書いているのに、それが人を裁くような文体で書かれていないことです。そのため読んでいるだけでも非常に癒し効果があり、元型的には魔術師てきな本だと感じます。
そして、読んでいる中で感じたことは、このように優しい感じで語りかけられると、自分の欠点や失敗を素直に認められるということです。
もちろん欠点や失敗と言っている時点で、僕が本書を読んでいる時に、この本に同調した視点から考えて、自分の欠点や失敗だと認識しているわけです。僕は自分の欠点を認めたくない人間なのですが、そういう意見もあるのかと思わせてくれる書き方だなと感じました。
日本人というか、現代人というか、学校や社会で、何か不都合なことが起こった時に、犯人探しや、自己責任的な視点の「お前が悪い」という意見や流れ、押しつけを一定見受けるように思います。そういう態度を取られると、その時追い詰められている人間は頑なになってしまうことがあります。ええ僕のことです。
人を裁かない姿勢(ただ中立で傍観するのとはちがう)は、善悪二元論で誰かに罪悪感を押し付けるやり方と異なり、個人個人が問題を考えることにつながると思います。
例えば子供同士の喧嘩を仲裁するとして、どちらか先に手を出した方を裁くよりも、お互いの理解を深める方向にもっていくことにより、その過程で、お互いのことを考える思いやり等を育み、正義感や責任感に繋がっていくのではないかとも思います。
そしてこの本を読んで、僕は「回心」というのが非常に重要だなと思いました。これは自分の悪い所をみとめて反省するというよりも大きな意味です。
僕が本書をフロイトやラカン的な立場からよめば、正直寝言に感じます。しかしそれは僕が先にみにつけた見方に固執すればの話であり、本を読むときには、まず相手の意見にどっぷりと同調して、その賛成者になって、その後に批判的に読むということも重要だとおもいます(相変わらずラッセルの受け売りです)。
そういう視点で本書を読んだ時に、人生に対するまた違う視点が見えてきたというのが、読書の成果です。つまり回心とは、心を回すということで、僕は自分の心を違う視点から見つめることが出来たのだなと思ったわけです。
実際の生活では、スピードが速いためか、つい相手の立場等を忘れてしまいますが、本書は優しい感じの文章で(内容は抽象的だけど)そういう視点にたってみるのも、悪くないかと思わせてくれるのです。しかし何度も書きますが、この本やワンネスやスピリチュアル、輪廻転生、魂のレベルやらを教条的に信じてしまうと、誰彼が未熟だとか、人を裁くための道具になってしまうでしょう。それはこの本の趣旨に反することだと思います。
③無意識は有るか?
ここはかなりあいまいな事を書きます。自分でもよくわかりません。
しつこいですが、ユング心理学では、無意識は個人的無意識と集合的無意識にわけられ、集合的無意識に人類や民族固有の元型、感情の働き方や考え方やイメージの型があると考えます。
たとえば怒れる神様と言う時に、日本人だったら仁王像とかを思い浮かべ、西洋人ならば火星の神マーズを思い浮かべるとかそんな感じで、なんとなく似ています。この際に、ここに思い浮かべるイメージは何でもいいのですが、ある感情や思考やイメージが働くさいに、一種の型や類比関係があるということです。その内容自体は文化等で決まります(おもいきり怪しい話、カバラ魔法では、この元型をとおして、潜在意識とアクセスするために、信じてもいない神々のイメージを自身に内面化して用いるようです)。
つまりユングは無意識には特定の形式や内容があるとそう考えたのだと思います。元型という鋳型が形式となり、人間がふれる物事を分類して、認識できるのだとしても、その元型自体は無意識の内部にあると。
これはプラトンのイデアともつながると思います。プラトンはこの世はかりそめの世界であり天上の真実の世界への愛好こそが哲学者には大切だと説きました。彼はイデアという物を提唱し、これは地上の不完全な事物の元となる完全な存在です。
たとえばある猫がいたとして、それを猫だと認識できるのは、天上に完全な猫が存在するからであり、地上の猫はその不完全なコピーに過ぎないと言います。これは一見オカルトですが、普遍と個の問題を考えているという点でとても重要です。猫には個体ごとに、色々な特徴があるのに、各猫を普遍的に猫だととらえられるのは、何故かということに、一応答えているからです。
人間の無意識にそのような認識のための鋳型があると考えれば、各猫を普遍的に猫だと認識できる理由として、これは妥当かもしれません。
少し話がずれましたが、ここで言いたいことは、ではその集合的無意識という領域にしまわれている元型とか古代の時代の記憶とかそういうものを=無意識と呼んでいいのかという疑問です。
無意識は読んで字の如く無なわけですから、それははたしてそのような充実した形で存在するのかということです。簡単なイメージで言うと、冒頭の図1をまた出すのですが、意識と無意識の関係は氷山の比喩で表され、海から出ている部分を意識、海の中の部分を無意識だと考えます。
しかし、僕が言いたいのは、本当の無意識は海自体なのではないかということです。別の言い方をすると、無意識とは白紙の紙であり、そこに書かれるものが、無意識の内容物である集合的無意識や個人的無意識なのではないかと。無意識は大きな器ではないかとそう思ったりもするのです。
それか別の考え方をすると、アリストテレスのいう魂かもしれません。アリストテレスは魂を形と同じようなものとしてとらえました。例えば石を削って彫刻を創る場合、出来上がった彫刻の形こそが魂であり実体なのだと。元の石は内部に彫刻の可能性を持っていたけれど、職人が削らねばその彫刻は出現しなかった。アリストテレスは、石という材料よりも、その形こそが、彫刻の本質を規定していると考え、この形のほうを魂と呼びました。
氷山にあてはめると、氷山全体の形相=魂ということになり。つまり無意識というのは、氷山の形そのもの=器=海と氷の差異や境界であるのかもしれません。
つまり僕が何を言いたいかというと、無意識は存在しない無=器であり、その無の中に抱かれる形で元型というものや個人的無意識とよばれるものが存在するのではないかということです。
やはり上手く書けませんでした。というかたぶん他人の受け売りだし、理解できてないし。
ただ「無意識は有る」というとそこには、もちろん文法的な無知もあるのでしょうが、なにか不思議な感じをうけるということが書きたかったのです。
今回はかなりあいまいな形で終わります。最後感想だかなんだかわかりゃしない。しかし「英雄の旅」は色々と考えさせられる良い本だということです。読んでいただいてありがとうございました。ではまたー。