「哲学考察」人生は厳密にはあらかじめ決定されてはいない

 

1.はじめに

こんにちはRAIMEIです。この記事の狙いは、自分自身の経験から、決定論を否定することです。流れとしては以下の通りになります。

①決定論につて
②因果関係の中のランダム性をあげることで決定論を否定
③精神分析に上記の議論を当てはめてみる
④その他参考として、ライプニッツの決定論等について

 

2.決定論とは何か

2-1.因果関係という枠組み&ある種の自由意思の否定

全ての物事は、必ず原因を持ちます。自由意志=他者の影響を受けない完全に自己原因的なもの、または因果関係の枠組みから独立的なものとすると、これは否定されます。

(例)太郎君が今ケーキを食べたいと思う。それは一見すると太郎君の自由意志。でも実はケーキというものを発明した人がいないとそう望むことは不可能。

またそもそも、ケーキを食べたいと思ったのは、CMの効果かもしれないし、体育の授業の後で糖分が足りていないのかもしれない。様々な先行する原因により、ケーキを食べたいという意思=結果が生まれている。

過去から未来に因果はつながっていきます。

2-2.宇宙には貫徹される法則性があるとの仮定

人類は様々な法則を見いだして、利用しています。すくなくとも人間の目線からすると、宇宙には法則性があるように見えます。

2-3.第一原因(動因)説

前後のつながりで物事が決まるのなら、初めの原因(神?)があるはずだという考えです。ある種の観点からは、この第一原因(動因)以外には、厳密に自由な存在などはないと、考えられます。

2-4.決定論=因果×法則×第一原因

第一原因があり、後のものはそれに連鎖して引き起こされ、そしてそれは一定の法則に沿って行われる。これより、全ての起きる出来事はあらかじめ、決定されているというのが決定論です。

 

3.因果の中のランダム性

3-1.デジタルカードゲーム

 

①ハースストーン ヨグ=サロンの牢獄

ヨグ=サロンの牢獄というカードがあります。ランダムに呪文を4回唱えるカードです。2ターンに1回発動出来、系12回の呪文を唱えることが出来ます。

このカードは前後関係に関係なくランダムにカードが選ばれ発動するため、この世の出来事は、あらかじめ厳密に決まっているわけではない身近な証拠になります(ただし世界の外に全ての運命を決めている神みたいのがいないとはかぎりません、あくまで人間がわかる論理の上ではということです)。しかし同時に運営が作ったカードであり、発動するのは運営がよういしたカードだけであり、大きなくくりでは因果の中に含まれています。

②デジタルカードの引き

これもデッキに入っている枚数から確率が決定されるが、実際に何を引くかは、あらかじめ決まってはいないということで、因果の中のランダム性になります。

3-2.その他

カオス理論や量子力学等でも、同様のことが説明されていそうです。しかし僕は知らないので得に書けません。じゃあ他のことはよく知っているのかよ、と言われたら困るけどね。

 

4.精神分析への当てはめ

以下何の根拠もないです。精神分析を正しく理解できている保証もないです。

図1.ラカンのボロメオ(この図は実は間違っています。現実界は象徴界を覆い、象徴界は想像界を覆い、想像界は現実界を覆うように、線を引いてあるものが正しい図です。これは手抜き版です)

 

図2.フロイトの精神の構造図

 

④因果の中の必然(象徴界、厳密なルールと内部の欠如)
③因果の中のカオス(想像界、厳密なルールの中でのランダム性)
②この宇宙・因果を作り出しているもの=超越論的統覚(現実界&想像界)
①カオス・大元の宇宙(現実界)

この現実界、想像界、象徴界、というのはジャック・ラカンの用語です。考え方の基本は、フロイトにあります。

④父なる超自我・自我理想(社会ルール、言語のルール)
③自我(言語的法則をもつ心)
―――
②身体と心の境界である欲動・超自我(エスと自我の境界、言語の大元)
①エス=身体(純粋な身体)

 

人間は本能の壊れた動物であり、赤ちゃんは自分で自分を制御することができません。それを補うために言葉があり、身体と言葉の境界、身体と心の境界、接合点として、②欲動が重要であるというのが、精神分析の考え方であると思います。②のありかたで人間の性格、ものの見方はきまると考えます。

