「読書感想」幽談 京極夏彦著


 

 

こんにちはRAIMEIです。今回は最近読んだ「幽談」という怖い本の読書感想を書きます。よろしかったら、おつきあいください。
(今回から目次を追加しました。読書感想の時はつけようと思います。)

 

本の形式(ジャンル・作者・特徴)

 

京極夏彦怖い話系小説、手のひらサイズの文庫本 266ページ。

八つの繋がりのない、30ページ程度の短編で構成。
①手首を拾う、②ともだち、③下の人、④成人、⑤逃げよう、⑥十万年、⑦知らないこと、⑧こわいもの

一行の文字数は少ない。特徴的な漢字の使い方をしており、情景・心理描写と合わせて、独特の和風の、静寂感、退廃感、雰囲気を醸し出しているが、おかげで多少読みにくい。

 

京極夏彦先生は怪談分野ではかなりの大家。巷説百物語がとくに有名か。アニメ版も存在し、僕は中学の頃、ビビりながら見ていました。

というか、キッズステーションで夕方にやっていたので、友達と一緒に遊戯王カードをやりながら、かなり気まずくなった思い出。(スプラッタ&ショッキングなシーンが多かった、人肉を食う話とか・・・・)。

アニメはかなり改変されていて、原作は幽霊の仕業に見せかけて、晴らせぬ恨みを晴らす、特に霊的能力はない始末屋の話なのですが、アニメでは始末屋たちが、みな妖術使いみたいな特殊能力を持っていました。

そして、その始末屋たちの元締めが京極亭という男なのですが、声は作者自身が担当していました。他には魍魎の匣等も有名ですね。

 

本の概要(概念と構造)

本を書く場合、何か鍵となる概念(始点にして終点)と、それを現実に描いていく構造(すじ道)が必要だと思うので、あくまで僕個人の見方なのですが、自分なりに本書を読んで得たものとして、それに沿って、概要を書きます。

・本書を貫く概念、幽き(かそけき)ものとは?

 

「幽霊とは、かすかなみたまと書きましょう。死人の意味はない。」

短編集ですが、テーマは一貫しています。怪談ではなく、幽きものについて語る幽談ということです。冒頭の台詞は、【⑧こわいもの】において真の恐怖そのものについて自問自答し、それでも答えが出ずに、求め続ける主人公に対して、それ をゆずろうとしている老人の台詞です。またその後に少し飛ばして下記のように続きます。

「顔を半分隠せば、それは幽霊の顔。身体を半分隠せば、それは幽霊の身体、見えないところはあるかどうかわからない。無いのかもしれない。確立としてしか存在しえぬものは」

このよのものではない。

本書では、幽霊というものを、はっきり見える異界の物や、呪いの類や、すごく怖いものとして扱うのではなく、半分見えない者、かすかなもの、として扱っています。

 

八つの短編で、幽霊の正体が明かされたもの、いや幽霊がはっきりと出現したといえるものすらほとんどありません。

せっかくですので、幽霊らしきものが出てくる話を例に出すと。【④成人】という話が、特に面白いと思いましたが。

この話は、4つの話から構成されていて、語り手の、友人(百物語を編集している編集者)が手に入れた2つの作文、そして友人自身の体験、心霊ライターが収集してきた話、が順番に語られ、それが一つに繋がっていきます。

1、雛人形が好きだという何の変哲もない小学生男子の作文。

2、ある高校生が友人の家に遊びに行ったら、友人の部屋がすごく狭いのに、隣に女物の服がたくさんある部屋や、孵化する途中のヒヨコが箱に入れておいてある和室があったという作文。

3、友人の体験した話で、大学生の頃成人式をさぼって偶然泊めてもらった大学の同級生Aとその無愛想な父親の家で、寝ている夢の中で、奇妙な卵型の女の様なものと、男女の行為をした話。

4、役所の職員が、成人式の景品を届けに行った先で、雛人形を壊している、気のふれたおやじを目撃し、その家の窓を見ると、白い卵の様な何かが微笑みかけてきた話。

1、の作文が幼少期のAのもので、Aの家には何か得体のしれない者が住んでいるというところまでは繋がるのですが、最後は友人が、暇を見つけてはその卵みたいな存在がいた家に通っている(女に会いたがっている)、というラストで、幽霊らしき者の、その正体が最後まで語られることはありません。

 

・共通する話の構造、幽きものと認識の関係

 

