「読書レビュー&メモ」僕たちが何もなかった頃の話をしよう

 

 

こんにちはRAIMEIです。今回も最近読んだ本を自分のなかでまとめようと記事にしてみました。前よりも工夫して、今回は始めに読書レビューのようなものを書いて、その後、延々と自分が読書してメモしたところを添付して以降かと思います。

というのは、前回読んだ『30代から「格差」を逆転できる思考法』に、知識はインプットだけでなく、アウトプットが大切だと書いてあったので、まずは自分で需要と思える箇所をメモして、そのあと人に見せる用の書評を書きました。

ブログは当然人に見てもらうものなので、読書レビューをメインに見ていただけたらと思います。メモは一応自分のためのバックアップ用に後ろに延々とのせておきます。

形式としては ①著者②本の概要③本の見どころ(個人的に学べると思ったことや読むメリットについて→ここが一応レビューに相当)となっております。

 

『僕たちが何もなかった頃の話をしよう』

 

著者

永田和宏(京都大学名誉教授、京都産業大学名誉教授、細胞学者、歌人)

山中伸弥(iPS細胞研究所所長、2012年ノーベル生理学賞・医学賞受賞)

羽生善治(将棋棋士、永世王位、名誉王座等の資格を所持)

是枝裕和(映画監督 「誰も知らない」や「そして父になる」等が有名)

山極壽一(京都大学総長、ゴリラ研究等、日本の霊長類研究の第一人者)

 

本の概要 「ひょっとしたら」と思える生の対話を

本書は京都大学で行われた講演「マイチャレンジ!一歩ふみだせばなにかが始まる!」を文章に起こしたものです。

著者の永田和宏先生がこの講演を企画した動機としては、現代の自己評価の低い若者に、偉人に憧れてそれに向かって努力してほしいという思いがあるようです(努力では偉人の領域にはたどりつけるはずもないと考える若者が多いのではないかと考えているようです)。そしてそのためには、偉人は雲上の人ではなく、今の若者と同じく、沢山苦悩してきた普通の人であるということを、失敗談やそこから学んできたこと等から感じてもらいたい、自分でもひょっとしたら出来るのではないか?そう可能性におもいをはせてほしい、というのが本書に記録された講演の目的です。

講演はiPS細胞の山中伸弥先生、将棋の羽生善治名人、「そして父になる」等で有名な是枝裕和映画監督、京都大学総長山極壽一先生の、単独の講演と、永田先生との対談からなっています。

 

本書の見所(重点→何を学べるか?)

・お互いを高め合う対話の重要性。

本書の講演&対談で共通していることは、偉人たちはみなコミュニケーションをとても重視しているということである。iPS細胞の山中伸弥先生と京大総長山極壽一先生はともに、ディスカッション・ダイアローグの重要性を述べているし、羽生名人は、将棋はロジカルな世界ではなく、「三手先を読む」相手との対話の世界だと言っている。また是枝監督も映画は自己表現ではなく、カメラを通して世界を見る、世界の側の驚きを探すという、ある種対話的ともいえる姿勢を大切にしている。この姿勢は本書内の対談でも一貫して貫かれている態度であろう。

 

・わくわくは計画できない。

共通する項目としてもう一つ上げるなら、それは本書の偉人は皆成功するために計画を練って行動したのではなく、わくわくすることを追い求めた結果、成功したということだ。現代日本は学歴社会で、幼稚園のころから成功するためにお勉強をする子供や親も多いが、それとは違い、わくわくすることを追い求めることが、おもろいことを追求する方が、スペシャリストとしては大成しやすいのかもしれない。

 

・「勝つ論理」よりも「負けない論理」

京大の山極壽一先生のゴリラ研究の部分だが、ニホンザルは相手を屈服させる「かつ論理で」関係性を築いているが、ゴリラなどの人間により近い類人猿はお互いに勝ち負けを決めない「負けない論理」で関係性を構築しているという。「負けない論理」ならば、どちらかが傷つくこともなく、お互いを尊重できる。これは人間社会を渡っていくうえで、重要な教えの様に思える。例えば会社で同僚や上司と話し合うとき、ついつい自分の正当性をゴリ押ししたくなるが、実際には相手を尊重して耳を傾ける姿勢も同時に持っていた時の方が、相手との関係性も上手くいき、理解も深まるなどの経験をしたことが、社会人ならばあるのではないだろうか?