ここで僕が書きたいことは、人間の性格や主観が、欲動というものできまるなら、それを宇宙に類比的に当てはめると、因果関係というのは、人間やこの宇宙(の生命体)の主観、この宇宙そのものが、さらに大きな宇宙の中での一つの主観であるということです。

大元の本当の宇宙(というか謎世界)には因果関係などはなく、しかしこの見えている宇宙の人間や生命体がこの世界をとらえていく際のやりかたとして、因果関係という枠組みがあるということです。カントの超絶勘違いパクリな気がしますけど。

 

5.その他

5-1.ライプニッツの決定論

哲学だけでなく、数学などでも有名なライプニッツですが、彼独自の決定論があります。それは主語と述語の関係、文法からこの世界を読み解く方法です。

『カエサルはルビコン川を渡る』

カエサルとは僕もよく知らないけど、凄く有名なローマの英雄です。ルビコン川をわたるというのは、重要な後戻りできない決断をする際に比喩として、使われます。

カエサルという英雄に着目すると、ルビコン川を渡らないカエサルはもうカエサルではありません。ライプニッツの考えは、カエサルという英雄(主語)の中には、あらかじめ対応する出来事(述語)が存在していなければならないというものです。

主語にあらかじめ述語がふくまれているものを、分析的命題と呼びます。

『物体は広がりをもつ』

物体の中にはあらかじめひろがりの概念が含まれています。ライプニッツは人生を分析的な視点から考えました。

5-2.現在や未来により、過去の意味が変わる

ヨグ=サロンの牢獄を例にとります。

①ヨグ=サロンの牢獄が旨い具合に発動して有利になった後の主観

「さすが俺、最高の勝負師、やっぱりここぞという時の決断力がものをいうよな。それにヨグサロンの牢獄も、合計12枚ものカードを発動してくれる爆アドカードだし、入れていて正解だ」

②ヨグサロンの牢獄が失敗した時

「なんでこんな運頼みのカードを俺は入れたんだろう。俺はいつも現実から逃げてばかりだ。俺は他力本願だ。ダメ人間だ」

 

結果により、過去の自分への評価や、それどころか過去の自分の意図まで変わってしまいます。人は結果から、過去を逆算しているということです。

だから今が悪くても、そのうち良い未来が来るのなら、その時には失敗した過去もいいことになることはあり得ます。

「あの時運が悪かったから、努力出来た。」(過去の評価の変化)
「あの時、俺は自分で苦難を引き受けたんだ」(過去の自分の主観の認識の変化)

運がいい悪いという時に、どの時点の視点で評価するかが、一つの要素として重要であると思います。運がいい悪いという時には、事後的な評価の面もあるということだと思います。

6.おわりに&結論

①決定論=因果×法則×第一原因
②日常の中にランダム性があり、決定論は否定される
③因果関係は究極的には、この宇宙の主観である

以上です。基本的には他の人の勘違いパクリです。用語等があっているかはわかりません。ここまで見ていただいてありがとうございます。ではまたー

7.参考文献

・『仮厦』http://kaie39.blogspot.com/2019/02/blog-post_20.html
もう一つのブログはアダルト画像があり、また平和目的だが心臓の弱い人にはショッキングな戦争の画像があるので注意
・『トランスクリティーク』柄谷行人
・『スラヴォイ・ジジェク現代思想ガイドブック』トニー・マイヤーズ
・『西洋哲学史Ⅲ』バートランド・ラッセル

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8.超越論的統覚についての訂正(以下2024年5月13日追記)

精神分析への当てはめで、超越論的統覚=因果としましたが、超越論的統覚は、人間の空間や時間という把握の仕方を基礎付けている「なにか」なので、因果という認識は、超越論的統覚ではなく、空間と時間という認識=象徴界に当たると考えます。
③象徴界=空間・時間・因果=超越論的統覚の効果であり秩序
④想像界=象徴界の内部でのランダム性(ゆらぎ、個性、個々の現象)
①現実界(欲動SA/)=超越論的統覚=カオスを統制する不完全なまとめ役
②現実界エス(身体)=モノ自体=カオス宇宙(全てランダム?)