幽談を貫くもう一つの骨格、幽きものを描写する方法として、本書では、我々人間の認識の主観性、非共有性を取り上げていると思います。

下記は【⑥十万年】の、自分の視覚を信用しておらず、他人の眼でものを見てみたいと考えている主人公と、話し相手の先輩の台詞を抜き出したものです。

「例えば、人は皆違っているのだから、世の中がどう見えているのかも人それぞれなのだろう。夕日が真っ青に見えていたって、ずっとそうならそれを赤と呼んでいるのなら、その人にとってはそれが夕日の色で、それが赤なのだ」

「地球人以外の知的生命体とコミュニケーションが取れる確率は、ゼロだと思う。~例えば、限りなく俺達人類に近い宇宙人がいたとしよう。でも、大きさが千倍だったらどうだ。逆に千分の一だったらどうだ。俺達は俺達のスケールでものをはかるが、そんなものはこの地球の上でしか通用しないぞ。千分の一の相手と会話できると思うか?時間だってそうだ。一日一時間一分一秒、それが全部俺達の体と、この地球が割り出した単位だ。千年が一秒程度のスケール感の相手だったら、俺達は目の前にでた途端死んでいるよ。俺達の一秒の間に百年が過ぎる種族と出会ったら、目の前で相手はちりになっちまうぜ」

遭遇したとしたって、意思の疎通は測れない。百パーセント無理だと思う。」俺とお前ですら分かり合うことは無理だから、と先輩は言ったのだ。――ああ。無理なんだ、と僕は思った。

 

主人公と先輩は、人間の認識というものが、いかに主観的なものかを語ります。彼らにしてみれば、人間の視覚や時間感覚だって人それぞれで、宇宙人だって、幽霊だって、それは、ただ見える人には、見えているだけで、本当にいるかどうかはわからないし、逆に言えば、”見えないからいない”とも限らないのです。

他にも【⑤逃げよう】、【⑦知らないこと】等、登場する幽霊の正体が、主人公の精神錯乱による幻想だとをほのめかしている話もあります。幽談で出てくる幽霊というのは、実際にいるものと言うよりは、ただ見える人には、見えているもの、正体はわからない、周りの登場人物や読者には半分しか見えていないもの、として書かれています。

 

僕はプラトンのイデア論を連想しました。幽霊という物質があるから見えるのではなく、幽霊という概念、イデアが存在し、それを我々が知っているから、幽霊が見えるというような。

要は我々の認識というのは、物があって見えるのではなく、網膜をとおして、我々の脳内で視覚化されたものを投射して、我々は物を認識しているということ、つまり本当の物の姿を、個人の主観でこの世の全てを、見ることは難しいという、そういう視点を、「半分見えない幽きもの」を表現するのに、当てはめているのだと思いました。

こういう認識論からアプローチするというのは、新しい怪談作品の潮流なのかもしれません。現代の科学的世界観のもとでは、幽霊はもはや頭の中で作り出されるまぼろし程度のものでしかなくなってしまいましたから。

 

終わりに

【⑥十万年】では、その語、自分の視覚を信じられず、「他人の目でものを見てみたい」主人公と幽霊が見えることで、周りから浮いてしまった、霊感少女の、心の、見ているものの、すれ違いが、焦点となります。

人は解りあえない、そう確信する主人公ですが、彼らは本当に分かり合えないのでしょうか、この記事を読んで。もし興味を持っていただけたら、本書を手に取って結末を確かめみてください(自分の本でもないのに偉そう、自分の本なんてないけどね)。

感想を別に書こうかとも思いましたが、概要に織り込みました。京極夏彦先生は軽い気持ちで書いたと、仰っているようですが、怖い話も小説も初心者な自分からしたら、目が開かされるところが沢山ありました。さすがとしか言いようがありません(個人的にあんまり怖くはなかったけれどw)。

以上です。記事を読んでいただいて、ありがとうございます。ではまたー

 

 

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以下メモ

・イデア

イデアとは天上世界に存在する物の完全なる見本みたいなもの、例えば椅子のイデアがあるから、職人は椅子という概念を持ち椅子を作れる、椅子の材料である材木のイデアはあるのかとか、そういじわるは言っちゃダメらしい。

・認識論、主観と客観

幽談では、見られる側の幽霊よりも、見る側の人間に重点をおいている感があります。少なくとも、二つそろって初めて認識が出来るわけですからね。デカルト的な二元論を克服して、主客一体の認識論があってもいいのかもしれません。

とりあえず、約30年間遊んで暮らしてきた無学男なので、哲学もきちんと勉強しなければ。

 

 

 

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