 

・あんまり失敗談ないです。

本書では、山中伸弥先生以外では、あまり失敗談や苦労談はなかったように思える。正直これで、学生が自分でも「ひょっとしたら?」と思えるかはかなり疑問である。私見だが成功する人というのはやはり、普通の人よりも大分運がいいようだ。それよりも、上記の様な偉人に共通するエッセンスを自分の中に取り入れて、人の評価を気にせず臆せず、日々自分の取り組みをした方が有意義であると、RAIMEIは思います。

 

 

以上で、読書レビューを終わります。最後にも書きましたが、看板に偽りありで、あんまり失敗談がないので、偉人から成功のためのエッセンスを学ぶつもりで読むのが正解な気がします。

 

あとは延々とメモになります。ここまで読んでいただきありがとうございます。

 

 

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メモ、各章のタイトルと、人的に重要だと思ったカ所と感想

 

①山中伸弥「失敗しても夢中になることを考えて」、山中伸弥×永田和宏「環境を変える、自分が変わる」

・山中先生の苦労

山中先生は、大学の三年間医療そっちのけでラグビーに打ち込んでいたとのこと。

また医師になった後も、手術が苦手で20分の手術で2時間かけてしまうこともあり「ジャマナカ」といわれており、研究者に方針転換したらしい。

また研究のために30でアメリカにわたって35歳の時に帰国したが、「PAD、Post America Depression」(アメリカ後の憂鬱)という山中先生が命名した病気にかかったそうです。アメリカでは論文を科学雑誌に送ると称賛されたのに、帰国後はアメリカの有名な教授の後ろ盾を失ったので、論文を投稿しても酷評されることが多かったとのこと。また実験用のマウスの世話も大変で、かなり精神的に参ってしまったらしい。

 

・環境を変えることで、自分を叱咤激励する。研究者に重要な資質とは?

山中先生は、アメリカの研究所に30の時行って、37歳で奈良先端大へ、その後も京都大学へと、自分で何のつてもない状況で、環境を変える努力をしてきたようです。それは「ここでやらなかったらどうするんだ!」というように自分に背水の陣を敷くためだと言う。

研究者として、ご自身がやっていけると考えたのは、予想外の結果が出た時に、すごくわくわくしたからとのことでした。研究者として学ぶ人として大切なことは、失敗してもへこたれないこと、多くの人と対等な関係で話し合うこと、自分から積極的に急襲しに行く姿勢等であると仰っている。

 

 

②羽生善治「挑戦する勇気」、羽生善治×永田和宏「“あいまいさ”からうまれるもの」

・将棋では、羽生名人でもミスは日常茶飯時らしい(ミスしないときでも完璧だと思える対局は60中3程度で少ない、最大のミスは、あと一手で勝利確定という手を見逃してしまったこと(この本のもっと後にしかもこの本を読んでいる時にちょうど同じことがおこってニュースになっていたという偶然)。ミスする事よりもいけないことは、それを引きずる事、ミスをしたら、それまでのプランはぱあになる、今の時点から改めて見て、始めなければならない。それが出来るかどうか。

羽生さんが将棋を続けてこれたのは、江戸時代の将棋の問題を解いていて、すごく難しかったけど、とけた時の喜びや、江戸時代によくこれだけの美しい問題を考えられたなあ、という感動があった。ただし、将棋のプロをやる上では、コマを楽しみながら打っていた、そんな感覚は捨てなければならなかったという。

相手の立場で考える事が将棋では大切。原田泰夫九段の「3手先を読む」という言葉があるが、これは自分が一手打つと、相手も一手打ち、そして自分が一手打つ、この時、自分が最善の2手目を打つには、一手目をどうすればよいか、つまりに手目で相手は何を打ってくるか、相手の立場で考える事が大切だということ。

羽生名人は将棋の手を、リズムで決めているとも言っている(ある盤面に対して数十通りもの手も考え付くのが将棋の面白さだとおもうが、その中で、最適な解を確信を持って、決めるのは名人でも難しいようだ、その中で、もっともリズミカルに打てる手を採用するという)。

さらに言うと将棋をやっている最中に羽生名人は何を考えていたかを対局後覚えていないという。

前に才能に関する何かの本で、一流アスリートは意識化ではなく、無意識で活動できるようにしていると書いてあった。逆に意識しすぎたために、オリンピックでガチガチに緊張して大敗してしまった選手の例を挙げていた。

また将棋に関しては、特別棋士のIQが高いわけでなく、対局中に前頭葉もそれほど活発ではないようだ。彼らは膨大な譜面を海馬に記憶しており、それを試合中に取り出せる能力にたけているのだと言っていた。羽生名人の言っていることを、その本流に解釈するならば、対局中は意識して脳をコントロールしているというより、もっと熟練して脳の深い所で思考しており、海馬の譜面情報を見ながら、それを一枚一枚同じウエィトで検証するのではなく、過去の経験から学んだ、全体や前後の文脈、から重要度を判断して、最適と思える一手を選んでいるようである。ただこの時完全に記憶のデータベースを駆使しているのみならず、相手とのコミュニケーション、つまり相手がいることを想定して、その行動を推論することも、同時にしながら、譜面の照合を行って老いるという風に、棋士の頭の中を解釈できると思う。