9.原初と最初は違う(内容に対する形式の優位、精神分析の遡及性)

上の数字は成立する順番を表します。はじめにあるのは(①なのは)、②の現実界=カオス宇宙なはずですが、これは①の現実界=超越論的統覚という神が出現した後ではじめて、組織化されると考えられます。

その統覚が出現するまでは、②現実界エスは特定の意味を持たない素材のようなものでしかなく、それをまとめる存在が設置されたときに、はじめて、それはある方向性をもつということです。

ヨーロッパや、インドの宗教では、はじめに精神の神がいて、その後に物質の神(神の顕現としての自然)が生まれたと考えます。しかし精神分析では、そのような精神の神は(内容としての神)は、形式としての物質の神により、はじめて方向付けられ存在することができると考えます。

精神が物質をつくったのではなく、あくまで物質が精神をつくるわけです。ただし、唯物論は目に見える物質が全てだという考え方とはむしろ真逆のものであると考えられます。あとえば、アインシュタインの一般相対性理論では、空間のゆがみが物質を生み出していると考えます。

唯物論はこの時、空間のゆがみ(不完全性?)のほうに焦点を当てる考え方であると思います。このあたりはまたいつか取り上げたいと思います。

10.個人の運命脅迫と宇宙の運命脅迫?

無意識というのは様々な捉え方がりますが、フロイトが主に取り組んだ無意識は、個人に、本人にはそれと気が付かせずに、同じような行動や状況に身をおくように、命令する者です。

それは幼少期の5歳くらいまでの思い出すことがほとんど不可能な体験と個人の遺伝子等により決まるものであり、それがつねに個人を駆り立てると考えます。それが欲動であり、身体の要求を精神的なものに変換する働きです。

ニーチェの言う永劫回帰は、これと同じことを言っているというとらえ方があります。個人が何度も同じような行動をして、同じような目に合うということです。これはオカルト的な事ではなく、心理的にそういう方向性が与えられるということです。

ユングもニーチェから多くを学んだようですが。ユングはまた別の視点です。極端に言えば、フロイトは無意識の命令的、支配的な所を強調しているということです。

一方で、これはオカルトよりの領域ですが、この個人における心理的な視点を、歴史や宇宙に適用するという考え方があります。歴史については、マルクスや柄谷行人(最近哲学のノーベル賞的なものをとったらしい、日本有数の哲学者)等が歴史の反復をのべています(歴史は繰り返すという言葉があります)。

なぜそのようなことが可能なのかというと、人間の事物への把握の仕方の一つとして、類比というものがあり、世界はホログラム構造(入れ子)になっているという考え方があるからです(例えば宇宙の星々と脳のニューロン・シナプスのネットワークがそっくり等)。

だからある考え方(世界の形式)を提示すれば、他の分野にもそれを適応したくなるということです。

マルクスや柄谷行人云々ではなく、あくまで軽い発想?で、人の心理的な動きを、宇宙そのものに適応して、宇宙の運命脅迫(人間にとっては運命?)というものを考えたいと思います。

③象徴界・因果=一応の発展的方向性・神のめざす理想郷?
④想像界・因果の中のランダム性=出来事自体は①永劫回帰に従う。
①現実界(欲動)・永劫回帰=さまざま関係性が繰り返される
②現実界(身体)=カオス(またはエロス)宇宙。①により事後的に顕現する。

よくオカルトでは、生まれ変わりや魂の成長というものがあると説かれます。人間が精神的に立派になり文明も進めば、いつかゴールが存在し、そこでは神の永遠の世界が訪れるという発想です。この否定的な側面として、仏教の解脱(残酷なこのせかいから脱出する)という考え方もあります(否定的と書きましたが、厳密にはただの逆という意味ではないです)。

しかし、ここで一方的な視点かもしれませんが、ニーチェの永劫回帰思想・フロイトの運命脅迫思想を、神の目的より深い部分の真実として想定し、そして神の目的(理想郷というゴール)はそれを隠蔽するための嘘ではないかと言う想定をここではします。

この世界は、何かゴールを目指すことが目的ではなく、じつはゴールなどない無限の繰り返しであるという思想です。ゴールとは疑似餌です

たとえばオカルトではらせん状に進化していくという観念がありますが、それがこの永劫回帰を、目的的にいいかえたものであると考えられます。らせん状に進歩はするのかもしれませんが、でもそれに終わりはないよということです
(もちろん、今回の記事はかなりあやふやなままかいているので、何か断定できるような確信があるわけではありません)。

そして、人間個人の運命ですが、個人には運命脅迫という、ある種の能動的な反復が存在し(凄いソフトに言うと自分ではみることができない性格のようなものです)、そしてそのほかに、宇宙の運命脅迫が、それぞれに個人にランダムに振り分けられているのではないか、ここではあえてそう想定してみます。

