「読書感想」論文『ラカンにおけるマルクスの遺産』

 

こんにちはRAIMEIです。今回は論文の感想をあげます。

インターネットで検索すれば読めるので、いつもより内容まとめはかなり簡略化しています。負担の軽減と無理解のために、断定的且つである調で書いています。

 

1、概要&章立て

本論文は、ラカンの剰余価値とディスクール理論がマルクスから得られているところに着目して、ラカンがマルクスをどのように理解し持論に取り入れているのかを検討し、併せてディスクール・剰余価値理論を理解していこうというものです。

方法・手順としては以下の流れとなっています。

①ディスクールの概念を提示した後で、ラカン自身のマルクス理解から得られたディスクールの構造がどのようなものかを確認し、この中でディスクールとマルクスからみた資本主義を理解する筋道として、主人のディスクールから資本家のディスクールへという流れを想定する。

②ラカンがマルクスをどのように理解していたのかそれは正確なのか、ラカンに学んだ第三者やラカン自身の言明からそれを確かめる。③最後に再度資本家のディスクールに立ち返り、理解のまとめとしている。

・章立ては以下のとおりです。

はじめに
1ディスクールという概念
2ラカンにおけるマルクスの引用
3R.-P・ヴァンシグラRose-Paule Vinciguerraのラカンを通してみた理解
4マルクスの症候概念
5ディスクールの四つの場の名前の変更と「資本家のディスクール」
おわりに

2.注目した理論

以下本文から読み取った理論を取り上げますが、独自に付け加えているところがあります。本論文意外に、この記事を書く上で参考にした文献は、最後にまとめて載せておきます。

2-1.シニフィアンと主体の関係

 

①「シニフィアン(S1)はもう一つのシニフィアン(S2)に対して主体を代理表象する」

・ある言葉=シニフィアン(聴覚心象)/シニフィエ(意味・概念)
・主体=言語世界の効果としての、言語化不可能な部分
(本来の身体としての無意識ではない)

例1

昼は夜に対して、主体を代理表象する。
夜は昼に対して、主体を代理表象する。
(昼と夜はあわせて完全な時間を表現するのではない。間には主体と言われる何かが存在し、これをとおして両者は関係する)

昼という音や文字と、昼という概念は別に対応してなくてもかまわない。昼という音や文字ではなくても、論理的な可能性としては別に何でもいいはずだ。

 

 

 

2-2.ディスクール理論とその読み方

①ディスクール(言説)理論の図

 

②ディスクール(言説)の読み方

以下主人のディスクールの読み方を書く(本来は剰余享楽を語るには、資本家のディスクールのほうが適当であると考えられるが、RAIMEIが無理解なため、ここはスルー)。

・主人の言説(労働価値説から)
資本は剰余価値をえるためにある価格で、生産手段(原材料、機械、労働力等)を買う。
労働者は労働により、自身の価値≒賃金よりも、より多くの価値を持つ商品を生み出す。
または機械の効率化により、より少ない価値の投入でより大きな価値の商品を生み出す。
それが売れることで、資本が最初に払った価格よりも大きな価格が得られる。資本とは増殖する価値の運動自体のことである。

 

・主人の言説(普段の会話?から)
(1)動因S1は無意識S/に即されて、他者S2に話しかける(→並行矢印)
(2)S/は言い間違え等でもそれをS2に対して行う(右上がり矢印)。
(3)S2はS1の話を受け取りそして独自解釈を行いS1に返答する(左上がり矢印)
(4)S1はそれを受け取り、これによりS1は再度話し始める。

 

2-3.自意識の非同一性

『「自意識」について、「自意識の同一性は実体的ではない」ので、自意識は自分についての客観的な確実性を自分だけで取得することはできず、他の意識を必要とする。この自分自身への確信を得るために他者の欲望を通らなければならない。めいめいがお互いに他者の欲望を欲望し、他者に対して自分の欲望を認めさせるために争うことになる。』p9

この自意識について、これは自分と、他人の間にあるものと読めるが、自分と自分の間にもあるものなのだろう。

自我1が自我2を対象とすることで、意識が生まれる?

自我は一つではないのに、それを一つと錯覚している?

ただしここでいう自我分裂は、もう一つの根源的な自我分裂ではないと思われる。根源的な自我分裂はエスという本来の自我が、エスと想像的自我の二つに分裂する事。上の自我分裂は、さらにその後に、言語的な構造を取得した際に、言語の中でおきることだろう。フロイト・ラカンでは疎外と分離として分けられている。

 

2-4.ディスクール理論とマルクス労働価値説の相同性

『私達は市場にいるがゆえに、労働にお金で支払います。私たちは市場で、交換価値の昨日がそれを決めたように、そのしんの値段を支払います。しかしながら、労働の成果として現れるものの中には、支払われない価値もあります。なぜならこの成果のしんの価値はその使用価値にあるからです。この支払われない労働は、資本主義の主体の働き具合においては市場の一貫性との関係でせいとうなやりかたで支払われているのですが、それが剰余価値なのです。それゆえ、剰余価値は資本家のディスクールを構成する文節の方法の成果なのです。それは資本家の論理から起こる物なのです。』p10

 