結果が伴わないとき、自分のせいにしすぎるのも良くないとも言っている。

また、羽生さんも、永田先生も、若いときに、よく調べもせずに軽い気持ちで、進路を選んだといっている。今の様にインターネットで自分の待遇等を調べられて計画できるのもいいが、えいや!と飛び込むことも大切ではないかと言っている。わくわくは計画できない

将棋は、明確な理詰めの世界かと思いきや実は案外、あいまいな所があるようである。羽生名人は、革新の持てる一手より、革新の持てない一手の方が良い結果を生むことがあるといっている(なぜなら明確な手ほど相手に意図を読まれやすいから)。

将棋では、記憶の力だけでなく、相手との駆け引き、対話も非常に重要なようだ。自分がこの手を打ったら、相手はそれをどう解釈して、どう攻めてくるか、それを予想しながら、うけて、今度は自分がどう応じるか。力いっぱいフルスイングするよりも、コートの丁度良い所にボールが落ちる、そんな感覚が大事だという。

穴熊という、王を他のコマで書こう戦法はしょうが低学年でも思いつくが、結構有効な手らしい。ただ美しさとしては落第で、棋士というのは、その美しさに感動して、それを追求するものらしい。

また2択で迷った時は3択目を思いつくなどして、そちらに流れがちだが、結局初めの案が一番いいようだと言っている。三択目は現実から目を離す逃げなのだと。俺の遊戯王の経験でいえば、確かに、相手の伏せカードなど、読めていなくともにおいでわかる場合、その嗅覚を信じられずつい都合の良い解釈に縋って、最悪の事態に陥ることがある。逃げの事故に都合のいい解釈や引き伸ばし解釈は、勝負事ではNGなようだ。

 

 

③是枝裕和(これえだひろかず)「映画を撮りながら考えたこと」、是枝裕和×永田和宏「先入観が壊れるとき、世界を発見する」

 

・学生時代はただ映画を見ているだけの5年間だったという。

・番組制作会社に入って、ディレクターとして初めて仕事をした作品、「地球ZIG ZAG」で牛乳屋さんのフリーター息子が、市販のルウを二つ混ぜてそこに牛乳を入れただけのカレーを、スリランカの人にふるまうシーンがあった。是枝さんとしては、そこでスリランカの人が、「こんなカレーまずい」といって、打ちひしがれた牛乳息子が、そのご唐辛子農家にホームステイして、一緒に働き、本物のカレーを食べて、これが本物のカレーなんだと感動する体験をする、そういうストーリーを考えていた。

・しかし、実際には、牛乳息子のカレーは、現地人から「おいしい」と言われてしまった。あせった是枝さんは、やらせをして、現地の人に「まずい」と言ってもらったという。そのことをカメラマンに叱られて、目の前の現実を、自分の思い通りに加工するのが演出家ではないと気がついたという。

・ドキュメンタリィの面白さは、「うまいうまい」といわれたその予想外の出来事に出合った時の驚き(自分の先入観が壊れて、新たな視点に気がつかされる)であると気がついた。演出は自分自身の中の世界を形にするのではなく、世界の側の発見や驚きを捕まえて表現していくことだという(演出や映画は自己表現ではない、世界の側の驚きをとらえる)。

例えば、「そして父になる」では、福山雅治をリリーフランキーが殴るシーンがあるが、当初の想定では、強く殴るよう要望していたが、実際にはフランキーさんは、強くは殴れなかった。フランキーさんが演じる人物は根がやさしい設定で、フランキーさんが役になりきったときに、しぜんと、強く殴るのではなく、「ぺしゃ」とそれとなく殴る方しかできなかったようだ。

これを見て監督は、ああ、フランキーさんが演じるこの人物はお人良しで、激高した時でも人を殴れない人物なんだ、こっちの方が自然だなと思ったらしい。そのリアルさが、その人物に、感情移入や興味を持ち、人生を想像せるきっかけになると。

・少年が、向うを見つめて歩く映像。少年の表情を映すが、見てる対象は映さない。その方が、何を見ているのか興味がわく、少年の内面に寄り添おうとしてくれる。観客が見ているものが当然最後には出てくるだろうと考えるが、予想を裏切り最後まで映さない。直接的には映さないが、少年の内面を、言わずに伝える。伝えすぎない、むしろ、人物の動機とかが、わからない時の方が、案外その人物に感情移入できることもある。