同じようなできごとが、人間の歴史でおこるなら、個人は、そこになんとなく配置されているだけだという考えです(宇宙の想像界のランダム性)。

運命脅迫は、個人の内部にあり、ある種能動的にそれがおこなわれますが(自我にとっては受動的)、宇宙の運命脅迫=人間の運命=繰り返される出来事(元型?)は、個人の外部にあるか、または運命全体の内部に人間個人の人生があり、個人はただ偶然にある場所に(目的すらなく)ばらまかれているだけなのではないかと、ここでは考えます。

10.永劫回帰=反復は、同じ出来事や人物が回帰することではない

ここで永劫回帰という時に、反復されるのは、同じ人の魂ではなく、おなじようなできごとだということを書きました。しかし厳密には、同じ出来事ですらないと思います。

例えば、個人の場合だと、人生で同じような失敗をしてしまう場合、それは、まったくおなじ失敗では厳密にはありません。たとえば、いつもふられる男は、いつも同じ女の人にふられるわけではないし、それに振られ方だって違うかもしれません。

永劫回帰や反復という時に、厳密に同じ出来事が回帰するのではなく、出来事は違う形で、関係性が回帰するのだと思います。
その根拠は反復とは二つの異なるものが、同一化しようというときに、おこる仕組みだと考えられるからです。そしてその際にくりかえされるのは、二つの存在の相対的な差、それが同一なのだと思います。

11.無意識に関する訂正

①無意識は西洋でも昔から知られていた
以前の記事で、フロイトが無意識を再発見するまでは西洋には無意識知られておらず、東洋の唯識のほうが進んでいたということを書きましたが、西洋にも無意識はむかしからしれわたっていました。つまり単純にぼくがしらなかっただけで、嘘情報です。

②ユングはオカルトとイコールではないし、フロイトよりも劣っているわけではない
精神分析をにわか勉強しているため(まじでろくに理解してない)、ユング等をフロイトよりさげている感じが僕の中で有りますが、この点は僕の知識不足であり、別に今の段階で、根本的にユングがおとっていると思っているわけではないです。

何でこういうことを書くかというと、変なオカルトにユングが援用されがちであり、それでユング=オカルトだという誤解・先入観が自分の中で生まれがちだからです。

まあ今回の記事もオカルトに片足突っ込んでますけどね。それは僕の書き方が今回いい加減なのもありますが、基本的には仕方がないです。なぜかというと、哲学の視点は、我々の動きを決定している構造を提示するということで、この構造自体を目でみることは不可能だからです。

フロイトが画期的だったのは、臨床による経験と、そこからよみとった神的な構造を提示するという、その両面を成し遂げたからです。
自我と無意識(いわゆる防衛機制)という対応だけではなく、自我と無意識というものが存在するための、超自我(自我理想)、システム無意識(欲動、源初の超自我)、エス(身体)というものを想定したからです。
ユングについては、じゃあどうなのかというと、その点は今後の課題ということにしておきます、

③形式・構造についての説明にあやまりと作業仮説について
以前の記事で、フロイトのメタ心理学を、物理の運動方程式等と同じようなものとかきましたが、これはあやまりです。というか今だに自分の中で、理解できてないです。形式・構造というのは、ある仮説であり(世界がどのようにうごいているか)、その中におかれると、内容物は、人々は、必然的にそれに従って行動してしまうというものです。

ある出来事を、そこで起こった内容から個別事件として判断するのではなく、ある構造におとしこんで判断しようというもので、この構造はどこまでいっても仮説です。

たとえば、精神分析的視点をもてば、なんでもそれで説明が出来てしまうということです。これがカバラでもなにか別のパラダイムでも、同じです。そしてこれは証明不可能であり、ただし、よりもっともらしい、説明として説得力がある仮説があるだけです。

こういうものを作業仮説というそうです。これは現実に適応した時に、それと対応しているようにみえる、現実を説明できるモデルだということです。

そういう意味では、ニュートン力学と比べたのは、その部分で言えば、別に間違いではなかったかも。ニュートン力学も、そう説明すると、物体の運動を把握できるという仮説であると思えます(それが現実に対応して有用な事と、真実ということとは別なのかもしれない、あやふやです)。

この形式・構造については、また自分の中で整理してまとめると思います。たぶんその時も不完全だけど。

 

 

 

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