『ある主体はあるシニフィアンによって、もう一つの別のシニフィアンに対して代理表象されうるものです。このことは、マルクスが解読したもの、すなわち経済的現実においては、交換価値の主体は、使用価値に対して代理表象されるという事実にそっくり似せられないでしょうか?剰余価値と呼ばれるものが生み出され、落ちるのは、その裂け目においてなのです。私たちの次元においては、この喪失しか数えられません。もはや自分自身と同一ではない主体は享楽しません。剰余享楽とよばれる何かが失われるのです(Quelque chose est perdu qui s’appelle le plus-de-jouir)それは厳密にはそれ以来至高の全てを決定する者が機能し始めることに関係します。症候においても事情は別ではありません。』P16

 

使用価値(物質としての商品またはその効用)と交換価値(他の商品との交換比率)というものを、労働価値説では、ある面では、分けて考えているようだ。しかも交換価値は労働により決まるという。

この考え方は、現代では基本的に一顧だにされない。イデオロギー的でユートピア的な物と考えられているように思う。価値は人間の主観であり、どれほど効用がえられるかにより交換比率はきまるはずである。

しかし、ここでは労働価値説が肯定され、基礎となっている。

なぜだろうか。それはこのディスクールの関係、価値関係が、言語と同じような関係であるから(シニフィアン連鎖とシニフィエ)であると考えられる。つまり言語関係である以上、受け取り方はともかく、そのルールや構造は主観的ではない。日本語には文法と、言語の特定の用法が存在する。

マルクスは人間が労働に疎外されているといったが、人間はまず言語により疎外(や分離)されており、そのルールに従わされている。

 

2-5.多義的な症候概念マルクスへのアイロニーな評価

長いので引用しないが、ラカンは、マルクスが症候を発見したというとき、様々な症候概念を同時に述べているように思える。例えばプロレタリアが未来のメシアである責務を負っているというマルクスの思想を、皮肉として、一種の宗教として扱っているように思える。つまりこれは、症候の構造そのものというよりは、その中に入る内容としての症候という意味で使っているのだろうか。

症候というときには、その場所と、そこに収まる内容としての症候、そして社会的にある程度正常と言われる症候に加えて、特殊な症候、ヒステリー、神経症等を同時にさしているようだ。

 

2-6.主人の時代と資本家の時代、プロテスタントの禁欲と資本主義

資本家の言説とプロテスタントの労働禁欲主義には関連性があるという。資本家もプロテスタントも、仕事をして、快楽をさきに引き伸ばしながら生きる。

これはフロイトの快の取得と関係があるように思える。欲望の本当の目的は欲望し続けることということか。

 

一方で主人の言説の時代は、何にそうとうするのか。これも資本主義のなかでありえるのか、それとも封建主義か、それともマルクス主義のような大きな物語において妥当するのか。

明確な差として、主人のディスクールでは、主体は剰余享楽を直接受け取れないが、資本のディスクールではこれが受け取れるようになることが、ことなるようだ。

3.感想・考察

3-1.マルクス労働価値説とラカンの明確な接合関係の提示

これは本論文の基礎であって、本論文の全てではありません。しかしRAIMEIにとっては、労働価値説とディスクール論の関係性に気が付かせてくれるきっかけの一つとなりました。というかつい最近まで労働価値説=ありえない妄想だと思っていました。しかしラカンを理解するためには、この領域では労働価値説を取り上げることが必要であると思います。

3-2.享楽と剰余享楽、無意識の主体と言語内の主体

①剰余享楽は享楽の廃棄
享楽は楽しみとか快楽と思いがちだが、じつは不安や死。剰余享楽はここから差し引かれるもので、これは快楽を生じさせるもの?

②身体の無意識と言語の効果としての主体はことなる。
どちらも、S/で表されていて、しかもディスクールの内部では、同じ位置にあるようにみえるのでわかりにくいです。
ディスクール内で、真理として下にあるのは、身体の無意識のことだと考えられます。

なぜなら、言後の効果としての主体は自己原因的には存在できないからです。本当の動因はあくまで、『言存在』である身体の無意識であると考えられます。しかし同時に、ディスクールの同じ位置において、言語の効果の主体も生成するということなのだと思います。(この二つを同一視してそれを一人称が表していると考えている? 身体の無意識=言語の無意識→俺)

 

③また究極の対象аと剰余享楽аも違います。

S/(身体としての無意識)→言語世界→а(不安や死の対象)

この言語世界の内部で、S1やS2、言語内の主体、剰余享楽が存在すると考えられます。

対象аというときに、言語の世界を作り上げている枠組みと、その枠組みを埋めるために存在するスクリーンという二つが存在するといわれます。

 

この記事はこれで終わりです。見ていただいてありがとうございます。

 

4.参考文献
1『資本論経済学批判第1巻1』 カール・マルクス 日経BP 中山元訳
2『資本論経済学批判第1巻2p100まで』 カール・マルクス 日経BP 中山元訳
3『蚊居肢 主体→主語→主観、あるいはラカンのディスクール論』
http://kaie14.blogspot.com/2015/08/blog-post_10.html
4『蚊居肢 一の徴日記②』http://kaie14.blogspot.com/2016/12/blog-post_3.html
5『蚊居肢 マルクスの三角形』http://kaie14.blogspot.com/2016/08/blog-post_88.html

言存在や主体等、ラカン理論とマルクスの対応関係にかんする知識、というか  この記事を書く大元の発端は上記ブログから。凄く博学な方です。ただ人に勧められない画像等がいきなり張られていたり、2023年ころから、理論的な進展がない傾向が見受けられたので、最近はわかりませんが、僕は必要な過去の部分だけをPDF化して参照しています。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です