・誰に向かって、作るかを意識することが大切。

・ある文脈の中でしか、事物をとらえていないことが多いが、そこから離れて、事物に注目してみると、違った見方が見えてくるものである。先入観を持たない見方。

 

 

④山極壽一「挫折から次のステップが開ける」、山極壽一×永田和宏「おもろいこと、やろうじゃないか」

 

・ダーウィンの進化論は、生物として進化だけでなく、社会の進化にも触れていた。しかし、そういった進化論は、優生学や文明の遅れた未開人を発展させてやろうという西洋的な上から目線の帝国主義へと発展していった。この反省から20世紀では、動物から人間の特性や社会を説明することを、動物の行動を人間に当てはめて考える事を、否定する潮流が主流だった。今西錦司は、戦後すぐに、すべての動物は社会を持つと言って批判された。彼は動物の個体ごとに名前を付けて観察する方法を行った。それも海外からは批判されたが、いまではジャパニーズメゾットとして、普遍的に使われている。

・「勝つことと、負けないことは違う」、ニホンザルは階級社会で、弱い方が強いほうの目を見ることは許されない、すれば敵対行動になる。しかし、ゴリラの世界では、そのような階級的な明確でなく、個体間にあまり優劣はなく、お互いの目を見て挨拶できる。サルの社会は、「相手に勝つ論理とかまえ」で構成されているが、ゴリラ等人間により近い類人猿の世界は「負けない論理とかまえ」で構成されている。サルはあらかじめ、優劣を明確にして、勝ち負けをはっきりさせて、争いを回避しているが、ゴリラは喧嘩になると、第三のゴリラが顔を覗き込んで仲裁するなど、目でコンタクトをとっている。これはお互いのメンツのために、意地は張るけど、第3者に仲裁に入ってもらうことで誰も負けない、勝者も、敗者も作らないというやり方である。「かつ論理とかまえ」では勝つことがゴールなので相手を屈服させるから、相手に恨まれたり、避けられたりする危険があるが、「負けない論理とかまえ」のゴールはお互いに仲良くする事だから、誰も傷つかずに、誰も相手を失うことがない。

人間の目には、他の動物と違って、白目があるので、すこし離れた方がお互いの反応が読み取れる(同時期に呼んだ犬の歴史でも、人間にだけ白目があって、また狼も目でコンタクトを取るし、犬も人間の目を見つめる等してコンタクトを取ると書いてあった。ついでに狼のめが黄金と黒にはっきり分かれているのに対し犬の目が真っ黒なのは、目を大きく見せて人間に可愛がられるため)。

・ゴリラの、たいゴリラ関係とは?人間なら、他の人間を意識して行動する、つまり行動理由が他者に束縛される最初から、自分以外の人間の存在を前提としているが、ゴリラは他のゴリラの期待に沿って行動するかはわからない。例えば雄ゴリラは雌ゴリラにスクレ用と行動するのではなく、自分の行動についてきてくれるかを重視するという。

またコミュニケーションでも、相手の言う通りにすることは、相手に屈服することだと考えるため、わかっていてもわざと正反対の行動をしたりする。ゴリラはメンツをとても重んじるのである(おそらく、ゴリラは人間と比べるとコミュニケーションが発達しておらず、つまり助け合いまではすることが苦手で、自然界では自分が弱者として見られないことの方が大切なのであろう。人間の子どももメンツを大切にすると書かれているが、それもコミュニケーションが未発達な子供同士で助け合いが難しいと潜在的に考えているからかもしれない。あとは親もそのような弱い子は支持しない可能性があると思っているのではないだうか)。

・目を見て、コミュニケーションをする大切さ。本書の講演や対談で度々触れられることは、言葉やコミュニケーションの大切さである。この対談でも、ネットのコミュニケーションの特異性にふれており、それはあくまで対面のコミュニケーションとは別で、意識して使い分けることが必要と述べられている。人間同士の関係はどうしても面倒を伴うが、それでもそれを引き受けてこそ、見える者があるという。またディベートではなく、ダイアローグ、つまり勝ち負けではなく、互いを高め合う議論こそが、学ぶものにとって、喜びの時間であると述べている。

 

・用語

落葉樹林、ある時期に葉が落ちる木で構成された森。

照葉樹林、冬等になっても葉が落ちない木で構成された森(日の光がそこまで届かないので、地面の草が伸びにくく、こちらの方が三見渡しは良い)。

麓(ふもと)、山麓(さんろく)山裾(やますそ)、裾野(すその)、山などの下の部分で、傾斜が緩やかに増加していくところをいう。

磊落(らいらく)、小さなことにこだわらない性格、気が大きく朗らかなこと

さりとて、だからといって

 

 

 

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